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解決済みの質問

料理にみる自然と人間

私はフランスに暮らしていますが、日々、フランス料理と和食の差異を感じています。私が最も気になったのは、素材が元々持っている味をどう扱うかという点です。素材との向き合い方とは、すなわち、自然との向き合い方です。これを思想的に考えてみたいというのが設問の趣旨です。具体的にご理解いただくために、私が日仏の差について感じたことを以下に述べてみます。

フランス料理にとって重要なのは(自分で食べたり料理したりするだけではなく、複数の本を読んで調べてみましたが)、どうやらソースのようです。ソースは非常に凝ったもので、確かに一度目はハッとさせられるものです。しかし濃いソースをかけると、食材が潜在的にもっている繊細な味が塗りつぶされて、食材の鮮度は十分に感じられません。ホワイトソースなどになると、店を変えても、年中、同じものを食べている感覚におそわれます。四季や旬などというものが感じられないのです。
しかし和食では逆に、四季や食材の新鮮さを感じさせるための配慮が行き届いています。味噌や醤油は凝ったソースですが、食材の元のよさを引き出しているのであって、味を塗りつぶしているのではありません。同じ魚や野菜を食べていても、四季によって、味が変わるのが実感できます。

人工的なフランス料理と自然の元の形を残そうとする和食は、そもそも料理の方向性や発想からして違うのです。これは何が違うのでしょうか。日々、感じることをまとめた結果、私は次のように考えたのです。――西洋人にとって自然は征服するべき対象であるとよく言われます。この見方を当てはめると、フランス料理はソースによって自然=食材を征服しているのであって、素材の複雑な味わいを押しつぶした果てに生まれる、のっぺりとした味こそ、征服の証しであり、安心できる「美味」になると考えられます。しかし日本人にとって自然は共生する相手なのだから、元の味を残していた方がありがたいように感じられ、少々生臭いとか複雑な味であっても、「美味」として受け入れられるのではないか、と考えたのです。

もっとも、同じ西欧でも仏伊独の料理は違うのですから、上記の話は、フランス料理を西洋料理の代表であるかのようにみなして書いており、かなり大雑把であると言わざるをえません。しかし料理のコンセプトの違いには、人が自然に向き合う思想の問題が横たわっているのではないか、という設問の趣旨はこの例で十分説明されたと考えています。

できれば、海外滞在のご経験が長い方の回答を希望いたします。というのも、四季を通じて同じものを食べ続けないと、上記の問題点は、あまり明らかにならないと思われるからです。
しかし設問は、料理における自然と人間との関係を問うものです。したがって設問の趣旨を広く解釈し、外国料理と和食の比較という論点から離れるが、料理することが好きな方が、調理する行為を通じて見える人間と自然との関係を考察するのであれば、どのような切り口からの投稿も歓迎いたします。たとえば辰巳芳子はバシュラールの思想を自分が素材に向き合うコンセプトを説明する際に援用していたと記憶します。もちろんバシュラールは料理論を書いていませんが、私はこういう遊び心が好きなのです。既存の思想家の理論ではなく、科学と結び付けてもいいですし、ご自分の哲学を開陳していただいても構いません。ユニークな議論を歓迎いたします。
なお、この設問は思想を交えて食文化を考えようという真面目なものですが、『美味しんぼ』的に気軽なものを想定していますので、どうぞ肩肘張らずにご参加ください。

投稿日時 - 2011-03-08 03:52:21

QNo.6577593

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

フランス料理には詳しくありませんが、個人的にはマロンクリーム
(缶詰の)は日本産よりフランス産の方が断然美味しいと思います。
鮮烈な舌が少ししびれるような渋みの味わいは、日本の栗には出せ
ないのかもしれませんが、あくぬきの影響もあるんじゃないでしょう
か。

京都の生菓子のように、何度もあくをぬいて、雑味をけして、お上品
さを追求したすっきりした味はそれはそれで、素材の持ち味を洗練さ
せていくという方向で引き出していると思います。大吟醸のお米の核
の部分までけずる的なこだわり。

しかし、大地の力を感じる様な味は、いまの時代になっては逆に貴重
なのかもしれません。磯臭さとかえぐみとか酸味のような野趣は、も
しかしたら国を問わず現代人が求めている味のようなきがします。

投稿日時 - 2011-03-09 14:38:35

補足

多くの回答を頂き、大変有意義で、さてこれからというところだったのですが、先ほど、大地震が発生してしまいました。これから食うに困る人が出てきてしまうのが明白な中、悠長に食べ物談義などするのはどうかと私は思います。

大変な時ほど空元気を出してとも言いますが、私の設問欄はそういう大層なものではないのです。更に設問欄に私はフレンチなどと書き綴って、一見するとスノビズムの権化のような設問になっています。
言い訳すると、当初の予定としては、各国の料理における人と自然とのかかわりをご教授いただきたいと思ったのでした。実際、OkWaveには海外滞在が長い回答者の方が多くいることが見込めたのです。議題はまだ、転がりきらない段階でした。
しかし食べ物談義という話題はいつでも議論できます。今の私としては、地震の問題や復興支援を考え、また自分が可能な範囲で実行することに時間を費やしたく、それで、この設問欄は一端、締めさせていただくことにしました。

No13、No10など、ベストアンサーに選びたい回答は複数あったのですが、私に考えるきっかけを与えてくれたという意味で、No8の回答を選ばせていただくことにしました。良回答を投稿してくださった皆様、ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-03-11 21:32:28

お礼

栗はマロングラッセにせよ、フランス製が美味しいですね。私はお菓子については、フランスの菓子が油絵だとすると、和菓子は淡さを感じ取ることを楽しむ水彩画のようなものかと思います。

いろいろ試してみましたが、フランス人と日本人の「うまい」の味覚は大きく違うようです。ピエール・エルメのチョコ菓子に象徴されるように、フランス人は単線的に濃い味が好きなのだという結論に至りました。私からすると、あれは原材料を食べているのと変わらないような気になります。味を引き出すということについての考え方ですが、私としては、もっと複数の味のアンサンブルによって材料の良さを引き立てることが欲しいと思うのです。たとえばリキュールを混ぜて味の対比を強調したら、良質のカカオが引きたてられ、もっと面白い味にならないだろうかと思ったりします。

しかし日本人のパティシエの洋菓子をもって行くと、フランス人は逆に首をかしげていることが多いのです。味が複雑すぎてわからない、と。リキュールを使いすぎているとか、ゴマの風味は不要だとか、シンプルなものが好きなようだなと思います。また羊羹が食べれる人は、ごく稀です。特に濃いものならいざ知らず、やはり薄すぎるのですし、種類や味の微細なコントラストが判別できないようです。小豆を甘くして食べる文化がありませんから、「これは何だろう?」という警戒心も先だってあるのかもしれません。

私には和菓子の淡さは、素材が潜在的に持っている自然の味を引き出すための工夫であるように思われたのです。しかしハートマインドさんのおっしゃるマロンクリームのように、フランスのお菓子には素材を濃縮したシンプルな力強さがあると言えます。それは和食とはまた別の意味での、野趣の演出の仕方だと言えるでしょう。こう考えると、楽しみが増えます。少し見方が広がりました。

投稿日時 - 2011-03-09 16:21:20

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回答(13)

ANo.13

興味深い題材ですね。
お話としては、西洋料理が自然を征服し、東洋料理は自然を再現しようとする料理文化がある、と質問者様は感じられる中で、実際はそう単純な話でもなく、ソースは自然の濃縮、味噌は自然の改変でもある、という考えも出てきた、といったところでしょうか?


