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解決済みの質問

戦国時代から江戸時代初期。参内に牛車を使いましたか

慶長8年、家康に将軍宣下があり、このとき牛車の使用を許可しています。
そこで疑問があるのですが、この当時、牛車の使用を許可された公家や武家は、実際に牛車に乗って参内したのでしょうか。
普段は使用しなくても、特別な儀式に参列する場合には牛車に乗ったのでしょうか。
よろしくお願いします。

投稿日時 - 2014-12-21 19:46:05

QNo.8865996

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

こんにちは ひさかたぶりで回答させていただきます。
『徳川実紀 東照宮御実紀』の慶長八年三月廿五日の条(2月21日が将軍宣下)に、次のような記述があります。
将軍宣下御拝賀として御参内あり。一番雑色十二人。-中略-七番御車。(糸毛なり。)牛二疋。牛飼二人。舎人八人。白丁二人。榻(*しじ)持一人。御階持一人。-中略-九番米澤中納言景勝卿。毛利宰相秀元卿。越前宰相秀康卿。豊前宰相忠興卿。若狭宰相高次。播磨少将輝政。安芸少将正則。此輩各塗輿にのり。舁夫八人。-以下略-
ここで、「御車。(糸毛なり。)」とあるので、家康が牛車を用いたことが分かります。また、「榻(*しじ)」は、牛車から牛を外した時に、牛車の轅(ながえ-牛に牛車を結ぶ部分)の軛(くびき)を支え、なおかつ牛車に乗る人物が、乗り降りする時の踏み台とする物で、この榻を持ち歩く者がいることからも、牛車の使用がわかります。ただし、この時代には牛車が大きく、高くなり、榻では乗り降りに高さが足りなくなり、五段の階段の「桟(はし)」を使用するようになります。これが、「御階持一人」の「御階」のことになります。また、扈従する者の内、高位者は、塗輿を用いています。
ところで、牛車の使用の許可の宣旨についてですが、正確には牛車に乗ったまま大内裏の外郭門を通過して、内裏の外郭門(内裏外郭の春華門・建春門・朔平門まで入れるとされますが、建礼門説もあります)まで牛車で乗り入れることを許す宣旨のことです。牛車の宣旨が無い(一般の公家・親王等)場合には、大内裏の外郭門で牛車を降り、徒歩で各目的地に歩いて向かうことになります。
牛車の使用の制限はないようです。特に八葉の牛車は、地下でも使用ができました。ただ、牛車の種類と乗車する者の身分により、使用制限はありましたし、車の装飾等が華美になりやすいために、制限が加えられることもありました(以上は、平安時代の中期・後期)。さらに、鎌倉時代になると貴族社会全体に活力が無くなり、牛車の使用が激減し、特別の行事に、摂関・大臣クラスが用いる特別な乗り物になります。南北朝・室町期の動乱を経過して、牛車が失われたり、牛車(牛飼童などを含め)の維持・管理ができなくなった公家も多く、摂関家・清華家クラスの公家でも牛車は使用されなくなってきて、腰輿(たごし)を使用するようになっています(牛車が廃絶したわけではありません)。武家の将軍は特別の行事の場合、牛車を用いています。
秀吉以降、特に天下人(秀吉・家康・秀忠・家光)の場合、将軍に任官し、牛車宣旨を賜った場合、家康の例のように拝賀参内等に牛車を使用しています。秀吉の場合は、後陽成天皇の聚楽第に供奉する場面でも牛車を使用しています。このような牛車の使用は、天下人・将軍の権威を見せるだけでなく、一大デモンステーションで、特に家康の場合、対豊臣の面でも、牛車を使用した拝賀参内の行列をすることで、新たな天下人の誕生を宣伝する意味も強かったものと思います。特に、扈従の大名が、関ヶ原の役の対抗勢力の中心であった上杉・毛利に、豊臣恩顧の主要大名ですから、その意図は明らかであると思います。
なお、石村貞吉著の『有職故実』に、次のような記述があります。
『宣胤卿記』、長享三年(1489)正月十日の条には、「今日室町殿(*足利義尚)、諸家参賀の式日なり。殿下(*関白一条冬良)より、今日御参賀の御乗用として、予の輿借り召さるるの間、皆具し進じ了ぬ。乱(*応仁の乱)よりこのかた摂家清華、皆以て板輿に乗り車の沙汰に及ばず。輿所持の方すら尚以て稀なり。末代の作法悲しむべし云々」とあるのでも、その衰廃の様が推測される。爾後、豊臣秀吉、德川家康、秀忠、家光などが参内の際に乗用したことがあったが、その後には、将軍参内のことさえなくなって、牛車の制は、全く廃絶してしまった。(*幕末、家茂の参内に用いられたとされます)

以上、長くなりましたが、参考まで。

投稿日時 - 2014-12-24 20:37:20

お礼

詳しいご回答真にありがとうございます。
よく解りました。

やはり牛車で参内したのですね。
私は、当時すでに牛車は無くなっているものと思い込んでいましたので、ろくすっぽ調べもせず質問しました。
牛車に乗るのは、摂関家の大臣以上の貴人が儀式のために参内するときくらいだろうと思っていましたが、今日調べてみますと仰るように徳川初期の3代将軍、豊臣秀吉・秀頼も牛車で参内していますね。
『宣胤卿記』は大変参考になりました。
「乱よりこのかた摂家清華、皆以て板輿に乗り車の沙汰に及ばず。輿所持の方すら尚以て稀なり。」ということ、よく解りました。
公家よりむしろ武家が使用した観がありますね。
武家と言っても将軍や関白といった金と権力を持つ者限定ですが。
疑問は氷解しました。ご教示に感謝申し上げます。

投稿日時 - 2014-12-25 19:42:39

ANo.3

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回答(3)

ANo.2

普通に牛車です\(^^;)...

※幕末に西洋人が馬車持ってくるまで、
日本には
馬車という発想なく、車を牽引するのは牛というのが、社会通念でした。
 太平洋戦争当時、愛知県の三菱の工場からゼロ戦を輸送用にばらして、
前線に送るために、海軍航空隊基地に運ぶのに
牛車を用いていたそうです\(^^;)...

zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz

投稿日時 - 2014-12-22 02:24:35

お礼

ご回答ありがとうございます。

ゼロ戦は繊細・精密なので(薄っぺらなので)トラックでは運べなかったそうですね。
真夜中一晩掛けて、ガタガタ道を“牛歩”で運んだそうです。

>普通に牛車です

なるほど。
疑い深い私は、牛車で参内したという記録を探しています。

投稿日時 - 2014-12-22 20:56:23

ANo.1

神様の前では天皇でも下馬するくらいですから、その天皇のもとへ武士が馬で駆けつけることはもうあり得ず、牛車が許されるなら駕籠のかわりに牛車で近くまで行ったでしょうね。

投稿日時 - 2014-12-21 20:02:15

お礼

ご回答ありがとうございます。
乗馬ではないでしょうね。同感です。
当時、牛車があったのかというのが疑問の発端です。

投稿日時 - 2014-12-22 20:51:52

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