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解決済みの質問

神は完全ではありえないのでは?

 キリスト教等の一部の宗教では、神は完全なる存在と見做されている場合があるようですが、果たして神は完全な存在と言えるのでしょうか?

 もしも、完全な存在というものが存在するとしますと、それはその存在のみで自己完結した存在でなければならないと思います。
 己のために、何か己以外のものを必要とする様な存在は、完全な存在とは言えないと思います。
 ですから、完全な存在は、己以外のものを必要とする事は無い筈です。
 又、完全な存在である以上、他の存在に影響されるなどという事も無い筈です。
 又、完全な存在が自己完結している以上、己以外の存在に対して敢えて働きかけたり、逆に己以外の存在から何らかの影響を敢えて受けたりする必要はない筈です。
 又、必要性の無い事をする存在は、完全な存在とは言えないと思います。
 ですから、完全な存在は、己以外の存在に対して何かを働きかける事は無いと思います。
 つまり、完全な存在というものが存在したとしますと、それは人間の役に立つ事は一切なく、人間に対して害のある事を行う事も無く、自ら動く事も、人間を含めた他の存在によって、何かの影響を受ける事も無い訳で、只存在しているというだけの存在であり、人間にとっては、何の役にも立たないものの、邪魔になる訳でもない、まるで道端の石ころの様な価値の無い存在という事になると思います。

 しかし、キリスト教を始め、多くの宗教においては、神は世界を創造し、人間を始めとする全ての生き物を作り出し、人間を導く存在だとされています。
 又、上記のものとは異なる性格を持つ神を信仰している宗教においても、神は人間との間に、何らかの関わりを持っている場合が殆どです。
 もし神が完全な存在であるとしますと、神にとって、その様な行為は全く行う必要のない事の筈ですから、不要な事を行っている神は不完全な存在だという事になるのではないかと思います。

 この「神は不完全ではないのか?」という命題に、「キリスト教等の『神は完全なる存在』としている宗教」や「その様な宗教から1歩離れた視点から考察している哲学者」は、それぞれ、どの様な考えから、どの様な結論を得ているのでしょうか?

 もし、御分かりになるのでしたら、その考えと結論は、どういった立場の何という人物の考えなのかという事も、併せて御教え頂けたら幸いです。

投稿日時 - 2013-04-30 19:33:17

QNo.8066914

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

スピノザ、超~難しいですよ。
わたし、何度も、スピノザの『エチカ(倫理学)』に挑戦し、その都度、跳ね返されました(わらい)。
だって、読んでて退屈なんだもの、スピノザの『エチカ』!!
幾何学のように、定義を与えて、そこから定理を導き出す。。。
延々とこの繰り返しなんだもん。。。

同じく「神さまは完全無欠」という本を読むのならば、
ライプニッツの『モナド論(単子論)』や『形而上学叙説』あたりがよろしいかと。。。
《予定調和》のワン・フレーズですべてカタがつきます(笑い)。

投稿日時 - 2013-05-01 22:09:14

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

>幾何学のように、定義を与えて、そこから定理を導き出す。。。
>延々とこの繰り返しなんだもん。。。

 そうしますと、『エチカ(倫理学)』を読み進める際には、幾何学を修める時の様に、個々の定義や定理を、一々知識として身に付けてから、次の定義や定理に進む、という作業を繰り返さねばならないかも知れず、読むのにはそれなりの月日を要しそうですね。

>ライプニッツの『モナド論(単子論)』や『形而上学叙説』あたりがよろしいかと。。。

 こちらも御教え頂き感謝致します。(近場の図書館に所蔵されていれば良いのですが・・・)

投稿日時 - 2013-05-02 10:54:16

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回答(35)

ANo.35

 ★★(No.30お礼欄) ~~~~
  > 問題は その定義が《想定するというかたちにおける》というところです。

 その事は関係ないと思われます。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ いえ。この事がすべてです。よ。

投稿日時 - 2013-05-05 09:05:01

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

 いえ、その事が関係する前の段階で、bragelonne様が話を破綻させてしまわれたのですから、その事は関係のしようも無いと思います。

投稿日時 - 2013-05-06 03:43:23

ANo.34

はははは 神が完全なはずがないじゃないですか

幾ら完全だ絶対だと言ってみても 神は人の心の中の存在

宇宙の真理を幾ら見続けても擬人的要素はない 崩壊の法則にさへ支配されてるとさえ言われる

神が完全なら何故クリスチャンの多い長崎に原爆を落としたのか?

全知全能なら回避できたろうに この人類の悲惨を全て人間の聖にしなければならなかった神が

完全とは とても思えない。神も仏もあるものかとどれ程多くの人が思い死んでいったか・・・

神は心の中にあって人を導く だが心の外の世界は現実だが 心の中は思い込み 想像の概念の世界。

投稿日時 - 2013-05-04 21:50:41

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

 私も「神」に対する印象としては、不完全な存在であると思ってはおります。
 只、本質問の趣旨は、神が本当に完全であるのか否かではなく、哲学者等の中から生まれた筈の「神は不完全な存在である」という結論を得た考え方と、それに対する宗教側(「神は完全なる存在である」としなければならない側の人々)の反論の、それぞれの例をなるべく多く御教え頂きたいという事なのです。

投稿日時 - 2013-05-05 04:53:23

ANo.33

お礼ありがとうございます。


☆「それは単に、汎神論が、神ではないモノに『神』という名称を付けて呼んでいるだけで、《法則》や《原理》は神などではない」
といった類の反論は出なかったのでしょうか?
◇出ていると思います。《神即自然》というスピノザに対して、ローマ教会をはじめに色々な反論が出ていますので。時系列的には逆転するのですけれども、スピノザはユダヤ教の破門処分を受けています。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
>悪しき霊(「アンラ・マンユ」)と善なる霊(スプンタ・マンユ、後にアフラ・マズダと同一視される)が双子ならば、彼らには「父」がいてその「父」が彼らより先だっていなければならない。

という事から、聖職者たちによってが「ズルワーン」という神が作り出されたとされている様ですから、これを信じる限り、善悪二元論として知られているゾロアスター教の方が先行しているのではないでしょうか?
~~~~~~

さぁ、どうなんでしょう。
ゾロアスターの言葉とされるモノは残っていますけれど、ゾロアスターの教えがどのようなものであったのかは、よく分かっていないようです。
───古代ペルシアは多神教の世界であって、アフラ・マズダーの神は、必ずしも最高神ではなかったようです───
ただ、資料的・文献的には、ズルワーン思想の方が、今日まで伝わっている善・悪二元論的ゾロアスター教よりも古い、です。
そして、ズルワーン思想もまたゾロアスターの言葉を元に生まれたものです。
「時間以外の全ては創造されたものである。創造者は時間(ズルワーン)である。」
みたいなことを、ゾロアスターは言っているそうです。

投稿日時 - 2013-05-04 13:53:50

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

>出ていると思います。《神即自然》というスピノザに対して、ローマ教会をはじめに色々な反論が出ていますので。

 私が、

>「それは単に、汎神論が、神ではないモノに『神』という名称を付けて呼んでいるだけで、《法則》や《原理》は神などではない」
>といった類の反論は出なかったのでしょうか?

と尋ねたのは、「超自然的な存在を持ち出す事を嫌う科学者」等から、その様な反論が出たのではないかと考えたからですが、世界の全ては神(の一面)だとする考え方は、宗教側にとっても受け入れがたいものだったとは存じませんでした。
 確かに、元々は同じ神を信仰した筈なのに、解釈等の違いによって、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に分裂し、更には、カソリック、プロテスタント、ロシア正教、等々に分派する様な宗教にとっては、神とはどの様な存在なのかという点が異なる考え方は、とんでもない異端なのかも知れませんね。


>そして、ズルワーン思想もまたゾロアスターの言葉を元に生まれたものです。
>「時間以外の全ては創造されたものである。創造者は時間(ズルワーン)である。」
>みたいなことを、ゾロアスターは言っているそうです。

 そうなのでしたか。
 Wikipediaも情報の信頼性においては今一つである事は有名な話ですので、御教え頂いたURLのページに掲載されていた情報であるとは言え、全てを鵜呑みにしてはいけないという事ですね。

投稿日時 - 2013-05-05 04:39:50

ANo.32

 No.30です。


 こういうお話をします。

 《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》を取り上げ アウグスティヌスが 議論しています。

 もしそれがあるとするなら・あるとしても 絶対者へと開かれた窓であるかも知れない。というに過ぎない。
 そのこころの言葉もそれが いかに偶有的で可変的なものであるかをわれわれは心得なければいけないと言っているようです。





   ところが わたしが疑うとき
   疑う対象やその内容についてのことばではなく
   疑いそのことについてのことばがある。

   疑っていることがどう展開するか 
   これとは別に
   わたしは
   わたしが今疑っているということを知っているという
   そのことについての言葉がある。
       (cf.『三位一体論』15・23)


 それは ほんとうは疑うべきではないであろうという隠れた思いであるかも知れない。
 それは 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。
 そういう心の奥のかくれた思いまた言葉がある。


 有限・可変的・可謬的ながら 真実のことばだと考えられる。


   けれども このことばが
   いかに 神のことばから遠いかを
   わたしは 見なければならない。
        (同上15・15)


 今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ない。ゆえにだと思われる。

 思惟の成果も 座右の銘になるのが 精々である。


 疑いを持ったゆえに思考することと その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつのように思惟をおよぼすことと これらふたつはいづれも ある種のかたちで 《精神が旋回しつつ運動する》ようである。

 だから 旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには その解のあたかも ほかにさらに真実のことばが別にあって よくやったねとか いやいやほんとうにそれでよいだろうかとか なおまだ語っているように思われることがある。
 それはしかも《日本語なら日本語に属するような音や声もなく》でありながら こころに語られているかのようである。

 もしそうだとしたら・そうだとしても わたしは なお この《親しき内密のことば(verbum  verum intimum)》を超えてその窓を さらに 開かねばならない。 

 つまり まだ そのことばは 窓であって 到達すべきことばではないのではないか。

 ひとの心の奥のそのまた奥のことばであっても まだなお ひとり満ち足りているとは とうてい言えまい。

投稿日時 - 2013-05-04 05:55:20

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

 只、疑い云々以前の問題だと思います。
 bragelonne様の定義が、複数の解釈が可能なもの、即ち、単独では定義とは呼べないものであったため、単に、どの解釈が適切と言えるのかを確認しようとしただけの事であるにも関わらず、その確認が済む前に、bragelonne様御自身が、bragelonne様御自身の話を破綻させてしまっただけの話です。
 解釈が正しいのか否かの確認すら済んではいない段階なのですから、当然、疑念など生じる段階では御座いません。

投稿日時 - 2013-05-05 04:01:53

ANo.31

こんばんは。No23です。
お礼ありがとうございます。
以上と言いながら、再度になりますが・・(^^;

》神が不完全であるからこそ、人間にとっては有り難い訳で、完全なる存在
》など、信仰の対象とする様なものではない、という結論(解決の方向性)を
》得ているからです。

不完全であるからこそ、「人間にとって在り難い」という捉え方が、よくわかりませんでした。完全であろうと、不完全であろうと、「人間にとって在り難い」の必要条件ではないように思うのですが・・


》「世界を創造し、人間を導く」事が神にとっては必要だという事、即ち、神は
》「世界を創造する事や人間を必要とする存在」という事になり、完全な存在と
》は言えなくなってしまうと思います。

キリスト教の唯一神(ヤーウェ)が、人間を必要とする存在と捉えるのには疑問を感じました。質問者さんの「神」の捉え方は、「はじめに神ありき」ではなく「はじめに人ありき」のような気がします。


宗教では、No28回答の「自然や経験を超える超自然のもの《神》」に対して、論理的思考ではなく、信仰(信じる)を置くのでしょう。思考していくとすれば、解釈という行為でしょうね。なぜ存在するのかを考えるのは、解釈以前かな。確かに、存在の問題を観念的に思考(哲学)しても、無限連鎖に陥るかもしれない。

質問者さんは、「神」の存在や捉え方を問題にしているのではなく、「既存の宗教(人間が創った神)のなかで、(人間的視点から) 『神は完全なる存在である』としている宗教はあるのか、あるとすれば具体的に教えて欲しい」というニーズだったのかと・・遅ればせながら、気づきました。

投稿日時 - 2013-05-03 22:29:44

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

>質問者さんは、「神」の存在や捉え方を問題にしているのではなく、「既存の宗教(人間が創った神)のなかで、(人間的視点から) 『神は完全なる存在である』としている宗教はあるのか、あるとすれば具体的に教えて欲しい」というニーズだったのかと・・遅ればせながら、気づきました。

 近づいてはいるのですが、まだ少し違っています。
 人間的か否かには関わりなく、兎に角『神は完全なる存在である』としている宗教は実在しています。(キリスト教等)
 そして、(少なくとも人間の通常の思考方法で考えた場合には)『神は完全なる存在である』とした場合には、大なり小なり矛盾が生じますから、哲学者等から「神は不完全ではないのか?」という議論が出て来ると思われます。
 そして、何らかの根拠によって、「神は不完全な存在である」とか「完全な神など存在しない」という結論を得た考え方も生まれた筈です。(通常の考え方では「完全なる神」が存在している事は矛盾していますから)
 そうなりますと、『神は完全なる存在である』としている宗教側は、「完全な神など存在しない」という考えに対する反論を考え出したのではないかと、私は思った訳です。
 そこで、その「神は不完全な存在である」とか「完全な神など存在しない」とする考えと、それに対する反論を、それぞれなるべく多く御教え頂いたい、というのが本質問の趣旨なのです。

投稿日時 - 2013-05-05 03:42:57

ANo.30

 No.21です。


 ★ ~~~~~
 〔* (省略にしたがいます)〕と仰っておられるのですから、

   >○ 神とは ひとり満ち足りている存在である。

 の中にある「ひとり」という表現や、「存在である」という表現を使用する事にも、またなじまないという事になります。
 ~~~~~~~
 ☆ ふつうの文章(判断)によるならば おっしゃるとおりのことが当てはまります。