自分はあまり高級料理は食べたことはありませんが、質問者様も、高級料理に限ったことだけでなくフランスの一般的な料理についても焦点を当ててらっしゃっていますが、一方で日本の庶民料理については言及されている方が少ないように感じるので、そちらから少々考察を述べさせていただきます。

庶民料理に関して言えば、むしろ日本の料理は征服的ですらありますね。
例えばカレーやお好み焼き、すき焼きなど。
カレー自体はインドの家庭料理がヨーロッパ、イギリスを経て日本に到来した料理ですが、もはや日本独自の進化を遂げ、老若男女のほぼ全てに受け入れられる日本人の料理です(和食ではないですけどね)。
そしてお好み焼きにタコ焼きなどの粉もの。これはもはやもとの材料の味はほとんど分かりません。こってりしたソースで味を塗りつぶしてしまいます。
すき焼きも同様。関西風と関東風で作り方は違いますが共通して言えるのはたくさんの砂糖と醤油、みりんで強力に味付けしてしまいます。
にくじゃがなんかも、すき焼きほどではないにせよやはり醤油とみりんと砂糖で材料を濃く味付けし、繊細な材料の味わいなどすっとんでしまいます。

これらはほとんどが明治時代に日本に入ってきた料理が元ですが、興味深いのはにくじゃがですね。
これはイギリスでビーフシチューを食べた日本の軍人が日本の料理人に「肉とじゃがいもが入っていて茶色い煮込み料理」とだけ告げて作らせたものです。
当然料理人は西洋料理なんて知らないから和食の技術で作らざるを得なかった。
結果できたものは濃厚に材料を味付けするにくじゃが。

つまるところ、庶民に受け入れられる料理というものはフランス料理に近い、征服的ともいえる料理です。
しかし、これらは日本が西洋化した後の料理ではないか、と言われるかもしれません。
ですが、にくじゃがはまだ西洋化があまりなされてない時代の日本の料理人によって生み出され、カレー自体も明治初期から人気があったといいます。

これは強力な個性のある料理によって日本人の舌が圧倒されたのか?
否、さらに前からこれに近い料理はあります。
質問者様がほかの方への回答で仰られていた味噌ですね。
実のところ味噌ほど強烈に素材の味を味噌一辺倒にしてしまう調味料は世界的にみても珍しいといいます。
どんな具や出汁を使っても味噌汁は味噌汁になります。
味噌ラーメンなんかはラーメン業界では味噌の強力な味付け力のおかげで、味噌以外が適当でもそこそこ美味しいラーメンになってしまう反面、とても美味しい味噌ラーメンを作ることも難しい、なんて言われています。

となると、西洋は征服主義で日本は自然との融和と単純には言えないのではないか?
つまるところ、日本の料理もまた、形を変えた征服ではないかと思うのです。

前の回答で仰られている人工的な自然の再現。これですね。自然というとなんだか優しくて穏やかな気もしますが、実際のところ容赦ない死と絶望もまた自然の一部です。
しかし人工的に再現された自然(日本庭園、盆栽など)に、火山被害や地震、旱魃などはありますでしょうか?
ありません。そこには安全で人間に都合のいい自然のレプリカがあるだけです。

踏みつぶし、砕き、再構成する、金属加工のごとき征服か、狼から牙を奪い取り犬のようなペット化する征服か、
それぞれの表し方の一側面がたまたま分かりやすく西洋と日本で現れているのではないか、というのが私の考えです。
前者を再構成型征服、後者をペット化型征服、とでも仮称しましょう。

西洋では再構成型征服の形が分かりやすく出ている一方で、日本ではペット型征服が出ている。

しかし、それらは本質的には同義であるため、西洋料理にもペット化した料理があり、日本料理にも再構成型の料理がある。
その違いが生まれた理由は、比較的日本のほうが風土的に加工しなくても利用しやすい食材が豊富だったため再構成型よりもペット化型のほうが様々な面において利便性があった、そのため、ペット化型が目立っているのではないか、
つまるところ、日本料理と西洋料理の差とはこの両者の混合具合の程度の差によって生まれたのではないかというのが、今回の質問者様と他の回答者様の質疑を読んだ上で得られた考えとなります。

若輩な上に世間知らずですので的を外しているかもしれませんが、私の考えについて質問者様の考えを教えていただければ幸いです。

このような思考の場を頂き感謝いたします。
長文乱文、失礼しました。

投稿日時 - 2011-03-10 23:55:53

補足

(1)
明治以降の料理をあまり私が取り上げなかったというのはその通りですね。ただこれは理由があるのです。というのも西洋の影響を受けているものを顕著な日本の例としてしまったら、対比がうまくいかないのです。西洋の影響を受けているとわかっている食物を日本の顕著な例だとしたら、日本は西洋の二番煎じかその亜種である――という結論に、どうあっても、落ち着いてしまいます。したがって最初に選ぶ例として適切だと思わなかったのです。しかしせっかく様々な例をもってきてくださったのですから、日本人がどうアレンジしたかという観点で西洋の影響を受けた料理を考え直してみます。

外来の料理法を適応したものは、実に多くあります。テンプラは外来料理が発端となったというのはご存知ですよね。テンプラに素材の味が反映しないなどという人は、まさかいないでしょう。適度な衣に包まれて、油と合わさり、素材の味はますます引き出されます。旬の素材でも、テンプラでこそ味わえるものがあります。
しかしその元となったフッリターの衣は分厚く、ほとんど焼き菓子と言ってもよいもので、むしろ衣の方を食べるのです。以下の写真をご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC
このように比較してみると、フリッターは衣を食べるものであり素材を重視しないが、テンプラは素材を食べさせるような配慮がされていることは一目瞭然でしょう。

次に回答者から出してくれた肉じゃがですが、これは東郷平八郎がイギリスでビーフ・シチューを食べたのが発端です。さて、ビーフ・シチューと言ってもいろいろありますが、肉じゃがとの大きな違いは、煮込む時間にあります。シチューは大きな肉を入れるため、何時間でも煮込みます。しかし肉じゃがは、肉が薄切りであって、それほど煮込む必要がないものです。ジャガイモに火が通れば、それでよろしいわけです。
そこで味には大きな変化が出ます。シチューの場合、味が混然一体となり、統合されるまで煮込むことになります。しかし肉じゃがの場合は、それぞれの素材の味がわかるのです。どろっとしたスープの中で、人参も肉も、どれも同じような味一色に染まっているということはないでしょう。シチューにせよ、肉じゃがにせよ味が濃いことは認めますが、素材の様子がわかる薄味はどちらかと言われたら、肉じゃがだと考えられるわけです。実際、私は素材の味が肉じゃがでも、十分わかりますよ(作り方によってはシチューでもわかります)。

