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解決済みの質問

われらが審美眼は 劣化したか

 つぎの評言について解説してくださいませんか。

 ▲ (木村重信) ~~~~~~~~~~~~~~

 ( a ) イメージはロゴスに従属するのではない。

 ( b )  ロゴスはイメージから抽象され、イメージの働きを基礎にして、象徴的な思考が可能になり、その結果として哲学や科学などがうまれた。

 ( c ) このイメージないしその記号としての美術の本質は変貌であって、発展ではない。

 ( d ) 進歩、退歩とか開化、未開とか言われるが、これはすべてのことをロゴスに翻訳して考える習慣が我々にしみついているからである。

  ・木村重信著作集〈第2巻〉:はじめにイメージありき
   (1925~ 民族芸術学 美術史学)

 ▲ (同) ~~~~~~~~~~~~~~~

 ( e ) 現代美術の著しい特性として、即物的傾向をあげることができる。

 ( f ) 抽象美術はシュジェ(* 主体?)意識の否定という形で、シュルレアリスム美術は日常的意識を否定することによって、共にオブジェへの傾きを示す。

 ( g ) 作品がオブジェとして即自的に完結することと、普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む。

  ・木村重信著作集〈第6巻〉:現代美術論
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 質問者の受ける感触としては――この木村の著書を読んでいないという事情にあります(つまりこれらは 紹介文です)が―― 現代人は美の感覚が劣化したのではないか? というものです。

 ( g )については 《作品がオブジェとして即自的に完結すること》そのものの中に その美術を前にして《普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること》は含まれているはずだと見ます。そう見るゆえに 劣化の心配が起きます。

 ( a )などの《ロゴスに従属するのではないイメージ》というのは 《ロゴス(ないし コギト=思考)に先行する〈ひらめき(つまり クレド=非思考の場)〉》と解します。そう解したうえで( b ・ c ・ d )について同じ考えを持ちます。
 ぢゃあ イメージはどこに位置するのか? はっきりとは分かりません。イメージとすでに成っていれば それは《ひらめきが 何らかのすがたかたちを現わした(つまり 表象しうるものとなった)》のではないかともうたがいます。どうかご教示ください。

 ( e ・ f ・ g )の特に現代の美術もしくは広げて芸術については くわしい方におそわりたいと考えます。言いかえると 上に触れたわたくしの考えや感触と違ったかたちや内容を持っていると分かった場合 そのときには質問をさらに浴びせつつ 問い求めて行きたいと思っています。

投稿日時 - 2010-12-24 09:39:02

QNo.6404077

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> ★ そこで、いっそのこと“平面的(二次元的)”での表現が用いられたものと考えております(遠近法の否定)。
 ☆ という変化は 必然性があるようで必ずしもないように思われませんか? 遠近法を否定し去るのではなく 絵画としての遠近法を独自に編み出せばよいのではないかなと。

 おそらく、これは音楽もそうであったのですが(こちらは、無調の方向性を突き進めました)、様々な実験をしたかったのかと思われます。つまり、とことんまで、平面にこだわり、最終的には、形自体をもゆがめてしまうような形で でございます。

> ☆ というご解釈に異見はないのですが 上のように初めから《即自的かつ対自的にして自己の表現を目指す》と言ってしまっておけば あとでわざわざ《止揚された統合》ですとかその《困難さ》をうんぬんしなくてもよくなるかも知れないと思ったのでした。

 木村 重信氏は、原始美術・民族芸術の専門家のようでございます(Wikiにてはじめて知りました)。つまり、氏にとりましては、人としてのみづみづしい躍動感等が存在する作品を肯定的に考えていると察せられます。一方、即時的な“現代アート”には、否定的とも推察できます。このため、「自己の表現を目指す」と主張してもよかったのかもしれませんが(むしろ、こちらの方が完結かつ、訴える力も強いと思われますが)、敢えて「現代アート」の否定的側面を浮き彫りにしたかったのではないでしょうか?そして、かような幾分回りくどい表現を用いたものと解しております。
 これは、愚見でございますが、つい最近まで、「芸術は難解なものである。また難解でなければ、芸術ではない。安易に理解しえるものは2流の作品である。」という風潮がございました。そしてさらには、かような芸術論に、権威主義までもがはびこるようになってしまいました。ですが、その難解な作品には、純粋に“美”を感じ取れるものは少なかったように思われます。あくまで、“学術的”には面白いかもしれませんが、ただそれだけのようだったかと思われます。そこで、本題に移らせていただきますが、

> われらが審美眼は 劣化したか?

 われわれもそうかもしれせんが、最も劣化したのは、本業とする人たちだったかと考えられます。そしてさらに、権威者がお告げになるお言葉にすがる人たちだったと考えております。そして、最終的には、われわれも劣化されつつあったものと思っております。

> ★ 結果:大人が「魅力的である」と評価した写真を、乳児たちもより長い時間見つめました(関心度が高い)。
 ☆ このとき 人の顔であるなら いろんなかたちに分かれると思うのです。面長・丸顔 掘りの深い・浅い(平面的) 目が大きい・小さい;丸い・細い 鼻が高い・低い 口が大きい・小さいなどなど。
 《魅力的》だというのは これらの区分のそれぞれに諾否を与えて 《面長》の魅力的および《丸顔》の魅力的といったようにそれぞれの区分に必ずひとつ現われたのか? それとも掘りの《深い》は《浅い》よりも魅力的だ(あるいは そのぎゃく)という結果が出たのか? 問いたいと思います。

 以下に、実験の(ある程度の)詳細が触れられております。つまり、この実験結果が正しいとしますと、“美の判断基準の大部分が生得的に決まっている”ということが示唆されます。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/6901/langlois1987.html 

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2010-12-29 20:13:15

お礼

 ひどっちさん ていねいなご説明をありがとうございます。

 次のご見解に膝を打ちました。
 ★ ~~~~~~~~~~~~
  > われらが審美眼は 劣化したか?

 われわれもそうかもしれせんが、最も劣化したのは、本業とする人たちだったかと考えられます。そしてさらに、権威者がお告げになるお言葉にすがる人たちだったと考えております。そして、最終的には、われわれも劣化されつつあったものと思っております。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ おもしろいですし どうも感覚的にはこの見方がぴったりのように思います。なぜなら われわれ一般の鑑賞者は どうもおかしいではないか 美が変わったのかと普通に問うて言いますから。プロがそう言わない・見ないとすれば その隔たりには 重要な問題があるように感じます。

 ★ 木村 重信氏は、・・・敢えて「現代アート」の否定的側面を浮き彫りにしたかったのではないでしょうか?
 ☆ なるほど。この文章じたいとしては どうもそう解するもののように思いました。《いばらの道》を特に言おうとしているようなのだと。

 抽象美術について
 ★ おそらく、これは音楽もそうであったのですが(こちらは、無調の方向性を突き進めました)、様々な実験をしたかったのかと思われます。
 ☆ なるほど。それでしたら 納得しました。振り子が反対の極に振れたという問題ではないということですね。

 そして次のご指摘が はっきりさせることができればと思っていたことでもあります。
 ★ つい最近まで、「芸術は難解なものである。また難解でなければ、芸術ではない。安易に理解しえるものは2流の作品である。」という風潮がございました。
 ☆ 《解説 あるいは 評論》としてそういう分野があってもよいのでしょうし それとして展開されていくのでしょうが 何だかまるで美とその観賞に次元や段階があるかのように言いその高位の次元において専門家たちは独自の城を築こうとしているように映ります。

 音楽なら楽譜は演奏をともなって 作品になるとしても その演奏という作品とその批評とは これまた 別の問題であるように思います。批評は音楽の鑑賞のための耳や知識を身につけた者でなければ それとしてかなわないのでしょうが 作品鑑賞としては これまた批評とは別だと考えます。極端に言えば 楽譜を間違えて演奏してもいいものはいいし その演奏者の解釈にしたがって作品の完成をおこなっていいのだと思います。

 ところが 目に見ていることや耳で聞いていることについて批評をするのは問題ないと言わねばならないでしょうが そうではなく作者やその制作事情などを取り上げそれらによって批評することあるいはその批評を批評し合うことというのは 作品鑑賞とは別の分野だと考えます。目や耳であぢわうという鑑賞から離れて いわば周辺のエピソードを集めてその蘊蓄をたのしんでいるというように思えます。

 J.ラングロワの実験。これについては まだなお疑問を持ちます。
 ▲ 結果 両条件とも、魅力的な顔の方を長く見ていた(例えば、条件1:魅力的Mean=7.24秒、SD=1.61 非魅力的Mean=6.59秒、SD=1.74)。
 ☆ 統計学として成り立つのかも知れませんが 7.24 と 6.59 とでは有意な違いがあるようには感覚としては思えないのですが これは強引すぎますか?

 ▲ 刺激として、コーカサス人女性40名の顔から数名の実験者が魅力的・非魅力的の5段階調査を行った結果、魅力的(平均点=3.46)、非魅力的(同1.44)な顔
 ☆ をみちびきだしたというのですよね。この判断じたいを疑わないでよいのでしょうか? ほかの民族ないし文化を持つ人びとによる判断が 同じだとは限らないように思えます。

 ▲ 魅力的な顔と非魅力的な顔を同時提示すると魅力的な顔の方を長く見ていたので、大人の女性の顔を魅力によって弁別でき、魅力的な方を好むと言える。
 ☆ たとえば自分にとって何らかの違和感をおぼえるゆえにその顔を長く見ているという場合もあるのではないですか? 

 ☆ あるいはまた 何も実験などをしなくても だいたいは《均整のとれた ととのった顔立ち》が魅力的だということくらいは 分かっているものと思います。そういう普遍的な基準はあるでしょうし だとすればおよそその基準は生得的なものだと思われます。それ以上のことを発見していましょうか?
 まだ天の邪鬼にとどまりますねぇ。どうでしょう?

投稿日時 - 2010-12-29 21:55:55

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回答(122)

ANo.122

ふざけてましたか、すいません。
どのへんがふざけていたんでしょうか。

119さんの回答を読みました。
深い洞察がされたとても良い意見だと思いました。

投稿日時 - 2011-02-16 12:07:44

ANo.121

回答の回答の回答になりますが、

近代の美術を憂う理由として確か

1.個性的になろうとするあまりに、奇抜に奇をてらうことばかりを追求してしまう。
2.純粋な造形を追求するあまり、現実からかけはなれて、人間性を排してしまう。

のようなことだったとおもいますが、2.は分野によっては肯定の余地があるのかな
またまだ面白くなる可能性があるんじゃないかなと思ったのでそのように回答させて
もらいました。

また、歴史をリスペクトするといっても、業界の権威の顔色をうかがうこととは
全然違うと思いますし、

キャッチーであろうとするといっても、ただの受け狙いではなく、時代を見つめて、
人間が何を考え何を求めて何を感じているかを考えて同調したものを創造すること
だと思うのですが、

いじわる言わないで楽しんでみればいいじゃんという意見は
それはそうだと思いますが、

本当に論点てそんなんでしたっけ。

投稿日時 - 2011-02-15 12:56:57

お礼

 たとえば No.119の回答とそれへの応答 これを読んでください。

 ちょっと いくらはあとまいんどさんでも ここまでやって来て 今回の投稿はふざけています。

投稿日時 - 2011-02-15 13:39:32

ANo.120

抹消質問のほうから、わたしの投稿でご希望のものがあれば引き写しましょうか?

ご自分の思考の軌跡を辿り直そう、という昨晩のメッセージ、ごらんになれました? 
まさに、ご自分の発言がどんな思考に基づいていたかを確認するのが、大切なことなんですよね。
既出の応答で、いちばん見なければならないところは、ご自身の思考がどんな焦点から発しているかなのですが、
自分のことは自分が知っているというつもりだと、なかなか自分の軌跡というのは意思集中できないものです。

注目ポイントがまとめてあって、整頓しやすかったでしょう?
次の点は、とくに意義のある気付きに繋がりませんか。

n わが主観
-n 主観は自律的に成立しない
m 作家の主観
-m 主観は自律的に成立しない


ご自分で既出の応答を整頓する場合、
たとえばwindowsをお使いでしたら、ブラウザ上部の「編集」ボタンから「このページの検索」でamaguappaと入れると、簡単に投稿がピックアップされます。
そこで何よりもご自身の返答を見直すことで、独りで走った部分を思考から削ぎ落とすことができ、前進する力が蓄えられると思います。

引き写しの件、もしあれば、ご遠慮なくどうぞ。

投稿日時 - 2011-02-14 22:23:58

ANo.119

>美術作品についての感覚による第一次の鑑賞にも 感想や批評のことばがつく。この第一次の鑑賞に属する批評の言葉が そのまま第二次の評論に用いられることがある。
>第一次の鑑賞では あくまで・飽くまで・あるいは飽いても わが主観のうちにすべてはおさまっている。
>第二次の評論は 一般に第一次の感想にもの知りと見られるような知識や背景事情などなどの情報を交えたものである。

→美術作品の鑑賞時における感想や批評、評論には第何次といった深化の過程を想定し得る。
個人の内面に照応し物語性を追う鑑賞にはじまり、個人の内面、主観性をできるだけ排し、客観的な作品批評を文献で紐解いていき、あるいは他作品または社会情勢へと想起し得る鑑賞へと段階を経るあたりはもちろん千差万別である。

>ところがこれが 第一次の感想すなわち《初発の美の感覚とそれより派生した言葉での批評》 こういうみづからの前提条件を突き破って その評論内容こそが・つまりおのれこそが 美の――第一次の――感動であり体験であると言い張ろうとするようになる。
すなわち《美は論理で分かるものであり 論理でしか分からないものだ》と。
>似ても似つかないふたつのいとなみが現われている。

→「美術」とて、明治以降に西洋より概念が輸入された「造語」であるのだから、「審美眼の劣化」という主題に立ちかえるならば、私たち日本人が今現在用いる「美」について再考すべきである。
それ以前の私たち日本人の祖先は不感症だったのだろうか、いやそんなことはあるまい。

古典古代のギリシア美術に端を発した「美」は普遍的な性質を帯び、調和、均衡、比例を重んじアルゴリズミックな造形表現を用い、自然に内在する数学的法則で形態化しようとする科学主義的観想上に少なからず立脚していたことなどから「論理で美をわかる」性質を帯びていると言えよう。
でもだからといって「論理でしか分からないもの」と飛躍する必要などどこにもない。

一方日本では自然と人間との関係が支配被支配の範疇にあらず、明治以降に導入された遠近法など洋学全般が日本の表象システムに君臨してゆくことになるのであるが、
我が国においては似ても似つかないふたつのいとなみが現われているとすれば、そのもう片方には何が見い出せるであろう。

日本人の想起する「象徴」とはいったいどのようなものだろう。
美を「知る、わかる」ではなく、美とは「ふれる」もの、のほうが相応しいのはなぜか。
現代美術におけるテクスチャーとの対話は盆栽などのアニミズムに連なるのだろうか。

>《評論》説は 現代美術界のコンセンサスを成すと思われるが それによって一般に審美眼の劣化を意味するしその劣化をもたらしたという見方をせざるを得ない。

→「19世紀半ば印象派の成立以降、フリードリヒ・ニーチェによって提起された主観の際限なき拡大路線の確立(「神は死んだ」)以降、絵画が次第に抽象化単純化してゆくに従って遠近法の独占的支配に疑義が呈され、ついに相対化されたこと(主観の拡大、価値の多様化、「人間」という共同体幻想に基づく支配的視点の崩壊)」を経て、世界規模の政治経済環境問題から労働と競争、消費と欲望までのあらゆる主題を暴き批評する役割を現代美術界は担っている。
その根源はおそらく産業革命やロマン主義に遡ることができるのだが、従前の古典的な美の希求だけでは済まされないという意味においては「審美眼の劣化」とも言えるかもしれない。

でも、劣化とばかり批判してばかりいるのではなく、新たな価値観の創出がいま求められているのではないか。
これほどまでの人物、技術、情報が膨大に流れ交わされている状況は、私たちが「美」をはじめとした洋学を理解し易いという点では《開闢》以来の好機であろう。
従来の「美の墓場」美術館とインスタレーション、国際美術展、マーケットなどの関連性を鑑み、欧米に追随しないためにはマスコミや行政はおろか、当の日本人の観客に負うところが大きいのである。

それに付随し言葉の問題、つまり翻訳の意味付けや解釈を通じて、母国語たる日本語に対しより一層の細かな考察が求められ注意が喚起されているのであり、またさらに、芸術と技術、自然や人間を取り巻く環境との付き合い方の見直しの方策の一つとしての"esthetique"、従前に留まらず、感覚や感性全般を扱い重んじていくべき文法と修辞学とを含むあらたな方便、感性学的論理の開発が必要ではないだろうか。
既存の哲学や美学にある概念や語彙を借り援用ないし批判していくだけでは事足りないだろう。

こどもたちが読むので用語を省き、極力そちらの仮説に寄り添ったつもりです。
拙文の印象批評につきごりんじゅうとは、審美眼の主題と関係があるかもしれないと思い、伺っておこうと思った次第です。

投稿日時 - 2011-02-14 16:19:43

補足

 ご回答をありがとうございます。

 通史と言いますか 内外の美術史についてまなんだことはありませんので その点申し訳ありません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 古典古代のギリシア美術に端を発した「美」は普遍的な性質を帯び、調和、均衡、比例を重んじアルゴリズミックな造形表現を用い、自然に内在する数学的法則で形態化しようとする科学主義的観想上に少なからず立脚していたことなどから「論理で美をわかる」性質を帯びていると言えよう。
 でもだからといって「論理でしか分からないもの」と飛躍する必要などどこにもない。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《飛躍する必要などどこにもない》 これが聞けてよかったわけですが 専門家のあいだでは 《論理でしか分からない》という見解を持つのだと思います。素人の声がしっかりと聞けるようになることを まづはのぞみます。

 細かいことですが:
 《論理が作品の基礎づけのようになっている(つまり 美は見たまま感じたままである)》ことと《論理で美を分かる》こととは 微妙に違うようにも思うのですが でも創作家は 両方で分かっているということでしょうか?

 日本人の美の歴史は 《見たまま感じたまま》が基調であっただろうと思うのですが それをきちんと言うには美術史の素養が要るかも知れません。

 ★ ~~~~~~~~~
 日本人の想起する「象徴」とはいったいどのようなものだろう。
 美を「知る、わかる」ではなく、美とは「ふれる」もの、のほうが相応しいのはなぜか。
 現代美術におけるテクスチャーとの対話は盆栽などのアニミズムに連なるのだろうか。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ これも残念ながら 保留とします。しゃれたことを言えるほどは知りません。

 ★ 「人間」という共同体幻想に基づく支配的視点の崩壊
 ☆ これは 木村の評言と呼応しているでしょうか
 ▲ (木村重信:現代絵画の変貌) ~~~~~
 現代人は神の概念から一切の擬人の試みを排除し また人間から一切の擬神的なものをはぎとった。かくして人間が純粋な人間に成った――そう思ったとき 人間は自動機械に化してしまった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 木村は図式的に捉えて身も蓋もないかたちで述べているようですが。
 ★ 支配的視点の崩壊
 ☆ が ふつうの生活日常の《人間》をも崩壊させることもないと思うし 言わねばならないと考えますが。

 ★ ・・・あらゆる主題を暴き批評する役割を現代美術界は担っている。
 ☆ これも然る専門家が言っていましたね。一方で或る程度は 資本の側に依存しつつ しかも批評・批判する視点を持ち続け うまい具合いにそれを実行するのだと。
 そういう行動について別に反対もあまりしませんが たぶん《美》については 一点よい絵を創作できれば それによって一点突破することが出来るとも考えたいのですが?