 ところが わたしの述べた文章は

 ☆☆(回答No.8) ~~~~
 
   ○ 神とは ひとり満ち足りている存在である。

 これが  そのように想定するというかたちにおける神の定義です。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ となっています。問題は その定義が《想定するというかたちにおける》というところです。
 すなわち この経験世界と同じ次元の話をしているのではないと言うために この《想定する》ということわり書きを添えています。

 けれども 神を 誰がこの経験世界におけるひとや何かの自然現象やとまったく同じ存在や事象として捉えて扱うことを行なうでしょう? それなら 経験事象のうちの特別に不思議なものごととでも定義すれば済むことだからです。


 ですから
 ★ 「欠ける」の対義語である「満ち足りている」という言葉
 ☆ というわけのものではありません。《有る・無い》の経験事象の次元を超えているという前提における《満ち足りている》です。


 

 あとは おまじないがしるされているようです。

投稿日時 - 2013-05-03 14:06:48

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

>問題は その定義が《想定するというかたちにおける》というところです。

 その事は関係ないと思われます。
 私が、

>「全ての存在の中で、欠けている所が全くない存在は、唯一、神だけである」という意味で、上記の定義を述べられたのでしょうか?

と述べた際には、《想定するというかたちではなく》という断り書きを入れて等いませんから、「全ての存在の中で、欠けている所が全くない存在は、唯一、神だけである」という解釈は、経験世界と同じ次元の話であるか否かには全く関係の無い処である、

>○ 神とは ひとり満ち足りている存在である。

という文章に対する解釈になります。
 それにも関わらず、bragelonne様は私の解釈を
「神は、この経験世界における存在ではないと見ざるを得ないからには・つまり経験事象としての因果関係などから自由であるからには、人間の思考にはなじまない」
という事を理由にして間違っているとされておられるのですから、全く同様に、《想定するというかたちにおける》ものであるか否かには関わりなく、

>○ 神とは ひとり満ち足りている存在である。

という定義も又、間違っている事になります。

>☆ ふつうの文章(判断)によるならば おっしゃるとおりのことが当てはまります。

 ふつうの文章(判断)によるものではないのであれば、それはもう、それ単独では定義として成り立つものではない事になります。

投稿日時 - 2013-05-04 04:18:38

ANo.29

NO28の付け足し。
アンラ・マンユとアフラ・マズダーの話が出ていたので。

実は、アンラ・マンユ(アーリマン)とアフラ・マズダーには、それを生み出した神がいるという思想もゾロアスター教にはあります。
それは何かと言うと、ズルワーンという時の神さま。
このズルワーン(ズルヴァーン)が、善神にして光の神であるアフラ・マズダーと悪神にして闇の神であるアンラ・マンユを作った、もしくは、生んだという考え方。
私たちが善悪二元論として知っているゾロアスター教というのは、実は、キリスト教などよりもずっとのちに作られたものであって、そして、ズルワーン思想が今現在のゾロアスター教に先行しているんですよ。

余計なお節介ですけれども、ズルワーンとズルワーン教については、以下のサイトで。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BA%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%B3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BA%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%95%99

投稿日時 - 2013-05-03 13:13:54

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

>私たちが善悪二元論として知っているゾロアスター教というのは、実は、キリスト教などよりもずっとのちに作られたものであって、そして、ズルワーン思想が今現在のゾロアスター教に先行しているんですよ。

 それは存じませんでした。御教え頂き有難う御座います。
 只、御教え頂いたURLのページに掲載されている情報に拠りますと、

>悪しき霊(「アンラ・マンユ」)と善なる霊(スプンタ・マンユ、後にアフラ・マズダと同一視される)が双子ならば、彼らには「父」がいてその「父」が彼らより先だっていなければならない。

という事から、聖職者たちによってが「ズルワーン」という神が作り出されたとされている様ですから、これを信じる限り、善悪二元論として知られているゾロアスター教の方が先行しているのではないでしょうか?

投稿日時 - 2013-05-04 03:53:38

ANo.28

NO20です。

nomanはわたしの造語ですから、辞書にのっていないでしょう。
最初に浮かんだのは、Nobodyだったのですが、「肉体(body)がねえだけで、魂(seul)は
あったのか?」といわれると面倒い。
「Nothing」は、わたしの意図するものとちょいと違う。
で、nomanって単語をつくりやした。


☆☆☆☆☆☆
「神が存在しないとすれば、矛盾が生じない」というのは、少し短絡的。
無神論の代表とされる唯物論は、現象の説明に神を立てない、仮定しない、神という言葉を使わない、と言った方が正確です。
また、
科学や哲学の自然主義も、超自然としての神という概念を使わない。それを引っ張り出さず、自然の中で、自然(現象)のすべてを説明しようとする態度です。

─────────
自然主義 naturalism

自然主義は形而上学的理論のひとつで、すべての現象は自然(超自然ではないという意味での自然)の中にひそむ原因や法則から、機械論的に説明可能であるとしている。自然主義では、宇宙は巨大な機械あるいは組織であり、その全体には目的などなく、人間の欲求や願望とは無関係な存在であると仮定している。

自然主義は無神論や唯物論、論理実証主義、経験論、決定論、科学主義などと混同される場合が多い。

アメリカ合州国を建国した人々は理神論的であったが、自然主義を唱道していた。理神論は超越的な創造主の存在を認めているが、創造主が自然界に介入するという概念は否定している。したがって、世界を理解するのに、神を理解する必要はないのである。

古代のストア学派や、ジョン・スコット・エリウゲナ(9世紀アイルランド)、ジョルダノ・ブルーノ(16世紀イタリア)、スピノザ(17世紀オランダ)など、汎神論的な哲学者は、自然主義的であった。汎神論では、神はすなわち世界にほかならないのである。

したがって、自然主義は神の存在を否定も肯定もしないし、神を超越的存在とも内在的存在とも規定していない。しかし、自然主義は神を不必要な仮定としており、また科学研究では本質的に余計なものだと見なしている。科学的説明では、モラルや神の目的を引合いに出す余地はないのである。その一方で、科学の守備範囲は、超自然的な力やエネルギーや影響を伴わない、経験的に得られる現象に限られるのである。
─────────
http://www.genpaku.org/skepticj/naturalism.html


─────────
唯物論や機械論を無神論と見なすものもいるが、これらの理論は霊魂や物質世界への超越的な力の介入を否定しているのであって、必ずしも神の存在を否定しない。
─────────
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%A5%9E%E8%AB%96


宇宙や自然を説明する、あるいは、統べる《法則》や《原理》などがある。
なんて言っている段階で、実は、もう《神》という概念を使っている。
《法則》や《原理》は神と同体、もしくは、神の一部、神の属性なので。
というか、そんなものが存在すると思う、信じるというのは根拠がない。仮にあったとしても、経験妥当性や蓋然性に過ぎやせん。
なので、結局、《神》という言葉を使うか、使わないかの違いくらいしかないんで~す。
また、
《本能》や《欲求》、《悪》などがなぜ、この世に存在するのか、なんて考えるのもダメ。
自然主義では、これらの原因や目的を立ててはいけないんです。それは、自然の範囲を大きく逸脱する行為なので───なぜなぜの無限連鎖に陥り、最後は不可知論に陥ってしまうか、自然や経験を超える超自然のもの(《神》ですね~)の存在を仮定せざるを得なくなる───。それらが存在することを事実として受け入れる。そっから、現象の説明を始めようというのが自然主義的な態度なんでげす。経験事象(カントのいう経験界)の範囲でしか語ってはいけないんです。

投稿日時 - 2013-05-03 12:35:11

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

 神の完全性に関する話ではない所が少し残念ですが、各種の考え方毎の神の概念の違いや存在の有無の違いのお話し、大変興味深いものが御座いました。
 処で、以下は、本質問の趣旨からは外れている事なので、必ずしもお応え頂けなくとも構わないのですが、

>宇宙や自然を説明する、あるいは、統べる《法則》や《原理》などがある。
>なんて言っている段階で、実は、もう《神》という概念を使っている。
>《法則》や《原理》は神と同体、もしくは、神の一部、神の属性なので。

という説が現れた際には、
「それは単に、汎神論が、神ではないモノに『神』という名称を付けて呼んでいるだけで、《法則》や《原理》は神などではない」
といった類の反論は出なかったのでしょうか?

