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解決済みの質問

日本人は互いに《相互内在的に関係しあっている》か

 ▲  S・N・アイゼンシュタット:『日本 比較文明論的考察』  梅津 順一ほか訳 2010
    http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/024226+/top.html#01

 ☆ この本の訳者解説に次のようなくだりがあります。そこから問いを持ちました。

 ▲ (梅津 順一:訳者解説) ~~~~~
 (あ) 著者は 日本語の《基礎的な存在論的概念》・・・に注目する。

 (い) 《基礎的な存在論的概念》として たとえば《自然と文化》を挙げれば 西洋で明確に区別される《自然》と《文化》が 日本では《相互内在的に》関係しあっている。

 (う) あるイギリス人霊長人類学者は 日本人が実験動物のサルのために 人間並みに供養を行なうことに驚いたというが これは人間の魂(文化)とサルの魂(自然)を区別しないことを示唆する。・・・

 (え) 日本の人格概念では 《個人の人格は社会関係あるいは社会的文脈に深く組み込まれていると考えられ かなりの程度 そうした文脈の中での自らの位置によって定義される》。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ きわめて断片的にわざと引用しています。

 (お) 引用文中の(う)の《人間の魂(文化)》としているところは 何だかおかしいように思えます。魂と文化とが照らし合わせるようなものであるのかどうか。――ですが これは いま措いておきます。次の指摘を論点としたい。

 (か) お前とおれとが 《相互内在的に関係しあっている》〔(い)〕のであり この関係がさらに広く《社会的文脈に深く組み込まれている》〔(え)〕ということ――この特徴をここで取り上げ 果たしてそうなのかを問い求めたい。

 (か) その《社会的文脈の中での位置づけ》が わたしたちそれぞれのあたかも存在意義のごとくはたらいている。のであろうか?

 (き) そして単位体として任意のふたりを取り上げるなら そこにマジハリ(交通)が起きたなら その人間どうしの間には《相互内在》としてあたかも以心伝心(または ミラーニューロン現象)が成っているのであろうか? 

 (く) この相互内在は 気持ちなのか? いわゆるクウキなのか? 情感なのか? 理知的な相互了解なのか?

投稿日時 - 2014-11-28 22:24:48

QNo.8840660

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

相互内在的関係というと、2体関係では「Aの内にBが、Bの内にAがある」関係、視覚化すると、

◎ (外円A、内円B)

◎ (外円B、内円A)

だと思うんです。平面に描くので2つ描かないといけませんが、球面に描くと1つで足ります。

つまり、北半球と南半球の関係で、このままだと直感的には内在してはみえないので、赤道を北極の方にどんどん縮めていって、大南球面が小北球面を包んで見えるように、また逆に境界線を南極のほうに縮めて、大北球面が小南球面を包んで見えるようにイメージする。

あるいは合わせ鏡。

そしてもう一つ思いつく視覚化は、ペンローズの三体図形を二体でイメージする。

http://gitanez.seesaa.net/article/28136763.html

 二個体を区別する境界分けする限りは、境界を直接乗りこえて通じるものはなく、以心伝心が成立するのは、境界を媒体とした共鳴現象ぐらいではないでしょうか。このとき、境界は現実世界で太い線で描くべきかもしれませんが、そこに個体が表象し観察するシンボルが媒体になると考えられるでしょう。

 あるいは、以前回答したことがある、裏返しの風船モデル、おぼえていらっしゃるでしょうか。個と全体が連続不可分のモデルで、そこでは共通の神秘領域を媒体として個と個の共鳴現象が生じるように思えますが。どうでしょうか。

 ただ、これだと民族,文明を問わずということになりますね。日本人が、ということであれば、自然との一体的な情感で、以心伝心ということになるのかもしれません。

投稿日時 - 2014-11-30 03:30:07

お礼

 あともなどすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ★ あるいは合わせ鏡。
 ☆ というような感じでしょうね 《相互内在》と言うならば。球のタトエも そうなのだと思いますが。

 問題は どこまでその《内在》が言わば浸透しているのか? またそのことを意識し自覚しているのか? そういった実態や如何に? だと考えます。

 ひとつの究極は 夫婦のあいだの以心伝心のような状態が考えられます。ふつうには それが 薄まった状態を言うのかです。

 あるいは単純に 昔のころわたしのところでは 外の道端で知った人にばったり会うと あいさつのあとは どこへ行くのかと尋ねたものです。それも あいさつ程度なのだと言えば そうなのですが つまり ええ ちょっとそこまでとかのように返すことも出来ます。なのですが それでも どこへ行くのかについてウソは言えないですから やっぱり或る種の《内政干渉》になっている場合があるかと思います。

 つまり 夫婦なら 内政干渉はまづ むしろないという前提があるはずです。ぎゃくに一般の知り合いのあいだで友だちでさえ それはダメということになっています。

 そういった《相互干渉》になるまでの《相互内在》なのかどうか? このあたりのことにも疑問が起きたことから発しています。






 ▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 物質的世界は、プラトン的世界の一部から生じます。
 だから、数学のうち、一部だけが現実の物質世界と関係しているわけです。