紙幅の都合があるので、二例に止めますが、こんな風に外来の元の料理と日本料理を比較すると、日本が素材の元の味を引き出すような調理方法に変化させていることが見えてくるわけです。

議論を混乱させてしまうといけないので、もう一回私の考えをまとめると、これまで私が議論を通じて考えを深めたのは、日本のことというより、むしろフランス料理のソースについてです。つまりそれは、単純に自然の征服して遠ざけているのではなく、人工的に自然を濃縮しているのであって、この技巧には人が五臓六腑で自然を十全に感じたいという欲求が、見いだせるということなのです。

投稿日時 - 2011-03-11 02:55:00

お礼

(2)
さて、しかしそれでも、自然の荒々しさを受け止めるまでには至っていないという反論があるかもしれません。つまり日本は西洋のように自然を征服してしまうのではないが、自然を飼いならしているのではないか、というご指摘です。私は、これにどうしても反対したいわけではないが、今一つ、納得いかないというのが正直なところです。

解釈の違いかもしれませんが、私は、利休の逸話については、自然を演出しているという風には考えなかったのです。むしろ自然を尊重していると考えたのです。たとえば利休に近いところから例をあげていきますが、茶碗のカイラギやヒビを愛でる発想はどうでしょうか。茶碗の表面には中々恐ろしいものもあり、さながら大地のひび割れのようです。しかし、これらがまた愛玩の対象となるわけです。また渦巻きの文様など、本来は渦潮や竜巻などの厄災ではなかったでしょうか。これも一つの好ましい紋様になります。
こうした例は、厄災を文化として反映した例がないとお書きだったことに対する反例ですが、しかしこれらは厄災をデフォルメすることで、自然を飼いならそうとしているのであって、自然の雄大さを取り込んでいるのではないという風にも考えられるかもしれません。

そこでもう一例、上げますが、雷神と風神の恐ろしげな姿は、いかがですか。それらは自然現象の脅威を反映して、あのように恐ろしげな様相をしているわけで、東洋的には、守り神という位置付けになります。しかし西洋的に見れば、間違いなく、悪魔に分類されるでしょう。
実際、風神と雷神などのモンスターの説明を西洋人にするのは難しいのです。私はフランス人に雷神の置物をお土産に選んでしまった際、どう説明するか困り果てました。フランス人からみれば、雷神の恐ろしい顔は、それが邪悪な思念を有しているからに他ならないでしょう。しかし実際は、自然現象の恐ろしさを体現しているからなのです。私はフランス人的な発想をし始めたら、なぜこんなおっかないものを我々日本人が愛好しえるのかと考えて、よくわからなくなってしまいました。愛好するなら微笑んでいるマリア様の像の方がいいわけです。しかしそうではないのは、自然に対する畏怖の気持ちがあり、その雄大さを尊重したのだと思うのです。

>比較的日本のほうが風土的に加工しなくても利用しやすい食材が豊富だったため再構成型よりもペット化型のほうが様々な面において利便性があった、そのため、ペット化型が目立っているのではないか、

気候風土の話は、私がpsytexさんへのお礼欄で「異論がない」と書いてしまいました。しかし、元の文章をもう一回読みましたが、あれはジャポニカ米の話です。ジャポニカ米の性質からして、水かないと育てられないのはわかります。しかし西洋には麦があるわけで、米がなくても農耕は成立します。そしてフランスは農産国として名を馳せています。国土が日本の方が豊かであるとは言い切れないな、と思うのです。
そして風土の対比というと、ともすれば農作物がなくて放浪する狩猟民族の西洋人vs農耕民族である日本人ということになってしまうようだけれども、一体、何千年前の話なのでしょう……。舌の遺伝子に何か残っているのかもしれませんが、本当にそう言い切れるのでしょうか。料理方法も、何千年前から変わっていないはずはなく、近代のフレンチのレシピが作られたのは、やはり、ここ二百年のことです。だから私は風土の話は、ちょっと慎重なのです。そういう要素もあることは見過ごせませんが、バランスをとって考える必要があると思うのです。

投稿日時 - 2011-03-11 02:46:39

ANo.12

仁科です。

私は恥ずかしながら実家に寄生していますが、日々、社会人と無職の差を嘆じています。明日が最も気になったのは(中略)……生物が各々持っている命をどう扱うかという点です。生命との向き合い方とは、すなわち、自身との向き合い方です。どれも風土的に考えてみたいというのが和辻の哲郎です。具体的にご解していただくために、私が日比野さんについて感じたことを以下に述べてみます。
ブラジュロンヌさんにとって重要なのは(……略)。

(自分で書いたり閲覧したりするだけではなく、複数の麺を噛んで含めてみましたが)どうやらソースのようです。ソースは非常に凝ったもので、確かに一目ではハックしかねるものです。しかし良いソースを書かないと、情報が不可避的に持っている細部も吹き飛ばされ、サイコロさんが転がるサイトの細部も十分に表示されません。ホワイトべースなどになると、位置を変えても、年中、同じところに浮いている感覚におそわれます。指揮官やシャアなどというものが信じられないのです。

しかし私はついに、体や心の健康を停滞させるための食事を書き始めています。カレー味や醤油味のカップ麺もありますが、お肉が入っていますそれらは母のフラッシュバックを引き出してくるのであって、見れば動物をつぶしているではありませんか。
母は魚や野菜ばかり食べていて、トラウマによって肉を食べることが実際できません。シーフードヌードルしか食べられない母は昔、首なしの鶏が駆けるのを見て以来お肉を食べられません。だからというわけではありませんが、私は引きこもりながらも春ごとに稲を植えてきたのです。

廃人的な私の料理と、人間の素(す)の尊厳を保とうとするヒューマンフードとはそもそも料理の方向性や発想からして違うのです。これは何が違うのでしょうか。日々、感じることをもとめた結果、私は次のようなものを噛んでいるのです。

――私にとってカップ麺は、まず濯ぐべきものであると認識されます、あの粉末を水に流すと。カップ麺はその粉によって健康=気の流れ=血流を阻害しているのであって、毛細血管の煩雑な細部を埋めつくした果てに生まれる、ぷっくりとした瘤こそ、血栓のしるしであり、安心できない「痺れ」になると考えられます。
しかも東北人にとって塩分は多用する調味料ですから、塩味を濃くしてもありふれたように感じられ、少々しょっぱいとか味が濃すぎるとかしても「普通」として受け入れられ、脳卒中も半身不随も寝たきり状態も頻発すると考えられるのです。