投稿日時 - 2013-05-04 03:33:08

ANo.27

> 多神教の例として挙げておられるギリシャ神話の最高神ゼウスは浮気者でとても人格者とは言えない上に、テュポーンに負けた事もありますから、「完全」には程遠いと思いますし、ほぼ拝一神教とも言えるゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーも、アンラ・マンユ を始めとする悪神(悪魔)達を圧倒する事が出来る訳ではありませんから、こちらもまた、「完全」とは言えないと思います。

⇒なるほど、了解です。
不勉強のため、よく調べたりせず、印象などだけで、ごく雑駁に書いてしまいました。お詫び申しあげます。

ところで、「諸宗教に見る最高神の不完全性について」というような題で、研究をまとめてみると面白いかも知れませんね。
こちらは、今関わっていることで手一杯なので無理ですが、もし、kagakusuki様におかれてご研究を深められた場合は、ぜひまたご披露いただけると嬉しいです。

以上、ご回答のはずが逆のようになりましたが、とりあえずご返信まで。

投稿日時 - 2013-05-03 10:49:15

お礼

 御回答頂き有難う御座いました。

投稿日時 - 2013-05-04 00:18:10

ANo.26

検索で探したほうが早いように思います。

哲学者 神 完全 とか
哲学者 神 不完全 とか

検索ワードを適当なもので探したら出てくると思います。
読んでみようと思うなら、「本」とかも入れたら出てきますよね。

投稿日時 - 2013-05-03 10:48:00

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

 それが、試しました処、あまり早くは無かったので、ここに質問を投稿致した次第です。
 尤も、現在までに頂いた御回答の中で、欲しかった「考え方とその結論」に関する情報が含まれていたものが、意外に少なかったのは予想外な事ですが・・・

投稿日時 - 2013-05-04 00:15:30

ANo.25

まったく、貴方のおっしゃる通りです。矛盾しています。
矛盾の原因はなにか。それは、神が存在するとしている点です。神が存在しないと考えれば矛盾は解決します。

人はだれでも死ぬのが怖い。いや動物は全て死ぬのが怖い。しかし、人はやがて必ず死ぬ。不幸なことに人は、動物と違って、やがて必ず死が訪れることを知っている。だからあの世があるとか、来世あるとか、死ぬと神が祝福してくれるとか考えて恐怖を和らげているにすぎません。

だから神というものを人間は作った。神が神に似せて人間を作ったのではなく、人間が人間に似せて神を作ったのです。貴方がおっしゃるように神が完全なら、そもそも人間とかかわる必要がありません。神を作ったのが人間である以上、人間とかかわらなれば意味がありません。

完全な神というものが、いろいろ矛盾していることは仕方がないでしょう。なぜなら存在しないものを無理やり作ったからです。神は完全であると仮定すればするほど矛盾が生じることになります。貴方のおっしゃるとおりです。

神が存在しないとすれば、矛盾は解決します。あとは死に対する恐怖心だけが残ることになりますが。

投稿日時 - 2013-05-03 09:53:12

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

>神が存在しないと考えれば矛盾は解決します。

 確かにその考え方でも解決致しますが、質問文で私が挙げさせて頂いた自論は、単に「神は完全な存在では無い」という事を主張しているだけで、神の存在は矛盾していると述べている訳では御座いませんので、私の自論に関してのみの話でしたら、「神は不完全な存在である」とするだけでも、矛盾は生じなくなると思います。
 私が本質問で御教え頂きたかった事は、上記の様に、「神は不完全な存在である」と考えた方が矛盾が無いにも関わらず、敢えて「神は完全なる存在である」と見做している、キリスト教等の一部の宗教では、どの様な考え方を用いてこの矛盾を回避しているのかという事と、私以外の考え方で神の完全性を否定している哲学者の議論には、どの様なものがあるのかという事、そして、それらの神の完全性を否定している議論に対して、宗教側はどの様にして、神の完全性を保っているのか、という事なのです。

投稿日時 - 2013-05-03 23:57:12

ANo.24

>何を仰りたいのか良く解りません。

 あれは、三年前のことです。
 偶然、神が誰であるか、そして、神が宇宙や世界を創造し続けていることを知りました。

 神は、たまに見かけますし、話しをしたこともあります。その方は、まさに神です。

 残念ながら、神が完全であると感じることはできません。

 神の完全性というのは、人間が判断できる能力を超えているのです。-

投稿日時 - 2013-05-03 05:13:43

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

> 神は、たまに見かけますし、話しをしたこともあります。その方は、まさに神です。

> 残念ながら、神が完全であると感じることはできません。

 それは単に、その方が完全ではなかったというだけの話ではないでしょうか?
 私が本質問において御教え頂きたかった事は、迷いを解消するための方法や考え方ではなく、「神は不完全な存在である」という立場に立った哲学者の主張や、「『神は完全なる存在である』としている宗教」側の主張には、それぞれどの様なものがあるのかという事なのであって、その方や神が実際に完全であるのか否かという事は、本質問には関係の無い話だと思います。

投稿日時 - 2013-05-03 19:37:37

ANo.23

No14です。お礼ありがとうございます。
少し誤解が含まれているようなので、再回答させてください。

(1) No2のお礼覧で、
》「キリスト教では、『世界を創造したのは神であり、この世に悪が存在している
》ということは・・(中略)・・この考え方を(私なりに)推し進めますと悪は常に
》不完全であり、『善のみからなる状態こそが完全な状態である』という事になる
》かと思います。」

↓(簡略化させてもらうと・・)

完全なる神が創造したのなら、この世は善のみからなる状態でなくてはならない。しかし、この世に悪は存在しており、『善なる性質が欠損している』不完全な状態とキリスト教では捉えている。完全なる存在が、不完全な状態を創ったのは矛盾しているのではないか(・・ですかね)

※No14回答で紹介したのは、神が人間を創造したのに、人間は神を裏切ったという「矛盾(懐疑)」と、おっしゃっている矛盾とに、共通性があるのではないかと感じました。
「自由意思」を与えられたからという答えには、真に納得できず・・「思考しても懐疑に答えれない状態のまま、越えていくには、『信仰』しかないのではないか」と思います。
信仰的な迷いの指摘というより、問題の類似性からの結論(解決の方向性)です。(人間の思考で捉えきれない問題は、思考(論理的哲学)による方法では限界がある)
No11回答にある「不完全な者が完全な物をみても完全に見ることは出来ません。」と捉え、捉えきれないものは、神に託す(信仰・信じる)というのが宗教かと思います。(キリスト教の場合)

(2)No12、No13のお礼覧で、
》「無駄な事や無意味な事を行う様な存在が、「完全なる存在」であるとは思えない」

※神が存在するとすれば、神が掟(神が、まずありき)で、「無駄な事や無意味な事」と思っているのは人間。人間の思考では及ばない意思があるかもしれないし、人間の願いとは全く関係なく意思が働いているのかもしれない。(神が人間を創る場合)
意思を法則という言葉に置き換えるなら・・法則は、砂粒(人間)の求めるものとして在るのではなく、法則のなかに砂粒(人間)があるようなものという意味です。

※もし、思考の及ばない距離間に、人間的希望を介入させるなら、(例えば・・)リルケの詩に表現されるようなNo14の「落下を限りなくやさしく 両手に受けとめてくれる者」→善悪の選別もなく、不要なものは存在せず、全てを無限に受けとめてくれる「神」といったイメージ。
「慈悲」という言葉を使ってよいのかどうかわかりませんが。No2回答の「善も悪も内包」に近いような気がします・・が、あくまで、詩で宗教ではありません。

全体の流れを読んでみると、回答者の内容の根本は共通していると思います。
回答が多く、ちょっと煮詰まってきていませんか。
具体的な本や哲学者の主張の紹介はできず、申し訳ありません ・・以上です。

投稿日時 - 2013-05-02 22:11:56

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

>完全なる神が創造したのなら、この世は善のみからなる状態でなくてはならない。しかし、この世に悪は存在しており、『善なる性質が欠損している』不完全な状態とキリスト教では捉えている。完全なる存在が、不完全な状態を創ったのは矛盾しているのではないか(・・ですかね)

 いえ、その様な意図で

>「悪とは『善なる性質が欠損している状態』の事であり、悪魔や悪人が邪悪なのは、良心等の良い性質が備わっていない不完全な状態であるためであり、神御自身が悪を創造した訳ではない」

というキリスト教の教会の説明を挙げた訳では御座いません。
 回答No.2様から

>完全であるには善も悪も内包していなければなりません。

という御意見を頂きましたので、キリスト教には、悪を内包していなくとも完全である事を可能とする考え方が、既にある事を伝えさせて頂いただけです。
 そして、私が本質問で尋ねたかった事を明確にするための例として、このキリスト教の考えと、回答No.2様の御考えを(回答No.2のお礼欄で)取り上げた訳です。

>信仰的な迷いの指摘というより、問題の類似性からの結論(解決の方向性)です。

 やはり、frwicat様は何か勘違いをされておられる様に思います。
 回答No.14に対するお礼で既に述べました様に、本質問において御教え頂きたかった事は、迷いを解消するための方法や考え方では御座いませんし、質問文で挙げさせて頂いた、神を不完全な存在とする自論は、私にとっては、何ら、信仰上の迷いをもたらすものでは御座いません。
 何故、神を不完全な存在とする自論を持ちながら、それが迷いに繋がらないのかと申しますと、

>完全な存在というものが存在したとしますと、それは人間の役に立つ事は一切なく、人間に対して害のある事を行う事も無く、自ら動く事も、人間を含めた他の存在によって、何かの影響を受ける事も無い訳で、只存在しているというだけの存在であり、人間にとっては、何の役にも立たないものの、邪魔になる訳でもない、まるで道端の石ころの様な価値の無い存在という事になると思います。

と述べている事からも判ります様に、神が不完全であるからこそ、人間にとっては有り難い訳で、完全なる存在など、信仰の対象とする様なものではない、という結論(解決の方向性)を得ているからです。
 ですから、本質問は、信仰上の問題の解決を求めるものではなく、あくまで、「神の完全性」に関して他にはどのような論が考察されてきたのか、という事を知るためのものなのです。