 次に、物質的世界のうち、一部だけが意識を持つように思われます。

 さらに、意識的な活動のうち、ごく一部だけが、プラトン的世界の絶対的真実にかかわっているわけです。

 このようにして、全体はぐるぐる回っていて、それぞれの世界の小さな領域だけが1つにつながっているようなのです。
   ロジャー・ペンローズ『ペンローズの<量子脳>理論―心と意識の科学的基礎をもとめて』
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ 《プラトン的世界》があいまいであると考えます。イデアでは その絶対領域とこの世の経験世界とが――あいまいなかたちにおいてではありますが――言わばつながっている。と言っている。これは そのままでは むしろアウトです。絶対と相対との隔たりは はっきりとあると前提していなければならないのではないかと。

 あぁ 次のようにです。
 ★ 二個体を区別する境界分けする限りは、境界を直接乗りこえて通じるものはなく、以心伝心が成立するのは、境界を媒体とした共鳴現象ぐらいではないでしょうか。
 ☆ 《境界》はあるはずなのです。《隔たり》は厳然としてある。ここから出発しなくてはと思います。

 ★ このとき、境界は現実世界で太い線で描くべきかもしれませんが、そこに個体が表象し観察するシンボルが媒体になると考えられるでしょう。
 ☆ ここは 半分賛成で 半分異論があります。

 《物質的世界》と《精神的世界》の境界またはそれを乗り越えるかのような相互の媒体――そのときの共鳴現象――について 見解を同じくします。

 そしてこれら両者が織り成す経験世界とそして《隔絶したイデアの世界》とは 隔たりを重く見ますので 異論になります。

 それでも《媒体》はこれも じつはわたしも想定しています。

 まづ《イデアの領域》は 《非知》と定義します。そしてその非知を 人間の《〔わが心なる〕非思考の庭》が受け容れているかたちである。と見ます。図示します。

 ○ 《非知》とは? ~~~~~~~~~~~~

  経験事象
    可知
     既知
     未知
    不可知(知り得ないと知ったモノゴト)
 
 非経験の場(これは 想定に成るもの)
    非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)

 ○ 《非知》を受け容れた《非思考の庭》 ~~~~

  信じる:非知:非思考の庭:ヒラメキ
  --------------------
  考える:経験知:思考の緑野:コギト
  感じる:知覚:感性の原野:直感

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《非経験の場(非知)》が イデアの世界であり それは《経験世界》とは決定的な隔たりがあると――想定じょう――見ますし 前提とします。

 この《非知》を受け容れた――信じた――ときに我が心に成るのが〔信仰であるところの〕《非思考の庭》であると推し測ります。
 
 非思考の庭は 思考に非ざる庭ですから 思考の緑野や感性の原野とは やはり隔たりがあります。(思考の対象であるいわゆるシュウキョウのオシエは ですから 信じるの対象にはなり得ません。神は 信じる=ただその名をバカみたいに受け容れるものです)。

 ただし 非思考の庭と経験領域とは 境界を隔てつつ 媒体を持ち得ていて たとえばヒラメキ・インスピレーションとしてつながると 想定じょう 捉えられます。

 このつながり・つまり共鳴現象は ただし同じ次元のものごとが互いに同等に起こすのかどうか? これは 次元は同じだと見ても構わないと思いますが 問題は 人間が自分の意志でヒラメキを持ちたい 持とうと言って努力すれば持てるかと言えば そういうわけには行かない。そのような互いの――必ずしも双方向には成っていないという――関係にあるかと見ます。ゆえに 次に説かれる《神秘領域》ですね。





 ★  あるいは、以前回答したことがある、裏返しの風船モデル、おぼえていらっしゃるでしょうか。個と全体が連続不可分のモデルで、そこでは共通の神秘領域を媒体として個と個の共鳴現象が生じるように思えますが。どうでしょうか。
 ☆ 《裏返しの風船モデル》は あらためて次です。断片的になることをおそれずにですが。つまり 訪問者のみなさんは その質疑応答を参照願います。

 ★★(【Q:《まじわり》をめぐる或る対話】回答No.7)~~~~
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8580531.html

 (2) 心は外にある。
 ・・・
 個は、風船のまわりをぼんやりと包んでいるものであり、神秘的領域のものです。ただ個という形を持って、それ故有限な存在として異なるのみの、本質は、神とよばれる無限の一者に包まれた神秘です。死(個の消滅)とは、神秘的領域に同一化するということです。このモデルでは、自己も他者も等しく尊重すべき存在であることが理屈としてわかりやすいと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《神秘的領域》を 《非思考の庭》と読みました。非思考の庭は なお《わたし》の内部に位置させてはいますが。