 ★ 従前の古典的な美の希求だけでは済まされないという意味においては「審美眼の劣化」とも言えるかもしれない。
 ☆ あれっ? これはじつはぎゃくなんですけれど? つまりは時代思潮として《人間》の支配的視点を崩壊させすぎた結果 機械的な要素が入り実験ばかりがおこなわれること これを《審美眼の劣化》と見ています。ですから そのときには 生活日常のふつうの人間という視点を取り戻して 《古典的な美の希求》をもあらためて含みつつ あらたな美の表現を問い求めて行って欲しいとは思うのですが?
 つまりは 次のお考えにつながるはずなのですが。
 ★ ~~~~~~~~~~~~
 でも、劣化とばかり批判してばかりいるのではなく、新たな価値観の創出がいま求められているのではないか。
 これほどまでの人物、技術、情報が膨大に流れ交わされている状況は、私たちが「美」をはじめとした洋学を理解し易いという点では《開闢》以来の好機であろう。
 ~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ 実験の経た結果 画法などを極端なほうへと振れさせる必要もなくなっている。ゆえに 《ふつう》の人間画が描けるのではないかと。

 ★ ~~~~~~
 それに付随し言葉の問題、つまり翻訳の意味付けや解釈を通じて、母国語たる日本語に対しより一層の細かな考察が求められ注意が喚起されているのであり、またさらに、芸術と技術、自然や人間を取り巻く環境との付き合い方の見直しの方策の一つとしての"esthetique"、従前に留まらず、感覚や感性全般を扱い重んじていくべき文法と修辞学とを含むあらたな方便、感性学的論理の開発が必要ではないだろうか。
 既存の哲学や美学にある概念や語彙を借り援用ないし批判していくだけでは事足りないだろう。
 ~~~~~~~~
 ☆ これはもはや掲げるのみ。

投稿日時 - 2011-02-14 21:04:42

お礼

 吹っ切れましたか? まだですか?

 夕めし。洗濯モノを干す。夕刊。そのあと考えて書きます。

投稿日時 - 2011-02-14 17:53:03

ANo.118

こんにちは、

皆様の反感を買うことを承知で最後にひとこと、

1)絵画の鑑賞には練習や訓練がいること。

2)目の前にある評判の高い絵の良さがわからないのは、貴方の方に問題があること。

3)宗教画があったとして、そこに描かれていることの意味がわからずに、絵そのものの美しさがわかっても何の意味があるのだろうか。無意味である。

確か白州正子さんのエッセイ(芸術新潮)だったかで、日本は他国の文化を輸入して保存する天才である。保護者になり、まるで自分がそれを作り出したかのように感じてしまう。そしてその創造者の後継者を批判し始める。

という趣旨の評論があり、まさか、と思っていたことが現実に、目の前で起こっており、深く頷いています。あの人は偉かった。

以上、私のささやかな感想でした。お記に障りましたら、お許しください。

投稿日時 - 2011-02-13 06:32:16

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。反感を買うというよりは 感覚がずれていると感じるのではないかと思います 率直に言って。

 ★ 2)目の前にある評判の高い絵の良さがわからないのは、貴方の方に問題があること。
 ☆ 日本人は 値段が高いからよい 安いからわるい とは単純に思わないと思いますよ。
 今回のトヨタの騒動にしても パーフォーマンスがよいからそれはすばらしいし価値が高いとか その逆だとかは 日本人は夢にも思わないでしょうね。
 スサノヲ市民のど根性にも似たやわらがしめられた世界への願いと志があります。田舎者でもいいから よい社会を築きたいのです。
 ピカソの子孫が ピカソの絵を或る人間が何点も盗んだとか いやゆづられたのだとかと騒動を起こしています。値打ちのあるものだ 返せとか言って。ちゃんちゃらおかしい。屁の河童。だと日本人は心の底から思っています。その人間のたましいすら なおまだちいさい。


 
   わたしはわたしのたましいに向かってくづ折れた。
   わたしは あなたに向かって起きあがった。 
             (詩編 42:7)

投稿日時 - 2011-02-13 07:19:02

ANo.117

 こんばんが、Hidocchでございます。

 もう既に意見を出し尽くしておりますため、ハートマインド様へのご返答という形となってございます。この旨ご了承いただければ、幸いでございます。

> 視覚効果を狙う芸術も、デザインの根源的な目的であるはずで、そう考えると「標的」や箱を縦に並べるとか、ボロックだって、芸術は実物的なデザインだという主張的な芸術や、またコンセプチュアルアートは広告デザインに近い。


 ”デザイン”と申しますと、どうしても、実用的、商業的側面が強いと思われます。実際我が国におきましても、”意匠法”なるものにおいて、保護されておりますし、さらにまた、条文におきましてもかような定義付けがなされています。つまり、文化的側面を持つ著作権法とは異り、必ずしも、文化的要素を必要としないものと考えております。

意匠法
第一条  この法律は、意匠の保護及び利用を図ることにより、意匠の創作を奨励し、もつて”産業の発達に寄与する”ことを目的とする。

> 詩情を排した純粋な造形にしたとき、そのそばで生の人間同士が向き合う装置だとすれば、つまり、クレドを生の人間や生の自然に求めるための、縁の下の力持ち的の役割とすれば、それはそれで時代みつめたキャッチーなものでありたいという意に沿うものとなるんじゃないのか。

 もちろん、技術論としましては、当てはまると思われます。ただ、現代アート(特に抽象絵画におきましては)では、単なる”模様”、”記号”との区別は極めて困難かと推察しております。


 当OKWaveにおきましても、”ピカソ” + ”わからない”で検索しますと、相当数ヒットしてきます。おそらく”鑑賞方法”がわからないから、ご質問されていると思うのです。       
 それに対する回答と致しまして、
「そもそも、感受性がない者には分からない」、「このような鑑賞方法があり、こうすれば楽しめますよ」等、いろんな回答の仕方があろうかと思われます。愚生ならば、後者の方で回答するかと思います。つまり、”美をそのまま感じる”といったものではなく、”楽しみ方”の問題として回答を寄せると思います。さらに申しますと、「美を感じ取れ」と言うのは酷かと思われますが、いかがでしょうか。

 最後までお読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-02-12 17:56:32

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 はあとまいんどさん どうですか?





 わたくしとしましては
 ★ つまり、〔* ピカソにかんしては〕”美をそのまま感じる”といったものではなく、”楽しみ方”の問題として回答を寄せると思います。
 ☆ ここで 単純な類型化をしますと 第一次の美の鑑賞とそして第二次の解説としての美の評論とに分かれるということだと思います。

投稿日時 - 2011-02-12 19:14:37

ANo.116

ヒドッチさんのリンクを昨日読みました。
要約すると、
近代は美術の自律性を目指すあまり、評論家を介さずには、
大衆の理解しずらいものになってしまった。

原始美術から宗教画の時代までは、その精神性や概念を象徴で
伝えることを担っていた頃と比べると大きく変貌してしまった。

しかし、その歴史を作った先人は間違っていたわけではなく、
その時代に抵抗し真摯に芸術に向かい合っていた意味のある
歴史的の遺産ともいえる。それは、芸術なんてアホだという
立場のダダでさえ意味のあることなのだ。

現代はそれらの遺産を財産としてポジティブにとらえて、
今の時代だからできる時代特有の問題や希望を人間的に表現す
ることができるはずだ。
-------------------------
ここからは感想ですが、

造形的になったことは否定的なことばかりだとはいえないんじ
ゃないのかな。
何故なら、視覚効果を狙う芸術も、デザインの根源的な目的で
あるはずで、
そう考えると「標的」や箱を縦に並べるとか、ボロックだって、
芸術は実物的なデザインだという主張的な芸術や、
またコンセプチュアルアートは広告デザインに近い。
ルネッサンスだって造形の理想を求めることで精神性を表現して
いたわけだから。

むしろ、デザインに近づくということは、日常生活に入り込むと
いうことであって、現実の生の人間の人間性を否定するものでは
ない。アースアートやヨゼフボイスのような考え方もむしろ歓迎
すべきであって、
詩情を排した純粋な造形にしたとき、そのそばで生の人間同士が
向き合う装置だとすれば、つまり、クレドを生の人間や生の自然
に求めるための、縁の下の力持ち的の役割とすれば、それはそれ
で時代みつめたキャッチーなものでありたいという意に沿うもの
となるんじゃないのか。

勿論、映像芸術や絵本、パフォーマンスや舞台芸術は、著者のよう
な方向が一番いいのかなと思いますが。

投稿日時 - 2011-02-12 14:08:55

お礼

 そうですね。この問題――現代芸術についてのおおよその見方捉え方――については 今の時点での結論は出ていると思います。

 ご回答をありがとうございます。

 1. 宗教画なら宗教画というようなシュジェ(主題)が初めに決まっているという事態に対して自由になろうとした。

 2. けれども シュジェが最初から決まっているなどと誰が決めたのか? むろん誰も何からも自由である。はずだ。

 3. ところが粗筋で言うとしたら 人びと(創作家たち)は この抵抗するという筋道に血道を挙げた。その結果は あらゆる方面あらゆる方向での《実験》となった。

 4. 全体としての美 人間の生活に根ざした美から離れ――離れたほうが 人間という存在を純粋に捉えることができると思ったのでしょうか―― 画法としてだけの追究やあるいは部分的な主題もしくは無主題の追求といった方面で どんどん進んで行った。

 5. このような《実験》そのことは 芸術のいとなみとしてありうることであるかも知れない。たとえ失敗だったとしても肥やしにすることができる。

 6. ただしそのとき美術論ないし芸術観が ひっくり返ったという一面がある。作品にその内容を見るそして求めるのではなく そうではなく 作品についての評論の中にあたかも美を見出すといった《論理主義》派が現われてしまった。

 7. 《見たまま感じたまま》の美の感覚から 《評論による論理によってのみ分かる》という美学へ移って行ってしまい 美学はあたかも逆立ちしてしまった。のではないか?

 ☆ こういったところではないでしょうか?



 ★ ~~~~~~~~~~
 詩情を排した純粋な造形にしたとき、そのそばで生の人間同士が
 向き合う装置だとすれば、つまり、クレドを生の人間や生の自然
 に求めるための、縁の下の力持ち的の役割とすれば、それはそれ
 で時代みつめたキャッチーなものでありたいという意に沿うもの
 となるんじゃないのか。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 一点にかかっていると思います。その《クレド》は かなり経験的な思考や日常生活にたずさわるときの思想や信念信条のことだと思いますが もしそれだとした場合 それだとしても その内容が《感覚にもとづく》かそれとも《論理優先》か いづれかであることによって 美学はおよそ百八十度ちがってくるものと考えるのです。

 あとはいろいろな美あるいはさまざまな分野での美に触れておられますが いま上に述べた出発点ないし原点をどう取るかでそれらも決まってくるというように思います。そのように十把一絡げにして言うことはややおおげさであるかも知れませんが いまここではそういう理論的な領域での話を互いに共通の見解もしくは見解の相違での合意 これに持って行こうとしています。どうでしょう?

 ひどっちさんからも 評言が聞かれると思います。

投稿日時 - 2011-02-12 14:53:43

ANo.115

zakky74でございます。

>( b )のごとく悟りを得ていない状態では誰もに共通の美の感覚が感じられるのは むつかしいとしますと

むつかしい・・・のではなく、僕の表現では共通の美の感覚が無い!と言っているのであります。ここには大きな意味の格差がございますが、bragelonneさんが「むつかしい」という意味を選択し僕のお伝えしているイメージを曲げるのは構いませんが、応えには窮するのでございます。

>( a )のような《誰もが皆触れられる美でありたい》というのは けっきょく《皆が悟りを得る》とおっしゃっていましょうか?

それは、bragelonneさんの判断基準によって、その様に論理を結びつけたのかもしれませんね。bragelonneさんの論理展開(がどういうものかは明確に分かりませんが、そこ)からは納得のいきにくい箇所かもしれませんね。

僕が、誰もがみんな触れられる美でありたいとお伝えしたのは、その前段階にある交流を受けたものです。審美眼を、僕は絵画の路線から語る事はしませんといいました。審美眼は絵画や画家を対象とするものではなく、68億人に開かれたものですから、その68億人誰もが皆、触れる事のできる対象や素材で審美眼を語りたいとする姿勢や意志を表現しました。

>けっきょく《皆が悟りを得る》・・・

話には順番がございます。これは、次の段階ではないでしょうか?

そもそもbragelonneさんが、審美眼を語る際に絵画や画家でない対象や素材を扱う事について前向きでないのでしたら、その先の話は無いのではないでしょうか?

先にそこを伺いたいものです。

> まぁ もっとも( c )《共通の美っぽく思えてしまう感覚》でも構わないと思いますけれど。つまり うそでもよろしい。一瞬のヒラメキにみちびくような――美の欲求に応えるような――美であれば うそでもよろしい。こういう美学です。

こういう美学です・・・というのは、bragelonneさんの美学と受け取って良いですか?

ここでは、その様に受け取って話を進めますが。

宇宙自然の仕組み・メカニズムを語る際に、多様な理解方式・認識方式がございますよね?悟りの世界から観ますと、選択としてはどれを扱っても良い事にはなります。

僕自身が選択したいのは、68億人誰もが皆、幸せで生きられる社会の実現に、意味・価値がある理解方式・認識方式でございます。もちろん、審美眼についても理解方式・認識方式と深い関わりがございますから、審美眼についても68億人誰もが皆幸せに生きられる社会の実現に向けた審美眼でありたいし、美の共有共感でありたいと思っています。

68億人誰もが皆、幸せで生きられる社会の実現に向けて、まず超えなければならない限界は、人間は自らが生み出した錯覚の仕組みを1秒も、1回も超えていないという事でございます。

>うそでもよろしい・・・

映画『MATRIX』に観る、アンダーソン君が青いカプセルを選ぶシーンの様なものでしょうか。
(観ていなかったとしたらゴメンなさい)

錯覚に甘んじた生き方の選択ですね。
その状態は人間として生まれてきた事の使命を果たしておりません。

脳に支配された人間の生き方です。


ですが、その理解方式・認識方式からは68億人誰もが皆、幸せに生きられる社会の実現に、一体どれくらい意味・価値があるのだろう・・・とクビを傾げる僕がいます。

そして、人類歴史の多くの先輩たちが生まれては滅し、生まれては滅しながら、(無意識に)後世に託そうとしてきたものを、一つも有効活用できないままに、またこの時代も過ぎ去っていく事に、同じ時代、同じ地球に生まれている存在として寂しさを感じます。

僕側の背景はそれです。
そんな背景から、前回の投稿を行いました。

質問に対するお応えでした。
これはお応えになっていますでしょうか?

投稿日時 - 2011-02-07 16:20:52

お礼

 ★ 僕が、誰もがみんな触れられる美でありたいとお伝えしたのは、・・・68億人誰もが皆、触れる事のできる対象や素材で審美眼を語りたいとする姿勢や意志を表現しました。
 ☆ 《誰もが皆 触れる》《語る》というときにも
 ★ 共通の美の感覚が無い!
 ☆ ということなのですね? 

 わたしはてっきりさとりを得れば 誰もに共通の美の感覚が現われると取ったものですから。

 さて それでは わたしたちはいったい何をしゃべるとよいのでしょう?

 和光同塵といった思想や人への接近の態度は 持ち合わせておられないのですね?

 でしたら いったいどういうふうに話をすればよいでしょう?

投稿日時 - 2011-02-07 16:58:38

ANo.114

前回の回答に一応のご理解をいただきまして、ありがとうございました。

絵画は構造の美と心情の美を現すことができて、日本人の心は心情の美に傾きがちであり、構造の美にちと、弱い。ということを踏まえまして、ここでいきなりピカソが出てきます。

http://www.artic.edu/artaccess/AA_Modern/pages/MOD_1_lg.shtml

ご存知、青の時代のギタリストです。ここでピカソは人体を使って、大胆に画面の構築をしています。色を極端な寒色のブルーに抑えて、ギターを中心にした人体の再構成に見事に成功しています。相当理論武装された画面です。うまいなぁ。私にはこの人、激しい恋の歌を歌っているように思えるのです。それでこんなに痩せちゃったのかな。

http://www.flickr.com/photos/christinyca/4648494173/

そして、人気の高い鏡の前の女です。ギタリストでは、”人体を使って”だったのに、ここに到っては、人体をバラバラにして組み立てて、女と鏡の関係を描いています。私たちの脳が見たものを認識する時に、3Dではなく、2Dで画像を受け取っていると考えて、平面的な表現方式をとっているように思います。これを描いている時のピカソは、面白がっていただろうな、と想像できます。この方式が発明できたら、次から次へと描けるでしょう。多作だったのはあたりまえです。という訳で、これも構図の面白さ、美しさに負うところの多い作品です。

ですから、日本の人によさがわからないのは、納得できる気がします。

もうひとつ、岡本太郎さんはその日本人の限界を打ち破ろうと必死だったでしょう。ですから、セザンヌ(世界は、丸と三角と四角で出来ていると、主張して、またその通りに構図を決めていた)に感動するのは当たり前であるといえます。

最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
押し付けがましくなければ良かったのですが。

投稿日時 - 2011-02-05 04:38:58

お礼

 分かりました。美の体験のその中身が 自分にとっては想像の世界としてですが 或る程度は広がった感じはします。でもそれは どちらかと言うと 心情をやや無理に伸ばしている・広げているという感触もなきにしもあらずなのです。

 そんな感覚を持ちましたが ご回答をありがとうございます。

 つまりけっきょくこれは おのおのの主観のもんだいにおさまる出来事かと思います。互いに言わばぶち明けているといったかたちであろうと思います。互いにです。

 ★ もうひとつ、岡本太郎さんはその日本人の限界を打ち破ろうと必死だったでしょう。
 ☆ わたしはこの点 つまりあらゆる可能性をためして見るという志向性という点について 日本人に心配をしていません。たとえば世界のあらゆる料理が日本には来ています。と言いますか 日本人が積極的に味わおうとして取り寄せています。まなんでいます。
 絵画の構図や構造としての美に苦手意識があるのかも知れませんが たとえ少数派であったりほんの一部の人びとであったりしても フロンティア開拓の精神は旺盛であると思いますよ。
 
 あぁ たぶんもしそうだとは感じられないとしたら 日本人は《実験をする》というふうな動きには出ないかも知れないですね。つまりすでに初めにその結論を見越してしまっていて 自分がむろん主観的にですがつまらんと思ったならその実験はしないかも知れません。
 つまり ずばりぶっちゃけて言って キュビズムというような画法の実験はしようとは思わないでしょう。ちゃおぽるぽさんの分析用語で言えば その《構造の美》の追究によって《心情の美》が置いて行かれる つまり 心情の美は消えてなくなると初めにさとってしまうからではないでしょうか。

 ★ 『鏡の前の女』
 ☆ これを見て 鏡の前に立つ女の顔の部分は――つまり見る角度を二つに取って描いているところですが―― なにかしら美を感じました。やや悲しげななにげない顔つきであるところです。ただし鏡は 泣いている心の中を映しているのでしょうか? 色彩の配置もほかの作品とはちがって うったえるものがあるのではないですか。でも どうでしょう 全体として だから何を表現したかったか?
 つまり――これはわたしだけのことかも知れず たぶん少数派なのでしょうが―― 心情の美は何か? と思って止まってしまいます。分からないという答えを出さざるを得ない。こんなところです。

 ★ これを描いている時のピカソは、面白がっていただろうな、と想像できます。
 ☆ はっきり言うことになりますが その方面では心情の美から離れる この一点で峠を超えることはないのではないでしょうか 或る程度多くの日本人は。その使う文が《主題提示》を明確に推し出す構造を持つからには 絵画にも《シュジェ(主題)》を要求すると思います。フォルムだけの美は どうも世界が違うと感じてしまいます。

 ★ 青の時代のギタリスト
 ☆ これは抽象画ではなく まして立体派の手法の作品ではないですよね。だとしたら シュジェはありましょうか?
 ★ 私にはこの人、激しい恋の歌を歌っているように思えるのです。それでこんなに痩せちゃったのかな。
 ☆ 言わば《心情の美》をおっしゃってますよね。そしてそれは わたしもあり得るとは思います。
 そしてよく見るとですが 左の手はその指がギターを弾こうとしていますが どうも右の手は そうではないようなのです。歌をうたう・音を奏でるということでしたら 右の手も指を弦に引っかけさせて欲しかった。
 そうしたあと 手が離れてしまったという場合 そういう場面を描いたのだとしたら 主題は変わって来ます。もう老いぼれたとつぶやいていることになります。
 それもそれですが そしてその老境に甘んじているのだというような主題も考えられますが その点では中途半端であるように感じます。どっちつかずなのではないでしょうか?

 もう少し説明をついやさねばならないかも知れません。
 《まだ弾けるぞ》か《もう弾けなくなった》か? 前者であっても《だが ギター弾きだけの人生ではなかったはずだ》とか《おれのギターには まだ他人(ひと)には分からないうつくしさがあるはずだと思っている》とか あるいは後者であるなら《だがもうじゅうぶんである。弾きつくしたのだ。悔いはない》というのか《いやいや まだまだ追究したいことがある。老いさらばえてたまるものか》というのか・・・。わたしが見た限りでは どっちつかずだと考えます。共感の状態に入りがたい。という情況ではあります。
 そうですね。人体は オブジェではないという頑なな信条がありましょうか。
 でも別にこういう信条が先にあったのではなく 自然にかたちづくられて来ただけだとは思っています。

投稿日時 - 2011-02-05 11:28:10

ANo.113

丁寧なお礼と、新しい問題の提起をありがとうございました。

日本とアメリカは太平洋を挟んでお隣同士なんですが、実は、ヨーロッパで売られている世界地図のように、感性において世界の端っこ同士なのではないかと常々思っていました。ま、私の中の日本は”昭和の日本”であって、現在の日本ではないのですが。

美しさをスパッと二つに切り離します。

一方は日本の美、情念の美、心情の美、伝統を重んじ、変化を嫌い、文化を慈しむ、問題先送りの美です。話し始め、一番最後まで効いてみないと、するか、しないか、わからない文化です。人の心が何より大切で、少し崩して余白を残したものが美しいと感じる文化。背景を描くことが少ない。

一方はアメリカの明確な美、構造の美、進歩即ち美、便利で効率の良いことが美しい。話し始めたときには、もう結論が出ている。経済効果が何より大切で、人が快適に過ごすために発展を続ける文明。橋、高層ビル、設計図の構図の無駄の無い美しさを尊ぶ。

と、ここまで書くと、サルマンの"HEAD OF CHRIST"が、なぜ、ああ深みの無い、安っぽい表現になるのかが自明となります。心情を現すのは大の苦手なんでしょう。

ヨーロッパでは渾然一体となっていた美の二面性(構図を構築する力+心情を表現する力)が、日本とアメリカでは、表裏別々に発展したのは面白いことだと思います。誰もを納得させる優れた画家がヨーロッパから出るのもそのせいでしょう。

ローマのスペイン階段の上に位置する美術学校が大変優れていると聞いています。そこから、私達の常識を覆す天才画家が出現するのを待っている私です。

投稿日時 - 2011-02-03 14:03:17

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 今回は明瞭明快 しかと承りました。

 そうですね。日本びいきのわたしとしましては
 ★ ローマのスペイン階段の上に位置する美術学校が大変優れていると聞いています。そこから、私達の常識を覆す天才画家が出現するのを待っている私です。
 ☆ このあたらしい画家たちの出現は 日本人からもと願いたいところですね。