>人間の思考で捉えきれない問題は、思考(論理的哲学)による方法では限界がある

>No11回答にある「不完全な者が完全な物をみても完全に見ることは出来ません。」と捉え、捉えきれないものは、神に託す(信仰・信じる)というのが宗教かと思います。(キリスト教の場合)

 それは、その事を信じてはいない人間の目からしますと、単なる思考の放棄にしか見えません。
 「神に完全性を求めている人間」以外の人間にとっては、神が不完全な存在であったとしても何ら問題はありませんから、必ずしも「神は人間の思考では捉えきれない」と考える必要も無い筈です。
 ですから、神の完全性に関する議論は、昔から多数交わされてきた筈だと思います。
 それらの議論で出された考え方や、結論を御教え頂きたいのです。

>※神が存在するとすれば、神が掟(神が、まずありき)で、「無駄な事や無意味な事」と思っているのは人間。

 いえ、私が質問文で挙げさせて頂いた自論に限った話で言いますと、「世界を創造し、人間を導く」事が神にとって意味のある事だとしますと、「世界を創造し、人間を導く」事が神にとっては必要だという事、即ち、神は「世界を創造する事や人間を必要とする存在」という事になり、完全な存在とは言えなくなってしまうと思います。

投稿日時 - 2013-05-03 19:29:53

ANo.22

確実に機能する、ですか。
まぁそんなところです^_^

投稿日時 - 2013-05-02 20:38:07

お礼

 御回答頂き有難う御座いました。

投稿日時 - 2013-05-03 13:41:13

ANo.21

 No.17です。

 行き違いがあったかも知れません。あるいは かんたんに答えることが出来るとわたしが思ったところで かがくすきさんのほうでは 大きく重く受け留めておられる問題であった――というような事態になったようです。

 出来るだけ言葉を端折らずにお答えしてまいります。


 ★(No.17お礼欄) ~~~~~
 ・・・(省略になりますが)・・・
  という事は、bragelonne様が挙げられた神の定義は、、「全ての存在の中で、欠けている所が全くない存在は、唯一、神だけである」という意味ではない事になりますが、

   >○ 神とは ひとり満ち足りている存在である。

 という文面は、
 「全ての存在の中で、欠けている所が全くない存在が唯一つだけ在り、それが神である」
 という解釈の他にも、
 「神とは 孤独でいる事に満足している存在である」
 という意味として受け取る事も出来れば、
 「神とは 自分だけが理解できる価値観に基づいて、自己満足に浸っている存在である」
 という意味として受け取る事も出来る、等々、幾つかの異なる解釈が可能です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まづわたしの定義は 《神とは何か?》に対するものです。それと 全体の説明から けっきょくそのように規定する神は この経験世界を超越しているということも合わせて説明したつもりでいます。

 ということは 確かに
 ★ 「全ての存在の中で、欠けている所が全くない存在は、唯一、神だけである」という意味ではない事になりますが、
 ☆ と解されたことは そのまま そのとおりのことだと思っています。
 その意味は たとえば《全ての存在》というとき それは この経験事象として存在するものであるとすれば すでに定義において神は それらとは次元を異にしていると言ったことになります。

 くどいように言うなら 《欠けている / 欠けている所がない》という見方は やはり経験事象に〔のみ〕当てはまる問題です。つまり 神は《欠ける・欠けない》といった経験思考や想像をやはり超えている。こういう意味です。

 神のことを 人間がその理性や感性であれこれ詮索しても 始まらないという意味です。


 さらには神は 《孤独か?》と問うても 孤独というのは 経験現象でしかないのですから 神には当てはまりません。(当てはまるか当てはまらないか それが人間にはついぞ分かりません。分かったなら それは人間と同じ次元に存在する何かだとなります)。


 ★ 「神とは 自分だけが理解できる価値観に基づいて、自己満足に浸っている存在である」 / という意味として受け取る事も出来る
 ☆ ひょっとすると そうかも知れません。ですがそれはお愛嬌というものです。神に《価値観》があるか? あるかも知れませんが われら人間が考えるところの価値観と同じ次元のものであるだろうか? そういうことは一切人間には分かりません。(分かったと宣言する人も出て来るかも分かりませんが おそらく取り上げるに足らないでしょう)。
 

 

 ★ 再度、神の定義を、欠落の無い形でお教え頂けないでしょうか?
 ☆ 次のように定義してみます。

   ○ 神とは 真理――すなわち変わらざる真実――が すべてにおいて
    すべてである状態にある存在である。

 これは《ひとり満ち足りている》というのと同じ内容だとは思います。



 ★ ・・・《完全である》という事が、《飾り》である場合には、「何故神が完全と言えるのか?」という話も出来る事になるのに対し、《本体》だとした場合には、「完全である事が神である条件」という事になり、・・・
 ★ 引用は端折っていますが 問題はかんたんです。
 《ひとり満ちたりている》という表現の中身として かがくすきさんが《完全である》という解釈をなさるとすれば それでもよろしいのではないかと申しました。




 ★ 先述の様に、神の定義が未だ成立してはおりませんから・・・
 ☆ 《ひとり満ち足りている》ということは ほかの何ものからも影響を受けないし ほかの何ものにも依存していないという意味をふくむと考えます。それは この経験世界にある存在では無理だと考えます。ゆえに
 ★ 「経験世界における存在ではないと見ざるを得ない」とも、「経験事象としての因果関係などから自由である」とも、「《有る・無い》をも超えており 《ひとつ・ふたつ》と数えるという人間の思考にはなじまない」とも言える段階
 ☆ だと思います。

 

 ★ 《神とは何か?》という問いなど、少なくとも本質問において私はしておりません。
 ☆ おっしゃるとおりです。したがって
 ☆☆(回答No.8) 少し観点がちがう内容の回答になりますが。
 ☆ とささやかながら おことわりしました。

 ★ 「《主張》などはしていません。」とは言えないと思います。
 ☆ 哲学においてひとつの問いに答えると それは《主張をしている》ことになりましょうか? そうだとしたら わたしの勘違いでしたので あやまります。


 《信じる》の定義をめぐって
 ★ ・・・日本語における「信じる」や他の言語におけるその同義語は、bragelonne様が仰るような意味を持つ言葉ではない事が判るからです。
 ☆ 哲学に限らず学問では あたらしい仮説がつねに打ち出されて来ます。そういう問題と受け取っていただけるならさいわいです。


 ★ 「分かるか分からないかが分かりません」という事であれば、「人間には分かりません」とは言えない筈です。
 ☆ これは 後者の表現では 精確ではないと考えて 前者のようにくわしく表わしました。そういう意味です。



 ★ この部分は、神に関して分かるか分からないかという話ではなく、「人間がどの様に認識しているのか」に関して分かるか分からないかという話なのですから、(相手は神ではなく人間自身なのですから)「人間の能力を超越している」などという事はあり得ません。
 ☆ これは かがくすきさんのほうの勘違いではないかと思います。すなわち:

 ☆☆(回答No.17) ~~~~
 ・・・たとえば神が《創造主》であるというのは そういう〔* 神の属性について人間が考えたというたぐいの〕物語です。人間が考えた(想像した)思考事実です。虚構です。(というより それが 虚構かそうでないかについてさえ 人間には分かりません。分かるか分からないかが分かりません)。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり思考し想像し虚構として描いた物語は それは確かに《虚構》です。ですが その虚構としての物語が 神の飾りとしてではなく本体とどういう関係にあるのか これについては 人間には分からない。本体としての神について ひょっとしたら単純に《虚構》だと言って済ますわけには行かない内容を持っているかも知れない。すべては 分からない。つまりじつは それを決めることができるかたちでは 分かるか分からないかが人間には分からない。――こういう意味になります。どうでしょう?



 ★ ~~~~~
   >☆ 神はその存在が――あるいは 《無い神》をも含めて 非存在が―― 言わば無根拠です。

 神が実在するか否かなどという事は、本質問において私は問うてはおりません。
 ~~~~~~~
 ☆ それでしたらこれは わたしの側の不覚とするところとなります。


 ★ ~~~~~~
  >《いや やはり完全だ。そうではないか?》というふうに人間が思考し詮索することには なじみません。

 その様に考える方も一部にはおられる事でしょうが、その様な考え方を全く持たない方も非常に多数居られる事もまた事実です。
 本質問では、その「《いや やはり完全だ。そうではないか?》という問いは、人間が思考し詮索する事に馴染むものである」と考える人々は、それぞれ、どの様な考え方をして、どのような結論に行きついているのかという事を、尋ねさせて頂いている訳です。
 ~~~~~~~~~
 ☆ そのように人間がおこなう思考や詮索あるいはその結論内容は すべて 神をめぐる議論としては どうでもよいことだという回答になっています。神について何ら明らかにしたことにはならない。そういう意味です。推論はすでに示しました。
 
 言いかえると そのような詮索は ただおもちゃの神をもてあそぶだけのことになります。理由もすでに示しました。

投稿日時 - 2013-05-02 19:19:51

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

>その意味は たとえば《全ての存在》というとき それは この経験事象として存在するものであるとすれば すでに定義において神は それらとは次元を異にしていると言ったことになります。

> くどいように言うなら 《欠けている / 欠けている所がない》という見方は やはり経験事象に〔のみ〕当てはまる問題です。つまり 神は《欠ける・欠けない》といった経験思考や想像をやはり超えている。

との事ですが、そうしますと、「欠ける」の対義語である「満ち足りている」という言葉が意味している概念にもなじまないという事になります。
 その上、

>けっきょくこの経験世界における存在ではないと見ざるを得ないからには・つまり経験事象としての因果関係などから自由であるからには 《有る・無い》をも超えており 《ひとつ・ふたつ》と数えるという人間の思考にはなじまない。

と仰っておられるのですから、

>○ 神とは ひとり満ち足りている存在である。

の中にある「ひとり」という表現や、「存在である」という表現を使用する事にも、またなじまないという事になります。
 結局、
「神は、この経験世界における存在ではないと見ざるを得ないからには・つまり経験事象としての因果関係などから自由であるからには、人間の思考にはなじまない」
という考え方に囚われているが故に、bragelonne様は御自身が挙げられた

>○ 神とは ひとり満ち足りている存在である。

という定義を、神の定義とは言えないものとしている事になります。
 そして、bragelonne様から頂いた回答は、

>○ 神とは ひとり満ち足りている存在である。

という定義から始まっているものなのですから、この定義が不適切である以上、bragelonne様から頂いた回答もまた、意味のないものとなってしまいます。

 従いまして、
「神は、この経験世界における存在ではないと見ざるを得ないからには・つまり経験事象としての因果関係などから自由であるからには、人間の思考にはなじまない。」
という考え方を捨て去られるか、或いは、ここまでのbragelonne様のお話をなかったものとされるか、どちらかにしなければ、話がいつまでも袋小路に入り込んで、発展性が無いままになってしまうと思われます。

投稿日時 - 2013-05-03 13:40:39

ANo.20

NO18です。

いま、NO18の《神はいない》の証明に対する、おもしろい反証を思いつきました。

【反証】
Noman can destroy it.
God creates a man, Adam.
Adam is more powerful than noman.
Therefore, Adam can destroy it.