 《こころ》は 経験事象としても感性と理性とでありうるけれど 力点を置くとすれば 神秘的領域のほうだという見方だと思います。

 ★ そこでは共通の神秘領域を媒体として個と個の共鳴現象が生じるように思えますが。どうでしょうか。
 ☆ わたしの考えをストレートに出しますと たぶんその《非思考の庭――ヒラメキなど――》をみなもととして 個と個との共鳴現象が 感性や知性において現われる。と言うと思います。

 言いかえると 《相互内在》をこの神秘領域にまで――行き着かせないほうが・つまり すでに想定じょう行き着かせているのですが しかも現象としてはそうは表現せずに―― 自然環界における野原や原始林(これらは 《社会》のことでもありますが)に起きると見たほうが 現実っぽいように感じられますが どうでしょう。

 つまり ちょうどよい具合いに これら自然=経験界と 神秘領域との両方が ひとりの人間すなわち《わたし》なる存在において溶け合わさっている。隔たりを何のそのと言って 溶け合わさっている。
 ★  ただ、これだと民族,文明を問わずということになりますね。日本人が、ということであれば、自然との一体的な情感で、以心伝心ということになるのかもしれません。
 ☆ 両面をみとめるなら 世界中に普遍的な理論となると考えます。


 アイゼンシュタットに伝えてやりたいところですね。




 * なお 言葉は自分をはかるかについては まださだまりません。議論がわたしにとっては細かすぎるようにも感じます。

投稿日時 - 2014-11-30 12:59:24

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回答(6)

bragelloneさん おはようございます。

また、話が脱線するかもしれませんが、ちょっと興味がある話があるので投稿します。

昔、テレビで見た開高健の回顧番組で開高健はこんなことを言ってました。

「霊長類の研究をする場合、西洋の科学者は、キリスト教文化のため、まず神というものに、いったん焦点をあて、その反射というかたちで対象を見る。それに対し、ほぼ無宗教の日本人は直接、対象をみる、そこに独自性がある」

人間関係の場合をもしかしたら同じで、そのため「有」の神を信仰している西洋人は「我」が強いが、無宗教と言ったら語弊があるますが、日本人が、多少なりとも宗教として信仰している仏教は「無」の世界ですから、「我」というものを強くはらず、そのようなことがいえるのでは?

明治時代、新渡戸稲造は無宗教の日本というものを西洋に理解してもらうために、苦労して「武士道」を書きましたが、日本人が道徳というものを持っていなかったわけではなく、数年前のNHKの大河ドラマの「八重の桜」や大ヒットした藤原政彦の「国家の品格」に書かれてますが、会津藩の道徳を書きます。

1)年長者の言うことに背いてはなりません。
2)年長者にお辞儀をしなければなりませぬ。
3)虚言を言うことはなりませぬ
4)卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
5)弱いものをいじめてはなりませぬ
6)戸外で物を食べてはなりませぬ
7)戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

ならぬものはならぬのです。

7)は私はそんなこと言わないでくれよと思いますが(笑)

現在の日本では、その他の掟もほぼ廃れていると感じます。

しかし私は、ならぬものはならないのです。という言葉にカント流の日本的定言命法を感じ、わずかながらにも日本人的な人間関係に残っていると思います。

私は、その他、江戸時代から続く職人意識や、自然が豊かなことから育まれる日本独自の情感など、クールな日本を誇るものはたくさんあり、グロバル化の中で、国語力のない小学生に英語を教えるとか、外資という黒船が来た、尊皇攘夷だ!(笑)、西洋に追いつけ負けるなとあまりやりすぎりのはどうかと思ってます。

やはり脱線しました。すみません。では、また。

投稿日時 - 2014-11-29 06:32:04

お礼

 あめんほてぷ2000さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 そうですね。あめんほてぷさんは 紀律ただしいことを好むというお人柄でしょうか。

 カントの《格率》が お好きなのですね。


 わたしは そういう情況が 自然に内発的に起こされたそれぞれの意志行為の集まりとして成り立っていることを好みますが その倫理規範やそれを守るべきものとすることには 辟易です。

 倫理規範ないし律法は ひとがおのれの意志行為について どうもおのが心にさからう部分があったと気がつき あぁ おれは悪人だ 罪人だと自省することをうながすためにあるものです。だいたい そうだと思います。

 もともと 人間の能力と努力とでは 完全には守ることは出来ないと分かっている規則でありオキテです。

 (律法は それを与えた神の霊を受けて――ヒラメキのごとく受けて――その信仰のチカラによってこそ 守ることが出来るものだとは 初めから分かっていました。モーセの前には そういう信仰の人アブラハムがいました。だから イエス・キリストは そのアブラハムの時代にときを戻しました。大ざっぱに言ってそうだと思います)。




 ★ ・・・その他、江戸時代から続く職人意識や、自然が豊かなことから育まれる日本独自の情感など、クールな日本を誇るものはたくさんあり、
 ☆ これらは 大いに守りさらに伸ばすものは伸ばして行ってもらいたいとわたしも思います。