 そう言えば あれですよ。つまり 英文では なかなかその文の構造としては奥行きを出すことはむつかしいでしょうけれど その言葉 つまり字面ですね 字面を超えて互いに心のありかを見究めようとすれば よいかも知れないですし 日本文では ついあいまいなままにしてしまいがちですが 言おうと思えばきちっとした論理構造の表現をいくらでもつくれるのですから それに努めればよいと思われます。
 つまりそうすれば 日本人からも
 ★ 渾然一体となった美の二面性(構図を構築する力+心情を表現する力)
 ☆ を持つことができる。こののぞみを捨てないでいます。

 
 そうですね。この質問と 主題は別ですが どういうわけか連動しているかのような質問が別にありますので もうしばらくは開いていることにします。
 みなさんも 何かありましたら さらにどうぞ投稿ください。

投稿日時 - 2011-02-03 18:01:20

ANo.112

お礼をありがとうございました。

サルマンの絵はまだインターネットで売れ続けています。一体どうなっているんでしょう。

私は、アメリカの荒々しい自然の中、芸術に淫するのは無価値と断ずる、合理的な人のさなかで暮らしています。

ですから、美しいものを理解するには訓練がいるし、絵画の見え方や音楽の聞こえ方は個人的なもので、共通感覚はありえない、と結論せざるを得ないのです。その訓練は、お金のかかる、贅沢なものなのです。

和やかで、はんなりした日本やヨーロッパの自然や、工芸や美術に人生をかけることを尊しとする国柄の中でなら、自然と音楽や絵画への共通感覚が育つように感じられるのは、わかる気がします。

投稿日時 - 2011-02-02 07:30:14

お礼

 ★ 共通感覚はありえない
 ☆ はあり得ない。これで頑固をとおしてみます。

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 さてもし《共通感覚》が じんるいの一部には当てはまらないとなれば 人間が別だということになりませんか? 種としてのヒトが 幾種類かに分かれるということになっちゃいませんか?

 となると
 ★ 美しいものを理解するには訓練がいるし、絵画の見え方や音楽の聞こえ方は個人的なもので、
 ☆ に関しましては (1) 《訓練が要る》というのは 《美をとおして 心の傷が癒やされていく過程での一コマ一コマを言っている》のではないか。
 言いかえると おそらく初めの美の体験でむしろ《我れに還る》ことが出来たなら すでにすっかり《わたしがわたしである》状態に達したと見るのですが 〔おそらく〕そのあとでその《さとり》の状態が あらためて一里すすんだとか これで十里まで来たとか いやいやもはや百里は来ているとか そういうそれぞれの段階の確認が成されて行くことを言っているように思うのです。

 (2) そのように段階を追って究極の我れに到るときにも しばしばわたしたちは脱線します。後退します。ところが どういうわけかむしろこの脱線や後退のほうがつねであるという過程をあゆむ場合も まま見られる。ということではないでしょうか?
 ★ アメリカの荒々しい自然の中、芸術に淫するのは無価値と断ずる、合理的な人
 ☆ は自分でも気づかずに むしろ美から遠ざかって行っていることがあるのではないか? おそらく美ではないコトを美だと思うようになって行くのではないのか。
 《共通感覚》を おぼろげには心得ている。じつは何となくにでも知っている。知っているがゆえに 目の前の環境や社会的な情況を見てみると あまりにもその感覚とはほど遠い。これならいっそのことその確かに身におぼえのある共通感覚から 故意にでも 遠ざかってやれ。もうやけくそだ。といった・どちらかと言えば悪循環に落ち入っていることはないのでしょうか?

 まぁこのように言うと 予定調和説だと言われるでしょうが 人類に種の別があるとは思えない。この一事からして まだ固執したい。こう思います。

 あとは 言語の文の構造に由来する或る種の感覚があるかも知れないとは考えます。
 和文は 主題を次々と羅列するがごとく言い出して行きます。

 ○ われ――名――アブラハム・・・

 ところが 欧文ではすでに論理的な連絡が構文として決まっています。

 ○ me・・・name・・・Abraham・・・

 と主題を羅列して行っても確かにこの場合意味は通じますが それぢゃ文ではないと見られるのではないでしょうか? 仮りに 最初に《 Me? 》と一たん尋ね返して あたかも主題を提示した恰好に成り得ますが そのあとは いわゆる《 S-V-O.》ないし《 S-V-C.》の論理的な意味連絡を成す構文に従がわねばなりません。

 ○ My name is Abraham. あるいは I am Abraham.

 と。もしこの仮説に従うなら 日本語では はじめに主題をひとつ提出したとき 或る種の仕方で世界を世界として・またその全体として現出させるかのごとくに 互いに対して《あいさつ》をしている恰好なのだと考えます。

 ○ わたし〔ですか〕? あるいは 名前〔ですか〕?

 という最初の主題提示で いわばあたかも尺八のひと吹きのごとく世界をまづ目の前に浮かび上がらせる。そのあと 互いにその世界の中で言葉のやり取りをしていわば遊ぶことができます。型(文型)に嵌らない。奥行きがある。ところが英文では これがない。論理として分かりやすいが 世界の互いによる共有としては 言葉の奥行きがうすっぺらい。
 うんぬんということを考えています。美の感覚にも この文の構造のちがいが影響しているかどうか。 もし仮説に従うなら 奥行きのある美の体験を得るには そのうすっぺらい構文の奥に発話者の・つまり人間の心を見なければならない。見るように《訓練》しなければならない。かも知れません。


 かなり言いたい放題になっていますが いままじめにそう問い求めています。どうでしょう? ご見解がお有りではないでしょうか?
 

投稿日時 - 2011-02-02 15:40:33

ANo.111

まだ開店中でしたので、ちょっと立ち寄ります。

この時点で、もう私に申し上げられることは殆ど無いのですが、

骨董屋さんが小僧さんを鍛える時に、本物だけ見せ続ける。善い物だけを見せ続けると、おのずと真贋がわかるようになる、と聞いています。それと同じように、絵画(多分音楽や演劇)の佳さを享受するにはそれなりの訓練がいります。

個人的には、絵の見え方は人によって違うという、ザッキさんのご意見に激しく同意するものです。もうどなたかがおっしゃっていたように、美しい絵画は飛んでくる矢のように人の心を貫くものである。同じ絵画に酔う人と酔えない人がいるのは、観る人の準備が出来ているかどうかによるのでしょう。

以上は私の経験からの言葉ですので、同意が得られないようでしたら、仕方がありません。

以下、最後に質問者さんに問います。どちらが美しいか。どちらも”ヘッド・オブ・クライスト”が題材です。

http://www.flickr.com/photos/79939075@N00/3703604541

フォービズムの旗手、というよりも、宿屋の壁にもついつい絵を描いてしまうような、ほほえましいジォルジュ・ルオーの作品です。実物はクリーブランド(オハイオ州)にあります。

http://entertainment.webshots.com/photo/1003277862000205357StOdsffEqx

アメリカで19世紀に一世を風靡した、ワーナー・サルマンです。これは、コピーが売れに売れて、名刺判をお財布に入れて歩く人も多かったそうです。私はある意味、表現の自殺、宗教画の墓場であると思います。具象的な絵画はこんな風になってしまいました。

なんとなくどちらもお嫌いな気がします。ま、洒落で、ご覧になってみてください。難しい議論は苦手なので、実際に絵をご覧に入れるしかないのですし、きちんと添付されるか自信もないのです。

ご参考まで。

投稿日時 - 2011-01-31 13:25:03

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 前半の《美の感覚は 人それぞれ・さまざまだ》のご議論は じつはすでにそれについてわたしの見解を示しています。むろん仮説です。
 ☆☆(No.42お礼欄)
 ☆ です。ひとまとまりとしては 或る程度長いものです。それをひとことで言えと言われれば:
 ○ 美を感じるのは おのれのついたウソの傷を癒やすコトとして起きる。ゆえに ウソの傷が癒えるという点では 人びとに共通の美の類型的な体験があると言えるが その具体的な中身(対象やらその時の情況やら環境やら)については 人それぞれのその過去の経験に応じて出遭いがあるのではないか。つまり千差万別ではないか。
 ☆ なおそのときにも 人には言わば普遍的な《共通感覚》がそなわっていると想定していますので そうではなく《判断基準が人それぞれに違っている》とするざっき仮説とは異なっています。あるいはまた ついたウソの傷を癒やされるのをなおも拒んで傷口の広がるのをえらぶという人もいるようです。ですから そのときには きわめて異様な《美》に感動するということもあり得ると見ています。

 ルオーには 同じ趣向の作品がいくつかありますね。キリストないしイエスの顔だけの絵でも幾点かあるようです。せっかくですから拾い上げてみました。
 (1) G.Rouault:Head of Christ(挙げてくだすったもの)
  http://www.flickr.com/photos/79939075@N00/3703604541
 (2) Volto santo (Sainte Face, 1946. Musei Vaticani, Collezione di arte religiosa moderna.)
  http://www.flickr.com/photos/letterepaoline/3428889988/
 (3) Volto di Cristo (Museo Baroffio e del Santuario del Sacro Monte sopra Varese)
  http://www.flickr.com/photos/renzodionigi/2950549903/
 (4) ――
  http://www.flickr.com/photos/21743213@N00/4778464601/
 (5) ――
  http://www.flickr.com/photos/44214802@N02/4453380392/
 (6) Warner Sallman:Head of Christ
  http://entertainment.webshots.com/photo/1003277862000205357StOdsffEqx

 ☆ サルマンの絵は さすが引いてしまいますね。cたかさんが紹介ししてくだすったホギ美術館の写実画を見て それらは《好き嫌いではなく写実画だなぁと思う》と答えましたが このサルマンの絵は 写実画の手前で人工的なわざがほどこされているように感じます。技法なり絵のモティーフなりが加わっている感じを受けます。
 こんなのが 人気があるのですか? ふうむ。たしかにわが《心の傷を癒やす美》の理論によれば その傷のあり方や癒やし方がずいぶん違うなぁという感じがあります。ひょっとしてまさか ただの《アイドル》とするような好きさではないのでしょうね? 偶像としそれによって心の傷が癒やされるというのは けっきょく中途の出来事であるとも見られますよね。まだ先があるのだというふうに。
 文字や言葉にもう少し奥行きを見て欲しいものですね アメリカの人たちには。絵にもそうであるはずです。その心の園がつくられたときには(いえ もともとあった心の庭が見つけ出されたときには) またあたらしい美を求めるでしょうし見つけるのではないでしょうか。(ちょっと上から目線ですかね)。

 ルオーの絵は 鼻筋のまっすぐに通った顔かたちが イエスにしては おどけた調子を帯びさせているので おもしろいと思って いつぞやはルオーとは何ぞやと思ったことがありました。美というより 
 ★ ほほえましいジォルジュ・ルオーの作品です。
 ☆ とそのまま感じます。ほほえましい。――たぶん 昔の宗教画を思えば そういう感慨になるのではないでしょうか。画家がそれ以上の美を見ていたか・画いたと思っていたか? いまわたしには分かりません。

 どうでしょう。骨董としての絵画の真贋が分かるのと絵画に美を感じるのとは たぶん異なった感覚のはたらきがあるように思うのですが どうでしょう? その異なる地点では 美の鑑賞に《訓練》は必要条件であるとは思っていません。生きて来ているという条件のみで。

投稿日時 - 2011-01-31 15:49:23

ANo.110

bragelonneさん

「鑑賞に属する批評のことば」と言われたので、一応同じ事を言っていると結論しておきましょう。

私の言っている事は「鑑賞に属する批評のことば」までが鑑賞であり、それは過去に学んだ技法や評論も含んでいるという事です。そのように学んだことを前提として、より深い鑑賞・感動(自己発見)があり得るという事です。このときに技術・技法や過去の評論を全く無視しての鑑賞はあり得ないというだけです。


印象派の絵画が最初はいかに世に受け入れられなかったかという事を思えば、
「美」は時代的なものである部分もあります。
第一義的な鑑賞であっても、時代の制約を受けています。人間の美の感覚は劣化したのではなく、変遷しているだけというのが私の考えです。


どうも、bragelonneさんは『神』=非思考を最前提とするけれども、私は人=関係性を最初の前提とするということなのかもしれません。






 

投稿日時 - 2011-01-29 14:36:32

お礼

 cたかさん ご回答をありがとうございます。

 分かりました。
 わたしが
 (1) 神を持ち出すことも
 (2) 鑑賞の中に感覚から派生する思いや感想や批評までが含まれることも
 (3) それら過去の批評や思いの蓄積そしてなかんづく感覚の積み重ねが あらたな美の体験にかかわっていないことはない このことも
 (4) 美の感覚が その時代や地域のそれまでの歴史や文化の影響を受けて ただちには発動しない場合がありうるということも
 (5) その意味では 一つの時代に生きる人びとの美の感覚が ほかの時代の人びとのよりも優越してしまったとか あるいは逆に劣化してしまったとかいうことはなく ただし変遷はしているであろうしその変化のあり方によっては 上の(4)のようにただちには発動しえなくなった状態を呈することもある。ということ。
 などなどとして分かりました。おそらくこの認識を共有できたものと思います。

 この期に及んでですが 精確を期すという意味では 添える言葉があります。
 (1) ★ どうも、bragelonneさんは『神』=非思考を最前提とするけれども、私は人=関係性を最初の前提とするということなのかもしれません。
 ☆ 同じことであると主張します。《人=関係性を最初の前提とする》ことは それが経験思考としては限りのあるものであるから その《限り》を超えておきたい。窓などはあるかないか分からないのだけれども 仮りに窓と言ってその心の扉をわれわれ人間が故意に閉じることはしない。《こころの明け もしくは 伸び》を もともとそなわった能力として 持つと想定しておく。こういう意味です。

 (2)(3) ★ 鑑賞・・・は過去に学んだ技法や評論も含んでいるという事です。そのように学んだことを前提として、より深い鑑賞・感動(自己発見)があり得るという事です。
 ☆ げんみつに言えば《技法》は 画家の画法にかんする主題であり そこにおさまるものと捉えます。《評論》は それをふたたびその評論者じしんの主観におさめたかたちで 人びとは受け取って読んでみる。そのような感想の述べ合いというかたちをとおして 鑑賞がそれぞれの主観過程において成り立ち続けるということ。

 (4)(5) けっきょくここからは わざわざとしてでも 時代や地域を超えた美の感覚が――それを概念として捉えるのではなく そうではなく――それぞれの具体的な作品に当たっての体験の中での出来事としてありうると捉える。こう見とおしておいても わるくはない。こうなります。
 言いかえると 《その美のかたちなどにおける変遷》を超えて そこには共通の感覚がやはり美として息づいていると言ってもよいのではないか。躍動感。人間にとっての人間性としてのみづみづしいちから。《わが心が えも言われぬそよ風に吹かれて やわらがしめられること》。そしてその結果 自己の発見あるいは自己到来を得る。うんぬん。


 蛇足です。
 ★ 「美」は時代的なものである部分もあります。
 ☆ 美はそれぞれの時代の情況などなどがそれを見させるのを妨げるようにはたらくことがあって ただちにその観賞が 一般的なものとならないことがある。それは一時的に美の感覚が隠れてしまっていることであり それのみである。
 ゴッホの絵に対して ゴッホ自身と弟のテオにとっては 鑑賞が成っていた。美を見ていた。もうひとりいたらよかったかも知れません。

 長丁場をおつかれさまでした。
 補遺などありましたら 添えてくださいませ。

投稿日時 - 2011-01-29 15:18:59

ANo.109

すいません。またずれてしまったようです。

象徴の果たす役割としては、それがそれを超えたことを指し示す
ことだと思います。

例えば基本的なことを言うと、

「うつくしい、ふじんがたたずんでいた」

この記号集合をそのままコンピューターのように

「ウ・ツ・ク・シ・イ・フ・ジ・ン・ガ・タ・タ・ズ・ン・デ・イ・タ」

とオウム返しの様に記憶装置に書き込む人は皆無です。

それが指し示す。映像イメージが書き込まれるはずです。

ただ、絵画や彫刻は、音楽や表現主義的デザインのように
直接感覚に訴えるものだけではなく、
それなりの論理的な咀嚼行為を介在して、少し特別な(普遍的でない)
感覚に到達するものが多くあって、その直感の特別さや鋭さみたいな
ものが、天才的だと評価される傾向があるわけです。

こういう傾向がそっちの著書でどういうふうに批判されているのか、
知りたいのです。
まだ、手に入れて読めてないんだけどどうなんでしょうかね。

ただ個人的には、映画などの映像芸術は、表現主義的なものよりも
象徴的なもの、つまり映像と音楽が物語を指し示して、一体となって
いるものが好きなんですけどね。

投稿日時 - 2011-01-29 13:37:42

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 木村重信は 図書館からの借り出しを二週間延長して ときにはほかの本へと浮気しつつ ぱらぱらとめくっていますが なにぶんにも分かりづらい。
 その全体観がどうなっているのか。あるいは木村のいくらかの仮説をわたし自身の全体観の中にどう位置づければよいのか。これが はっきりしません。
 木村の主張からは その一つひとつのアイディアを 読む者は盗めばよい。ということかも知れません。要領を得ないお応えで悔しいところですが。

 ★ 象徴の果たす役割としては、それがそれを超えたことを指し示すことだと思います。
 ☆ もしこういう見方でしたら けっきょくのところでは 次の構図での《ものごととその知覚ないし認識ないし受容のあり方》について分かってもらえるのではないかと思うのですけれど どうですか?

 ○ (回答No.107など)~~~~~~~~~~~~~~~
  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の場):神
  _______________________
  “インスピレーション”=ロゴス(β):異言
     中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
         
  “インスピレーション”=ロゴス(γ):預言
     本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい?

  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《象徴(シンボル)》は ロゴス(γ)に位置づけていますが おそらくロゴス(β)の《イメージ》についてもそこからその記号のようなものが象徴に成り得ると見ておられるのではないでしょうか?
 ★ それ(象徴)がそれ(象徴じたい)を超えたことを指し示すこと
 ☆ というふうに言うならそれは すでに《霊感(インスピレーション)》を受けたかの状態にあると言っていいのではないですか? 《象徴じたいをも超えたところ》は もはや《なぞ》のことです。
 ナゾは ナゾについてもそれの仮りのしるし(イメージ)やその言葉化やさらには象徴化もつらなって来得るので ナゾではなくなる現象へと降りて来てしまい得るのですが その《無根拠》じたいとしては もはや表象を超えていて《非思考》になります。非経験の場です。
 
 この非思考の場は クレドであり信仰のことですが どうも日本語では《あまえ》と言うほうが分かりやすいかも知れません。《あまえる》その対象などは――非思考ですから――あり得ないというほどなのですが・つまり非対象なのですが それでもあたかも身も心もその場にゆだねるという聖なるあまえが成り立つというように思えますが どうでしょう? ユダヤ民族やその後のヨーロッパ人たちは 《みこころのままに》と言った言い回しで表わしています。


 そうしてこのツテでは げんみつに言うと
 ★ それなりの論理的な咀嚼行為を介在して、少し特別な(普遍的でない)感覚に到達するものが多くあって
 ☆ というときの《論理的な咀嚼行為》は あとづけで添える場合を別として いっさい〔甘えが〕超えている。そういう聖なるあまえだと思っているのですが どうでしょう?


 そういう世界の中に イメージもヒラメキも論理思考もおさまっている。という見方です。どうでしょう。

投稿日時 - 2011-01-29 14:23:21

ANo.108

bragelonneさん

 《 Irises 》――左半分奥の橙色の群れが 生きていると思いました。その前面の青い群れのほうが 力づよい印象であることは ほんとうだと思いますけれど。

これとあなたが言われる「評論」との違いはどこにあるのでしょう。
私の言っているのは、このような感想的な言葉が出てくる事自体が解釈であり、鑑賞(美を美として自己のうちに定着する)です。
これを外部に発表するかどうかは別問題であり、外部に発表されると、それはほんの一言であっても他人にとっては「評論」です。

それと気になっているのですが、少なくとも絵画は実際にオリジナルを見て好き嫌いを言っているのかどうかだけは区別して貰えませんか。オリジナルのタッチ、大きさなどは絵の好き嫌いに重要な要素です。
私は、ピカソについては、国内で行われた大規模な展覧会と各地の美術館にある何点かを見ただけです。ゲルニカは直接見ていませんので、好き嫌いについて直接書いていません。見た範囲内では、初期の青の時代の写実的な絵(真摯に自分に向かい合っていると感じられるからでしょう)のほうが好きです。
キュビズムの画家としてはブラックのほうが好きです。

なお、私の最初のカンディンスキーについての書き込みでもおわかりかと思いますが、感動が瞬間的なものである事は否定していませんし、そういうものだと思っています。

美)絵画であっても感動=美であるとは限りませんが。
例えばムンクの絵も好きで展覧会で見たときも感動(孤独感、恐怖への共感)はあったのですが、これを「美」といって良いかどうかは保留したいところです。

そういえば何処かで読んだ記憶がわき上がってきたのですが。
岡本太郎が若いときにフランスでセザンヌ(?)を初めて見たときに、どうにも出来ないほどに感動した。
しかし、何日か後に同じ絵を見ても最初のような感動はなかった。感動とは「自己発見」の瞬間だったのだ。と

私の言も「自己発見」(共感)に重点があるので、意識的になされるかどうかは別として、この自己発見を定着させるところまでが「鑑賞」だと思っています。

ということでこの「感動」が最も大きかった絵画はカンディンスキーだったのです。

bragelonneさんと実質的に差はないのかもしれませんが、「美」が向こうから来るものと言ってしまうと、この「自己発見」が意味のないものに感じられてしまいます。また、それまでの自己と人間の歴史の積み重ねが無視されているような気がします。

投稿日時 - 2011-01-29 12:37:40

お礼

cたかさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ざっきさんに言わせれば人はそれぞれ判断基準がちがうので 互いに分かり合えることはないそうですが われわれは相当程度において互いに歩み寄りを行なえたのではないでしょうか。
 〔共通感覚(コモンセンス=常識にもなる)があれば そしていわゆる経験合理性が共有されていれば 大概のことは必要な程度までは 相互理解が得られると考えます。B でない A が A であると同時に B であることはない(排中律)だけでかなりの程度にまですすめます。むろん 非思考の場としてのクレドも 良心および信教の自由として認められとうとばれています〕。

 さてさらにわたしは頑張ります。《ヒラメキ》派として頑なに論陣を張ります。そういう情報交換とまいります。

 ★ bragelonne さんと実質的に差はないのかもしれませんが、「美」が向こうから来るものと言ってしまうと、この「自己発見」が意味のないものに感じられてしまいます。また、それまでの自己と人間の歴史の積み重ねが無視されているような気がします。