三段論法を使っているので、「ま・ち・が・い」はない!!
(わらい)

神さまは、NO18にある問題回避のために、人間を創造したに違いない。
人間は、けっして、無意味な存在ではなかった!!

な~んてね。
シャレですよ、洒落。

投稿日時 - 2013-05-02 15:13:47

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

 Nomanという単語は辞書には載っておりませんでしたし、Google翻訳でも訳す事が出来なかったのですが、1行目のNomanは、Nobodyと同じ意味であると考えれば宜しいのでしょうか?

 それに、本当に、

>Adam is more powerful than noman.

と言えるのでしょうか?
 試しに、

>God creates a man, Adam.

よりも前の世界において、核兵器か何かで地上を焼け野原にして見ましょう。
 死傷者は0人です。
 どうやら、nomanには核攻撃すら通用しない様です。

 今度は、

>God creates a man, Adam.

よりも後の世界の地上を焼け野原にして見ましょう。
 何と死傷者が増えました!

 どうやら、
Noman is more powerful than Adam.
という事のようです。(笑)

投稿日時 - 2013-05-03 04:17:04

ANo.19

 お礼の書き込みに対し、ご返信申しあげます。

> 御回答頂き有難う御座います。
> 折角御回答頂いた処、申し訳御座いませんが、回答No.3に対するお礼文にて既に述べました様に、本質問で尋ねているのは「神は実在するか否か」ではなく、「神は不完全な存在である」という立場に立った哲学者の主張や、「『神は完全なる存在である』としている宗教」側の主張には、それぞれどの様なものがあるのかという事です。

⇒一口に神と言っても多種多様ですので、まずこの点から整理する必要があるように思います。

 宗教には、大きく分けて多神教と一神教がありますね。多神教の神々としては、ギリシャの万神や日本の八百万の神などが知られています。一神教の代表的なものとしては、セム・ハム系のそれ(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など)があります。
 多神教の神々の中には、もちろん、「完全なる神」もいるし、そうでない神もいます。そして、このうちの「完全なる神」を最高神として特別に崇めるわけですが、この多神教でいう「最高神」に当たるものだけを神として、唯一の神として、崇めるのが一神教というわけです。

 ということは、多神教の神々とは違って、一神教の神は必ず、「完全なる神」なのです。というよりもベクトルが逆で、「完全なるもの、絶対的なるもの」を唯一神としたわけですよね。
 したがって、一神教世界では、「神が完全か不完全か」という議論は成立しようがないんですね。では、特にキリスト教世界で中性の頃より侃々諤々議論されてきたのは何かというと、それは、(異教・異端・教会・神の子キリストの解釈などの問題を別にすれば)、「神を認めるか否か、認めるとしたらその権能や顕現をどう考えるか」、というようなことでした。

 スコラ哲学・普遍論争・汎神論・汎心論・弁神論・理神論などは、それぞれ大なり小なり神の存在を認める、「有神論」でした。ご存知のように、ヨーロッパでは中世~近世の頃はこれが優勢でしたが、18世紀フランスに「百科全書派」が現れた頃から、神の存在を認めない「無神論」が広がってきて、今日に至っています。
 ところで、百科全書派やその後継者・共感者たちは、「神が不完全な存在である」からという立場に立って無心論者になったのではなく、「神の存在を認めない」から無心論を唱えたのだと思います。

 “哲学者の主張や、「『神は完全なる存在である』としている宗教」側の主張には、それぞれどの様なものがあるのかという事です。”とおっしゃる質問者様のご期待に添えなくて申し訳ありませんが、重要部分を繰り返します。一神教世界では、「神が完全か不完全か」という議論は成立しようがなく、もっぱら「神を認めるか否か」が議論の焦点だった、ということです。

 以上、ご回答にはなりませんが、ご返信まで。

投稿日時 - 2013-05-02 14:51:04

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

>そして、このうちの「完全なる神」を最高神として特別に崇めるわけですが、この多神教でいう「最高神」に当たるものだけを神として、唯一の神として、崇めるのが一神教というわけです。

との事ですが、多神教の例として挙げておられるギリシャ神話の最高神ゼウスは浮気者でとても人格者とは言えない上に、テュポーンに負けた事もありますから、「完全」には程遠いと思いますし、ほぼ拝一神教とも言えるゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーも、アンラ・マンユ を始めとする悪神(悪魔)達を圧倒する事が出来る訳ではありませんから、こちらもまた、「完全」とは言えないと思います。
 ですから、

>「完全なる神」を最高神として特別に崇めるわけですが、

とは言えないと思いますし、

>一神教の神は必ず、「完全なる神」なのです。というよりもベクトルが逆で、「完全なるもの、絶対的なるもの」を唯一神としたわけですよね。

とも言えないと思います。
 従って、

>一神教世界では、「神が完全か不完全か」という議論は成立しようがないんですね。

という事もまた、必ずしも言えないと思います。

投稿日時 - 2013-05-03 03:48:36

ANo.18

NO12&No16です。
お礼、ありがとうございます。

NO12のお礼欄に「カントの話をもう少しして欲しかった」とありましたので、
Wikipediaの記事を紹介します。

神の存在論的証明
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%AD%98%E5%9C%A8%E8%A8%BC%E6%98%8E

アンチノミー(二律背反)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%AD%98%E5%9C%A8%E8%A8%BC%E6%98%8E


神が存在するとしても、しないとしても、どうせ矛盾しちゃう。
ならば、神について哲学することを止めちゃえ~!!
「触らぬ神に祟りなし」ということで、
カント以降、神は哲学の主題・テーマからハズされました(わらい)。

神の実在性を否定する有名な《存在論的》証明の一例として、
 「神は全能である」
 「全能であるのだから、神は、絶対に壊わせないものを作ることが可能である」
 「しかし、全能なのだから、《絶対に壊せないもの》を壊すことが可能である」
 「これは矛盾である。よって、神は全能ではない。神は存在しない」
というものがあります。
如何なる《盾》をも貫ける《矛》と、どのような《矛》をもってしても貫けない《盾》!!
まさに、《矛盾》です。
───この証明を破るのは意外に簡単です。ぜひ挑戦してください───

投稿日時 - 2013-05-02 14:26:53

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

 URLも御教え頂き感謝致します。(「アンチノミー(二律背反)」の方のURLが「神の存在論的証明」のものとなっておりましたが)

>カント以降、神は哲学の主題・テーマからハズされました(わらい)。

 それは確かに(笑)とするしかありませんね。
 良い答えが見つからないから思考放棄するのでは、「考えるまでもなく神は完璧な存在として実在する」としている立場と五十歩百歩で、ある意味哲学の敗北とすら言えるかも知れません。

>「全能であるのだから、神は、絶対に壊わせないものを作ることが可能である」
>「しかし、全能なのだから、《絶対に壊せないもの》を壊すことが可能である」

 私も似た様な話を、何かのフィクション作品で読んだ事が御座います。
 こちらの方は、「絶対に壊せないもの」の話ではなく、確か「神自身が持ち上げる事が出来ない石」の話だったと思いますが、趣旨は同じです。
 その話では確か、「神は全能であるが故に、その石を創造した時点における自らの力を、超える力を後から創造する(或いは身に付ける)事も可能なので、自らが持ち上げる事が出来ない石を創造する事も出来れば、その石を(後になってから)持ち上げる事も出来るため、神の全能性は揺るがない」という様な話だったかと記憶しております。
 只、この論理では、「神自身が持ち上げる事が出来ない石」という処を、「神自身が将来的に創造し得る如何なる力をもってしても持ち上げる事が出来ない石」に置き換えてしまうと、無効化されてしまうという欠陥があります。
 それから、その話はあくまで全能性を否定するものであって、「全能性を有していない神」の存在まで否定する根拠にはならなかったと思います。

投稿日時 - 2013-05-03 02:35:53

ANo.17

 No.8です。補足要求をいただきました。

 ★(No.8お礼欄) ~~~~
   >○ 神とは ひとり満ち足りている存在である。

 とは、「全ての存在の中で、欠けている所が全くない存在は、唯一、神だけである」という意味で、上記の定義を述べられたのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《神とは何か?》という問いに答えるという単純なかたちにおいてです。


