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日産自動車が日産自動車九州株式会社をつくった理由

日産自動車が日産自動車九州株式会社をつくった理由は何だったのでしょうか?

日産自動車は何故、九州に子会社のようなものをつくったのでしょうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%94%A3%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E4%B9%9D%E5%B7%9E
1933年(昭和8年)に鮎川義介が設立し、当時の戸畑市(現在の北九州市戸畑区)にあった戸畑鋳物(現・日立金属)がダット自動車製造(ダットというネーミングはのちにダットサンブランドの礎を築くきっかけとなる)を吸収し、日本産業との共同出資で日産自動車のルーツとなる自動車製造の株式会社を設立。そして戸畑鋳物自動車部からの技術は自動車製造(1934年に日産自動車に改名)に受け継がれたという。

といいますが、それは1933年の話で、地元からの誘致活動に応えて、日産自動車が苅田町に工場進出を決定したのは、1973年であり、約40年もたっています。

40年もたっていれば、施設など何も残っていないはずです。

日産自動車が日産自動車九州株式会社をつくった理由は何なのでしょうか?

投稿日時 - 2018-03-28 22:59:48

QNo.9482821

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質問者が選んだベストアンサー

土地 人件費 等のコストが低いこと。
大企業の論理は 常に コストです。

通販の会社も似たようなものです。
土地の安いところに大きな倉庫を建てて・・・・というのはどこもやってますね。

投稿日時 - 2018-03-29 11:46:41

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回答(2)

ANo.1

戸畑鋳物 →日産自動車の歴史

https://gazoo.com/article/car_history/150605_1.html

1933年式ダットサン12型フェートン。ダットサンという名称は1932年の10型から採用された。
この小型乗用車はオーナーカーとして開発されたもので、量産を前提としている。生産体制を拡大するためには、資本を充実させる必要があった。資金を提供したのは戸畑鋳物である。同社は鮎川義介が設立した北九州の町工場から発展し、小型船舶用発動機の製造で成功を収めていた。鮎川は久原鉱業を傘下に収めて日本産業と改称し、多くの企業を買収して日産コンツェルンを形成。1931年にはダット自動車製造の経営権を取得した。

ちょうどその頃、陸軍は保護自動車の製造を一本化して効率を高めようと考えていた。瓦斯電、石川島、ダットの3社を合併させて規模を拡大することを目指したのだ。1933年、石川島はダットの製造権を譲り受け、自動車工業株式会社が成立する。この会社にはその後瓦斯電も合流し、1941年にヂーゼル自動車工業へと発展していった。

一方、鮎川は大阪のダットの工場を手に入れ、戸畑鋳物自動車部として小型乗用車の製造を継続した。彼はゼネラルモーターズとの提携を模索し、戸畑鋳物と日産の共同出資で自動車製造株式会社を設立する。しかし陸軍は外資系自動車メーカーを排除する方針を取っていたので、提携は実現しなかった。単独での事業存続へと方針を転換した自動車製造は、横浜に月産1000台規模の工場を建設。小型乗用車の量産体制を整え、本格的に乗用車製造に取り組んでいった。

1934年、自動車製造は社名を日産自動車に変更する。1937年にはダットサンの販売台数は年間3500台に達しており、小型車の代名詞的存在になっていた。小柄な芸者が“ダットサン芸者”と呼ばれたほどで、ダットサンの名は広く浸透していたのである。戦時中は国策で軍用車の生産を命じられ、乗用車の生産は中断を余儀なくされる。技術の進歩も停滞したが、戦争が終わると日産はライセンス生産の形で乗用車生産を再開。新しい技術を吸収し、1955年にダットサンセダン(110型)を発売した。快進社が志した国産車の夢は、ブランドの魂となって今日も受け継がれている。

参考URL:https://gazoo.com/article/car_history/150605_1.html

投稿日時 - 2018-03-29 08:51:21

お礼

御回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2018-04-01 15:06:45

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