 ★ 自然が豊かなことから育まれる日本独自の情感
 ☆ この質問は この主題を追究しています。No.1からのやり取りで わたしはかなりガミガミぢぢい度を拡張し強大化して来ています。果たして どうなりますか。

投稿日時 - 2014-11-29 13:24:53

☆(お) 引用文中の(う)の《人間の魂(文化)》としているところは 何だかおかしいように思えます。
◇あえてこの問題を考えます。
 人間⇔自然
 知性・理性⇔自然
 文化・文明⇔自然
という対立構造で考えれば、そうなるのであろうと思います。
ただ、こうした構造で考えてよいのかについては、かなり疑わしいと言わざるを得ませんけれど。

むしろ、
人間の魂と動物の魂の間には越えがたい跳躍(JUMP)があり、人間と動物は連続していない、と西洋人は考えている、
と考えるべきなのではないでしょうか。
対して、
日本人は、人間と動物は連続しており、人間は動物の延長に存在している、と考える。
そして、この霊魂観の違い、人間・動物間の考え方の相違が、猿の埋葬という行為として現れている。

ですが、最近、欧米でもペット霊園などが存在しているそうですから、少なくとも飼っているイヌやネコは人間と同じ生き物である、と考える人が増えているのではないですかね。



☆(か) お前とおれとが 《相互内在的に関係しあっている》〔(い)〕のであり この関係がさらに広く《社会的文脈に深く組み込まれている》〔(え)〕ということ――この特徴をここで取り上げ 果たしてそうなのかを問い求めたい。
◇なのだと思います。
都市部は、近所の人同士の人間関係が希薄になりがちなので、かつてのそれよりは弱くなっているでしょうけれど、少し田舎に行けば人間関係が非常に濃密で干渉が盛んになる。お前と俺の区別は明確に存在しているけれど、その垣根は低いといいましょうか、すくなくとも対立するお前と俺という関係ではなく、密接に関係し合っている。



☆(か) その《社会的文脈の中での位置づけ》が わたしたちそれぞれのあたかも存在意義のごとくはたらいている。のであろうか?
◇位置ではないでしょうが、いわゆる会社人間のように会社内での役割や仕事が自身の存在意義となっている人はいるのではないでしょうか。
ですが、すべての人がそうだとは言えないと思います。
そして、位置づけや役割よりは、他者との関係性そのものの方が重要なのであろうと。
井戸端会議のような、位置づけや序列のつけられていない関係というのもありますでしょうし。
私の経験によれば───私の実家はとんでもない田舎です───、現代においては、むしろ田舎の人間関係の方が平等的ですよ。


☆ (き) そして単位体として任意のふたりを取り上げるなら そこにマジハリ(交通)が起きたなら その人間どうしの間には《相互内在》としてあたかも以心伝心(または ミラーニューロン現象)が成っているのであろうか? 
◇理性に基づいた打算などの損得勘定もあるでしょうが、《共感》は非常に重要なファクターでしょう。
大陸合理論や観念論などは、《共感》などの情の部分を軽視し過ぎています。
他人(ひと)に喜んでもらえることをするのは、損得勘定でもなければ、理性の命ずる義務感からでもなく、《共感》に基づいていることが多いのではないですかね。

投稿日時 - 2014-11-29 01:02:46

お礼

 ご回答をありがとうございます。



 (お)
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 むしろ、
  人間の魂と動物の魂の間には越えがたい跳躍(JUMP)があり、人間と動物は連続していない、と西洋人は考えている、
 と考えるべきなのではないでしょうか。
 対して、
  日本人は、人間と動物は連続しており、人間は動物の延長に存在している、と考える。
 そして、この霊魂観の違い、人間・動物間の考え方の相違が、猿の埋葬という行為として現れている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですね。この問題は 依然としてつづきますね。

 そうですね。もし仮りにサルからヒトになったとするなら そのときサルは・と言うべきかヒトはと言うべきかは 命がけの跳躍( salto mortale )を試みたのでしょうね。でかしたと言うべきか おっそろしいことをやりやがってと悔いるべきか。

 このひとつの事件を取り上げて 両者は《連続している》と見たり《不連続である》と言ったりするということであり けっきょく両面がある。のではないですか?

 たぶん男が女にする口説きについて おおむね両者(サルとヒト)は同じであったとしても 〔たぶん〕その合意のあり方については違って来ているのではないだろうか。相手の意志をないがしろにしたというような事件は サルには起こるか起きないか? タハケ(戯け)という言葉は そのものずばりを言うらしいです。国つ罪のウマタハケなど。

 あと サルが人間の供養をすることはありません。



        *


 (か)
 ◇ お前と俺の区別は明確に存在しているけれど、その垣根は低いといいましょうか、すくなくとも対立するお前と俺という関係ではなく、密接に関係し合っている。
 ☆ これは 全体観に立った見方ではないかと思います。

 その上で考えることは:
 (け) No.1から言って来ていることですが ふつうに《親しい関係である》ということと《相互に〔意識が心が〕内在する関係》とは どう違うか? 同じか? よほど心の中が互いに分かるということなのか?