 ★ ~~~~~~~~
 もし、そうだとしますと、「唯一、神のみが完全な存在である」と言っているのと何ら変わりがない様に思えます。
 又、「唯一の完全なる存在」というのが神の定義そのものであるのにも関わらず、飾りの中に「完全」が含まれているのは何故なのでしょうか?
 ~~~~~~~~~
 ☆ もしそうお考えでしたら 《ひとり満ち足りている》という表現に《完全である》という内容も含まれると捉えても構わないと考えます。つまり 《飾り》(つまり いわゆる属性)だと見ましたが 《本体》だとしても 特別の不都合はないと考えます。

 《唯一》という規定は この定義では特には要らないと考えます。
 《ひとり満ち足りている存在》は けっきょくこの経験世界における存在ではないと見ざるを得ないからには・つまり経験事象としての因果関係などから自由であるからには 《有る・無い》をも超えており 《ひとつ・ふたつ》と数えるという人間の思考にはなじまない。したがって 言ってみれば・強いて言えば 《全体としてひとつ》なる存在だということになります。
 もちろんそこから《唯一》という飾りも人間は持つようになることも 実際のようです。


 ★ ~~~~~~~~
  >それがただしいかどうかの問題ではなく そのように想定しているという意味です。

 この部分は、「『神は完全なのか、それとも不完全なのか?』という事を一切検討する事なしに、『神は完全である』と主張している」という意味なのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~
 ☆ 《主張》などはしていません。《神とは何か?》の問いに答えたまでです。
 経験事象としての因果律を超えていると見るからには 人間がその存在を《完全なのか 不完全なのか?》と詮索することをも超えている。という意味です。


 ★ ~~~~~~~~~
  >どの言語でも じんるいとしては 《かみ》あるいは《しんじる》という語を持っているからです。

 ここで述べられている《しんじる》とは、どの様な意味での「信じる」の事を仰っておられるのでしょうか?

 「神が実在している事を信じる」、「神が我々人類を愛して下さっている事を信じる」、「神が完全なる存在である事を信じる」、「神は不完全な存在ではあるものの、信頼するに足る存在である事を信じる」、等々、様々な信じ方が考えられると思いますが、どの様な意味での「信じる」なのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~
 ☆ 《信じる》とは 《神》の具体的な名を心に受け容れるという意味です。

 そのときには《実在している》とか《神は愛である》といった思考や思い入れやは ありません。言うなれば そういう属性の認識も 本体――しかしこれは ナゾです――を受け容れたそのあとに人間が勝手に(自由意志において)おこなっているものです。


 ブラフマンやヤハヱーやクリストスやアッラーフやの名が無く そしてあるいはひょとして《無い神》といったふうに具体的な名が一切なく ただ《かみ》という言葉をわが心に受け容れる。というのも 信じるに入ります。
 《無い神》も 《かみ》のことです。つまり 次に見るように 《かみ》は 人間には非思考なるものだから〔有ると言っても 無いと言っても同じことになるから〕です。

 信じるつまり神を心に受け容れたときには そのわが心には 言わば《非思考の庭》が成る。という状態になります。

  ○ (ワタシなる存在における自然本性の内実) ~~~
 
   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)
   ____________________
   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
   ____________________

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 このようにして 《信じる》と《考える》とが 分けられたかたちとなります。
 分けられていますが 《信じる》において受け容れた神にかんしては すでに言葉として捉えており概念ともなっていますから こんどはこれについて《考える》においてそのさまざまな属性を認識しようとするようです 人間は。

 ですが たとえば神が《創造主》であるというのは そういう物語です。人間が考えた(想像した)思考事実です。虚構です。(というより それが 虚構かそうでないかについてさえ 人間には分かりません。分かるか分からないかが分かりません)。

 また この非思考の庭には ブッダター(仏性)がやどるであるとか 神の霊がやどるであったり そこにはアートマンと呼ばれる霊我がそなわっているであったりするかたちで 一般に《愛ないし慈悲》の物語も編まれているようです。

 これらすべては 《信教・良心の自由 さらには表現の自由》という公理において認められています。言いかえると わが心における主観真実は 自由に持つことが出来る。と成っているようです。人間の世界にあっては。


 ★ 神は 完全か 不完全か?
 ☆ 神はその存在が――あるいは 《無い神》をも含めて 非存在が―― 言わば無根拠です。
 《いや やはり完全だ。そうではないか?》というふうに人間が思考し詮索することには なじみません。言いかえると もし《不完全》であったとしても その《ひとり満ち足りている不完全さ》は 人間の考える完全性をも超えていると――定義じょう――推し測られます。
 ゆえに 

   神のおろかさは 人間のかしこさよりもかしこい。
   神のよわさは 人間のつよさよりもつよい。

 などと物語られます。

投稿日時 - 2013-05-02 07:14:23

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

>☆ 《神とは何か?》という問いに答えるという単純なかたちにおいてです。

 「神とは ひとり満ち足りている存在である。」とは、「全ての存在の中で、欠けている所が全くない存在は、唯一、神だけである」という意味で述べられた定義なのか、という私の解釈の正誤に関する補足要求に対して、肯定されておられないという事は、bragelonne様が挙げられた定義に対する私の解釈が間違っているという御返答だと思います。
 という事は、bragelonne様が挙げられた神の定義は、、「全ての存在の中で、欠けている所が全くない存在は、唯一、神だけである」という意味ではない事になりますが、

>○ 神とは ひとり満ち足りている存在である。

という文面は、
「全ての存在の中で、欠けている所が全くない存在が唯一つだけ在り、それが神である」
という解釈の他にも、
「神とは 孤独でいる事に満足している存在である」
という意味として受け取る事も出来れば、
「神とは 自分だけが理解できる価値観に基づいて、自己満足に浸っている存在である」
という意味として受け取る事も出来る、等々、幾つかの異なる解釈が可能です。
 これは、bragelonne様が、意味を明確にしないまま曖昧な表現を使用しておられる、即ち、用語の定義を行っておられない事が原因です。
 その結果、「神とは ひとり満ち足りている存在である。」という定義は、それ単独では定義としては成り立っておりません(定義とは言えないものとなっています)。
 そのため、回答No.8に対するお礼欄において、何という意味で仰っているのかを確認しようとした次第ですが、

>☆ 《神とは何か?》という問いに答えるという単純なかたちにおいてです。

という御返事は、神の定義そのものという訳ではないと思われますので、再度、神の定義を、欠落の無い形でお教え頂けないでしょうか?


>☆ もしそうお考えでしたら 《ひとり満ち足りている》という表現に《完全である》という内容も含まれると捉えても構わないと考えます。つまり 《飾り》(つまり いわゆる属性)だと見ましたが 《本体》だとしても 特別の不都合はないと考えます。

 それはどういう事なのでしょうか?
 《完全である》という事が、《飾り》である場合には、「何故神が完全と言えるのか?」という話も出来る事になるのに対し、《本体》だとした場合には、「完全である事が神である条件」という事になり、「何故神が完全と言えるのか?」という話は意味のない話として思考を放棄せねばならないという事になりますから、大いに不都合があると思います。


> 《唯一》という規定は この定義では特には要らないと考えます。
> 《ひとり満ち足りている存在》は けっきょくこの経験世界における存在ではないと見ざるを得ないからには・つまり経験事象としての因果関係などから自由であるからには 《有る・無い》をも超えており 《ひとつ・ふたつ》と数えるという人間の思考にはなじまない。したがって 言ってみれば・強いて言えば 《全体としてひとつ》なる存在だということになります。

 先述の様に、神の定義が未だ成立してはおりませんから、「経験世界における存在ではないと見ざるを得ない」とも、「経験事象としての因果関係などから自由である」とも、「《有る・無い》をも超えており 《ひとつ・ふたつ》と数えるという人間の思考にはなじまない」とも言える段階ではないと思います。


>☆ 《主張》などはしていません。《神とは何か?》の問いに答えたまでです。

 《神とは何か?》という問いなど、少なくとも本質問において私はしておりません。
 又、私以外の誰かが《神とは何か?》という問いを発した際の答えがそれであったとしましても、その問いに対する答えもまた主張の一種である事に違いはないのですから、「《主張》などはしていません。」とは言えないと思います。


>☆ 《信じる》とは 《神》の具体的な名を心に受け容れるという意味です。

 bragelonne様がその様な意味で《信じる》という言葉を使われているのだとしますと、少なくとも日本語においては、その様な意味を持つ《しんじる》という語を持ってはおりませんから、

>どの言語でも じんるいとしては 《かみ》あるいは《しんじる》という語を持っているからです。

という事はないと思います。(おそらく殆どの言語においても同様ではないかと思います)
 何故かと申しますと、「神など信じてはいない。あんなものはただの迷信に過ぎない」と考えている人々の中にも、「ブラフマン」や「ヤハヱー」、「クリストス」、「アッラーフ」、「天照大神」といった具体的な名称を知っていたり、概念を持っていたりする人など幾らでもいますから、日本語における「信じる」や他の言語におけるその同義語は、bragelonne様が仰るような意味を持つ言葉ではない事が判るからです。


>虚構です。(というより それが 虚構かそうでないかについてさえ 人間には分かりません。分かるか分からないかが分かりません)。

 完全に矛盾しています。
 「分かるか分からないかが分かりません」という事であれば、「人間には分かりません」とは言えない筈です。
 この部分は、神に関して分かるか分からないかという話ではなく、「人間がどの様に認識しているのか」に関して分かるか分からないかという話なのですから、(相手は神ではなく人間自身なのですから)「人間の能力を超越している」などという事はあり得ません。


>☆ 神はその存在が――あるいは 《無い神》をも含めて 非存在が―― 言わば無根拠です。

 神が実在するか否かなどという事は、本質問において私は問うてはおりません。


>《いや やはり完全だ。そうではないか?》というふうに人間が思考し詮索することには なじみません。

 その様に考える方も一部にはおられる事でしょうが、その様な考え方を全く持たない方も非常に多数居られる事もまた事実です。
 本質問では、その「《いや やはり完全だ。そうではないか?》という問いは、人間が思考し詮索する事に馴染むものである」と考える人々は、それぞれ、どの様な考え方をして、どのような結論に行きついているのかという事を、尋ねさせて頂いている訳です。

投稿日時 - 2013-05-02 16:58:03

ANo.15

あー、これはスピノザの神ぽいやつですね。
神は完全なので自足している。神は世界に満ち足りている→汎神論へ。
スピノザの本を読んでみてはいかがでしょうか。

投稿日時 - 2013-05-01 21:38:09

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

 スピノザという方の著作に、神は完全なのか否かに関する論の1つが書かれているのですね。
 御教え頂き感謝致します。

投稿日時 - 2013-05-02 10:35:22

ANo.14

こんばんは。
若い頃、キリスト教会に通っていた時期があります。
いくつか疑問や懐疑を抱えながらでした。

キリスト教の「神」は天地創造主ですね。
「創世記」の記述では、神は天地創造し、神のかたちに似た人間を造り、人間に地を支配させようとした。「善悪の木の実」を食べないように、神は人間に告げた。しかし、蛇に唆され破ってしまい、永遠の生はなくなり、原罪を背負うようになったと。