 ☆ cたかさん 考えてもみてください。だって《向こうからやって来たとき――わが心のまどを何ものかがノックしたとき―― それを迎え入れる(ないし拒む)》というわが意志行為がつづいて起きるぢゃないですか。迎え入れましたという言わば領収証を わたしはわが心より感動しかつこれで世界の本質を見抜くことができたという覚えのもとに すすんで発行する。はずです。《自己発見》の これも 瞬間です。
 自己到来・自己還帰とも言います。我れに還るとも言い 《わたしがわたしである》ことです。そしてその原点からは《〈わたしがわたしであるわたし〉がわたしする》という自己表現の過程が歩みだされます。歴史存在としての動態がしっかりとした足取りのもとにみちびき出されます。もうしめたものです。
 これらは 《うつくしい》とわたしがわが心において感じ思ったそのまばたきにおいて たしかなものとなった。こういう見方をしています。

 《感じ》のあとに《思い》を持つこともあります。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~
  ☆☆ 《 Irises 》――左半分奥の橙色の群れが 生きていると思いました。その前面の青い群れのほうが 力づよい印象であることは ほんとうだと思いますけれど。

 ★ これとあなたが言われる「評論」との違いはどこにあるのでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《感じ》を印象としてあるいは思いとして語ったその言葉が 《評論》となることはあり得ます。別ものです。あるいは たしかにこのように第一次の《鑑賞》から派生した印象批評の言葉が 別ものであるはずの解説や評論として成り立つという場合が――それがよいと言うのではなく 社会現象としては――あり得ますから 譲歩して 評論は第二次の美学だとは言って来ました。

 つまり 鑑賞に属する批評のことばが そのまま第二次の評論に仮りに用いられたとします。でも明らかに二つは――中身が同じであっても――違うはずです。第一次の鑑賞では あくまで・飽くまで・あるいは飽いても わが主観のうちにすべてはおさまっています。第二次の評論は 初源の美の感覚より派生した言葉での批評というみづからの前提条件を突き破って その評論内容こそが・つまりおのれこそが 美の――第一次の――感動であり体験であると言い張ろうとしているからです。
 似ても似つかないふたつのいとなみが現われています。
 ★ ~~~~~~~~~~~~
 感想的な言葉が出てくる事自体が解釈であり、鑑賞(美を美として自己のうちに定着する)です。
 これを外部に発表するかどうかは別問題であり、外部に発表されると、それはほんの一言であっても他人にとっては「評論」です。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《外部に発表されると》のところで 分かれ目が来ます。この質疑応答のやり取りで感想を述べあったところまでは 互いにその主観のうちの思いを明らかにしたまでのことです。第一次の鑑賞内容を少しでも相手にも分かるように言葉にして述べた。
 ところが その感想を 感想にもの知りと思われるような解説や評論を交えてそれこそが美の体験であると見なして――また人びとにそう信じさせようとして――発表するならば それは 別ものであり おそらく美の感動を単なる口先のことばにすり替えている。こういうことであろうと思います。
 そういうご趣旨なら 芽出度しめでたしとなるのではないでしょうか。どうでしょう?

 カンディンスキー体験は いわば瞬間の連続であった。こう取ればよいでしょうか。
 
 あとコピーでも感動すれば なおさらたぶんオリジナルはよいことでしょう。

投稿日時 - 2011-01-29 13:30:35

ANo.107

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> ☆ ぢゃあもう音楽は 身についていられるということですね。分かりました。すごいですね。

 そんなたいしたことはございません。挫折してしまいましたものですから。なにぶん、声楽の場合は、体自体が楽器の役目をしますので、体格がよくなければ、どうしようもないところがございます。

> ☆ たしかにそうなんです。と言いますのも 《スピリット》になれば もうすでに《霊・聖霊》のことであり 神として《ロゴス(α)》なのですから。それに直接にかかわると思われる《インスピレーション》としてのヒラメキは ロゴス(β)の直感イメージよりもさらに(α)つまり神そのものに近いと思われます。

 以下に、その例を示させてもらっております。英訳はEnglish Standard Version (ESV);邦訳は共同訳を用いております。

マタイ22章43節
イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。
He said to them, "How is it then that David, “inspired” by the “Spirit”, calls him Lord, saying,

コリント前書12章11節
これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。
All these are “inspired” by one and the same “Spirit”, who apportions to each one individually as he wills.

> その意味は (β)と(γ)とのあいだにほとんど違いはない。そういう意味を説明としては含めています。
すなわち 《異言》と《預言》とのちがいに当たっています。

コリント前書12章 28節 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に“預言者”、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、“異言を語る者”などです。

 上述のコリント前書では、順番が記されてはおりますが、一方では、イエス以降の“預言”を、“人間の言葉”解した場合(パウロの時代では、確かに、仰られる解釈が正しいかと存じます)、順序の厳密性は幾分欠いたものとも推察できます。

> きわめてややこしいことを扱っています。結論は (β)と(γ)とはほとんど同じである。または どちらが先になっても そんなにおかしくはない。といったようにみちびかれると思うのですが わたしの下した判断は 《異言》を《預言》より先に持って来ました。
でも固執する謂われはないと考えます。どうでしょう?

 確かに、頑なに固執する必要もないかと思われます。

>わたくしの知る限りで添えることができればと思います。《霊》の語は 《息・風・空気》から出ているようです。

 ご教授いただきまして、厚くお礼申し上げます。参考にさせていただきます。

> ☆ そうしますと 《インスピレーション》という言葉を広く取って (β)と(γ)とを含むとするのも一考かと思います。

 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の場):神
  _______________________
  “インスピレーション”=ロゴス(β):異言
     中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
         
  “インスピレーション”=ロゴス(γ):預言
     本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい?

  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 上記の図表は、愚生にはもっとも素直な(自然な)解釈に思われます。そもそも“人間の言語化”以前の問題を説明し尽くすには非常に困難なものがあろうかとも思われます。

 従いまして、賛成に一票を投じさせていただきます。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-01-28 22:50:05

補足

 引っ越しです。


 ◆ ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理( Hidocchi=bragelonne theorem )
 〔あるいは美学の第一定理 もしくは Hb 仮説〕 ~~~~~~~~~~

 美術作品についての感覚による第一次の鑑賞にも 感想や批評のことばがつく。この第一次の鑑賞に属する批評の言葉が そのまま第二次の評論に用いられることがある。だが 明らかに二つは――中身が同じであっても――違う性格を帯びる。

 第一次の鑑賞では あくまで・飽くまで・あるいは飽いても わが主観のうちにすべてはおさまっている。

 第二次の評論は 一般に第一次の感想にもの知りと見られるような知識や背景事情などなどの情報を交えたものである。
 ところがこれが 第一次の感想すなわち《初発の美の感覚とそれより派生した言葉での批評》 こういうみづからの前提条件を突き破って その評論内容こそが・つまりおのれこそが 美の――第一次の――感動であり体験であると言い張ろうとするようになる。
 すなわち《美は論理で分かるものであり 論理でしか分からないものだ》と。

 似ても似つかないふたつのいとなみが現われている。

 《評論》説は 現代美術界のコンセンサスを成すと思われるが それによって一般に審美眼の劣化を意味するしその劣化をもたらしたという見方をせざるを得ない。

 これが 仮説の骨子である。

 そしてその《第一次の美の感覚》理論によれば 《作品がすべてである》と見ている。
 如何なる意味においても《作家は その作品創作において 世界を見て捉えそれを表わすという過程をすべて終えている》すなわち《作家のうちで、弁証法的過程は済んでいる》と帰結される。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2011-02-05 09:43:04

お礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~
 上記の図表は、愚生にはもっとも素直な(自然な)解釈に思われます。そもそも“人間の言語化”以前の問題を説明し尽くすには非常に困難なものがあろうかとも思われます。

 従いまして、賛成に一票を投じさせていただきます。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ありがとうございます。ひとつに (β)と(γ)とが互いに入れ替わり得るというくらいで捉えておきたいと思います。ひとつに さらによりよい図解を問い求めていきたいと考えます。

 ★ 上述のコリント前書(12:28)では、順番が記されてはおりますが、一方では、イエス以降の“預言”を、“人間の言葉”と解した場合(パウロの時代では、確かに、仰られる解釈が正しいかと存じます)、順序の厳密性は幾分欠いたものとも推察できます。
 ☆ いくつかの参照箇所を挙げておきたいとも思います。

 ◆(マタイ福音書 11章 13節 ) すべての預言者と律法が預言したのは、〔洗礼者〕ヨハネの時までである。

 ◆(使徒言行録 19章 6節 )パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは≫異言≪を話したり、≫預言≪をしたりした。
 ・(King James Version (KJV) )And when Paul had laid [his] hands upon them, the Holy Ghost came on them; and they spake with tongues, and prophesied.

 ☆ 例の大祭司カヤパが 最高法院でイエスを殺す計画を話し合ったときイエスの扱いについて《預言》をしたと書かれています。
 ◆ (マタイ福音:イエスを殺す計画 ) ~~~~~~
 11章 45節 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

 11:46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。

 11:47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。

 11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」

 11:49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。

 11:50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」

 11:51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので ≫預言≪ して、( 〔being high priest that year, 〕he prophesied : προεφήτευσεν = pro-e-pheteu-sen ) イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。

 11:52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 直接に神の民ではない者も預言をおこなうと知り得ます。

 ★◆ “inspired” by the “Spirit”,
 ☆ このように表わせば 分かりやすいですね。


 預言は ギリシャ語で προφητεύω prophēteuō で to prophesy つまり《予‐言》の意味ですね。⇒http://www.etymonline.com/index.php?term=prophet
 そこでは ヘブル語 ナビー:nabj "soothsayer." とあります。残念ながら詳しい語源辞典がなくて今のところよく分かりません。

 ほかの回答者さんたちがいらっしゃいます。そして触れ残したものなどがあれば拾っておこうと思います。

投稿日時 - 2011-01-29 00:41:14

ANo.106

zakky74でございます。

僕は、審美眼はいたるところにて語れるものだと理解しております。

>これは 《似顔絵》について述べておられます。絵画については どうでしょう? というのがこの質問の趣旨です。

先に触れております様に、僕自身は絵を見る事がそうそうございません。また、画家もよくは知りません。そして、現段階では絵画に前向きではございません。僕にとっては、身の回りは絵画よりも素晴らしいアートに溢れているからでございますし、68億人誰もが皆触れられる美でありたいからです。

> これまでこの質疑応答で触れられた作品については どうですか?

すみません。今は積極的に関心を寄せる事がありませんので。絵画・画家など、この路線から語れる事は僕にはありません。

> それぞれの判断基準の違いを超えて いわば人びとに共通の美の感覚があるでしょうか? あると思われるでしょうか? あるとは思われないでしょうか?

判断基準の違いを超えるのは、悟りを得ない限りは不可能でございます。

悟りを得ていない状態に限って応えるならば、共通の美の感覚はございません。共通の美っぽく思えてしまう感覚でしたらございますが。或いは、大雑把な範囲で抽象度を高くした荒い美に留まる状態でしたら、共通の美の感覚は生じてしまうでしょう。

お応えになっていますでしょうか?

投稿日時 - 2011-01-28 19:40:53

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。分かりました。ご自身の美学がお有りのようで その点 分かりました。

 そうですね。次の点をお尋ねしましょうか。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ( a ) 僕にとっては、身の回りは絵画よりも素晴らしいアートに溢れているからでございますし、68億人誰もが皆触れられる美でありたいからです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 ( b ) 悟りを得ていない状態に限って応えるならば、共通の美の感覚はございません。
 ( c ) 共通の美っぽく思えてしまう感覚でしたらございますが。或いは、大雑把な範囲で抽象度を高くした荒い美に留まる状態でしたら、共通の美の感覚は生じてしまうでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ( b )のごとく悟りを得ていない状態では誰もに共通の美の感覚が感じられるのは むつかしいとしますと ( a )のような《誰もが皆触れられる美でありたい》というのは けっきょく《皆が悟りを得る》とおっしゃっていましょうか?


 まぁ もっとも( c )《共通の美っぽく思えてしまう感覚》でも構わないと思いますけれど。つまり うそでもよろしい。一瞬のヒラメキにみちびくような――美の欲求に応えるような――美であれば うそでもよろしい。こういう美学です。
 ★ 身の回りは絵画よりも素晴らしいアートに溢れているからでございますし
 ☆ よかったですね。ありがとうございました。
 

投稿日時 - 2011-01-28 20:23:26

ANo.105

象徴主義を何故批判したくなったかというと、やはり、産業デザイン
における、無邪気な表現主義(デザイン)のマーケットを阻害した感
が否定できないからなのかもしれません。
勿論、広告デザインであればそういう方向であるべきなのでしょうが、

女性的なアパレルやコスメのマーケット以外の全ての男性も介在する
産業デザインに、それが邪魔しているとマーケットを阻害してしまうん
じゃないかと危惧します。多分、男性社会がそうしてしまったここ20年
じゃないかとも思えてきました。
男はやっぱりいちもつ(象徴)にこだわりますから。
女の体は自身ではもっとデザイン的(表現主義的)に捉えているわけです。
そこにギャップがあるため、マーケットにきづかないんでしょうか。
分かりませんが。

投稿日時 - 2011-01-28 11:44:57

補足

 No.101のわたしの文章(補足欄およびお礼欄)は ご回答の内容に対して側面から ものを言っています。
 重なる主題については わたしの立ち場からさらにしっかりと明らかにしようとしたりしたものです。

 今回の内容は 分からないというかたちです。

投稿日時 - 2011-01-28 12:46:53

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 おっしゃるところが分からないということもありますが まづは 《審美眼は劣化したか》をめぐって わたしにも分かるように述べていただくとよいと思うのですが?

 ◆(回答No.104) ~~~~~~~~~
  繰り返しになってしまいますが、現代人が本当に審美眼が劣っているのかもしれません(この件につきましては、分かりません)。
 ですが、もし、それが事実であるならば、劣化を導いたのは、作品を作り上げた芸術家・評論家の影響は大きいかと考えております。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この命題を質問者も受け取ってたたき台としています。

 現代の美術界がどう考えているのか これにかかわってこの質問は立てているのですが ですから そのような実態をめぐっていろんな事態を取り上げて議論していただけばいいと確かに思います。
 つまりあるいはおっしゃるように産業界のデザインなどの問題などなどもかかわって来ると思います。
 ただしどのようにかかわらせて述べておられるのか わたしには読みとれず どうお応えしていいかも分かりません。
 今回は申し訳ありません。

投稿日時 - 2011-01-28 12:01:20

ANo.104

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> ブーレーズは《神様》だったんですか。

 はい。限りなく神に近い存在だったかと思われます。ですが、その当時の作曲家達にとりましては、ある意味“楽”だったかと推察しております。と申しますのも、確かに、12音技法の理論は困難かと思われます。ですが、その理論を理解してしまえば、後はシステマティックに、それなりの曲ができてしまうからでございます。
 かく申し上げる愚生も、2,30年前までは、「煽る様な躍動感のあるリズム、特にその張り詰めた緊張感、さらには現代の不条理から発せられる不安感が備わった傑作だ」とか何とかほざいておりました(今から考えますと、どこぞのお偉い評論家のコピペそのままで、お恥ずかしい限りでございますが)。

 繰り返しになってしまいますが、現代人が本当に審美眼が劣っているのかもしれません(この件につきましては、分かりません)。ですが、もし、それが事実であるならば、劣化を導いたのは、作品を作り上げた芸術家・評論家の影響は大きいかと考えております。

> ☆ そうですか。いろいろありそうです。サラバンドとかジーグでしたか そういう意味でのいろんな演奏も聞きましたが 背後の理論はとんと分かりません。追い追いです。

 理論に関係なく美しさを感じとれるならば、それ以上のものはないと思っております。従いまして、別段、知る必要もないものと考えております。

 勝手ながら、声楽家の三原剛さんを紹介させていただきます。

 参考:http://orchestra.musicinfo.co.jp/~kyukyo/kyukyoFiles/profile/2005solist.profile/05tsuyosi_mihara.html 
 別段、愚生とは何ら利益関係にはございません。ただ、愚生の元兄弟子であり、師匠(どちらかと申しますと、こちらの方が近いと思われます)でもございましたが…..


「ロゴス」について

 今までは、形而上学的な文言には一切触れてはこなかったのですが、今回は、それをも含めまして、愚見申し上げたく存じます。
まず、(No.34お礼欄)からの
「ロゴス(α):非経験のなぞ(クレド):父なる神」
に関しましては、異論はございません。
 次に、本題の“イメージ”でございますが、まだ曖昧さが残存していること、その対象からの表象を受けとめる個人の主観内に収まるものであること、そして、言語化される以前のものであること等から、
「ロゴス(β):中身がまだ混沌たる(直感):イメージ」と解すべきかと思われます。
 一方、“ヒラメキ”なのですが、これは何者なのか、そして、どっからやってくるのかは不明でございます。
 “パスカルの定理”、これは当時16歳のパスカルによって証明されたのですが、奇想天外な“補助線”を用いてこの難問が証明されたため、当時の人たちは「寝ている間に、神様からこっそり教えてもらったんだ」といったそうです。
 ただ、これも真偽の程は、ヒラメキが訪れた際には不明なことが多く(実際は、“偽”の方が多いと思われますが)、“直感”に近いものともいえます。  
 以下に、その語源を挙げさせてもらっております。

“Inspiration” : http://www.etymonline.com/index.php?term=inspiration
“Inspire”: http://www.etymonline.com/index.php?term=inspire
 
 これらにもございますように、”直感”よりも、(α)により近い場所に位置しているものとも察せられます。

 とりとめのない内容になってしまいましたが、ご査収の程賜れば幸甚に存じます。

投稿日時 - 2011-01-27 21:10:16

補足

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 音楽は理論などは追い追いということにいたします。

 ★ 声楽家の三原剛さんを紹介・・・
 ☆ 学部学生のときまでとおっしゃっていたので それほどの段階にまで到っておられるとは 申し訳ないですが 思わなかったのです。ぢゃあもう音楽は 身についていられるということですね。分かりました。すごいですね。
 
 ★ もし、〔現代人が本当に審美眼が劣っていること〕が事実であるならば、劣化を導いたのは、作品を作り上げた芸術家・評論家の影響は大きいかと考えております。
 ☆ 言うなればそういった大いなる指導体制のもとにあったということでしょうか。これも分かりました。

 《ロゴス》に関しましては (β)と(γ)の位置づけがむつかしいでしょうか。

 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ロゴス(β):中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
         
  ロゴス(γ):本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ “Inspiration” “Inspire”――これらにもございますように、”直感”よりも、(α)により近い場所に位置しているものとも察せられます。