 (こ) その相互内在的な親しい関係が そのまま《社会的な文脈を築き つながっている》と見てよいのか?

 (さ) つまりこの疑問の意味は 社会的な文脈や背景ともなると けっきょくたぶんに利害関係による人間関係の側面も入り込んで来ていると考えられるからです。ガキの頃のお前とおれなる相互内在関係が 社会全体の人間関係の海の中で 言わばひとつの島をかたちづくるかのように・またそれでも違和感を生じさせず 保たれている。と見るべきか?

 (し) ◇ 少し田舎に行けば人間関係が非常に濃密で干渉が盛んになる。
 ☆ わたしは このいまの質問でのやり取りでは特に意図して 《非常に濃密な人間関係をなぞるかのように 回答者に対して干渉を盛んにおこなっている》と思います。言いたい放題をしています。

 (す) これは 《相互内在的な関係》が成り立っていて――わたしの側にだけは成り立っていて―― そのしわざに及んでいる。のでしょうか? 勝手にしたい放題をわたしがしている。だけでしょうか? ただの老田舎者であるというだけのことでしょうか?


 (か)〔これは (き)のマチガイでした。重複してしまいました。〕 その《社会的文脈の中での位置づけ》が わたしたちそれぞれのあたかも存在意義のごとくはたらいている。のであろうか?
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 位置ではないでしょうが、いわゆる会社人間のように会社内での役割や仕事が自身の存在意義となっている人はいるのではないでしょうか。
 ですが、すべての人がそうだとは言えないと思います。
 そして、位置づけや役割よりは、他者との関係性そのものの方が重要なのであろうと。
 井戸端会議のような、位置づけや序列のつけられていない関係というのもありますでしょうし。
 私の経験によれば───私の実家はとんでもない田舎です───、現代においては、むしろ田舎の人間関係の方が平等的ですよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆(す) 《位置づけ》や《肩書き》を重んじる思考法は あまりにも浅はかであるとの了解は成っているでしょうか。

 (せ) ただし
 ◇ いわゆる会社人間のように会社内での役割や仕事が自身の存在意義となっている人はいるのではないでしょうか。
 ☆ という微妙な違いによる《位置関係》の重みは なお存続していましょうか。会社に誠実であることが必ずしもわるいことではない。

 (そ) ◇ 井戸端会議のような、位置づけや序列のつけられていない関係というのもありますでしょうし。
 ☆ こういった自由な関係を 《相互内在》しても・しなくても築いて行くことは 大事だと思います。

 (た) ◇ 現代においては、むしろ田舎の人間関係の方が平等的ですよ。
 ☆ 或る意味で安定成長の時代としては これまで突っ走って来た過去のことが地方に在るほうが見えやすくしっかりとわきまえることが出来るのでしょうか。




 (き)
 ◇ 理性に基づいた打算などの損得勘定もあるでしょうが、《共感》は非常に重要なファクターでしょう。 / 大陸合理論や観念論などは、《共感》などの情の部分を軽視し過ぎています。
 ☆(ち) 常識の原語のコモンセンスは もともと《共通感覚 sensus communis 》だったんですがねぇ。
そういう意味では 《情感〔の共同性〕》は 大きな社会形成ないし秩序形成のファクターであるかとさえ思います。

 (つ) ◇  他人(ひと)に喜んでもらえることをするのは、損得勘定でもなければ、理性の命ずる義務感からでもなく、《共感》に基づいていることが多いのではないですかね。
 ☆ そう言えば わたしはいつもこのような時に思うことは どうして二つに分けて どちらか一方を推し出すように取り上げるのか? です。

 (て) 《損得勘定》は――あるいは自分の好き嫌いの感覚は―― 《共感》に基づくという場合にも なお現われるのではないかと思うのです。共感が 情感の共同性でありそれが 社会の或る種の安寧をもたらす要因として公共のものだと見なされているならば それはどこかには《理性の命ずる義務感》にも通じていると思われるのです。

 (と) 《公と私 すなわち アマテラス概念語とスサノヲ原語》とは およそつねに複合して共存しているように思われるのです。また そうでなければいけないのだと。
 

 (な) 《大陸合理論や観念論》にも 日本人はうなづくところを持つ。そういう側面をも同時にみとめたい。そういう行き方が 日本人は出来るのではないか。



 ガミガミ教満開でした。

投稿日時 - 2014-11-29 13:08:20

ANo.3

日本人が、自然と不可分な文化を持つ事は、日本文化の
根底にあるジャポニカ米の稲作農耕文化が、温帯モンス
ーンの年間を通じた季節変動に密に影響されたものであ
る事に由来する。
四季の顕著な日本の風土において、その年間を通じた
計画性=歳時記を重視する精神性は、無数の季語を重視
する俳句などに象徴される。
その点、西欧における、独自の判断や自律的行動が求め
られる遊牧や季節依存性の乏しい農業を基盤とした文化
とは異なる。