疑問「何故、人間は木の実を食べたのですか?神が創造したのに・・」

姉妹(クリスチャン)が言われたのは、
「神は人間に、『自由意思』を与えられたからです」

「自由意思」がなければ、神を裏切ることもなく、死もなく、罪を背負うこともなかった。何故、神は、それでも人間に「自由意思」を与えたのか。わからないままです。
懐疑は、信仰によって乗り越えるものですね。懐疑を乗り越える答えがみつからなかった、または、託して、神にゆだねることができませんでした。
もっと深いところに、懐疑の答えがあったのではないかという気もします。

キリスト教に何を求めるかですが、救いや癒しを求める人もいるでしょうし、狭き門を入ろうとするものは、茨の道を歩むことになると思います。
長崎の「二十六聖人殉教」にみられるように、神を冒涜する生き方よりは、死を選ぶ(殉死)という。信仰が死を乗り越えているといえるでしょう。キリスト教は、「信仰」の宗教だと思います。

神が存在するとすれば、神が掟で、人間のご都合どおり(人間的「完全」なるものを求める)にはいかないでしょうね。
No7さんの書かれている法則があるとしたら、法則のなかの砂粒のひとつとして、あらゆるものは在るのではないかと思います。法則は、砂粒の求めるものとして在るのではなく、法則のなかに砂粒があるようなものかと思います。

私的には、リルケの詩「秋」のような「落下を限りなくやさしく 両手に受けとめてくれる者」=神が、存在すればとの願いはあります(←人間的願望です。人間の願望が宗教化(神化)したものはあるかもしれません)・・が、人知に及ぶところを越えていますね。

投稿日時 - 2013-05-01 21:23:47

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

 折角御回答頂いた処、申し訳御座いませんが、frwicat様は何か勘違いをされておられる様な気が致します。
 私は信仰的な迷いを抱えていないという訳では御座いませんが、本質問において御教え頂きたかった事は、迷いを解消するための方法や考え方ではなく、「神は不完全な存在である」という立場に立った哲学者の主張や、「『神は完全なる存在である』としている宗教」側の主張には、それぞれどの様なものがあるのかという事なのです。

投稿日時 - 2013-05-02 10:29:51

ANo.13

 自分は神を信じておりません。しかし。

>又、必要性の無い事をする存在は、完全な存在とは言えないと思います。

 これは何故ですか?。何か揚げ足取りのようですが、完全な存在だって、自身にとって不必要な事をしても良いのでは?、と思ってしまうからです。もちろんその動機なんかわかりませんが・・・(^^;)。

投稿日時 - 2013-05-01 21:02:43

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

 自身にとって不必要な事、即ち、無駄な事や無意味な事を行う様な存在が、「完全なる存在」であるとは思えない、と考えた次第です。

投稿日時 - 2013-05-02 10:07:31

ANo.12

こんばんはです。


「神は完全な存在と見做されている」のではなく、
「神は完全(な存在で)ある」は、神の数ある定義の一つです。
完全と自己完結とは同義なのだろうか?
まぁ、いいや、このことは。
自己完結の定義がないけれど、
「何か己れ以外のものを必要としない」ことを自己完結の定義としているようなので、
では。。。


○又、完全な存在が自己完結している以上、己以外の存在に対して敢えて働きかけたり、逆に己以外の存在から何らかの影響を敢えて受けたりする必要はない筈です。
◇「己以外の存在に対して敢えて働きかけたり」しない、というのは、質問者の自己完結の定義に抵触しないはず。
《自分の原理原則にのみしたがい、一方的に、己れ以外の存在に働きかければいい》のですから。《相互(可影響)的、インタラクティブの関係でなければ、矛盾は生じない》と思います。完全な存在に、不完全な存在が呼びかけても、まったく答えてくれないかもしれません。ただ、完全な存在の恣意に、不完全な存在が振り回されているだけかもしれません。


○又、必要性の無い事をする存在は、完全な存在とは言えないと思います。
◇これは、質問者の完全、自己完結の定義を明らかに逸脱しています。


○ですから、完全な存在は、己以外の存在に対して何かを働きかける事は無いと思います。
◇一方的な関係ならば矛盾しない、と考えます。また、関係性があるかどうか、このことも不明です。少なくとも質問者はこのことを明らかにしていない、と思いますが。。。
一方的な関係の例としては、
プラトンの《イデア》のような存在です。
あるいは、太陽と地球上の生き物のような関係です。
ただ、ヒカリを不完全な存在に一方的に送っているだけかもしれません。


○つまり、完全な存在というものが存在したとしますと、それは人間の役に立つ事は一切なく、人間に対して害のある事を行う事も無く、自ら動く事も、人間を含めた他の存在によって、何かの影響を受ける事も無い訳で、只存在しているというだけの存在であり、人間にとっては、何の役にも立たないものの、邪魔になる訳でもない、まるで道端の石ころの様な価値の無い存在という事になると思います。
◇太陽のヒカリは役に立ちませんか?
これはあくまで比喩ですけれども。


○ しかし、キリスト教を始め、多くの宗教においては、神は世界を創造し、人間を始めとする全ての生き物を作り出し、人間を導く存在だとされています。
 又、上記のものとは異なる性格を持つ神を信仰している宗教においても、神は人間との間に、何らかの関わりを持っている場合が殆どです。
 もし神が完全な存在であるとしますと、神にとって、その様な行為は全く行う必要のない事の筈ですから、不要な事を行っている神は不完全な存在だという事になるのではないかと思います。
◇不完全な存在の有無に関わらず、完全な存在が、みずからの原理原則にしたがった結果として、一方的に不完全な存在に与えるようにみえるのであれば、問題はないはずです。
それを、キリスト教では、神の愛というのではないでしょうか。
わたしが考えるに、キリスト教の神様は、人間に見返りなどはまったく求めていないと思いますよ。ただ、一方的に与えるだけの存在。


○この「神は不完全ではないのか?」という命題に、「キリスト教等の『神は完全なる存在』としている宗教」や「その様な宗教から1歩離れた視点から考察している哲学者」は、それぞれ、どの様な考えから、どの様な結論を得ているのでしょうか?
◇たとえば、カント。

な~んて、どうでしょう。

投稿日時 - 2013-05-01 19:29:12

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

>◇「己以外の存在に対して敢えて働きかけたり」しない、というのは、質問者の自己完結の定義に抵触しないはず。

>◇これは、質問者の完全、自己完結の定義を明らかに逸脱しています。

 「自己完結さえしていれば完全」と言えるのでしたらその様に考える事も出来るのかも知れませんが、別に私は「自己完結している事が完全な存在である事の十分条件」であると主張してはおりません。
 私には、無駄な事や無意味な事を行う様な存在が、「完全なる存在」であるとは思えません。

>◇たとえば、カント。

 出来ますれば、その類の話こそ、もっと詳しく御教え頂きたかったのですが・・・

投稿日時 - 2013-05-02 10:04:12

ANo.11

不完全な者が完全な物をみても完全に見ることは出来ません。
私達は不完全だから、完全な神の姿を見てもその一部しか見えないのです。
ある者は完全を柱の様だといい、ある者は壁のようだといい、ある者は長い棒だといいます。
宗教の教理と言うものも所詮は不完全な情報でしかありません。

仏教は創成期においてはお互いに勉学の場でした。釈迦だって涅槃に入る瞬間にほぼ完全になったに過ぎないのです。それが今では経験になり、ある程度道理として語られていますけど、まだまだ迷いの中にあり修行している状況です。
神道では教義もなく、自然を受け入れるところから入ります。神道の基本は「お陰様」ですから。
つまり両者ともに人間自身の不完全を認識し、一方はそれでも完全を追い求め、一方は完全から発生する現象を受け入れるという立場に立っているのです。

コレに対し、キリスト教を初めとする宗教は完全なものを不完全な者が解き明かしたかのように振舞っているに過ぎませんし、新興の宗教ではあたかも自らが完全を理解したかのように振舞っているということです。

まずは自分が不完全であるというところから出発しなければなりません。

投稿日時 - 2013-05-01 14:51:22

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

>コレに対し、キリスト教を初めとする宗教は完全なものを不完全な者が解き明かしたかのように振舞っているに過ぎませんし、新興の宗教ではあたかも自らが完全を理解したかのように振舞っているということです。

 つまりmichael-m様は、人間が解き明かしているのか否かには関わらず、キリスト教を始めとする「神は完全なる存在である」としている幾つかの宗教における神は、実際に完全である、という立場で御回答されておられると考えれば宜しいのでしょうか?
 そして、一見すると神が不完全な様に思える事があるとすれば、それは、神御自身が不完全なのではなく、私達が不完全である事に原因があるのだ、という趣旨の事を述べておられるのでしょうか?

投稿日時 - 2013-05-02 04:12:23

ANo.10

どの宗教でも、神は人間の心の要請に基づいてつくられるものです。ですから、人間は「神の似姿」と言うけど、本当はその反対なんですね。神が「人間の似姿」をしているわけです。(それで、時々白ヒゲをたくわえた顔で雲の上などに描かれたりします。) 「もし馬が神をつくったら、馬に似せた顔の神をつくっただろう」と言った人もいますよ。

ですから、人ごとに違う神のイメージがあって当然で、その意味では、kagakusuki 様の言う「不完全な存在」としての神もあるとは言えるでしょうね。

かつてデカルトは、「本体論的方法」(=それより完全なものが決して考えられないものは単に我々の知性にうちに存するのみならず、実在的にも存しなければならない)でもって神の存在を「証明」しましたが、後にカントによってこっぴどく論破されました。人間のつくり出したものの実在を証明するなど、どだいむりな話ですよね。順序が逆なんですから。

それでも、「人間の智恵では捉えきれないもの、人智を越えるもの」ってありますね。例えば、「万物の起源」など。そこで、哲学者たちの中には、この「人智で捕らえ切れないもの」を称して神と呼ぶ者がいます。あるいは、これを「絶対者」と称することもあります。

ドストエフスキーは、「神がなくなれば、何でも許される」(『カラマーゾフの兄弟』)と言っています。つまり、人間は、「すべてを超越し、統括する絶対者を想定しないと、自分自身を神にしてしまう」(=自己神格化)ということを言っているのだと思います。

神を想定することは、より上位の審理を求めようとする心情を抱かせたり、自己の尊大ぶりを内省させたり、人間の思い上がりを抑止したり、「人間帝国」の出現に待ったをかけたり…と、もろもろの「副収入」がある、と言えるかも知れません。

我々は、「人智を越えるもの」を、暫定的に神に仮託するわけです。
そして、人間は弱いです。人間は脆いです。人間は愚かです。

そして、人間はいつも争いをします。
「絶対者がいて初めて、人間世界は秩序を保てる」もののようです。

投稿日時 - 2013-05-01 14:47:09

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

 折角御回答頂いた処、申し訳御座いませんが、回答No.3に対するお礼文にて既に述べました様に、本質問で尋ねているのは「神は実在するか否か」ではなく、「神は不完全な存在である」という立場に立った哲学者の主張や、「『神は完全なる存在である』としている宗教」側の主張には、それぞれどの様なものがあるのかという事です。

投稿日時 - 2013-05-02 03:54:27

ANo.9

たまにではありますが、機関へ行くとき神を見かけます。

話しかけたこともありますが、神としては完璧ですね。
絶対とか完全であるとは限りませんが・・・

憂鬱になったり消失したりします。

投稿日時 - 2013-05-01 10:11:17

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

 折角御回答頂いた処、申し訳御座いませんが、何を仰りたいのか良く解りません。
 

投稿日時 - 2013-05-02 03:31:58

ANo.8

 こんにちは。

 少し観点がちがう内容の回答になりますが。


  ○ 神とは ひとり満ち足りている存在である。