もっとも同じ東北人でも私の体は無職ですから、常軌の人は、人間の日常を労働の繰り返しであるかのようにみなして生きており、かなり他人事であると言わざるをえません。
しかし肉体のコンセプトの違いはなく、私が社会に向き合う物腰の問題が横たわっているのではないか、という私的な課題はこの質問から若干外れていると考えています。

できればカップ麺には納豆ごはんを投入いたします。というのも、四季を通じて同じ自分を生き続けると、味の問題点は、あまり明らかでなくなると思われるからです。
そこへマヨネーズを加えてはなりません、粘着力が異常に高まり舌触りも歯ごたえも味もどん底に陥ります。

しばしば付いている醤油は、発泡スチロールパックの納豆と親密さを持つものですが、捨て去って、納豆には牛乳を加えて撹拌し、牛乳によって納豆の臭みが和らぐのです。

外国料理と和食の比較という論点から離れていますが、廃料理を好む私が調理を通じて見える自分と食と命の関係を記述するのであり、このような切り口からの回答を投入いたします。
たとえばこの牛乳納豆ごはん麺は薄い日々でも素敵にねちっこく生きるモチベーションを保つ為に常用していると記述します。

もちろん納豆菌(ナットゥ・キナーゼ)は熱に勝てませんから、私はカップ麺の汁も捨てるのです。既存のカップ麺の熱っぽくふしだらな不健全に堕して美味しい汁は啜らず、代わりに優しく冷ややかな牛乳をさらに加えてもいいですし、ご自分の哲学を開陳していただいても構いません。

果たしてカップの中には麺に牛乳に納豆に少々のごはんにが踊りくねり、舌と踊るカップにゅるにゅるどるにてございます。にゅるにゅるな味を保証いたしてございます。

おお、この塩分が薄く食感も非常に非常なものを噛み、生きに生きようという真面目な私ですが、食べながらどうにも『オナニー後』的な濁りものを想起してしまい、食が進みすぎて過食に陥り、長い餓鬼のような体に使われない熱が溜まり、腹ばかり張り胸も肩肘も張れず、そのうち死ぬのを待っています。
どうしたものでしょうか。

あっ地震

投稿日時 - 2011-03-10 06:24:40

お礼

この回答は私の設問文のパロディをしつつも、概ねでは、「廃料理」というものを糧にしている俺をどう思うか?お前の考えの中には俺のようなものは考慮されていないだろう?という問いかけであるようです。ただ他人のことを説明すると冒頭で予告しているのは、趣味がよくありませんね。

そして私はこの設問で他人の食事を覗き見て、批評する気はないのです。カップラーメンをアレンジして食べることが、回答者の好みに合うなら、それで結構ではありませんか。そこに思想があれば、私としては関心があります。しかしそれは、あくまで当人が明晰に言語化した上で話が進むことです。私が批評したり、分析したりして、引きだすことではないでしょう。仮に廃人だから廃料理なんだね、などと言われて嬉しいわけはありません。廃人をやめるためにうまいものを食おうと言っても、ウザったいだけでしょう。どういう話し方をしても、生産性はないと思います。

要するに、ここは人生相談をするところではないのです。「そのうち死ぬのを待っています」「どうしたものでしょうか」と問われても、私は答えるべき相手ではありません。問うにあたっては、適切な時と適切な相手を見つけてください。

投稿日時 - 2011-03-10 13:40:01

ANo.11

食文化を始めとする 文化≒環境 が思想を決めるのか、思想がまず先にあって食文化や他のあらゆる文化が決定されるのか、という問題でしょうか。

計画・予測能力に優れ、未来に生きる理知的な西洋人の親子関係は日本と比べるとどのようなものか、まったく興味がないわけではありません。

およそ質問文にある思想は妥当であるだろうから、あとは「なぜ西洋人は自然を征服しようとする傾向が見られるのか」ということに焦点が絞られるのではないでしょうか。



自分自身のことについて言えば、塩と水にこだわるだけで、食材や味はたいして気にしていません。

投稿日時 - 2011-03-10 01:49:40

お礼

議論の進行に関する鋭い指摘ですね。

卵が先か、ニワトリが先かという議論については、まだする段階ではないようです。これをやるためにはフレンチが成立した時期を振り返る必要があります。
フレンチは元々、今の形ではなく、大食がグルメだとされていました。ルイ14世が公開で食事していたように、手づかみで、とことん食べに食べるのが、富裕の証しだったのです。しかし、ナイフとフォークを使って濃い味を定量食べるという風に変化し、現在のコースというものが発明されました。これが完成し始めたのが、19世紀に差し掛かるあたりです。
そこで饗宴外交を行った外相タレーランだとか、『美味礼讃、味覚の生理学』で有名なブリア・サヴァランをはじめとする美食家たちの言説をまとめると、卵と鶏の問題について回答できるかもしれません。またバルザックだとかデュマという大食漢の美食論を参照してもいいでしょう。が、ちょっとこれは私一人でやると手にあまりそうですし、OkWaveでやる範囲を超えるでしょう。それよりは、誰かの研究書を参照してもらった方がいいかもしれません。

しかし、西洋人が征服しようとする理由については、No10のお礼欄で私の見方を整理することができたと思います。それは一言では、西洋人の美学体系に関連するものです。つまり西洋人の美学体系にあるイデアという考え方によると、人間が手を加えて自然のエッセンスを抽出しない限り、美は完成しないのです。この抽出が、フレンチのソースではないかと考えたのですが、イデアとは四季だとか、状況だとかに左右されないものですから、当然、季節は反映されません。したがって、エッセンスの生成は自然を愛する一つのやり方ではあるが、自然を征服する所業であるとも言えるでしょう。

塩と水にこだわるとは、通ですね。全部の料理はそれで左右されますから。こうした基本にこだわるのは、何か哲学があってのことですか。

投稿日時 - 2011-03-10 04:09:24

ANo.10

お邪魔します。

私は海外にほんの一瞬しかいませんでしたし、そうした自分が書くのも気が引けます。また、浅学なので黙ってこのQAを見て勉強しよう、答えは10年後辺りに自分の中で出そうと思っていたのですが、ついつい興味を抑えられずに書き込む事にしました。
また貧乏なせいでフランス料理はおろか、その他高級料理は口にした事がございません。
(先日生まれて初めてでのすきやき・しゃぶしゃぶを食べたくらいです。しかも外食チェーン店だった。)
これも全てリーマンブラザーズのせいか、私が美味いもんを食えずに粗衣粗食で健康なのは新自由主義が暴れまわったせいかコノヤロ、と関係無い所に八つ当たりをしており・・・とそれはさておき、回答させて下さい。色々と不足する所があるかもしれませんが、ご容赦下さい。

食は人間の本能に根ざすものなので、それを美味いと感じる感覚と、そこからフィードバックを受けて改善される料理については、普通に考えればどこで作られようが本来同じ道を辿る筈である。しかし、どうしてこうも各地域で多様に派生するのか。その違いの根本原因は何か、更に追ってその変化を起こす起点は何になるか、という内容で、この質問を私は捉えました。