また、モンスーン気候のもたらすジャポニカ米の稲作
農耕は、面積あたりの収量が多く、また労働集約的でも
あり、必然的に人口密度が高く、年間を通じた計画性
(=固定した顔ぶれ)&地域コミュニティの協力による
農作業を要するために、集団主義を育んだ。
日本の場合、同じ顔ぶれで暮らすために相手を思いやり、
遠慮・妥協する、島国&山国文化と重なって、世界でも
稀な、自己抑制的(日和見)な強力な集団主義となり、
自他の別があいまいになっていると言える。

投稿日時 - 2014-11-29 00:10:17

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 たとえば映画で見たのですが 田舎からニューヨークへ家出して出て来た少女が 年金暮らしの老物理学者に頼んで言うには 宿を貸してくれ もしこの願いをあなたが踏みにじったなら 良心の呵責に悔やむことでしょうとうったえて 首尾よくみづからの主張を相手に飲ませた。

 老人は 社会の共生の原則をわきまえている。あるいは 集団志向ないし集団主義なる精神を持ち合わせている。――と言えるのではないですか?

 たぶんジャポニカ米の稲作文化とはかかわりはないでしょう。また確かにその集団主義のかたちを実現させるのに 違った文化として違った考え方をしてそうする。

 だから どう考えるのが妥当か?

 稲作農耕での集団志向は ほとんど水利の共有における利用にあるはず。
 ところが 旱魃に際しては 上流のムラに対して下流のムラは それでもカツカツの生活になるまで辛抱したそのあとではありながら やっぱしと言うべきか 水をよこせ 分け与えよと訴えて それを拒まれたならついに血を見るほどの戦争をしかけた。と伝えられて来ています。まだそれほど昔のことでもないそうです。

 どこが 集団主義なのか? 集団の至上主義ではないはず。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 その点、西欧における、独自の判断や自律的行動が求め
 られる遊牧や季節依存性の乏しい農業を基盤とした文化
 とは異なる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ったって 原発が事故に遭えば 誰でも・日本人でも 《独自の判断や自律的行動》がおのづから必須のことになるぢゃないですか。


 ★ ・・・自他の別があいまいになっていると言える。
 ☆ と見たい人間が勝手に言っているだけ。人びとは そういう情況とその情況に自分を合わせるやはり人びとの態度を見るにつけ そうではない〔内面の心もある〕とじゅうぶんに知りながらも そのクウキに合わせている。だけのこと。

 あたかもその集団主義のあり方についてそうあるのだしそれに従うのだというかたちで信じているフリをしているだけ。

 

投稿日時 - 2014-11-29 12:08:49

ANo.2

アイゼンシュタットは日本の明治時代から、昭和の高度成長までの日本を念頭に、そういうことを言っているように思うけど、1980年代には日本はバブルの絶頂で、このまま行けばアメリカを追い越して世界一の経済大国になるなどと言われ、その経済成長は日本的な集団主義とか、勤勉な国民性とか、年功序列制度とか、単一民族にその秘密があるのではないかと言われ、盛んに日本研究がなされたけど、アイゼンシュタットもその日本論の一人なのではないか?
だけど、その人間も今の日本を見たら、失望するのではないか?
そして自分が考えていたのは間違いだった、と。

日本の高度成長は明治時代の儒教教育の所産であり、そして江戸時代以来の村落共同体の「心性」によるものだった。
単一民族で、お互い顔見知りで、仲間みたいなもので、気心が知れているから、自分と他人をそんなに明確に区別しなかったから、「相互内在的に関係しあっている」と考えてきた。
血縁・地縁で、固く結ばれたコミニティーを形成してきた。
村落共同体では、村の寄合で、全員賛成で物事が決められたから、一人でも反対すると物事が決められなかったから事前の「根回し」が必要だったし、それに一人でも反対すると「村八分」の目にあって、火事と葬儀以外は村人は誰も手伝ってくれなくなり、田んぼを耕すこともできなくなり、実質、生きていけなかったから、「大きなものには巻かれろ」で、「事大主義」が日本人の習慣になってしまった。
いわゆる「出る杭は打たれる」というヤツ。
この村落共同体手の決定方式が日本の会社組織に導入されて日本だけの特殊な「稟議制度」を作った。
下からあげて、全員に事前に「根回し」をして、上の者が判を押して、最終的に決定する。
欧米のトップ・ダウンの決定方式と比べると決定に時間がかかる。
それがバブル崩壊後足かせになり、日本の会社は決定が遅いと言われ、欠点と言われるようになった。
日本では、物事の決定権は課長が持っており、上の部長だとか、取締役は下から上がった案件に判を押して承認するだけの役目。