 ☆ たしかにそうなんです。と言いますのも 《スピリット》になれば もうすでに《霊・聖霊》のことであり 神として《ロゴス(α)》なのですから。それに直接にかかわると思われる《インスピレーション》としてのヒラメキは ロゴス(β)の直感イメージよりもさらに(α)つまり神そのものに近いと思われます。
 ということは ここでは申し訳ない気持ちながらも簡便法を用いております。その意味は (β)と(γ)とのあいだにほとんど違いはない。そういう意味を説明としては含めています。

 というのも 別の図式でこう表わしています。
 ○ ~~~~~~~~~~~~~
  ロゴス(β):異言(まぼろし):聖霊なる神の・人間への訪れ
         (直観より前の直感としてのヒラメキ。まだ意味不明)
  ロゴス(γ):預言(解釈):直観=ヒラメキ⇒人間の言葉化
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 《異言》と《預言》とのちがいに当たっています。

 ◆ (コリント前書) ~~~~~~~~
 12章 10節 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
 ・・・
 12章 28節 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。

 12章 30節 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。

 13章 1節 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。

 13章 8節 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、

 13章 13節 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 12:28のごとく《第二に預言者 第三に・・・異言を語る者》だとすれば 上の(γ)と(β)とが順序がぎゃくだと考えます。じっさいこの場合の《預言者》は 《第一の使徒》のあとに来ていますので 《洗礼者ヨハネ》が最後の預言者であるという見方とは別の意味で使われているのかも知れません。ですが 神の預言として歴史を予言するかのごとく解釈して示すことはもう終わったとやはり考えられます。
 したがいまして イエス以後の《預言》は 聖書の言葉を解釈する人間の言葉だと思われます。すなわち
 ◆ (同上) ~~~~~~~~
 14章 2節 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。

 14章 4節 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。

 14章 5節 あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 

投稿日時 - 2011-01-27 22:32:35

お礼

 きわめてややこしいことを扱っています。結論は (β)と(γ)とはほとんど同じである。または どちらが先になっても そんなにおかしくはない。といったようにみちびかれると思うのですが わたしの下した判断は 《異言》を《預言》より先に持って来ました。

 それは 預言としての直観ヒラメキの場合にも それに先行して中身のあいまいな直感イメージが持たれることもあるのではないか。ぎゃくに 直感イメージには預言としての直観ヒラメキはあまり先行しないのではないか。――こういう事由にもとづこうとしたものです。でも固執する謂われはないと考えます。どうでしょう?

 語源を示していただきました。わたくしの知る限りで添えることができればと思います。
 《霊》の語は 《息・風・空気》から出ているようです。

 ○ Greek: pneuma = “wind, breath, spirit,”
http://www.etymonline.com/index.php?search=pneuma&searchmode=none

 ○ Latin: spiritus = "soul, courage, vigor, breath," (同上)

 ○ Hebrew: ruah = ”風;空気;霊;魂;〔法律などの〕精神・意図・観点;〔哲学〕精神;〔複数〕方位;幽霊
 (キリスト聖書塾編集部編:現代ヘブライ語辞典 1984)
・ヱブの辞典が見当たらなかったのですが 次の論文の初めに 語の意味が出ています。 
  http://ci.nii.ac.jp/els/110007554519.pdf?id=ART0009382049&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1296132485&cp=

 ☆ そうしますと 《インスピレーション》という言葉を広く取って (β)と(γ)とを含むとするのも一考かと思います。

 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の場):神
  _______________________

  インスピレーション=ロゴス(β):異言
     中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
         
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
     本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい?

  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ どうでしょうかねぇ。

投稿日時 - 2011-01-27 22:52:19

ANo.103

101個目の投稿にしようと思っていたのですが、なかなか仕事が終わりません。

まず
☆ 《この「初めの一人の者の美の体験」が成立するために》 その人が生きて来ているという条件があればよい。という見方です。そのほかに何も要らないという考えです。ここでは真っ向から向き合っています。
 ですが この対立を解きほぐすなら こうなります。
 ○ その人が生きて来ているという条件
 ☆ ここに《人類としても個人の人間としても社会を形成した上での・自然との対話をとおしての文化のさまざまないとなみ》という条件を含むかどうか。含むとわざわざ言うかどうか。ここで見解は分かれるのではないでしょうか?
 ですが この対立は不毛ではないですか? 《美を感じるその時点までにどういうふうに生きて来たか》その文化としての中身や歴史的意味合いを条件とするとわざわざ言うかどうかの違いだけではないですか? それともわざわざ言わなければ 美の感動は得られないというご見解でしょうか?


まさに条件としていると私は考えています。それを直接に語るかどうかではありませんが。

さらに

【Q:うつくしさに打たれたきみは だれなのか】への投稿を引用した部分です。
 ☆☆(No.26補足欄) ~~~~~~~~
  ● (投稿者: iacta_alea_est さん) 近代における美術は作家に教えてもらうものでもないのです。直感でわかるのではなく、論理でわかるものです。自らが考察し、つかみとり、咀嚼するものです。作品はそのきっかけに過ぎないのです。「わからない」「漠然とした恐怖に襲われる」ということが始まりです。心奪われエポケーの状態になるのではないのです。
 私に言わせると直感でわかると思っている人間が怠け者なのです。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ 要するに美術鑑賞は 昔とは変わってしまったと言おうとしてるようです。
 これに対して質問者のわたしは いやいや作品がすべてという見方であり立ち場であると言い張っています。《作品を見たままで美を感じる。または感じない》 これで鑑賞は完結するのだと言っています。

bragelonneさんは、美を感じるのは非思考の「共同主観ないし共通感覚」であると主張していると私は読んでいます。
これに対し私の主張しているのはこの「共同主観ないし共通感覚」は、歴史的に形成されたものであり、現在の人々の現実の交通の中にしか認められないと言っているものです。
したがって、作品を前にした態度は上記のiacta_alea_est さんの言に賛成します。
作品を媒介とした感動を「共通」のものと確認していかなければ(この確認の過程が、「自らが考察し、つかみとり、咀嚼する」ことだと思います)、美は美として定着しないのです。
この過程が昔と違うのではないかというのは、現代の人間のありようからすれば当然だとは思います。

投稿日時 - 2011-01-26 23:59:39

お礼

 cタカさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 おっしゃる意味がよく分かりません。もしおっしゃるとおりに理解すれば つぎのように受け取ることになります。
 ○ ~~~~~~~~~~~~
 カンディンスキーのコンポジションなる絵の前で時間をかけてその絵と対話をおこなう。さまざまな思索をたどり自分の納得するような美をその絵にふさわしい概念として認識する。これが 美の鑑賞である。
 同じように火炎状の飾り(?)のついた縄文土器を前にしてじっくり眺める。さまざまな思考を重ねその美を概念としてつかむ。これが 美の体験であり感動である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ これは 美の鑑賞ではなく 美の解説・評論であるとわたしは見ています。明らかに別ものです。
 もし《論理でわかる》ものであれば それは何も絵画ないし美術作品でなくても構わないはずです。絵の語りかけるものを 文章で表わせば済みます。
 絵があってこそ いろんな解釈を生みいろんな《鑑賞》があるのだと言うとすれば それは もはやまったく別々の解釈であるはずで 個人個人によってばらばらの美だということになるでしょう。一つや二つの評論に多くの《鑑賞者》が同調するのは おかしいはずです。じんるいの歴史的な文化経験が共有されているとしても 個人にとっての文化経験は一人ひとり違っているはずです。それを少数の評論家の解説で同調するとなれば むしファッショに近い美学だと考えられませんか?

 縄文土器のたたえる美は 人びとにとって共通感覚なのです。(百人が百人という意味ではありませんが)。ただしその美の感覚にまつわる個人の歴史としてのお話は 別個にあるはずです。それは 解説であり評論という別個のジャンルのものです。そしてこの評論は 鑑賞者の数だけあるはずです。いや 一人の鑑賞者も人生の過程で成長します。そのつどの解釈や評論を持つと言ってもいいでしょう。
 つまりそれらを少数の評論家が代弁するかのように 人びとみんなの見解が そのいくらかの数のものに まとまるというかたちを取ることがおかしいでしょう。そんなかたちで《美が美として定着する》のでは そらおそろしいと思いますが いかがでしょう?

 縄文人は みづからが作った土器を そのままうつくしいと思ったのではないですか? 評論は別ものです。カンディンスキーの初期の絵は そのままうつくしいと感じる。後期のものは 分からないと感じる。こういう見方です。
 つまりコンポジションは その絵と対話をしつつ思索し論理で分かるものだと言うとすれば それは 絵でなくてもよいことになります。つまり共有される《美》としてその絵があると言うとすれば その論理的な解説と評論で人びとを縛ることになる。そんな美学はないだろう。これです。

投稿日時 - 2011-01-27 00:51:26

ANo.102

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> ポール・K・ファイヤアーベントのお話についてきちんと留意出来ていなかったこと おわびします。

 こちらこそ、適当なご返答をしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。

 ファイヤアーベントの著書では、この文章の後に、以下の文章がございます。
「<中略> 彼(プラトン)がやりたかったのは、彼流の言い方での「生きた交流」ですね。知識を決めていくのは、まさにそうした類の交流であって、それを合理化し、整理してしまった後の断面図ではないんです。当然プラトンは対話対を採用した、科学的散文体も当時すでに存在していたし、成熟もしていたけれども、それは採らなかったのです。しかも、知識を内包しているのは、対話自体というよりは、その対話を産み出した論争であり、またそれに参加したものがその対話を読むことによって思い出すはずの論争の方にあると思うんですよ。」
 
 おそらく、ファイヤアーベントの主張としましては、「その結果としての”整理された知見”」の背後には、何かしらのものが存在する ということを言いたかったものと思われます。

> ぎゃくに言いかえると
 ◆ 結局、非常に特殊・特別・一回限りのものとの出逢いということに.....」
 ☆ つまりはこの《出逢い》としての直観ヒラメキを得たという事件ごとに 一段高い次元へと移行し そういう洞察の深化をともなってあたらしい整合性の世界を垣間見ることになる。――でしょうか?

 はい、仰る通りかと存じます。これは、量子物理学者とは意見的に対立していましたが、次の言葉を遺したアインシュタインにおきましても、同様のことが言えるかと思われます。
「理詰めで物事を考えることによって、新しい発見をしたことは、私には一度もない。」

 少なくとも、一段と高められた次元、そして、それから得られた整合性が得られた背景には、「必ず直観ヒラメキを得たという事件・契機がある(あった)」と考えられます。
 
> ☆ へえーっ そこまでの規制がかけられるのですか。
ぢゃあたしかに美術と同じようなのですね。

 仰られますように、つい最近までは、その傾向が見られたかと思われます。

> ブーレーズは名前は聞いていましたが。でもこれぢゃ感覚としては 生徒が校則を破るために校則を破って遊んでいる・実験しているというように受け止めてしまいました。

 さらに追記させていただきますと、「校則を破ること以外は許されない(=校則を守ってはいけない)」という風潮もあったかと思われます。

> いい音楽はいい。バッハは たまに楽器の音が強すぎるように感じるときがありますが ぜんぶ心地よいです。

 バッハの時代は、平均律がまだ完成されておらず、“純正律(厳密には”ウェル・テンペラメント“かもしれません)”が存在しておりましたので、その当時の楽器・音階を用いれば、耳には非常に心地よく響くものかと推察されます。もちろん、現代の楽器を用いましても、じゅうぶん楽しめるかと思われます。

> ぢゃあ 《ロゴス》の図式は あれでよかったでしょうか?

 ANo.60のお礼欄の図式でございましょうか。“ロゴス”を「神の言葉」と解するか、もしくは「論理的に語りうるもの」と定義するかにより、大きく変わってくるものと思われます。もしかしますと、各々により、場合分けする必要があるやもしれません。後日、再度、ご報告できれば と思っております。

> とうとう100件になりました。

 どうもお疲れ様でございます。現代アートの否定的見解を掲げられるには、相当の勇気が必要だったものと思っております。
 http://dell-support.okwave.jp/qa4689800.html のご質問者様にも、ぜひともご一読いただきたい質疑・応答内容かと思っております。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-01-26 22:37:59

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ブーレーズは《神様》だったんですか。つまり
 ★ さらに追記させていただきますと、「校則を破ること以外は許されない(=校則を守ってはいけない)」という風潮もあったかと思われます。

 ★ おそらく、ファイヤアーベントの主張としましては、「その結果としての”整理された知見”」の背後には、何かしらのものが存在する ということを言いたかったものと思われます。
 ☆ これは 何でしょうね。もしヒラメキでないとすれば ただしヒラメキに似ていますが ちょっとした問題意識のようなアイディアでしょうか。これこれの見方から切り込めばおもしろいかも知れないというアイディアが思い浮かぶことがあったように思います。さらなる問い求めへの糸口であるような。
 
 ★ バッハの時代は、平均律がまだ完成されておらず、“純正律(厳密には”ウェル・テンペラメント“かもしれません)”が存在しておりましたので、その当時の楽器・音階を用いれば、耳には非常に心地よく響くものかと推察されます。もちろん、現代の楽器を用いましても、じゅうぶん楽しめるかと思われます。
 ☆ そうですか。いろいろありそうです。サラバンドとかジーグでしたか そういう意味でのいろんな演奏も聞きましたが 背後の理論はとんと分かりません。追い追いです。

 ★ ・・・“ロゴス”を「神の言葉」と解するか、もしくは「論理的に語りうるもの」と定義するかにより、大きく変わってくるものと思われます。
 ☆ No.60お礼欄のよりは つぎのまとめをたたき台にしてくださるとよいです。

 ☆☆(No.38お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~
 まづ《ロゴス》の段階的区分(といったヘンな分析)をあらためて見ておきます。

  ☆☆(No.34お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
  
   ロゴス(α):非経験のなぞ(クレド):父なる神
   ロゴス(β):異言(まぼろし):聖霊なる神の・人間への訪れ
         (直観より前の直感としてのヒラメキ。まだ意味不明)
   ロゴス(γ):預言(解釈):直観=ヒラメキ⇒人間の言葉化

   ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  ☆ そしてこれにもとづき 《イメージ》などに即して書きかえてみます。


  ○ ロゴスとイメージ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  
   ロゴス(α):無根拠〔と人間との関係は 非思考の場=クレド〕
   _____________________________
   ロゴス(β):中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
         
   ロゴス(γ):本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい?

   ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ○ 【Q:突き詰めるところ、「芸術」とは何なのか?】
 ☆ どうも現代芸術の《主流》についてどう捉えたらよいか困っている人が多いようです。そんなものが芸術か? になるようです。


 ★ 現代アートの否定的見解を掲げられるには
 ☆ けっきょく現代アートが そもそも芸術の死を言うことから発しているとすれば 芸術ないし美に対する反措定なのですから それに対するさらなる反措定であるなら 総合になるはずです。というよりも はじめに総合は 芸術として美として成り立っているという立ち場ではあるのですが。

 もう少し見守っています。

投稿日時 - 2011-01-26 23:40:36

ANo.101

物体造形的芸術から観念造形的芸術へ移行せしめたのが
超越的存在への畏敬への意識という木村さんの説について
ですが、すこしだけ反論したくなりました。

まず、餌となる動物や何らかのものに愛情をもつというのは
もともと人間に原始的に備わっていると思うからです。
フェティシズムというやつです。幼児が信号に「信号さん」
と言ったり、動物に話しかけたりする、そういう素朴な本能
的な部分は否定できないなと。

またシンメトリーが意味のあるコンポジションかということ
ですが、デザイン(直接人間に働く)の面からいうと、
三半規管が備わっていれば、右と左が同じにすれば、バランス
がいいという感覚は、鹿の角が左右対称だとか、人間の形など
から、観念的とまでいかなくても、原始的にも人間が求める形
だということ。またそれを枠で囲うという行為も、洞窟の中で
くらす人間の安心感からくる極めて原始的なデザイン的な要素
だからです。ですので抽象化やコンポジションが全て、そういう
超越的な存在の象徴と関連させてしまうのは早急かと。

ですので、原始的なアニミズムも、案外本能的なフェティシズム
にそうとう近かった可能性も否定できないかもと。
つまり、フロイトがいういわゆるリビドー的な(海の灯台の形に
潜在的にひかれる少女)感覚は、全く否定することはできないん
じゃないかなと

例えば、縄文土器だったら、「おなべちゃま」ぐらいの、おいしい
シチュー作ってねって気分で土こねて作ったんじゃないかと。

「美術製作は生活の余暇の単なる手すさびではなく、生きるための
本質的な活動」

というのも、そうかな、案外手すさび的側面もあったんじゃないの
かなと、もし危機迫った気持ちで作ったらやっぱり、そういう作風
になったわけだし、
それこそ昭和の高度経済成長の世知辛さからパースペクティブに
考察するとそうなるのかなと。

ちょっと木村さんに反論してみたくなっちゃいました。

自閉的な作品というのは、具体例を昨日思いついたけど忘れました。
例えば、それだけを見るより、それに対する説明文があると、
ああやっぱり天才的なインスピレーションで作られてるんだなと
感心させられる、そういう作品のことなんだけど。

そっちの本も読みたいと思っています。

投稿日時 - 2011-01-26 12:34:05

補足

 はあとまいんどさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 木村重信は けっして――三四の著書を読んだ結果――聖書の《はじめにロゴスがあった》という命題には触れていません。触れるかたちで 批判をするということはないようです。
 ただし 批判しようというつもりがまったくないかと言うと そうでもないらしい。
 しかもけっきょくは 《宗教》を批判したい。らしい。とにもかくにも《教義》の言うとおりに何もかもがこの世に現われそのロゴスによって人間と世界がいとなまれるといった世界観に異を唱えているらしい。

 たとえばわたしも 《ロゴス》という言葉で表わされるその内容を図式にしてみました。これも或る種の仕方で――仮りに考えるのによさそうなので持ち出すのですが―― 教義にされるかも知れません。いま現在の教義は とにもかくにも《ロゴス(ことば)がはじめにあった》という内容です。そしてその場合には 思考としてのコギトなるロゴスが 直観につうじる直感ヒラメキとしてのイメージよりも先にあったと捉えられています。そういう〔まちがった〕教義です。
 まぁ 一般に《おしえ》と言えば ゆるいものもあるでしょうが 組織宗教における教義と言えばそれは信徒のいわば絶対命令にひとしい戒律のようなものです。そこが 個人の信仰における非思考としてのロゴス(α)との違いにもなります。

 ですから要するに 木村は 宗教における教義としての《ロゴス(ことば)先行説》を イメージ先行説によって批判しているらしい。
 したがってその結果ここでわれわれが評言をあたえようと思えば なるほど直感イメージは論理や思考のロゴスに先行していますよ。ただし そもそもはおそらく《無根拠としての――非思考の場における――ロゴス(α)》も想定されるのではないですか? そのロゴス(α)にイメージもほかの経験的なものごとの一切も先行するとは思えません。想定上それはありえません。となります。

 フロイトはこの無根拠のロゴス(α)のことを何とか表わそうとして――というのは最大限に敬意を払って言っているのであって ホンネとしては その無根拠の想定が一般に受け容れられる現実をいいことにしてと言いたいのですが―― 《無意識》をわざわざ想定して来たのです。
 その問題点は ひとつにこの無意識はあくまで経験的なことがらであること。それなのに 人に分からないことがあればつねにこの無意識のしわざであると解釈するまでに 無意識を持ちあげ《アイドル》に仕立て上げました。
 しかもわるいことに 無意識は 独語 エス es(ラテン id ;つまり英語の it: 《それ・あれ》のことです)と言い換えており これだと《いと高きところにましますそのお方》といった《ロゴス=無根拠=神》と同じものに取り違えることが出来るようになっている。
 日本語でも得体の知れないものが自分に降りかかって来たときには 《あれえええーっ》と言ったりします。この《あれ(エス=無意識)》が 何か分からないモノゴトの原因であると言おうとしたものです。もしどうしても何ものかに結び付けたいのなら まづは《なぞ》という言葉で表わすことでしょう。
 それを或る人は単純に《神》と言ったり或る人は《非科学的だ》と言ったりするというわけです。その隙間を縫ってかどうか知りませんが 《無意識》を持ち出して来ました。ヒット商品になりました。大ヒットです。副作用も大きいでしょう。
 神もしくは無神という《なぞ》に執着した人びとのその思潮の中で 無意識なるいはイド(心の井戸?)あるいはリビドーといった概念を持ち出してくると すでに神もしくは無神に憑かれたかのように反応するクセがついてしまっている場合には あぁそれだ! という直感ヒラメキがはたらき 同じ筋道ですから 流行現象の広がるのは早い。