1.風土との関連性

これは飽くまで私個人の考え方なのですが、人間が固有の文化を発達させる時、風土が起点になると考えています。
人間が住む土地の風土が、生活する人間に制約や利益をもたらし、そこで実施可能な文化を成熟させて行く。
風土が文化を作り、文化が思想・哲学・宗教・言語・国家(社会)を作る。これらが更に互いに影響し合い、時代の経過と共に絡み合ったツタのように一種の模様を刻んで行く。その中の複雑な軌跡を描く曲がりくねったラインに、衣服・住居(建築)・食事(料理)・職業などの文化的様式を見出す事は容易だと思います。

一見食事は、食欲の本能によるものなので、人類が共通で持つ「あれは美味しかった」「これはまずかった」というフィードバックが料理になされる事については容易に考える事ができると思うのですが、これだけでは、好みがはっきり分かれる件のフランス料理のソース等の説明ができません。

動物行動学(エソロジー)によれば「動物は仲間と認識しない個体とは絶対に一緒に食事を取らない」との事で、逆に言えば仲間内であれば食事を取る事になるという事です。

私の意見としては、
・本能に根ざす行動が、例え動物であっても結果的に群としての社会的行動に結びつくのであれば、その行動様式が食事に、特に人間であればひいては料理に影響する。
・人類共通の感覚を著しく乖離する文化様式については、その地域社会での風土から発達した文化が、食事と料理に影響を与えている。
と作業仮説をここに立てて考えています。

それでは、どのような文化が日本料理に、そしてフランス料理に影響を与えたのでしょうか。

2.思想

欧米では実存主義に代表されるように、「この世界での主人は人間なんだ」という思想とそれを生成する土壌はありました。日本でも同様に本居宣長が「人間が禽獣と違うのは道徳性の有無」と人間が特別であるという位置づけをしてはいるのですが、根本的な思想的差異が両者に見られます。少しこの辺りを別角度から追っていこうと思います。
風土から派生した文化は衣服・住居(建築)・食事(料理)・職業と前述しましたが、食事ではなく建築、もっと言えばその造形が見られる庭園を比較に出してみようと思います。

欧米での庭園は、平面幾何学的模様が製作時に選択されています。こうした人間理念を実現した形を受け入れる土壌があるので、料理も平面幾何学的な味付けを食事の際に愛し、そしてそれが最善なのだろうという思想から、料理に反映する。
また日本の庭園では、自然を再現する庭園となっており、千利休は
「秋に庭の落ち葉を掃除していた利休がきれいに掃き終わると、最後に落ち葉をパラパラと撒いた。「せっかく掃いたのになぜ」と人が尋ねると「秋の庭には少しくらい落ち葉がある方が自然でいい」と答えた。」
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic21.html
のだそうで、わざわざ『人工的に自然に戻す』。
この点が異ります。

字数が足らなくなってきたので、急いで対比をまとめますと、
・求める文化が『人間の構築しうる理論』なのか『自然への回帰願望』なのか。
・『知識の体得による理解』なのか『本能による信仰なのか』
・思想の中心が『人間』なのか『自然』なのか
という所でフランスと日本は違うのではないのでしょうか。
尤も、思想の中心が『人間』という考え方は、構造主義の登場により衰えていったと聞きます。

何かもっと書けそうな気がしますが、今日はこの辺まで。字数がギリギリです。

投稿日時 - 2011-03-10 00:55:34

お礼

どうもありがとうございます。お話は多岐にわたっていますね。どれもコメントのし甲斐があるものばかりですが、最後の箇所を参照すると、次のようにまとめることができそうです。少々の飛躍はお許し願わないとなりませんが、
・日本人は、利休の落ち葉の逸話のように自然への回帰を志向するのであって、自然を中心に考えており、また本能に訴えかける食事を好む。
・一方、フランス人は、実存主義という思想が生まれたように、人間中心主義であり、本能よりも理性に訴えかける食事を好む。
――というところでしょうか。

本能や理性に訴えかけるという点で、私は広げて考えてみたことがあります。これはNo8の回答にお礼をつけた後に思い当たったことで、この回答を読んで書いてみようと思ったのです。
まずNo8の回答で思いあたったのは、フランス料理の強烈なソースは、単に重いのではなく、原材料の濃縮を目指しているのではないかということです。実際、ソースを作る際に、手間暇かけて素材の味を強烈に出すことにかけては、フランス料理に勝るものはありません。ブロッコリーのソースはブロッコリーの味が実によく濃縮されています。しかし味噌や醤油は、原材料とは別のものに変容しています。元の味を忠実に出しているのはフレンチです。
こうした濃縮の発想は、リキュールや蒸留酒などとよく似ているといえるでしょう。そしてそうであるとすれば、ソースはリキュール同様、素材のエッセンスを抽出しているのです。その結果、ブロッコリーのソースは、元のブロッコリーよりもさらにブロッコリーらしい味を実現しているというわけです。

このように考えると、ソースは素材のエッセンスというのみならず、イデアと呼んで差し支えないものだと私に思われたのです。つまり、自然界にはない理想的なブロッコリーの味を人工的に実現させたという意味です。
さて、イデアというと、元々プラトン的にいえば、理性や論理によって認識されるものであり、本能や感覚のものではなかったということになります。そしてこう考える時、人間の手が加わらないと美は完成しないのです。しかし日本における美学はイデアとは別のものです。つまり、侘び・寂のように感覚によって感じるものが美であるわけです。実際、利休が落ち葉を散らしたのは、自然そのままの姿を受け入れる心ができていたという以上に、自然に完成された姿を見ていたからなのでしょう。

最後に少し脱線しますが、私は素食が好きです。フレンチだのと書いて癇に障ってしまったと思いますが、むしろ私は素食が自然と向き合う最良の道だと思っていました。素のままだと、季節を一番よく感じることができますから。しかしフレンチはイデアと書きましたが、考えてもみれば、四季だとか、状況に左右されるのはイデアではありません。四季が反映されないような形をとって、それで逆に自然を純粋に抽出したという意味で、好ましいのかもしれません。どちらも最終的には自然を身体に取り込んでいるのですが、随分と違ったプロセスだなと思います。おそらく他にも、様々な文化があるのでしょう。知ってみたいものだと思います。

投稿日時 - 2011-03-10 03:32:45

フランス料理と日本料理(宗)の違いは、
他の回答者の方々から
説明が御座いましたとおり、間違いないと思われます。

哲学カテでの質問ですので、
哲学にひきつけてまとめますと=

おフランスでも、日本でも、料理人は職人です。

フランス料理の料理人は、食材を変化させる。
レシピの伝統(書)を中心として、
料理の職人としては、今風に味付けする。
また、見た目・見栄えを作り上げていく。
日常からの遠ざかりで「形式的な味=
雰囲気」をだす。