だけど、そんな「心性」はバブルがはじけて、今度はその原因は日本人の年功序列制度にあるとか、集団主義にあるとか、儒教教育のせいだとか、日本的な「稟議制度」が決定を遅くしているとか、高度成長の時は美点とされたものが、今度は逆に欠点だと言われるようになった。
バブル時代以降、年功序列制度は崩壊し、全員が横並びで就職できた時代は終わり、非・正規労働者が増えて、しかも地縁・血縁も希薄化して、隣りの住人は何を考えているのか分からなくなり、「相互内在」は失われて行きました。
共同体的なコミニティーは失われ、不可解な犯罪も増える。
昔は「空気を読んで」行動したものだけど、最近はまったく「空気を読まない」若者が増えて、何を考えているのかさっぱり分からない。
世の中全体が、不気味な感じになってきて、老人はひとり孤立化し、孤独死するものが多くなってきた。
自然と文化が一体と思われてきたのは昔の話、その自然も今や自然破壊・環境破壊・大気汚染がひどくなって、人間の生命を脅かしつつある。
では、その日本的な文化が残っているかと言えば、グローバル化の波に洗われて、今や風前のともしび。
人里離れた辺鄙なところに行かないと見つからない。

アイゼンシュタットが言う日本は今やノスタルジア以外の何ものでもない。

投稿日時 - 2014-11-28 23:45:03

お礼

 暖簾に腕押し 蛙の面に小便なんだよなぁ。

 でも ご回答をありがとうございます。

 ★ アイゼンシュタットが言う日本は今やノスタルジア以外の何ものでもない。
 ☆ ノスタルジアということは それは――《相互内在なる関係》は――よかったという評価ですよね?

 そういうふうには質問者は思っていません。

 もしそれが 交通の形式であったとすれば それはそれとして働いたと思われると同時に 問題は《内在性》にあるとも考えます。

 と言いますか この《内在》とわざわざ言うのは どういうことか? に問い求めのねらいがあります。

 内在と外交(ふつうの外交)との違いについては お手数ですが No.1でのやり取りを見て欲しいと思います。


 たとえば 夫婦は いわゆる一心同体だとすれば 以心伝心もかなり可能であり おそらく気持ちや心つもりが《相互に内在する》ほどに分かることがあるのではないか。とは考えます。

 そういうふうな相互内在を 人びとのあいだの交通一般にあてはめて議論をしているのか? という課題です。





 
 それでは これまでわたしからの応答がことごとくと言ってよいほどないがしろにされて来たことの仕返しとして ボロクソに批判をしておきましょう。

 ★ 自然と文化が一体と思われてきたのは昔の話、その自然も今や自然破壊・環境破壊・大気汚染がひどくなって、人間の生命を脅かしつつある。
 ☆ 自然が破壊されていると見るのは 《自然をいつくしむ自然派であ〔リ続けてい〕る》からではないの?

 ★ 世の中全体が、不気味な感じになってきて、老人はひとり孤立化し、孤独死するものが多くなってきた。
 ☆ 大昔からではないの?

 ★ 昔は「空気を読んで」行動したものだけど、最近はまったく「空気を読まない」若者が増えて、何を考えているのかさっぱり分からない。
 ☆ いいえ。クウキ教――シントウからブディズムからタオイズムからコンフシアニズムから クリスチアニズムからアメリカニズムから マルクシズムまであらゆるシュウキョウを包み込む大日本教――に染まる人間が ふるいのです。

 KY こそは 未来社会の――いまはまだ陰画ですが――さきがけです。人間の人間による人間のための共同自治をおこなおうと言うのぞみであり 推進力です。

 ふるい人間には分からない。

 ★ バブル時代以降、・・・「相互内在」は失われて行きました。
 ☆ それは 何だったか? そのことを問うています。制度だけで判断していますよね。あるいは 心性であるならば それは どのような内実だったのか?

 ★ 共同体的なコミニティーは失われ、不可解な犯罪も増える。
 ☆ 共同体も あたらしい衣替えには絶えず内発的にみづからの調和をやぶるチカラが 現われるものです。不可解な犯罪なら 大昔からつづいています。



 
 ☆☆ (趣旨説明欄) (く) この相互内在は 気持ちなのか? いわゆるクウキなのか? 情感なのか? 理知的な相互了解なのか?