 たとえば日本人もこの《無意識教》が広まっていますが どうなんですかねぇ。つまりどこまで その筋道が クセとなって強固なものであるかです。
 それにしても 美術も音楽も文学(たとえば 村上春樹)も芸術全般あるいは資本主義の経済社会の全般にわたって そして思想もポストモダンとくりゃあ いったいどうなりますかねぇ。

 《あそび》を 《生活》からは一たんでも離れるかのような別の領域だと見るその分離の視点がおかしい。《手すさび》などというとき ほんとに戯れ事として・つまり自分の意志や心に明らかに逆らうと分かっていて敢えて行なうモノゴトとして負のあそびも入るかも知れません。ですが 生活が 全体としてあそびだという視点も大事ではないですか。
  

投稿日時 - 2011-01-26 15:51:45

お礼

 生きること この全体を《あそび》と捉えるということ。なぜなら 人と人とのあいだには マが広がっていて そのマには一般に 言葉の表現による意思疎通というコトが横たわっているからです。
 この表現は およそ自由だからです。

 もっとも 感性をつうじての意思疎通(以心伝心?)・つまりあるいはイメージをつうじての交通(まじわり)もあって それだとマは詰まっていて まじわりはきわめて直接的であるようにたしかに感じられます。そうなのですが ところがここで ぎゃくの見方もそもそもの初めにそなわっていると考えられます。
 人間の意志です。自由意志です。そのために《ことば》があります。その意味のかぎりで コギト(思考)もあり 思考の結果として意志による判断を持ちます。この意志表明をつうじて 互いの存在を認め合いつつ 意思疎通を図るということになっています。

 つまり 《口説く》という行為は――その際には 感性やイメージが強くはたらくと思われますが それでも―― 互いの合意によって成り立つことになっています。たとえ感じだけで結ばれたとしても・つまりはその合意にかかわる言葉がなかったとしても 意思表示が互いにあってそれに合意したと見なすかたちに成ることになっています。

 それゆえにも 最高の《無根拠=神》を わざわざ言葉を意味する《ロゴス》にしたのかも知れません。《イメージ》では ちと困る。世の中てんやわんや。めちゃくちゃのくちゃになってしまいます。あるいは のっぺらぼうの世の中になります。メリハリがなくなります。一人ひとりの意志や心はどうでもよく 犬や猫の世界が繰り広げられます。

 ところがさらに――この事項のおしまいとして―― この最高のロゴスにしても 無根拠であり非思考なのです。《考えても分かるか分からないかが分からない》なぞです。だから信じる(つまり それからのノックを受け容れる。あるいは信じない)のですが その際には 日本語にいいことばがあります。《甘え》です。
 イメージや感性のみによって甘えるのではありません。海の上の波風にあたる心理の動きによって 互いに依存関係になることではありません。存在・あるいは意志とそのちから これ自体が コギト(思考)やイメージ(感性)を超えて かの無根拠なるものにみづからをゆだねます。それによって みづからの意志も心も感性も論理思考も持てる力のあらゆるはたらきをみづみづしい初めの状態に戻して 生きることになるでしょう。
 これは きわめておごそかな――しかもわれら人間にただであたえられためぐみであるところの――《あそび》だと考えますが どうでしょう?

投稿日時 - 2011-01-26 16:09:40

ANo.100

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> 無調音楽も オクターヴ内の音を使うのだとすれば 和音と同じ世界にはあるという
とでしょうか?
 それでも 違った感覚を与えられるわけですね。

 12音技法の和声は、非常に複雑だったかと記憶しております。申し訳ございません。愚生の理解を肥えております。おそらくこの辺の知識をマスターしているのは、作曲専攻を修了し、本格的な作曲家を目指す人たちぐらいかと思われます。

> 和音というのは 或る種の仕方で――光速のようにでしょうか?―― 絶対的なものなんでしょうか?

 元来、以下のように決められております。ただ、時代が経つにつれて、増加してきたものと記憶しております。

ハ長調の場合です
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E9%95%B7%E8%AA%BF 

> でも日本やアジアにも別の音楽はあるというかたちになるのでしょうか?

 原則、日本音階は5音階となっていました。例えば、江戸時代に作曲されました「さくら」は、5音階のみの曲となっております。ですが、明治になりますと、例えば「赤とんぼ」、「村祭り」等は、西洋音楽の影響を受けまして、(日本元来の)5音階以外の音も含まれています。

> けっきょくこのシェーンベルクを聞きますと ちょうど現代絵画と同じように 実験をしているというように感じましたが どうなんでしょう? バッハのようなここちよい感じではないですよね。わざと いらいらした感じを出しているようで。

 確かに、一種の実験だったかと思われます。従来の和音からは離れ、(厳密には異なるのでしょうが)不協和音の嵐となっています。
「調性からの開放」とは申しますものの、実は、少なくとも作曲技法上は、調性の成立を回避すべく、極めてシステマティックなものになっております。

 以下に、20世紀を代表する傑作といわれる、P. ブーレーズの「ル・ マルトー・サン・メートル」を載せさせてもらっています。
 
 もちろん、1980年頃までは、この曲を理解できないものは、「芸術を知らないもの」というレッテルが貼られていました。おそらく、理解するには、楽譜を読めることを前提としまして、相当の和声学を含みます音楽学の知識がなければ、困難かと思われます。
http://www.youtube.com/watch?v=EIXPsEM_x0k&feature=related 

> ☆ これは けっきょく―― ctaka88 さんの口調に引きずられてしまっているようなのですが―― 何か心に引っかかっていたりすると美にも気持ちが向かないというようなことがあり そこで少しの余裕を持つことはよいと思われること。これだけを言っているとしたほうがよさそうです。
 言いかえると 《感性が磨かれる》のは すでに美の感動を得つつあり 得て来ている経験の上で ますます感性が肥えて来ることを言うとしたほうがよいと思いました。

 なるほどですね。納得致しました。

> 《思索や思想》にしても むしろ美の体験のあとにそれらが練り直されて行く。こう捉えたほうがよいようです。感性は先行しているように思われます。侮れないはずです。その体験の中からこそ 理論や論理が現われて来るとさえ見られると思います。
 
 これは、愚生も主張し続けてきたものでございますが、もちろん、愚生もロゴスを全否定するものではございません。再掲させていただきますが、以下のファイヤアーベントの文章に見られますように、偶然性により、かつ、その感性に訴えられた、はたと”ヒラメク”現象というものは、ロゴスの習得以上のものがあると思うのですが。

 ・ポール・K・ファイヤアーベントの「知についての三つの対話」から、
「トム[トーマス]・クーンが量子力学の革命に直接関わった人たちのなかで現存する科学者にインタヴューしたことがあります。その際彼らの最初の反応は、成書にあることをただ繰り返すことだった。でもクーンの方が一枚上手だった。前以てクーンはその人物に関連する書簡類や私的な覚書などの類をよく読んでいた。それらは成書に書かれていたこととは随分違う内容だった。クーンが論点に触れていくうちに、相手も実際にはどんなことが起こっていたたのかを少しずつ思い出していった。この話はニュートンにも当てはまりますよ。研究をするということは。結局、非常に特殊・特別・一回限りのものとの出逢いということに.....」


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-01-26 00:59:45

お礼

 ポール・K・ファイヤアーベントのお話についてきちんと留意出来ていなかったこと おわびします。
 コギトとしてのロゴスが決してそのコギトの主体にとってその主体の内面において文字どおりのロゴスとして整合的に連続しているわけではない。そのような類型を示そうとしている話として分かればよいでしょうか。
 ぎゃくに言いかえると
 ◆ 結局、非常に特殊・特別・一回限りのものとの出逢いということに.....」
 ☆ つまりはこの《出逢い》としての直観ヒラメキを得たという事件ごとに 一段高い次元へと移行し そういう洞察の深化をともなってあたらしい整合性の世界を垣間見ることになる。――でしょうか?
 
 ひどっちさん お早うございます。すみませんでした。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 20世紀を代表する傑作といわれる、P. ブーレーズの「ル・ マルトー・サン・メートル」を載せさせてもらっています。
 
 もちろん、1980年頃までは、この曲を理解できないものは、「芸術を知らないもの」というレッテルが貼られていました。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ へえーっ そこまでの規制がかけられるのですか。ぢゃあたしかに美術と同じようなのですね。そして美術では ctaka88 さんがちょうどそれに対抗するような写実画の実例を示してくれました。新聞記事でもちょうど昨日でしたか そのホギ美術館の話を読みました。写真と同じようには画かない人も出て来ているとか言っていました。
 ブーレーズは名前は聞いていましたが。でもこれぢゃ感覚としては 生徒が校則を破るために校則を破って遊んでいる・実験しているというように受け止めてしまいました。たとえ実験でも それならまだサティのほうが わたしには感じがよいです。もっともサティはイライラしてくるという人もいましたが。


 和音など音楽についておしえていただきありがとうございます。そういえば先日 坂本竜一がテレビで講義をしていたのをぼやっとして聞いていました。まぁ わたしにとっては最後の結果としての作品だけの話になるのかも知れません。いい音楽はいい。バッハは たまに楽器の音が強すぎるように感じるときがありますが ぜんぶ心地よいです。

 ぢゃあ 《ロゴス》の図式は あれでよかったでしょうか?

 とうとう100件になりました。

投稿日時 - 2011-01-26 05:37:24

ANo.99

拝読しました。

>原始美術も、火炎土器も2、3百年前までは、単なるガラクタして扱われていたのです。

 これらを美しいと主張する人間が多くなって、初めて美術品となったのです。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ これも どの時点を捉えて言っているのかで どちらも成り立つ話だと見ます。
 すなわち(1) 縄文土器の火炎状のかたちが美しいと見るのは 初めに一人の者の美の体験があった。(2) それにつづいてほかの人間も美の感覚をおぼえた。(3) 共同主観ないし共通感覚をそこに見てもよいことになる。
 つまり 縄文土器は 初めからあったのですから そのままで美を湛えていたはずです。発見がどうであったかの問題だけだと思いますよ。


私の言っているのは「縄文土器の火炎状のかたちが美しいと見るのは 初めに一人の者の美の体験があった。」という、この「初めの一人の者の美の体験」が成立するためには、それまでの人間の歴史の積み重ね(文化的社会的状況)とその者の個人的歴史成長が前提としてあるということです。
物が「そのままで美を湛えていたはずで」はないのです。
「そのままで美」というのは、明らかに「美」というイデーがあるということになります。

bragelonneさんがいう、審美眼の劣化は、現代の人間がこの「真『美』」を直接に感じられなくなったということになりますよね。

私が考えているのは、このような 「真『美』」はなく、美は人間の歴史的現実的な関係の中でしか成立しない、したがって、何が美しいかということもその鑑賞方法も歴史の中で動いていくという意味で、進歩も劣化もないということです。

bragelonneさんは、このような作品についてはどう思われますか。
http://www.hoki-museum.jp/collection/index.html
好き嫌いという点でいえば、私はこのような作品はどちらかと言えば嫌いです。

投稿日時 - 2011-01-25 09:28:16

お礼

 いやあ なかなか紛糾しますね この主題は。
 cタカさん ご回答をありがとうございます。

 まづすでにやり取りした事柄ですが 確認します。つまり
 ★ bragelonneさんがいう、審美眼の劣化は、現代の人間がこの「真『美』」を直接に感じられなくなったということになりますよね。
 ☆ というような《審美眼の優劣》を持ち出しているのは 近現代の美術についての専門家や業界のほうです。

 【Q:うつくしさに打たれたきみは だれなのか】への投稿を引用した部分です。
 ☆☆(No.26補足欄) ~~~~~~~~
  ● (投稿者: iacta_alea_est さん) 近代における美術は作家に教えてもらうものでもないのです。直感でわかるのではなく、論理でわかるものです。自らが考察し、つかみとり、咀嚼するものです。作品はそのきっかけに過ぎないのです。「わからない」「漠然とした恐怖に襲われる」ということが始まりです。心奪われエポケーの状態になるのではないのです。
 私に言わせると直感でわかると思っている人間が怠け者なのです。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ 要するに美術鑑賞は 昔とは変わってしまったと言おうとしてるようです。
 これに対して質問者のわたしは いやいや作品がすべてという見方であり立ち場であると言い張っています。《作品を見たままで美を感じる。または感じない》 これで鑑賞は完結するのだと言っています。そのとき
 ★ 「そのままで美」というのは、明らかに「美」というイデーがあるということになります。
 ☆ というふうな別の副作用と言いますか語弊も出て来ます。まづ大きくは そういう情況だとご理解ください。

 その前提で
 ★ 物が「そのままで美を湛えていたはずで」はないのです。
 ☆ になお異を唱えます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 私の言っているのは「縄文土器の火炎状のかたちが美しいと見るのは 初めに一人の者の美の体験があった。」という、この「初めの一人の者の美の体験」が成立するためには、それまでの人間の歴史の積み重ね(文化的社会的状況)とその者の個人的歴史成長が前提としてあるということです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《この「初めの一人の者の美の体験」が成立するために》 その人が生きて来ているという条件があればよい。という見方です。そのほかに何も要らないという考えです。ここでは真っ向から向き合っています。
 ですが この対立を解きほぐすなら こうなります。
 ○ その人が生きて来ているという条件
 ☆ ここに《人類としても個人の人間としても社会を形成した上での・自然との対話をとおしての文化のさまざまないとなみ》という条件を含むかどうか。含むとわざわざ言うかどうか。ここで見解は分かれるのではないでしょうか?
 ですが この対立は不毛ではないですか? 《美を感じるその時点までにどういうふうに生きて来たか》その文化としての中身や歴史的意味合いを条件とするとわざわざ言うかどうかの違いだけではないですか? それともわざわざ言わなければ 美の感動は得られないというご見解でしょうか?

 あるいはこういうふうに言いかえればいいのかも知れません。
 ☆☆ つまり 縄文土器は 初めからあったのですから そのままで美を湛えていたはずです。
 ☆ これを 次のようにです。 
 ○ そのモノに美を初めて感じたその時点で その縄文土器はさらにその前からあったという限りでは 《そのままで美を湛えていた》んだなぁと思った。あぁ 知らなかった。
 ☆ という話です。別に《真の美がある》とも――あるいは ないとも――言っていないわけです。その誤解は 現代美術派の主張にまどわされた見方ではないかと考えます。
 それに 考えてもみてください。その土器をつくった人たちも 別に見憎いものを作ろうと思って作ったわけではないのですから その《作品》をうつくしいと思ったのでしょう。そのはずです。だったら《初めから美を湛えていた》のです。《美のイデー》うんぬんという話をそこに差し挟むこと それも現代美術派による悪影響ではないか。こう思います。

 ★ ホキ美術館の写実絵画
 ☆ これが 写真で済むぢゃないかと言われてしまう画法ですね。
 ○ 森本草介:《横になるポーズ》 ――この種の絵は 感性が人格全体としてのそれか または感性のみを言っているのか。ここで見方が分かれると思います。
 ☆ あとは《静物》画を除いて写真ですね。好き嫌いというより 写実画だなぁと。
 静物画は 習作でなければ ねらいをしっかりと定めて画いて欲しいと感じます。うつくしいと言えばうつくしいの部類に入るのですかねぇ。四点のうちバラははっきりしません。

投稿日時 - 2011-01-25 13:24:38

ANo.98

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> 《調性》の何たるかについて 弱っています。

 説明不足でございました。ANo.54のお礼欄におけます「音楽は、調性から解放され、旋律・和声・リズムの法則を失なった。」から、”調性から解放され”の逆の意味でとりました。つまり、
”調性”が存在している = 旋律[メロディー]・(美しい)和声が存在している
 と解していただければ、幸いでございます。誤解を招く表現を用いてしまい、深くお詫び申し上げます。

 なお、12音音楽(調性を欠いた音楽:無調音楽)につきまして、少しばかりお話させていただきます(シェーンベルクの曲を聴き、カンディンスキーが「印象・コンサート( 1911年)」描いたといわれています)。
 この技法はシェーンベルクにより体系化されました。まず、調性とは、その前提に「主音・主和音に基づいている」というものがあります(ハ長調ですと、ハ音=ドを中心とし、ド、ミ、ソ等の和音から構成されております)。
 しかし、12音技法では、オクターブ内の(半音階も含めた)12の音を均等に用います。つまり、ド、ソが来ますと、次には、この2つの音以外の音が来るようにします。そして、12の音全てが現れなければ、これらド、ソの音が来れないようにします。そうすることにより、各音が均等に扱われことになり、その結果、主音が消し去り(調性の前提を崩し)、 理論上、調性が存在しない ということになります。以下に、一例を挙げさせてもらっております(今回は、勝手ながら、弦楽器を用いた曲を選ばせてもらっております)。

A. シェーンベルク「弦楽4重奏曲第3番」
http://www.youtube.com/watch?v=D8_rVwskHDQ 

 先程の、ctaka88様のご意見を拝読させていただきましたが、確かに現代人は「目が肥えた」、換言致しますと、「評論する能力は高くなった」可能性はあるかもしれません。
 ですが、”美”を愚直なまでに、感じ・喜び・感動を見出す「”感性”のようなものが劣化」する傾向にある と愚生には思われたのですが、いかがなものでしょうか。
 
 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-01-24 20:34:46

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ですが、”美”を愚直なまでに、感じ・喜び・感動を見出す「”感性”のようなものが劣化」する傾向にある と愚生には思われたのですが、いかがなものでしょうか。
 ☆ ううーん。確かに 美の体験は無条件だとしたほうがよさそうです。

 次のようにわたしは書いています。
 ☆☆(No.97お礼欄) ~~~~~~~ 
 感性が磨かれるという過程が確かにあるということ。そのときに理性をつうじての思想(生活態度)の練り直しとしての思索も 間接的には美の感覚を磨くのに 寄与していると思われる。
 ただし 美の体験は そのときそのときの理性や思考を超えた一瞬の出来事であるとわたしは考えます。どうでしょう?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは けっきょく―― ctaka88 さんの口調に引きずられてしまっているようなのですが―― 何か心に引っかかっていたりすると美にも気持ちが向かないというようなことがあり そこで少しの余裕を持つことはよいと思われること。これだけを言っているとしたほうがよさそうです。
 言いかえると 《感性が磨かれる》のは すでに美の感動を得つつあり 得て来ている経験の上で ますます感性が肥えて来ることを言うとしたほうがよいと思いました。
 《思索や思想》にしても むしろ美の体験のあとにそれらが練り直されて行く。こう捉えたほうがよいようです。感性は先行しているように思われます。侮れないはずです。その体験の中からこそ 理論や論理が現われて来るとさえ見られると思います。
 このように見直します。



 ★ 12音音楽(調性を欠いた音楽:無調音楽) / A. シェーンベルク「弦楽4重奏曲第3番」
 ☆ ありがとうございます。少し分かった気がします。
 無調音楽も オクターヴ内の音を使うのだとすれば 和音と同じ世界にはあるということでしょうか?
 それでも 違った感覚を与えられるわけですね。
 和音というのは 或る種の仕方で――光速のようにでしょうか?―― 絶対的なものなんでしょうか?
 でも日本やアジアにも別の音楽はあるというかたちになるのでしょうか?


 けっきょくこのシェーンベルクを聞きますと ちょうど現代絵画と同じように 実験をしているというように感じましたが どうなんでしょう? バッハのようなここちよい感じではないですよね。わざと いらいらした感じを出しているようで。
 ★ カンディンスキーが「印象・コンサート( 1911年)」
 ☆ なるほど 分からないではないですね。その音楽を聞いたあとに この絵を見ると。こう画きたくなるということは。ううーん。だからと言って そのまま・このままで 作品だと言われても。
 次で見ました。
 ○ ヴァシリー・カンディンスキーの「印象 場L(コンサート)」 
  http://suesue201.blog64.fc2.com/blog-entry-183.html


 音楽よ おまえもか。と言わねばならないような感覚ですが。

投稿日時 - 2011-01-24 23:42:29

ANo.97

書き洩らしました。

「理性や思考の入る余地のない原始美術」もありえません。

原始美術も、火炎土器も2、3百年前までは、単なるガラクタして扱われていたのです。

これらを美しいと主張する人間が多くなって、初めて美術品となったのです。
製作者は意識に関係なく、芸術作品は鑑賞者なしに成立しません。
そして鑑賞するときには、歴史的な「理性や思考」の積み重ね(この積み重ね=進歩とは思いません)が、美を美として認識させる基となっています。
火炎土器も岡本太郎が言わなければ、もう少し美術品としての評価が低かったかもしれません。

そういうことで、審美眼は変貌し、発展ではないかもしれないが劣化もあり得ない
というのが私の結論です。

投稿日時 - 2011-01-24 15:02:01

お礼

 つづいてですね。

 ★ ~~~~~~~~~
 原始美術も、火炎土器も2、3百年前までは、単なるガラクタして扱われていたのです。

 これらを美しいと主張する人間が多くなって、初めて美術品となったのです。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ これも どの時点を捉えて言っているのかで どちらも成り立つ話だと見ます。
 すなわち(1) 縄文土器の火炎状のかたちが美しいと見るのは 初めに一人の者の美の体験があった。(2) それにつづいてほかの人間も美の感覚をおぼえた。(3) 共同主観ないし共通感覚をそこに見てもよいことになる。
 つまり 縄文土器は 初めからあったのですから そのままで美を湛えていたはずです。発見がどうであったかの問題だけだと思いますよ。

 感性が磨かれるという過程が確かにあるということ。そのときに理性をつうじての思想(生活態度)の練り直しとしての思索も 間接的には美の感覚を磨くのに 寄与していると思われる。
 ただし 美の体験は そのときそのときの理性や思考を超えた一瞬の出来事であるとわたしは考えます。どうでしょう?

 ★ そういうことで、審美眼は変貌し、発展ではないかもしれないが劣化もあり得ない / というのが私の結論です。
 ☆ ところが 近代以降の現代人は すでに審美眼が劣化しているとの見方が 美術界におけるコンセンサスを得ているのだそうです。だから 作品だけでは 美の鑑賞が成り立たないのだそうです。鑑賞者を必要とするだけではなく その作品をめぐる作家や制作事情や時代背景やその作家の交友関係やその思想的な情況などなどを評論として解説し理解しなければ 美の体験は完結しないのだそうです。よ。