日本料理の職人は、修行を通じて、食材に添った形で技を磨いていく。
伝統のバリエーションは食材の味(日常)を生かした形で作り上げられる。

ということですが・・・

更に違いがあります。

修行などしたことのない日本の「お客さま」は、
料理が出来ないのに いいたいほうだいの「いちゃもん」をつける。
しょうゆという万能調味料の弊害として
(さらには、極端に「秘密のレシピ」がすくないという理由から、)
客は、『漬物wwwや刺身の塩加減を決めるのが[自分]なので』
結局
「味を決めるのは俺さま!(さもなくば量子wwwである)」と勘違いしている。
料理人にアレコレ聞き取り調査をしたがるくせに偉そうである。
変なうんちくの無駄話が多く
「俺のこのみを認めろ!」とやたらうるさい。
レストランに犬(ホッチけんwww)を連れてきたり「やたら臭い客」がおおい。
技術はないのに自分のほうが「立場がうえだ」と思っている。

フランスの客は、
自分はプロの料理を作れないと自覚しているので、文句が少ない。
料理は、他人が自分にしてくれるサービスであると自覚しており、
代金は寄付・場代であると割り切っている。料理が気に入らない場合は、そのレストランに行かないということで、非感情的に対応する。

最悪は、
「フランス料理かぶれ」の癖に、
玉ねぎもろくに炒められないのを棚に上げ・・・
一番嫌なタイプの「日本人の客」のまねをして、

通りがかりの人に「おまえはばかだ!あほがおおすぎる!
         フランス料理を食べろ!と
道端で偶然拾った(具材がないので試したこともない)レシピを売り歩く臭人(しゅうじん)
そういうひとが、いちゃもんをつける「自称グルメ料理人」であるボケ老人(男性)
ということです。

補足の質問です。
うまくもないフランス料理をありがたがるのはかってですが、
なぜそれを他人におしつけようとするのでしょう。
まず風呂に入って、自分の悪臭をとってから、話しかけてほしいものです。

あとフランス料理かぶれの老人たち(男性)は、
吐く息も臭いので入念に歯を磨いてから話をはじめてほしいものです。

投稿日時 - 2011-03-09 22:19:26

お礼

八つ当たりは歓迎できませんね。wとは何でしょう。いや、意味くらい調べればわかりますが、何の理由で挑発したいのかがわからないですね。そして、「フランスの客は、自分はプロの料理を作れないと自覚しているので、文句が少ない。料理は、他人が自分にしてくれるサービスであると自覚しており、代金は寄付・場代であると割り切っている。料理が気に入らない場合は、そのレストランに行かないということで、非感情的に対応する。」などと述べた根拠は何なのでしょう。

いや、聞かなくても結構です。統計があるわけではないから、根拠の示しようがないことは明らかです。回答者には、フランス人かフランス料理の日本人シェフの知り合いが数人いるかもしれませんが、個別の問題というだけであって、一般化できることではないでしょう。ただ私の知るフランス人は料理が得意だと申し添えておきます。また犬を伴う来店は、フランスの方が多いようです。そして私の設問欄では、イメージに基づいて断言するとか、他人を批判する投稿は極力、お断りしています。

最後に直接書いているわけではないが、私が料理の出来ない老人だと暗におっしゃって、諭しているように読めますね。それなら、それはそれでよろしいです。むしろ老人だと思われたのを光栄に思うべきかもしれません。いや、正直、実に愉快です。
しかし、私と批評家然とした日本の老人一般の話をしたいのなら、場違いです。私にとってはご老人も大切な回答者だからです。したがって補足質問に答えることは何もありません。お引き取り下さい。

投稿日時 - 2011-03-09 23:45:36

以前に会席料理で南天の葉を添えた料理をいただいた事がありました。
器と品と添物が一つになったきれいな料理でした。
見事なまでにつくられたその料理には、少々箸をつけずらい感じさえしたものです。
南天の葉は夏には真緑ですが、秋から初冬にかけては少し赤味がさしてきます。
その微妙な色合いが良かったのを覚えています。
「緑はしれり」という料理には、爽やかな夏のもみじの葉が添えられていたかもしれない、などと思ったりもします。

会席料理をいただいた料亭に長年出入りしてしている庭師さんと知り合いなのですが
そちらから聞いた話ですが、
植木の剪定をしていると、下に落ちた枝を板前さんが来てよく拾っていくそうです。
じっと枝を見ている事もあり、仲々熱心な感じがするそうです。
きっと頭の中では料理との組み合わせを考えているのかもしれませんね。
庭師さんから、ちょっと深い話を聞いた事もあります。
松竹梅、とよく言うけれども
それぞれに全く別な美しさがあって素晴らしいのだそうです。
日本的というか、それぞれに独特の品格があっていいという話でした。

日本の自然が育んだ感性から生まれたものは、みな素晴らしいようにも思います。
それは料理の味にさえ組み合わされているのでしょう。
慣れてしまって、あまり気付かなくなっているのかもしれません。
ご質問者様のように外国に住まわれて、比較できてこそ分かるのでしょう。
ご参考になさってください。

投稿日時 - 2011-03-09 14:26:48

お礼

「緑はしる」は料亭の料理ときましたか。南天の葉を添えた碗は美しかったでしょうね。そしてこれは秋のようですが、なるほど、夏の葉をつけ合わせても、緑はありますね。私のイメージでは、「はしる」という語感から、夏の山菜を盛りつけた鮮やかさだろうかと思いました。そして空想を膨らますと、私は自分が子供の頃に、山に分け入って、タラの芽などをとったりしたので、「はしる」の語はそのまま「(素材を用意した者が)走る」という連想に結びつくのです。やはり食卓で「緑はしれり」という表現は特異ですから。食卓で顔を合わせた子供の顔が「緑」にまみれていて、微笑ましかったとしたら、温かい食卓だろうなと思えます。

私がこうした発想をしたのは、料理人が考え抜いた季節感を食べるより、自分が季節感を演出することに関心がいっているからかもしれません。魯山人は季節感を大切にしたわけですが、彼は「普通の感覚」を強調していました。それは、たとえば「今日は秋晴れだから茄子を食ったらうまいだろうな」という日常的な気持ちであって、これは理屈では培えないというのです。季節感を出すには、葉を拾ってのせる演出のみならず、小物や花を季節のものに変えるなど、食卓に季節感を出す方法はいくらもあるでしょう。しかし、こうした楽しみは、日常的に、我々がしていることではないでしょうか。だから私は、料亭の非日常的セレモニーを特権化するのは、あまり関心がないのです。やはり日常的に、自分たちが食事を準備する際に何をしているかを基盤に考えたいと思うのです。

話は変わりますが、偏りがあるといけないので書くと、フランスのサラダにも、夏の様相は反映するのです。しかし市場流通が活発な現代だからということでしょうが、夏でこそ、この野菜というのはあまり感じません。いつでも手に入るからです。この時期は野菜が美味いなぁという風に質が変わったり、値段が安くなると感じるくらいです。むしろ季節を感じるのは果物の方で、たとえばサクランボです。パン屋さんでサクランボのタルトが出てくると、もうそういう時期なのだなと思います。――しかしこうした食材をめぐる流通の状況は、日本も似たようなものがあると私は感じたりします。

投稿日時 - 2011-03-09 16:16:05

ANo.6

お呼びじゃないですか?