投稿日時 - 2014-11-29 11:46:34

ANo.1

質問が長い。

一言で言えば日本人の根底にあるのは「和」だ。

西洋的な魂の位置づけではおそらく説明できない。
その概念は神でさえ共に在るものとして在として位置づけ
至高の存在や違う異体として扱う考え方とは明らかに異なる精神だ。

西洋的「個」の捉え方はあくまで肉体として貶め
それが「神」との契約のもとでやっと安息を得るが
日本的「個」の捉え方は繋がっている精神として共存し
共に調和することで安息を得る。

ある意味相互内在といえるかもしれんが
その相互内在という考え方そのものが西洋的な肉体に依存する捉え方なので
「全ての生命は根底で繋がっている」和としての精神に到達できない。
死して尚その存在が関わりを現世に持つ事を考えに入れていない。

西洋思想では「自然」さえ神に許された環境だ。
「文化」はその箱庭の中の営みであるべきと彼らは唱える。
しかし日本はそこに明確な敷居を持たない。
バランスのとれた均衡と感謝が最高の状態を作ると考え
様々な祭や神事を作り上げた。

と思う。

なんてね。
よく見れば回答も長い。

投稿日時 - 2014-11-28 23:21:11

お礼

 回答がだらだらだ。でも ありがとうございます。



 いま回答No.5までを読んだところですが 質問の趣旨を伝え損ねた感があります。

 ☆☆(趣旨説明欄) (く) この相互内在は 気持ちなのか? いわゆるクウキなのか? 情感なのか? 理知的な相互了解なのか?
 ☆ もしこの内の《気持ちや情感》であったなら その《相互内在なる関係》というのは いったいどういう事態であるのか? これが ねらいでした。

 たとえば
 ★ 一言で言えば日本人の根底にあるのは「和」だ。
 ☆ とすれば それはおそらく心をめぐる《内在》では必ずしもなく 《外におけるマジハリ》だと思われるからです。(あるいは 外におけるマジハリだけでもじゅうぶんに成し遂げ得る)。

 言いかえると 《理由がなく誰にも認められないようなケンカをせずに互いに相手を思いやって話し合って行こう》というその《和》を 言わば《理知的に相互理解》するのではないかと考えられるからです。

 《クウキ》の場合であっても 心の外からの言わば誘導であったり時には圧力であったりするものと思います。外から内へと入って来がちであり じっさいすでに内面において考えつつけっきょくそのクウキに従うといったかたちになるのかも知れません。けれども つねにマジハリが成ったなら 心の中に互いに内在しつつ物事を話し合い決めるというわけのものではないでしょう。


 ○ 《気持ちとしてあるいは情感において 互いに心の内にその意識さえもが入り込んで行っている状態》をもし《相互内在する関係》だと言うとすれば それはいったいどういう事態なのか?



 早い話が 《外在》なら 欧米の人間であっても相手のことを思いやったりあるいは 職務じょうその権限関係をもはたらかせて 或る種のクウキのようなフンイキとしての誘導や圧力をかける。と推し測られるのですが どうなのでしょう?





 ろかばうらさんに〔だけ〕ぐぢゃぐぢゃ物言いを言ってすまない気持ちもあるけれど〔でも さんざ へんてこりんな回答をもらって来ていますから 少々仕返しのおあそびでもありますが〕
 ★ 西洋思想では「自然」さえ神に許された環境だ。
 ☆ という見方は もうふるい。かれらもけっこう反省しているはずです。

 しかも汎神論も説かれており それは 自然即神といったところまで行きついてもいます。一面的な見方を全面に押し出す議論は そろそろ卒業しましょう。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 西洋思想では「自然」さえ神に許された環境だ。
 「文化」はその箱庭の中の営みであるべきと彼らは唱える。
 しかし日本はそこに明確な敷居を持たない。
 バランスのとれた均衡と感謝が最高の状態を作ると考え
 様々な祭や神事を作り上げた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ おもしろそうですが これには細説が必要でしょうね。

 《明確な敷居を持たない》ということは 《敷居を持つこと》について場合によっては必要だという認識をも別に持っている。ことを意味するはずです。ですから その見方をめぐっての《バランス》の問題をさぐって行って欲しい。《バランスのとれた均衡》を(これは 笑いものにしています)。

 それから《様々な祭や神事を作り上げた》のがいいのですが これらのムラムラのマツリが じつは お二階さんのおやりになる《マツリゴト》の下におかれ束ねられあたかもその《ファッショ(麦の束)》の中に―― 一たん緩急あらば義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシなる《律法》に擦り寄って行き――丸め込められる。このへんの心的かつ社会的現象について 議論をまとめていただくとよろしいかと考えます。


 つまり いまのふたつの問題点については 初めのほうは 《自然》が――《文化》をも飲み込んで――とうとばれることはいいとして それでは文化は落としめられるのか。文化の活躍する余地はないのか? でしょうし。

 あとのほうは むしろ《お二階さん・またそのマツリゴト》は けっきょく《文化》です。文化中の文化なのです。国家という二階建ての家は 人造の社会であり 人工の共同自治であると考えられます。もし《自然のバランスのとれた均衡》をとなえるのならば(そのような先人たちの知恵とわざをたたえるのならば) この国家なる異物をどうするのか? こういう問題にもなるかと思います。

 どぢゃ? ろかばうらよ。今回の回答でやっとまともな日本語をしゃべるようになったぢゃないか。おしすすめなさい。


 (午前中 出かけます)。

投稿日時 - 2014-11-29 09:16:10

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