投稿日時 - 2011-01-24 16:50:28

ANo.96

bragelonneさん

いつの間にか書き込みが100近くになっていますね。

> その作品じたいの美は やはり画家本人にとっても 一瞬のうちに見て感じるものである。
> こう言い張りつづけています。どうでしょう?

この主張については、私は最初から言っていますが、絶対に同意できません。
ここでいう「一瞬のうちに」とはどのようなことを言っているのでしょう。
私は、それまでの自分の情緒・理性の積み重ねと、共感するものが感動すると理解しています。
したがって、一度見たときは良いと思わなかったものが、何度か目にすることによって美しいと感じられることもあります。

「一瞬のうちに」を強調すると、他の方も言っていますが「絶対的な美の規範」がどこかにあることになってしまい、何度も見る必要はないということになってしまいませんか。

これは良く言われることですが、良いものをたくさん見ることによって鑑賞眼は高まっていきます。
一定の約束事を前提として、すなわち人間のそれまでの歴史的な営みを伴って美術品は成立しています。
「一瞬のうちに」を強調しすぎると、単なる好き嫌いと区別がつかなくなってしまい、歴史的知的蓄積を否定しかねないことになりませんか。

投稿日時 - 2011-01-24 14:38:55

お礼

 スィータカさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ いつの間にか書き込みが100近くになっていますね。
 ☆ わづかに具体例が欲しいと言っていたのが ここまで来ました。

 ★ ~~~~~~~~~~~
 ここでいう「一瞬のうちに」とはどのようなことを言っているのでしょう。
 私は、それまでの自分の情緒・理性の積み重ねと、共感するものが感動すると理解しています。
 したがって、一度見たときは良いと思わなかったものが、何度か目にすることによって美しいと感じられることもあります。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《目にすることをつうじて美しいと感じられる》こと これは その視像を得たというやはり一瞬のことではないですか? つまりそれまでに鑑賞の訓練と言いますか いろんなふつうの(あるいは負の)美の体験を経たあとのことであっても これはという美の体験を得たというのは その見た一瞬のことではないですか? しかもそのとき 《うつくしいと感じる》ことに 理性も思考も あるいはいわゆる理屈の一切が要らないと思うのですけれど どうでしょう?
 ★ それまでの自分の情緒・理性の積み重ね
 ☆ というのは なるほど美の鑑賞のための訓練のようですが その積み重ねがなくても 美しいと感じるときには感じるのではないですか?
 ★ 理性の〔思惟の〕積み重ね
 ☆ これについては 別個に考察しなければならないかも知れません。たぶん情緒を感じるところの感性の磨きには けっきょく理性による思索といった思想(生活態度)の練り直しもかかわっていると考えますが それはどうも直截のかかわりであるようには思わないのですが どうでしょう? 
 これこれの理屈に合っている ゆえにこれは美しいというような感覚のはたらきであるようには思わないのですが どうでしょう?

 その美の体験のあとにそこから派生するかのごとく その作品なら作品についての評論は与えられることがあります。でもその評論は 美の体験から来るものであったとしても 評論ゆえに美の体験を得ると言えるか? 
 もし言えるというのであれば それは その評論家の見方に沿ってその作品についての美の体験を持ったという事件であると考えます。排斥はしませんが ほんとうに美しいのか? と問いたいとは思いますが どうでしょう?

 ★ 「一瞬のうちに」を強調しすぎると、単なる好き嫌いと区別がつかなくなってしまい、歴史的知的蓄積を否定しかねないことになりませんか。
 ☆ すでに述べましたように《歴史的知的蓄積を否定》することはあり得ません。美の鑑賞のときにも はたらくに任せておくのですから。ただし美を感じるのは 一瞬のうちにであるということは けっきょく《単なる好き嫌い》のことであるとわたしは思います。そのことに何ら問題はないとも思います。

 ★ 「絶対的な美の規範」がどこかにあることになってしまい
 ☆ は ないと考えます。
 (1) 初めに《わたし》の美の体験があった。
 (2) その美しいという感覚は どうもその同じ作品を見てほかの人も得ているところを見ると その感覚は人びとに共通であるのではないか? きっとそうである。
 (3) この共通の感覚が 絶対的に・つまりすべての人間にあてはまるかどうか? それは分からない。分かろうとも思わない。たとえば三人に共通であれば そこには主観の共同性があると見なす。この共同主観が 常識である。


 こんなところですが。

投稿日時 - 2011-01-24 16:37:54

ANo.95

>その作品じたいの美は やはり画家本人にとっても
>一瞬のうちに見て感じるものである。
>こう言い張りつづけています。どうでしょう?
>美は 理性や思考を超えていると言いたいわけです。

これは、その通りだと思います。だから理性や思考の入る
余地のない原始美術にもひかれるわけですよね。
ピカソだって岡本太郎さんだって、それから伝わる、
ストレートな生命力のようなものに魅せられたわけですから。

ただ、私の考えていた象徴のとらえかたは、
「はじめにイメージありき」にでてくる象徴よりもすこし
広義だったことがわかりました。

呪術的な意味合いが強い時代は「イメージの記号」って記載されて
ますね。だけど、「きわめて原始的な象徴」といってはいけないの
かなとも、思いましたけど。

じゃあいつから象徴といっていいのかっていうと、実存主義的な話に
なるわけです。つまり、内側からの私と、外側からの私、という自覚
が少し芽生えた頃、人間が亡くなった際に、うわー動かなくなっちゃ
った。お祓いしなくちゃって時代はまだ、「イメージの記号」です。
その時は記憶がもとに描かれている。動物を描く時も、今度、これ
とって食べようってことで、現実感まんまのイメージで即物的です。

だけど、いつかはだれでも死ぬのか、じゃあ自分も死んだ時どうな
るのかな、肉体を離れて、あの世に行くのかな、ということで、
つくられるオブジェは、超越的な存在とリンクさせるような意味がこ
められるようになって、とすこし観念的な意味が込められていること
を象徴と言っているみたいですね。

もう少し読みたいと思います。
また「現代美術論」も手に入ったら読むつもりです。

頑張ってください。

投稿日時 - 2011-01-24 13:19:35

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~
 だから理性や思考の入る
 余地のない原始美術にもひかれるわけですよね。
 ピカソだって岡本太郎さんだって、それから伝わる、
 ストレートな生命力のようなものに魅せられたわけですから。

 ただ、私の考えていた象徴のとらえかたは、
 「はじめにイメージありき」にでてくる象徴よりもすこし
 広義だったことがわかりました。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここからはいくつかの主題が見て取れます。
 (1) 《象徴》の時代になったあとも けっきょくは《美は 理性や思考を超えていて 見たときの瞬間におぼえる》ものである。それでよいか?

 (2) その《象徴》が人びとの観念に加わるというのは 《抽象》としての表象とどう違うか? 
 お日さんとお月さんから《ひかり》を一般的な観念として抽象したというとき それはたぶんまだ《象徴》にはなっていない。
 したがって人びとの考えにおいていい考えがひらめいたというとき そのヒラメキを《ひかり》にたとえることが起こる。《ひかり》は 頭脳の象徴になりうる。
 このように抽象化や象徴化を経ても 美の体験そのものが理性や思考を超え その視像の一瞬の獲得において得られるというのは 変わらないであろう。それでよいか?

 (3) つまり原始美術もその後の知性人間の時代の美術も 美の体験のあり方としては 変わりない。か?

 (4) それでも岡本は みづからの美術作品は 抽象的な作風であった。ピカソは みづからの《そのものから伝わるストレートな生命力のようなもの》を そのままには再現せずに 別の画法であらわした。

 * なお《知性人間》と言ったのは 
 ★ 人間が亡くなった際に、うわー動かなくなっちゃった。お祓いしなくちゃって時代はまだ、「イメージの記号」です。
 ☆ を超えて出て来た人間のことです。
 ★ いつかはだれでも死ぬのか、じゃあ自分も死んだ時どうなるのかな、肉体を離れて、あの世に行くのかな、ということで、
 ☆ というふうには必ずしも考えていません。みづからの生についての限りある時間をさとったという意味での(それだけでの)歴史知性を得た人間を言いました。

 * 《オブジェ》という場合には たぶんその作品がまだそれだけでは(あるいは 作者の主観においては完成されていたとしても 観衆に見られることによってあたかも作品が作品として世に出たというような捉え方をするのでなければ) 作品ではないと見る場合を称して言うようですね。
 わたしの見方は 作者の主観においても その見た瞬間に完成しており 美の体験が起こると見ますし 鑑賞者が見たその瞬間にも美が感じられるのだと捉えています。つまりわざわざオブジェと言う必要を見ません。どうですか?

投稿日時 - 2011-01-24 16:14:15

ANo.94

たぶんそういうことでいいと思います。だから

1.作品がオブジェとして即自的に完結することと、
2.普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、
この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む。

1.と2.は、今後のテーマであると言いたいのだと思います。
それで個人的には今は2.に特に注目してみたい気分ということです。

何か進展ありましたか、あったら教えてください。

投稿日時 - 2011-01-23 15:38:16

お礼

 ★ 何か進展ありましたか
 ☆ わたしも知りたいところです。いまは水面下に潜って動きがあるのかも知れません。ないかも知れません。

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~
 1.と2.は、今後のテーマであると言いたいのだと思います。
 それで個人的には今は2.に特に注目してみたい気分ということです。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから そのような《いばらの道を芸術家は歩むことになろう》と見ているのは 木村です。
 わたくしや ひどっちさんの見方としては ただいまこの場で即時に一瞬のうちに 美が美なら美は感じられるというものです。

 画家がその美をあらわすためには 描くということだけでも時間がかかります。つまり画法などの技術を含めて苦労するのは たしかに時間過程をたどるということですが その作品の完成にいたれば その作品じたいの美は やはり画家本人にとっても 一瞬のうちに見て感じるものである。
 こう言い張りつづけています。どうでしょう?
 美は 理性や思考を超えていると言いたいわけです。

投稿日時 - 2011-01-23 15:51:06

ANo.93

zakky74でございます。

>> ところで、bragelonneさんが仰る「いい画家」というのは、僕の判断基準によるいい画家という事だったのでございましょうか? それとも、一般的に言う判断基準によるいい画家という事だったのでしょうか?

> まったく無条件で問うています。もしどうしても特定してくれということでしたら たとえば
>> 美を感じる事もございますが。 / 感じない事もあります。
>> 平面的な絵と言うんですかね?
> というような場合にすでに用いている《判断基準》でいいわけです。

なるほどですね。

>> 《イメージ》について答えをお持ちだとうかがったのですが この質問は《審美眼》と言っていますから イメージについても美の問題から明らかにしてもらえるとうれしいです。

イメージについて答を持っている僕ですが、判断基準の問題性を超える姿勢をbragelonneさんに感じた時には自然と伝達が起きている事でございましょう。現段階では、bragelonneさんはご自身の判断基準を横に置いておく事をしないと選択していると、僕は判断しております。ただ、人間の判断基準には不完全性がありますから、判断基準に対する判断が働く時にはいつでも判断基準は変化するものでございます。

審美眼ですが、僕は美しく観る目の事だと思っております。

観る目と言ったものの、五感覚的な目で見る事も含みますが、美しく観ようとする心によって積極的に美を感じにいく認識センス、感動センスの事を特に審美眼だと理解しています。

本当は、美しい存在も美しくない存在も、存在しません。存在は、存在しないからです。存在が存在している事そのものが、錯覚の世界でございます。

存在が存在している事が錯覚なのですから、美しい存在、美しいモノというのは存在しません。

ですが、まるでそれがリアルであるかの様に成り立たせている仕組み・メカニズムが、存在が存在しているという錯覚を創り、存在が存在している様に見せてくれています。

存在は存在しないものなのに、まるで存在しているかの様に見せてくれている・・・これは素晴らしいアートでございます。神秘そのものでございます。

ところで、ゴッホの絵やいい画家について尋ねられましたが、僕は絵を通しての美を語るには余りに材料を持ち合わせておりませんで、中々に恐縮なところはあるのですが。

似顔絵を描く人がいます。

似顔絵を観ていると、僕からは精密に見れば同じものとはとても思えないのに、似てる!と驚かされる時があります。そうした時、フッと笑ってしまったりするのですが、形で見た場合には似ていないのに似てる!と心が判断が動かされている事に気付き、これは僕自身でも明確に捉え切れてはいないけれども、しかし十分に感じていた世界はあって、それを似顔絵を描く人がうまく捉えて描いたのかしら・・・などと。

一体、どうしてそんな事が可能になっているのでしょうか?

ここには、幾つかのキョリや格差が存在しています。そんな、キョリ間や格差があるものを超えていこうとする姿勢にも、美を感じます。

投稿日時 - 2011-01-23 07:14:39

補足

 誰にというのでもありませんが。


   わがこころのよわさとゆがみをみそなわすほどに

   ためらいたまうことなかれ。

   けれども みこころのままに。

投稿日時 - 2011-01-23 14:48:56

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ここには、幾つかのキョリや格差が存在しています。そんな、キョリ間や格差があるものを超えていこうとする姿勢にも、美を感じます。
 ☆ これは 《似顔絵》について述べておられます。絵画については どうでしょう? というのがこの質問の趣旨です。

 これまでこの質疑応答で触れられた作品については どうですか? それぞれの判断基準の違いを超えて いわば人びとに共通の美の感覚があるでしょうか? あると思われるでしょうか? あるとは思われないでしょうか?

 ○ ワシリー・カンディンスキー
 http://art.pro.tok2.com/K/Kandinsky/Kandinsky.htm

 ○ フィンセント・ファン・ゴッホの作品一覧
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B%E3%81%AE%E4%BD%9C%E5%93%81%E4%B8%80%E8%A6%A7

 http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gogh.html

 ○ 装飾古墳データベース:文様一覧表示
 http://kyuhaku.jmc.or.jp/index.php/1/-/-/-/-/-/-/m_frame.php

 ☆ 多くなるとご面倒でしょうので このあたりで。どうぞごゆっくり。

投稿日時 - 2011-01-23 11:12:08

ANo.92

ひどっちさん、わざわざありがとうございました。どういたしまして、お気になさらずにいてください。

さて、ブラジュロンヌさん、
わたしも、ちょうど今ヤナーチェクを聴きながら調性について考えていましたよ。
懐かしいリンクがいくつか貼られていますので、聴きながら開けて眺めてみましたが、

【なぜ神はイエスをこの世に送ったのか】

ああ、アレクサンドリア図書館の話を書いたな、とすぐに思い出しました。
キリスト教権力によるヒュパティアの惨殺はご存じですか? ぜひウィキペディアご参照を。 

ご存じと思いますが、
ヨーロッパの歴史には、キリスト教権力が追い払った、悟性と哲学と科学の別の歴史がありますね。
歴史が、澄んだ水の一直線に流れているようなものではないのはあたりまえで、
掻き回した沼のように濁った時期が、通史を編めば要所要所にあります。
これが、「歴史の濁り」とわたしが言ったもので、あの文脈の場合、新プラトン主義の学問を捩じ伏せたことです。

「濁った精神」とは、キリスト教会の教えや、キリスト教徒の盲信の精神のことです。
つまりあの質問者さんが回答を引き出そうとしているキリスト教の精神です。

歴史の濁りと濁った精神というのは、間違った真実と正しい嘘、のようなことを念頭に置いているのです。おわかりですか。

わたしの呟きが、ブラジュロンヌさんのことであるように響いていたとは、驚きだな。
なるほどあなたは人並みに濁っているかもしれませんが、歴史と並べて評されるほどの器じゃないでしょう。意味不明でしょう。

あなたの世界には、きっといろいろな響きが沸いているのでしょうね。

少しはご自分のことにがっかりしたなら、わたしを「さん」付けでお願いしますよ。少しはがっかりしてほしいですね。どうせ体は元気なんでしょう。

投稿日時 - 2011-01-23 02:42:33

ANo.91

 こんばんは、Hidocchiでございます。

 今回は、ご質問者様、雨合羽様にお詫び申し上げたく、投稿させていただきました。

 先程の、ANo.87の回答欄にて、雨合羽様に対する愚生の一方的な誤解がございました。この場をお仮し、深くお詫び申し上げます。 

 誠に申し分けござませんでした。

 Hidocchi 拝

投稿日時 - 2011-01-22 23:16:46

お礼

 《調性》の何たるかについて 弱っています。
 聞いても捉えられません。と白状しなければならないかと思います。
 ヰキぺは読みましたが 少しづつでもまなんでいければよいと思っています。
 ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-01-22 23:29:01

ANo.90

おや、ひどっちさん、あらためましてこんにちは。
それは誤解でしょう。
お挙げになっているリンクは、3と25がわたしの書き込みです。

ブラジュロンヌさんは、ちょっと悪い癖だと思うのですが、ましゅまろさんとわたしのあいだに、
何かを読み間違えたのだと思います。
3でとんちんかんな応答をブラジュロンヌさんから補足にいただいてしまったのです。
猪突さんまでひっぱりだしてきています。ザビーヌに関する質問で何かを読んだように感じたらしいです。

そこで、わたしは何をどう書くか迷いましたが、25に、優しい言葉を選んで思い違いに気付くようにと配慮しているつもりです。
猪突さんとえらく仲良しに見えたらしいことについては、物理屋さんとは結婚しなかったが交友は好きである、と自分の身の回りの話をして濁しました。猪突さんは物理屋さんでしょう。ちなみに直接お話ししたことは一度しかないのですがね。

ひどっちさんのお書き込みは、申し訳ないですが読ませていただかなかったのですが、何かお気にさわりましたか。お話の機会があればどうぞ今後ともよろしくお願いします。

投稿日時 - 2011-01-22 15:14:29

ANo.89

「はじめにイメージありき」はもう少しじっくり読み進めたいと
思っています。「現代美術論」は人気があって、手に入りにくい
かもしれません。

崇高へのベクトルの話ですが、象徴となりえないオブジェがあると
言う話なんですが。

カテゴライズ大好き人間じゃないけど、なにを象徴しうるかという話

A.どういう感じ、感覚、精神状態、こと、

B.もの

C.直接なにかを象徴しないけど、直接的に人間の内面に働きかけてくる
  デザインに近い作品、だけど、その作品の出会いのエピソード自体が、
  象徴なりうる

それ以外に

D.何だろう、と問い続けるしかなく、何らかの感覚は喚起されるが、
  それがなんであるか分からず、今まで体験したことであるか、
  体験したこともないのかもこたえられず、ただそれは孤独に閉じている

こういうものは象徴なりえません。でも、これはこれでもう、いっちゃってる
からいいのです。科学や分析が追い付きいつかは象徴なりうる可能性を秘めて
いますので。

ただ、「象徴なりえないこと」だけを目指しているだけの作品を自閉的と
いいたいのです。

ですので、例えば昔昔はただ神秘で物質だと認識されていなかった、光や、
その媒体となるガスと光の関係が分析され、色との関係が明らかになった
としてもじゃあそれを現代人がみて、神秘的だなあと思わないかっていえば、
思うわけで

遠近法や、写真技術が発達して、空間を2Dに展開する技術が発達しても、
ダビンチの緻密な画法には感嘆させられるわけで、

そういう懸念よりもやはり、自閉的になりすぎていることの方がより、
懸念されると、個人的には思うのですが。

投稿日時 - 2011-01-22 15:00:42

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ふううむ。もう一回 ふううむ。
 たとえばこうですか?
 ○ 絵も自己表現として自分の美の体験を表わして行けばよい。よいのだが その描いた結果として 何も見る人に分からないようでは あまりにも自己閉鎖的である。
 ぎゃくに自己閉鎖的な気分でいたとしても 自分にとって確かな美の体験にもとづき画きたいものを画く。その結果が 見る人にその美をやはり伝えているということもあるかも知れない。
 いづれにしても 人をも感動させうるとみづからの自信のある作品を発表してくれ。

 ☆ 《象徴が通じる》というのは こういうことを言うのですか? そして通じない場合は 問題だと。

投稿日時 - 2011-01-22 20:22:26

ANo.88

私は敵も味方もないという立場です。凹ませる気もありません。これで投稿文を何度か考え、時には数時間使っているのです。が、貴方を咎める以上の内容になりませんでした。それは無意味だと思い、草稿は何度か破棄しました。どう応答したものか、迷っています。
リンク先も読み、正直、納得できず、貴方に呆れました。雨合羽さんの記述が論理としてダメというのではなく、人間として雨合羽さんの記述には信頼が置けないと述べているように私には思えていますが、そういうことなのですか。しかし彼女は貴方がバッシングに合っている時、嗜めてくれた人ですよ(「他人をつかまえてそうやって病気とか言わない」)。
貴方はこのような点に一切触れないで、彼女が上目線で答弁した箇所だけ集めてらっしゃる。そして雨合羽さんに関する限り、貴方を攻撃したらしい質問欄よりも、ひどい誹謗中傷になっています。というのも、その設問者は貴方の個人名を挙げてもいないし(お礼欄のやり取りで、わかる人にはわかりますが)、貴方の過去の質疑応答を具体的に示してもしていません。

更に貴方にとって悪いことに、貴方が私のお礼欄に書いてしまった理屈だと、様々な人が貴方の質問欄に出入り禁止になってこそいないが、「犯罪者」のような対応を受けると最初から決まっているように見えています。嘘でしょう?と思いましたが、他の設問欄の「へらず口」の回答を見て、どうも本当らしいと思いました。いや、慎重になることをお勧めします。
貴方がこの投稿に対して「へらず口」を書くのなら、むしろ私に応答しなくても構いません。それは私が嫌だというのではなく、貴方の信用力がこれ以上落ちても、何にもならないからです。私は基本的に、設問者のためにしか投稿していません。当初の私の目論見を改めて書いておくと、私が「いけないことですよ」と嗜めた時、敵に回るつもりではなく、貴方がちゃんと応答なさると思っていたのです。そしたら貴方の信用も戻るだろうと思ったのです。折も折、貴方をバッシングする質問欄が立っています。あそこに書いてあることを、再度やったら貴方にとって致命的です。しかし雨合羽さんに関して、貴方は身をもって証明してしまったと私は見ています。私は補正するつもりでした。しかし失敗しました。貴方はいかに彼女が信頼に足らないかを力説し始めましたが、主観的なルサンチマンにしかなっていません。残念です。