投稿日時 - 2011-03-08 23:19:19

お礼

どうぞ、歓迎しますよ。どうもあなたは面白い人だと思ったのです。ただこれは食べ物談義なので、あなたのツッコミ芸というべき面白さが発揮されるテーマか、心もとないところです。私もボケ役が下手ですからイライラさせてしまうかもしれません。でも食事は誰もが毎日しているものですから、語る材料はいくらでもあるでしょう。

投稿日時 - 2011-03-09 03:34:50

星野立子の俳句に

美しき緑はしれり夏料理

という句があります。
和食には、味だけではなく、見た目にも自然から得た美意識が深くあるように思います。

投稿日時 - 2011-03-08 21:19:09

お礼

そうですね。別の例を上げると、和菓子など、自然の姿を抽象的な形にしたものが多いですね。名前もまた、そうであるわけですが。

よかったら、「緑はしれり」というような料理に出会った経験を教えてください。あるいはご自身が料理する際の哲学や美意識などを語ってください。

投稿日時 - 2011-03-09 03:31:35

ANo.4

日本文化の根底にあるジャポニカ米稲作農耕文化(協調性(A型)=土地に定着し田植えや収穫時に共同作業する)のもう1つの特徴は、自然環境に従う事である。
気候に強く影響されるのは、農耕文化一般にいえることである(もちろん遊牧文化(B型)や狩猟採集文化(O型)も影響されない訳ではないが、そこには選択的能動性(草を食べ尽くしたから雨の降っている草の多い方へ移動しようといった)がある)が、特にジャポニカ米は、最古(7千年前)のジャポニカ米遺跡が揚子江下流の湿地帯であるように、基本的に(少なくとも苗の時期は)水に浸かっている必要があり、その伝播経路は、初夏に雨季を伴い成長後は充分な日照の得られる、温帯モンスーン地域(日本~中国・江南地方~雲南~ブータン)に限られているほど、自然環境による選択性が高い。

俳句が季語をとり、美術が花鳥風月を題材にし、日本庭園が自然を模写するように(西洋庭園は幾何形)、日本文化は自然と渾然一体となる指向がある。
日本料理も「旬」を大事にし、素材の味を季節感として味わうことに重きをおいている。
そこが、料理人の技(調理法)に重きをおく西洋料理との違いである。
日本文化が、自己主張より協調性を重んずる延長に、自然との調和(素材の味を楽しむ)があるのであろう。
(そのベースには、ジャポニカ米の栽培を可能にする雨量と日射の豊富な環境の、自然の恵みの豊富さがある)

投稿日時 - 2011-03-08 17:52:01

お礼

おっしゃることはごもっともです。何の異論もありません。しかし設問はジャポニカ米という品種のことより、いうなれば料理の仕方を考えているのです。私が無学なのかもしれませんが、率直に言って、設問とどう関係させて考えてよい回答なのか、わかりませんでした。

暴言かもしれませんが、私としては、マメ知識は調べてわかっているので聞かないでもいいのです。場合によっては、私の方が詳しいが、黙っているだけということもあるのです。ではなぜ質問しているかといえば、生きた経験を聞きたいからです。そこで知識や理屈で武装した回答者が来ると、どうしていいのでしょうか?という戸惑いを感じます。
しかし食事など、毎日するものですから、人それぞれ哲学があってよいものだと思います。無自覚に食べている人にとっては、「何をこいつは聞いてんの?」ということになるでしょうが、話題の設定として、私としては無理なことを言っているとは思わないのです。

たとえば米料理と一口に言っても、フランスでメジャーなのは、何と言っても、プディングに甘く味付けした米を入れるものでしょう(Riz au laitという名前)。「そんなゲテモノが食えるか」と米を食べる文化のあるアジアの友達は言うのですが、案外、これは美味しいです。食感はおじやに似ていますが、甘く味付けし、イチゴまでのせてしまう発想は、日本には無いと思います。逆にしょっぱいとか、酢でしめた米がフランス人には、簡単に想像がつかないようです。Riz au laitは私にとっては思い出のある料理です。

さて、psytexさんのプロフィールを拝見すると、海外在住のご経験が長い方のようです。ご回答を読むと、全般的に、ご自分の経験は一切書かないということを貫かれているようですが、私にしてみると非常にもったいない気がします。よかったらブータンやケニアやソロモン諸島などで、料理はどうされるのか、それは彼らの自然との向き合い方を反映したものなのかを、教えていただけないでしょうか。私としては実に聞いてみたいのです。

投稿日時 - 2011-03-08 18:42:03

ANo.3

kigurumiさんの回答にポチ。

投稿日時 - 2011-03-08 12:31:32

お礼

今度はあなたのご意見も聞かせてください。

投稿日時 - 2011-03-08 14:56:30

ANo.2

まあ、細かいところは置いておくけど、
フランス料理でソースが発達したのは当時新鮮な材料が得られなかったためと何かで読みました。
鮮度が落ちたり、腐敗に近づいた食材を調理するには香辛料やソースの力が必要だったのでしょう。ついでに言うとそれを流し込む赤ワインも必要だったとのことです。

ただ、フランス料理をのっぺりした味と言うのはちょっと危険な気がします。
フランスで何回くらい食事をしたでしょうか?

逆の立場で言えば、海外の寿司を何百回食べても、日本風の料理を何回食べても
本当の日本料理の味わいは分からない訳です。

3大料理に数えられるフランス料理はそんなものなのでしょうか、
フランス風料理で判断しているとしたらちょっと失礼かもしれません。
もしくは嗜好の問題かもしれませんし。

私はちゃんとしたフランス料理を食べたことがありませんので、見当違いなことを言っているかもしれませんが、
食材を補う方法としてのソース、乏しい栄養を補うための大豆食品などはいずれの自然と向き合った人間の技だと思います。

私の思い過ごしかもしれませんが、それも含めて「分かったつもり」は危険だと思います。

投稿日時 - 2011-03-08 11:02:24

補足

寿司を何度食べても汲みつくせないものだとおっしゃいますが、私も日本にいた時は同じことを考えました。しかし比較対象をもつと、明らかになりやすいということがあります。これは何に対してもそうだと言えます。たとえば同じ作家の作品だけ読んでいると汲みつくしきれないという意味でわからなくなってしまうが、他の作家と比較してみると、「大雑把に言ってAという作家の特性は~~である」などとわかってくるわけです。

かくして和食を理解するためには、外国料理との比較もまた、一つの理解する有効な手立てであると考えられるでしょう。そこで外国料理の比較検討という観点で投稿するのなら、海外在住の経験がある方の回答を、と書いたのです。