 これが  そのように想定するというかたちにおける神の定義です。

 いわばこの定義が クリスマスツリーの本体です。樅ノ木です。


 そこから そういう存在なる神は

  ・完全
  ・絶対
  ・全知全能
  ・絶対者
  ・創造主
  ・愛
  ・慈悲
  ・真理
  ・無限
  ・永遠
  ・不可変性
  ・無謬性
  ・・・・

 であるといった飾りが――人間の考えるところとして――つけられて来ます。

 それだけのことです。

 ★ 神は完全ではありえないのでは?
 ☆ もし神の存在を想定するなら 人間の経験合理性にもとづき考えるかぎりでは 神は《完全である》と捉えられます。

 それがただしいかどうかの問題ではなく そのように想定しているという意味です。

 なぜ想定するのか?

 どの言語でも じんるいとしては 《かみ》あるいは《しんじる》という語を持っているからです。

 この語がまだ死語ではないとすれば 神とは何かを哲学として考えておくことになります。




 あるいはまた 神は完全であると言うが 世界はそのように成っていないではないか? と問うことは 別の話です。

 そう考えるひとは では神とは何かを 自分で定義して 人びとに納得の行くように説明すればよいだけです。



 最初の定義による神の場合には 人間が 神よ おまえは存在していないではないか? とか おまえの造った世界は めちゃくちゃぢゃないか? とか文句を言っても 神は痛くも痒くもないということになります。そういう相体性の世界を なにしろ超えている存在なのですから。

 風は気ままに吹く と言われています。

投稿日時 - 2013-05-01 08:00:30

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

 頂いた御回答内容に関して、複数の異なる解釈が成り立つ箇所や、不明な点が幾つかありますので、御補足頂けたら幸いに思います。

>○ 神とは ひとり満ち足りている存在である。

とは、「全ての存在の中で、欠けている所が全くない存在は、唯一、神だけである」という意味で、上記の定義を述べられたのでしょうか?
 もし、そうだとしますと、「唯一、神のみが完全な存在である」と言っているのと何ら変わりがない様に思えます。
 又、「唯一の完全なる存在」というのが神の定義そのものであるのにも関わらず、飾りの中に「完全」が含まれているのは何故なのでしょうか?

>それがただしいかどうかの問題ではなく そのように想定しているという意味です。

 この部分は、「『神は完全なのか、それとも不完全なのか?』という事を一切検討する事なしに、『神は完全である』と主張している」という意味なのでしょうか?

>どの言語でも じんるいとしては 《かみ》あるいは《しんじる》という語を持っているからです。

 ここで述べられている《しんじる》とは、どの様な意味での「信じる」の事を仰っておられるのでしょうか?
 「神が実在している事を信じる」、「神が我々人類を愛して下さっている事を信じる」、「神が完全なる存在である事を信じる」、「神は不完全な存在ではあるものの、信頼するに足る存在である事を信じる」、等々、様々な信じ方が考えられると思いますが、どの様な意味での「信じる」なのでしょうか?

投稿日時 - 2013-05-02 03:28:43

実力として・・・の部分は私も自分で書いていながら、このニュアンスをどう説明したら良いものかと思いながら書いた箇所です。わかりにくいですよね。
実力というのは、実際に及ぼす影響力のようなものと言いますか(絶対性と言いますか)、法則であるならそれからは逃れることができないわけで、そういった意味での実力、と捉えてください。作用する、と言った意味に近いでしょうか。完全に作用するということです。

投稿日時 - 2013-05-01 03:31:51

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

 「実力として」という箇所を「確実に機能するという点において」に読み替えて考えれば宜しいという事なのでしょうか?

投稿日時 - 2013-05-02 01:47:56

アプラハムの神は完全では無いですね。
なぜなら、キリスト教とユダヤ教とイスラム教に分かれてそれぞれが勝手に神を定義しなくちゃならない程に不完全だったからです。

ところが、大和の国の八百万の神々はひょっとしたら完全かもしれません。

八百万の神々は人間の為に世界を創ったりせず、丁度、街の野良猫達が其処此処に居るように、ただ居る。

広島や長崎の子供や老人の上に原子爆弾を落として、それが平気な人達の宗教ですから、彼らの信じるモノ、主張する事ってのは相当なまがい物だと思いますけど。

投稿日時 - 2013-04-30 23:58:55

お礼

 御回答頂き有難う御座います。
 又、私の書き方が悪く、回答者様の誤解を招いてしまい申し訳御座いません。
 私が知りたかったのは、実際に神が完全なのか否かという事ではなく、「神は不完全な存在」とする立場の哲学者の主張や、「神は完全な存在」とする立場の哲学者や宗教側の主張には、それぞれどの様なものがあるのかという事なのです。

投稿日時 - 2013-05-01 01:49:37

面白い質問だとおもいます。
神に人格に相当するものを設定するのかしないのかで、解答も変わってくるとおもいます。
もし、人格神の場合には、神にも人と同じように超え難き壁や葛藤のある事だろうと思います。
また、人格を持たない自然神のようであれば、自然界や万物の法則のように、ただ機能するだけの神という事になるとおもいます。
諸問題を抱える人間存在を、それでも完全だと言い切るのであるなら、人格神もそのままで完全であるでしょうし、法則の様に人間存在に大きく関わりはするけれども、その性質だけを論議される様な自然神の場合には、実力として完全であると言えるのではないでしょうか

投稿日時 - 2013-04-30 22:32:41

お礼

 御回答頂き有難う御座います。
 又、私の書き方が悪く、回答者様の誤解を招いてしまい申し訳御座いません。
 私が知りたかったのは、実際に神が完全なのか否かという事ではなく、「神は不完全な存在」とする立場の哲学者の主張や、「神は完全な存在」とする立場の哲学者や宗教側の主張には、それぞれどの様なものがあるのかという事なのです。

>法則の様に人間存在に大きく関わりはするけれども、その性質だけを論議される様な自然神の場合には、

 成程、確かに自然法則の様なものでしたら、ある意味において完全と言えるかも知れません。
 只、「実力として完全であると言える」という言い回しの意味が良く解らないのですが、この場合の「実力として」とはどの様な意味なのでしょうか?

投稿日時 - 2013-05-01 01:46:48

ANo.4

 >キリスト教等の一部の宗教では、神は完全なる存在と見做されている場合があるようですが、果たして神は完全な存在と言えるのでしょうか?

 まずは神を定義しなさい。

投稿日時 - 2013-04-30 22:19:55

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

 神の定義は「神は完全か不完全か?」という事を論じている論議毎に異なっているかと思いますので、その論議毎の定義に従って下さい。

投稿日時 - 2013-05-01 01:32:08

さいど、こんばんは

どんな教えだろうと神が言ったと証明出来ないし、どこにも神の言葉って書いてあったっけ?

何千年前の人が悟って人に教えとして伝わって来たものでしょう?

神が人に教えたんじゃなく、人が人に伝えて来たことです。完全も何もないでしょう。

失礼しました。

投稿日時 - 2013-04-30 21:12:16

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

>どんな教えだろうと神が言ったと証明出来ないし、どこにも神の言葉って書いてあったっけ?

 本質問は「『神が完全なのか不完全なのか?』という事に関して、人間がどの様な考えをしているのか?」を尋ねているものなのですから、「神の言葉」やそれを神が言ったのか否かは、本質問には関係の無い話です。

>神が人に教えたんじゃなく、人が人に伝えて来たことです。完全も何もないでしょう。

 私の書き方が悪く、回答者様の誤解を招いてしまい申し訳御座いません。
 私が知りたかったのは、実際に神が完全なのか否かという事ではなく、その「完全も何もないでしょう。」という立場に立った哲学者の主張や、その事を認める訳にはいかない「『神は完全なる存在』としている宗教」側の主張には、それぞれどの様なものがあるのかという事なのです。

投稿日時 - 2013-05-01 01:25:21

ANo.2

ご質問への回答にならず申し訳ありません。

あなたの疑問は尤もな話で、神を完全なる存在とするのは一神教のみです。
多神教では人間の叡智を凌駕する存在でありながらそれぞれの持ち場や欠点を兼ね備えています。
さて、キリスト教をはじめ、多くの一神教では神と対立する悪の存在があります。
多神教では暗黒神・邪神・冥王神等の神な訳ですが、
当然の事ながら一神教では神としてのポジションは与えられていません。
神は全くの善なる存在でなくてはならないのです。
ここで既に完全なる存在という考え方に破綻があります。
完全であるには善も悪も内包していなければなりません。
元々神というのは自然への畏怖と感謝という宗教観と
支配者層の血統誇示ですから後者の理由がこの矛盾した考え方の元なのでしょう。

投稿日時 - 2013-04-30 20:35:36

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

 善悪は他者との関わり合いの中で生じる価値観になりますから、「完全な存在は他者と関わらない」とした私の質問文における論述では触れませんでしたが、「完全な存在であっても、他者との関わりを許容する事が可能」という立場を採った場合においても、神は不完全である事になるのですね。
 処で、キリスト教では、
「世界を創造したのは神であり、この世に悪が存在しているという事は、完全なる善である神が悪を創造した事になり、矛盾しているのではないか?」
という疑問に答えるため
「悪とは『善なる性質が欠損している状態』の事であり、悪魔や悪人が邪悪なのは、良心等の良い性質が備わっていない不完全な状態であるためであり、神御自身が悪を創造した訳ではない」
という様な趣旨の説明がされている様です。
 この考え方を(私なりに)推し進めますと、悪は常に不完全であり、「善のみからなる状態こそが完全な状態である」という事になるかと思います。
 この様なキリスト教の考え方に関しては、私も納得出来るものでは御座いませんが、私が納得出来るものであるか否かには関係なく、この様な、「神は不完全な存在」とする立場の哲学者の主張や、「神は完全な存在」とする立場の哲学者や宗教側の主張には、それぞれどの様なものがあるのかを知りたいと思い、質問させて頂いた次第です。

>完全であるには善も悪も内包していなければなりません。

という、私が知らなかった考え方を御教え頂き、感謝致します。

投稿日時 - 2013-05-01 01:09:31

はじめまして。  ここで初めて批判的な事書きます。

偉い人、立場の人、何という人物、哲学者、有名、偉い人の考え(だけ)知ってどうなるのですか?

自分では何もしないで、実行してきた他人を評価する者。

評論家、が大嫌いです、偏見持ってると言われようと、大嫌いです。

神、宗教、御先祖、個人でを敬う事は大事です。

その宗教ってもので、ああしなさい、こうでなければならないって押し付けがましい

こと、神にでも成ったかのように言う人大嫌いです

一歩違えば、おうむ、です。

結論?自体存在するのですか?結ってなに?

(完全、絶対)、って、あの世でもこの世でも有るの?これも好きではないです、

ここで批判している自分は・・外から見たら大嫌いです。ごめんなさい。

投稿日時 - 2013-04-30 20:30:17

お礼

 御回答頂き有難う御座います。

>偉い人、立場の人、何という人物、哲学者、有名、偉い人の考え(だけ)知ってどうなるのですか?

 それでは、多数のちょっとした思い付きを述べただけの考えや、冷やかし・荒らしの類もある中から、どの様にして「神に関して深く考察された方」の考えを区別し、見つけ出せば良いというのでしょうか?
 それとも、私が質問文で述べた考えで十分で、専門家がどの様に考えているのかなど知る必要は無いというのでしょうか?

>大嫌いです

 回答者様が哲学者や宗教が嫌いという事は判りましたが、その事が本質問に何の関係があるというのでしょうか?

>結論?自体存在するのですか?

 個々の議論毎の結論の事ですから、あるものも、出ていないものも、両方ある事でしょう。

投稿日時 - 2013-05-01 00:22:03

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