ご回答では謙虚に書いてらっしゃるが、実はフランス料理のスペシャリストであるということでしたら、どうぞ、この料理はどうか?食べたことがないだろうな?などとおっしゃって、私の愚昧な考えを払拭してください。

投稿日時 - 2011-03-08 19:00:26

お礼

残念ながら、設問の趣旨をご理解いだけなかったようですね。まず私はフランス料理が自然に向き合っていないとは書いていないのです。自然に対する向き合い方が、和食と違うと述べているのです。

そして私は、フランス料理なるものを、毎日食べているのです。「フランス料理」というと超豪華な料理を思い浮かべてらっしゃるかもしれないが、これは間違いで、フランスの庶民的な料理を工夫して、お祝い事やもてなしにふさわしく豪華にしたものがフランス料理であるようです。作れと言われたら、材料費を落とすために珍味を使わないことにすれば、私でも作れるでしょう。

また、なるほど香辛料が必要だったのは、鮮度の良いものが手に入らなかったからですし、そのために香辛料の値段が高騰したのは有名です。おっしゃる通りです。
しかし現代では、交通網が発達しているから、料理の方法が変わってもいいはずだ、とも思えるのです。それに日本にせよ、昔は人が走って食材を運んでいたわけです。常に新鮮であったとは思えません。しかし料理に旬を反映させたのが和食であるわけです。季節を料理に反映させるとは、どの時代でもどの国でも、物凄く大変なことであったはずです(魯山人は野菜の鮮度を重視し、注文を受けてから引っこ抜いたという逸話があるほど)。この差には、根本に思想的な問題かあるのではないか――と私は考えたのです。

大体、アリストテレスにおいて、料理は化粧と同じく、まやかしの術なのです。「まやかし」とは、元々は食べれたものではないものを、ソースの味によって食べさせるということでしょう。別にアリストテレスは料理を論じているわけではありませんが、こういう発想を彼が抱くに至った理由は、元々鮮度や旬を度外視する調理方法が発達していたからだと思えるのです。こうしてみると、設問文の繰り返しになりますが、自然を征服することが、彼らの自然に向き合う方法だと私には思えてくるのです。それが悪いとは言っていません(私も毎日食べているフランス料理を嫌いになりたくはありません)。ただ思想的な違いがあると分析したら、面白いのではないかと考えたのです。

投稿日時 - 2011-03-08 14:55:37

ANo.1

読んでいて、キリスト教と神道の違いのようで、「食に関する深い考察だが、全てに通じるなぁ」って思いました。


えっとキリスト教がどうして日本で普及しなかったのか。
考えてみれば、日本人は自然を神とし、畏怖しつつも、自然の恩恵を知っており感謝して利用してますよね。
木目とか、ニスで塗りつぶさない自然を生かした家具と、塗りつぶした家具。

塗りつぶした方が綺麗にみえますが、地の味を生かした趣のある家具 とは言えないですよね?
別物に変えてしまうわけですから。


キリスト教ってのは、各地に入り込む時、その土地にあって崇拝されている自然神を悪魔とした。
そして自分達がもってきた新しい神を本当の神だとして、塗りつぶしてしまった。

いろいろな価値観の違うものがあったが、これだけですって全部塗りつぶして新しい色に染めてしまった。
染めることが可能だったので、染まってしまったのだと思う。


日本の場合は、神は一神だが、時と場合によって現れる面が違うと知っているので、八百万の神々 つまり たくさんの面を持った神という概念を持っている。

太陽は植物を育て、私たちにその恩恵を搾取することをゆするが、時には晴天続きで植物を枯れさせてしまう面も持っている。
で、マイナス面の時は、畏怖し、恩家をもたらすときは感謝する。

自然をありのまま捉えているので、自然を否定しないわけです。
自然を生かしたつくりだから、道とかごちゃごちゃに見える。
自然はまっすぐじゃなくて曲がりくねっていますから。


西洋の文化は石畳など、自然を上から塗りつぶし、自分達の使い勝手がいいように改造してしまう文化。


日本人だって、食物を品種改良したりしていますが、ある特性のあるものを改良してその特徴がよく出るようにしているわけですよね。
だから 調味料で味付けしない。
豆腐とか、醤油をかけないでも味があるようにしたりする。

ペンキで塗る文化と、素材そのものの味を特徴に沿って改良し味わう文化。
その違いなんじゃないかと。

古典のときに「おもしろい」って単語がでてきて「趣が深いって意味」だと習ってきたが、趣を大事にするわけです。

「何故日本の庭は木ばかりなんですか 花をもっと植えたらいいのに」という外国人に対して、「日本人は自然を崇拝しているのでこうなる」って説明するのが一苦労。

不ぞろい つまり 特徴を大事にするってことなわけで、それの変化が盆栽だったいして、まあ 無理やり曲げてミニチュアを作るわけですが、自然を小さく凝縮しているってのはわかる。

イギリスなどは、全部一定の高さに切り込んでしまいますよね。
特徴を削ぎ落とす。

宗教、食・建物・庭 いろんなところに、人種の違いによる特徴が出ているなー と改めて思いました。

投稿日時 - 2011-03-08 10:12:25

お礼

いろいろ話が多岐にわたっていますね。キリスト教の話は、ガーゴイルを思い出してみると明らかですね。恐ろしげな姿をした悪魔がなぜ教会を守護しているのかと思えば、それはもともと地元にいた神であり、征服したのだから悪魔のように描かれたのだそうです。

ただ宗教の問題は、食とはまた別の観点から考えてもよいかと思います。というのも、仏教や神道も宗教上の戦争はしているわけで、「塗りつぶす」点ではキリスト教と大差ないと思うからです。実際、仏教や神道にしたところで、共生を目指すどころか、元あったものを完全に破壊してしまうこともあるでしょう。

ただ都市の造形や造園については、おっしゃる通りだと思います。たとえばフランスでも竹林や松などは流行りで、随所に、いわゆるジャポニスムの影響が見られます。しかし何かが違うなと思ってしまうのは、配置がどうも違うのです。庭園の隅っこに、区画整理された中に植えられているのです。しかし日本では触れようと思えば触れられるような位置に、木々は植えられています。宮廷付きの庭園は、それは見事に区画整理されています。自然とは支配するべきものなのだなと、そうした庭園を見ると私は感じたりします。庭園も味も同じだと思えます。

ただこれを「人種の違い」といってしまってよいものか。私は「思想の違い」であると考えたいのです。というのも、もうどの国も移民がいてコスモポリタンですから、「人種=エスニシティ」という考え方は、あまり有効ではないと思われるのです。パリは多くの人種溢れていて、フランス料理など食べる理由はないはずです。しかし人が変わっても、同じようなものを食べています。コスモポリタンという点では、東京もそうなりつつあります。その中で味付けなど表面的なことは変容するでしょう。しかし和食の基本的なコンセプトは残っていくと思えます。こうした底にあるものを思想という風に考えてみたのです。

投稿日時 - 2011-03-08 14:36:12

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