ひょっとしたら、貴方は疲れているのではありませんか。貴方は「罪を憎んで人を憎まず」であり、コミュニケーションのためではなく、情報交換をしたくてこのサイトに来ていたはずです。であれば、惜しみなく仮説を開陳した雨合羽さんは上客のはずです。それなのに個人の人間性を問題にするとは、何かが変です。別に私生活を話す必要はないですが、何か大変なことでも起きたのではありませんか。だとすれば、一カ月くらい、カメラでも片手に旅行して、休んだ方がいいでしょう。もう少し貴方は慎重な方だと私は思っていましたが、ここまで波風を立ててしまうとは、この設問の「フィナーレ」を貴方はご自身の退会をもって締められるのかな――とさえ思いました。いやいや、それでは陶片追放されたようなものですから、貴方も潔しとなさらないでしょう。
回答者を敵とみなすことについてですが、聖書の「放蕩息子」のエピソードはご存じでしょうね(第三者が閲覧しても放蕩息子で検索すればすぐに見つかる話なので説明は省略しますが)。出て行って舞い戻った息子に、父は「この息子は死んでいたのに生き返った」と祝福して迎え入れたのでした。貴方がこの父のように振舞うことができないのはなぜなのでしょう。人を「ゾンビ、亡霊、敵」=信頼できない相手だとか決めつけても、何もなりませんよ。そんなレッテル貼り、誰でも出来ることではありませんか。生かそうとする時に、その人が問われるのではありませんか。

投稿日時 - 2011-01-22 12:20:05

補足

 るせえっ! と言われるのを承知の上で つぎの質疑応答をお知らせします。抱腹絶倒となっても わたしは知りません。

 ○ 【Q:ザビーヌ事件について】 ~~~~~~~~
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5548780.html

 [回答]
 amaguappa :No.3&8&12&16

 cyototu :No.9

 mashumaro2 :No.13

 ri_rong :No.15&17&18

 Hidocchi :No.11&14&19&20

 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2011-01-23 15:35:50

お礼

 お考えになっていますね。という表現を使うと茶化すことになりますが まづはご回答をありがとうございます。

 今回は ところが茶飲み話で済みそうです。中身は高尚ですよ。

 《放蕩息子》の話が出て来るのでしたら 確かに話題は 論理をたたかわす次元を超えて
 ★ それなのに個人の人間性を問題にするとは、何かが変です。
 ☆ の次元に移っているのです。

 ★ 私は基本的に、設問者のためにしか投稿していません。
 ☆ もしこの基本に従うというお話でしたら わたしの場合には 以前に思惟と境地とのふたつの領野を指し示したとおりに 上の《人間性の問題》に触れることを避けていません。相手に向かってしゃべっているという意味です。

 荒らし屋の話が出ましたが かれらは言わば好んでわたしの質問にやって来ました。その最高(?)記録は 回答数が三百件を超えたものです。(あとでは 削除がなされて 百件が残ったかどうかですが)。何が言いたいかと言いますと わたしは《相手に合わせてものを言っている》ということです。鐘になって 相手の撞き方に応じて鳴ります。それを連中はおもしろがったというところでしょう。

 何が言いたいか? 人間性の問題に触れることを避けないで じっさいあなたも指摘されるように しかるべきときには 触れている。そういうふうに鐘を撞いて来ている。これを言うのみです。
 
 感性と理性を離すべからずですが 思惟と境地とをも しかるべきときには 切り離す必要はない。こう考えて実行しています。すべての人に対して それぞれその人のようになります。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 雨合羽さんの記述が論理としてダメというのではなく、人間として雨合羽さんの記述には信頼が置けないと述べているように私には思えていますが、そういうことなのですか。
 しかし彼女は貴方がバッシングに合っている時、嗜めてくれた人ですよ(「他人をつかまえてそうやって病気とか言わない」)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 第三者であるあなたやほかの方々に分かるかどうか
 ■ (「他人をつかまえてそうやって病気とか言わない」)
 ☆ この命題は 《病気である者に対しては そのように病気のことを出すことは控えよ》と言っているのです。これは クリヤさん絡みの質疑応答で それまでウラでくすぶっていたこの発言者の思いが オモテにも出てしまった。その途端そのわたしの質問は 削除されてしまった。(でも前回出した【Q:思想としてのゴロツキや・・・】は その削除質問に近いものです。内容にしても回答者の顔ぶれにしてもです)。そういうふうに事態は推移して来ています。


 雨合羽というのは 森進一のおふくろさんの歌にあるように 困っていて弱っているひとに――この質疑応答の場でも あるいは この場でこそ――傘を差し出すという意味があると いちどその説明を本人から聞きました。わたしはそのこころざしを思って 何度かゆづるということを行なって来たのです。いたづらに。
 つまり 鐘の鳴り方を 撞き方に応じないで この蓑笠に対する場合には 控えて来たのです。
 まぁ どういういきさつか知りませんが このたび晴れて 大団円を迎える。こういう運びになっています。

 わたくしの信用も省みず あるいは ほかの方々の問題〔があるとすればその問題〕もほっぽり出して このひとつの問題にのみ――九十九匹よりも一匹を重んじ その人と同じようになって―― 対処している。これのみです。
 ★ 出て行って舞い戻った息子に、父は「この息子は死んでいたのに生き返った」と祝福して迎え入れたのでした。貴方がこの父のように振舞うことができないのはなぜなのでしょう。
 ☆ 舞い戻って来ていないどころか 心に還り見ることもしていないからです。ただし 人間であるわたし自身が《父》だというたとえは ズレているでしょうね。




 さいころくん どぢゃ?

投稿日時 - 2011-01-22 13:21:51

ANo.87

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

 勝手ながら、「小休憩」を挟むご無礼をお許しください。

> ベートーベンのパテティックは 最近なかなか面白いと思って来ているのですが 何か聞き方といったようなことがありますか?ベートーベンの余韻を残して エリック・サティを聞くとじつによろしいと思っています。

 今回、聞きなおしてみました。第一楽章はとても重苦しく、強弱を付けたベートーベンらしい曲かと思われます。悲愴感、絶望感を訴えておりますが、ソナタ形式という“形式”がかろうじて、その爆発を押しとどめているように思われます(これは個人的印象でございますが、ハ短調と申しますと、例えば、ベートーベンの第五交響曲等、特有の緊張感があるように見受けられます)。
 次の第二楽章でございますが、前楽章とは対照的に、やさしく語りかけてくるような曲想かと思われます。おそらく、ベートーベンの曲という知識を取っ払って聞きますと、“中期ロマン派”の曲だと言われましても、納得してしまいそうな旋律美が見られます。
 そして、終楽章は、第一楽章と同様ハ短調に戻り、緊張感のある曲へと戻ります。
 全体的に、緩急を巧みに取り入れた曲で、様式的にも非常にしっかりとした、決して飽きがこない名曲かと推察されます。ですが、これがサティともなりますと、ぐっと自由度が増します。これらの緊張感からの開放、もしくは、第二楽章からさらに自由化された曲想等が強く印象に残るかと推察されます。
 もちろん、以上は愚見でございます。ご質問者様が、さらなる感動ができるよう切に願っております。
 
> ワーグナーの調性問題につきまして

 以下に、数曲列挙させていただいておりますが、調性は存在しているように思われますが…..
 なお、作曲の順は、ローエングリン → トリスタン → ジークフリート →(この間に“神々の黄昏”がきます)→ パルシファル となっております。
 お暇なときにでも、BGMのつもりでお聴きいただければ幸いでございます。

ローエングリン 第一幕への前奏曲
http://www.youtube.com/watch?v=92zOcbPfPjo 
トリスタンとイゾルデ フィナーレ
http://www.youtube.com/watch?v=qGbmjX7AYyU&feature=related 
ジークフリート 第二幕から
http://www.youtube.com/watch?v=6egZr8-8k2k&feature=related 
パルシファル 第三幕から
http://www.youtube.com/watch?v=DwdYZWFrBBM

> その他

 雨合羽様のお話が出てきましたが、以前のご質問「思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが」http://okwave.jp/qa/q6092710.html にもございましたが(かような公的な場所での発言でございますので)、愚生に対しましては、あまり良い印象をお持ちでないように見受けられました(嫌われているのかな?)。女性に疎まれるのは慣れておりますので、別段気にはしておりませんし、直接衝突したこともございませんので、別段愚生自身は不快な感情は持っておりません。ただ、今まで以上に悪い印象も与えたくもございませんので、可能な限り直接の意見交換は避けるようにはしております。たらこさんにしてもそうでございます。以前、直接の意見交換をしたことがありましたが、モメただけでしたもので..... 何か建設的なものが得られる可能性があれば、たとえモメルと分かっていましても、お話をさせていただくのですが。
 
 とりとめのない話に終始してしまい申し訳ございませんでした。

 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-01-21 23:51:30

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 【Q:思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが】
 これについて思い出させてくださってありがとうございます。そこで書いたいきさつは ヤクタアレアエストさんに おぎないとして書きこみました。くわしい説明になっていると思いましたから。

 ★ ワグナ― 調性
 ☆ は 時間をかけて聞きます。

 ★ 第一楽章はとても重苦しく、強弱を付けたベートーベンらしい曲かと思われます。悲愴感、絶望感を訴えておりますが、ソナタ形式という“形式”がかろうじて、その爆発を押しとどめているように思われます。
 ☆ これがですね 初めのダーン ダダダダーンのところからみんな たのしい調子で聞こえてくるものですから。軽い調子と言いますか 明るくたのしい感じです。重苦しい中にと言うべきでしょうか。重苦し感じと重なったかたちと言うのでしょうか。
 これは 楽観の音楽だと思うようになったものですから。まったくただの感覚としてです。すみません。そんなあやしい聞き方で。


 ときの満ちるのを俟ちます。

投稿日時 - 2011-01-22 00:55:45

ANo.86

 もうひとつ。

 過去の質問者さんとのやり取りで、「本当に許せなくて」回答したことに対して「じゃれ付いている」という発言をした、ということに尽きますね。「じゃれついている」に対しては「憤りがある」と言っていることを理解してください。

塵だのなんだの他者を貶めることをしないで、まず自分の頭の上のハエを追い払うことに専念したほうが良いと想いますよ、amaguappa君は。 



抑圧されたが故に生じた支配欲による情動が働き、それらが今までの作文となっているようです、自覚はないでしょうけど。親の罪が子に伝わり。


基本的な理解力をつけられますよう、参考までに。
http://okwave.jp/qa/q6430103.html

投稿日時 - 2011-01-21 22:57:23

ANo.85

ああ、それからamaguappa君の勘違いと挙げ足取りを防ぐために書いておきますが、憤り、「本当に怒っている」と表現したのは、amaguappa君が「じゃれついている」と評した回答群に対するその当時の言とその当時の姿勢であって、現状のことではないということだけを伝えておきたいと想います。まあ、こんなことは普通言わなくても理解できるはずだと思うのですが、念のため。

それから、似たもの同士は普段は基本的に気が合うが、似ているが故に部分的、そして一時的に反目もしあうのではないか、とも想います。

それから、ついでにもう一つアドバイスを。

>われらが審美眼は 劣化したか

 われら ではなく、個人単位で考えるのが正解だと想います。個人差もあり、時代によって環境も芸術作品も変わっていますので...。

投稿日時 - 2011-01-21 22:28:24

ANo.84

いましがたの投稿との間に何かの塵がはさまっていますがそれはいいとして、

ひょっとするとブラジュロンヌさんは、
「作家のうちで、弁証法的過程は済んでいすると、わたしも思いますよ」
を、
「作家のうちで、あなたのおっしゃるような弁証法過程は済んでいると、わたしも思いますよ」
と思ったのですね? ちがいますか?

弁証法的過程などは、制作において、作品を客観的に自律させることにおいて、済んでいるのが当然のことです。主観性から、作品の自律が招かれるのではないはずです。これは美術史上の重要な議題で、モダニズム考の要となっている事柄です。objetをめぐる自律性についての議論は、演劇性などの用語を生みだしており、緻密に扱おうとするととても難しいものであると思います。自律性そのものが神話幻想であるとする議論もあるでしょう。しかし、わたしは、主観を否定するように屹立してくる客観性というものが作品にはあると考える者です。
こういう、あなたのご質問には触れない問題圏をふまえて、わたしは、作家のうちで弁証法的過程は済んでいるとわたしも思う、と言うのですよ。

あなたのお考えを敷衍したところは、わたしの論説には微塵もないのですから、あなたのお考えをわたしが取りあげていないことは、お読みになればわかると思っていました。

こんなところですか? ここに誤解があるのでなければ、もはやわたしにはあなたの思考回路における理屈の出所がわかりません。

投稿日時 - 2011-01-21 22:12:21

ANo.83

さて、カッパ先生が「常識のない~」で言われたことが意味が解らず、しかし批判されたのを見たせいか悔しくて自暴自棄的な対応をしてきていますねw

以前、質問者さんを賞賛(に近い評価を)してきたカッパ先生は、雲行きが怪しくなると見るや徐々に距離をとり始め(計画的に?)、しまいには質問者さんを貶める文章を書くようになってしまいました。

以前nanaに尼河童の評価を求めたところ、「アタマ悪いんじゃないかしら。」と言っていたのですが、今となってはそれが身にしみてわかるような気がします。

最初の勘違いを直せぬまま、自分も親のようになって子育てをしいる河童に以前「次の機会は完全に独りになってからです。」と言いましたが、やはり意味が解らないのか、それとも認めたくないのか相変わらず変わってませんね。人間、変わるべきときは変わらなければならないのですが、精神的忍耐と現環境の持続を必要とする子育に携わっている河童先生に今何を言っても無駄でしょう。そういう意味では河童先生は今、変わったら壊れてしまうかもしれませんね。

変わることが出来ない、という意味においてはある意味質問者さんと一緒で、ここで自慰的な詩を披露しているamaguappaさんと同じですね。質問者さんとは気が合うのはやはり理由があるのです。

amaguappa君が、まさに自分を投影して「自分の重要性を認めてもらいたい」、そして自分の恨みを他者に投影して「恨んでいる」と叫んでいるのは見ることで、質問者さんにとっても良い反面教師となるのではないでしょうか。

甘えているが故に「じゃれ付いている(甘えている)」などと判断する人間に対して憤りを感じるのは誰でも同じでしょう。それを恨んでいる、などと発言しているのは理解に苦しみます。快楽犯気味になっている感があります。

>われらが審美眼は 劣化したか

もし、人によって認識力の「劣化」があるとすれば、例えばamaguappa先生の幼児期の人間関係を推察することで解るのではないでしょうか。


カッパ先生は、ただの先生ではなく、やはり反面教師だったのですね。人を落とし、自分を高めるテクニックは芸術的、とも言えます。なぜ「目を三角にして吊り上げて怒っている」とか、「似た者同士の群におけるカタルシスをかけた交歓である」と判断したのか、その根拠はおそらくないでしょう。それこそ自分の感性のみで判断し、決め付け、絶対に意見を変えない、という意味では似たもの同士で意気投合することもある(あった?)のでしょう。

でも、嫌いではないですよ。それなりに良いキャラクターであり、人間の精神の複雑性を、良くも悪くも実感できます。

投稿日時 - 2011-01-21 21:43:59

ANo.82

あら、ましゅまろさんにわたくしが?

「肥やしにならないものを汲み取りません」

て、笑うところですよ?

肥溜めをご存じないなんてことはないでしょうね。

あはっ。

こういうことがわからないのは、寂しい人生ですよ。

投稿日時 - 2011-01-21 18:34:19

ANo.81

サイコロさんどうも。でも疲れるだけかもしれませんよ。何が疑問点なのかわたしにはわからないですね。ブラジュロンヌさんの思考回路を代弁できる人がブラジュロンヌさんには必要でしょう。わたしはなんだか算数の初歩のつまづきのある子供の数式を見ているような気分になってしまう。

ブラジュロンヌさん、例の「第三者から上記(じゃれついている)を言われるなり目を三角にして吊り上げ」るのはその直前の投稿者である、変名のowls-jp君。彼はあなたにじゃれているのではないといってわたしにずっと怒っているんですよ。本気なんですって。ナナたらこさんは言われたことにずっと無関心でしてね。慎重な姿勢ですね。 
「自分の重要性をみとめてもらいたい」ということにかけては、持論を熱心に展開する市井学者であろうと、じゃれていると言われて恨む噛みつきっ子だろうと、同じなのだから、owls-jp君は何故じゃれていると言われたことを恨めしく思うのかを自覚してみたまえ、という意味ですね。
でもそしたらね、本気で殺人をするのだってじゃれていると言われかねない、と言いだしました。
この本末転倒ね。そうじゃないでしょう。本気で殺人をするのだって、自分の重要性をみとめてもらいたいということになりかねない、というなら間違っていないけれども、そうすると、じゃれていると言われて恨む人と、持論を普及運動する人に加えて、本気で殺人をする人が、重要性をみとめてもらいたい群に一つ増えるだけですね。
で、これらがインターネットの文字列で、人格否定を互いにしあうということ、これは、似た者同士の群におけるカタルシスをかけた交歓なのです。

ところでサイコロさん、わたしが固有名詞をほとんど書き出さないのは、QAサイトで学生さんの論文の餌になどなりたくないケチンボだからです。ご推察済みのように、餌にふさわしい「優等生が書く答え」を書いているのですが、机上の勉強で掻き集められることを書いているわけではなく、とくに美術で言えば、主要な作品群と主要な展覧会は自分の足と目で追い、主要な研究者や批評家の書く物を読み、一定のフィールドでの討論会や講演会の常連みたいになって、自分で感性と知識を蓄える努力をしないようなPC閲覧者などに、レポートや論文の下書きを作ってやりたくないのです。どのみち、展覧会を好んで、現代美術に関心のあるような方ならば、どんな作家の話をしているのかは容易に想像できることですし、カタログや講演によく触れている方ならば、自然に身につく歴史観に照らし合わせていただけることであり、オーソドックスな研究書や批評というのはそんなに数多いものではありませんからすぐに手が届くでしょう。
もちろん論文などでこんな根性を起こしてはいけません。だってどこかの別のすぐれた論文の註釈に書かれるための信用取引みたいな仕事ですから。

投稿日時 - 2011-01-21 18:15:00

ANo.80

私の知らぬ確執が、いろいろあるのですね。とはいえ、おっしゃるリンクに飛んでみましたし、天皇に関する貴方の過去の質問欄は全部追ってみましたが、楽しそうに話しているではありませんか。件の「常識のない高齢者……」のNo30ですが、これは貴方を誹謗していると私には思えません。が、貴方にしてみれば、そこに書き込んでいる時点で敵対しているのかもしれません。
しかし、どうなんでしょうね。じゃれているのは、私も含め、皆、同じようなものでしょう。「じゃれている」かどうかといわれると、貴方がaとcの矛盾だとか食いついていると、第三者として私もわからなくなってきますよ。

ac矛盾ですが、むしろab矛盾のようですね。とはいえ、貴方の反論を検討しました。保留付きで、aが譲歩だという読みはありうると認めていますね。私が字面を追う限り、何の変哲もない、普通の譲歩です。貴方の議論とは一線引いたのでしょう。しかし、それなら、なぜ彼女は質問欄に参入してきたかと居直っていますが、参りましたね。
貴方の項目に応答すると、
・あ:明らかに違うので、述べないでもいい。
・い:普通の譲歩の表現に見える。
・う:それを言ったら何事も終わりだと思う(「わざわざしゃしゃり出てくる謂われはない」)。

うに関しては、私もそうなんでしょうね。貴方が私を捕まえて、質問を浴びせかけたという側面があったという印象を私はもっているけれど、ただ、最初から相違点が明らかだったのは私のことですし、だから貴方の欄には例の事件があるまで、投稿しませんでした。
ただし、これを言い出したら、貴方の質問欄には同じ意見をもった人以外投稿してはならないということにもなるでしょうね。しかし設問には、違う意見の者がいたら「問い求めたい」と書いてるのだから、次回からはともかく、今回は謙虚になった方がいいのではないですか。少なくてもこの質問欄で、雨合羽さんは真面目に議論したように私には思います。一般論ですが、中身のある議論をしようと思うと、かなり体力を消耗します。彼女は持論を惜しみなく展開した以上、貴方を話相手として認めているのだと思いました。それではいけないのですか。

それから私から振った1から3の言い換えですが、今回の私は批判しているつもりはないのです。1と2は基本的には私の書いたものをパラフレーズして同意していると思えました。3については、他の要素も強調なさっていますね。私は残念ながら、貴方のレトリックの微細な表現がつかみきれないところがあります。「ゾンビ」「幽霊」とは何なのだろうと、よくわかりません(AとBの関係はCとDの関係と同じ、という説明の仕方ですが、CとDの関係が説明ではなく比喩なので、意味が了解できないのです)。こういうところが論理ではなく、イメージの喚起という曖昧なものなので、説得はされませんでした。

最後の私への評言ですが、私の前の言葉をもじったのですね。こういうところで仕返しをなさるわけですね。お気を悪くさせてしまったのは、すみません。ただし私からは敢えて真面目に、次のようにお答えしましょう。貴方がちゃんと雨合羽さんと議論し、彼女が嫌な思いをしたのを償えるようなやりとりができるなら、貴方が正しいかもしれません、と。貴方はそんなバカなというかもしれませんね。どうも記述内容を見ると、貴方は議論を物別れに終わらせる気らしいと読めます。しかし結局、議論を「正しく」穏当に導けた人が、よりバランスが取れているといえるでしょう。違いますか?

投稿日時 - 2011-01-21 13:59:08

補足

 過去のやり取りでよいものが見つかりました。(ひどっちさんにおしえてもらいました)。探していたものではありませんが なかなかよい事例です。

 【Q:思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6092710.html
 No.3補足欄
 およびNo.25の回答とお礼欄

 お手数ですけれど。
 ちょとつくんまで出て来ます。

 (これは ほかの方が関係していますが あくまでわたくしの文章ですので それとしてのみ扱っていただけるものと思い 出してみるものです)。

投稿日時 - 2011-01-22 00:43:26

お礼

 そうですね。論拠がよわい。わたしをやり込めるためにあまを利用していると見たくなるほどですね。

 まあご投稿に感謝して もう少しきちんと話をし終えましょうか。
 ★ 貴方がちゃんと雨合羽さんと議論し、彼女が嫌な思いをしたのを償えるようなやりとりができるなら、貴方が正しいかもしれません、
 ☆ これは論拠が弱いだけではなく 不公正です。なぜなら どちらが先に誹謗中傷をおこなったかを見極めなければいけないでしょう。仮りに万が一わたしが先に誹謗中傷を受けたのでなかったとしても わたしが先に誹謗中傷をおこなったことはありません。つまり 公平・公正に判断をしたかたちでなければなりません。
 わたしは 嫌な思いをしただとか心が傷ついただとか そういう心理の問題はいっさい触れていません。じっさいそんなことはどうでもよいという考えです。どういう非人間的な行為をおこなったか。これを問題にします。

 ★ 私の知らぬ確執が、いろいろあるのですね。
 ☆ これについて例示しておくのが いちばんでしょう。
 ■ 【Q:遊戯とは】質問者: amaguappa
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5696009.html
 ☆ じつはこれには ましゅまろさんも参加していて かのじょに対するあまの非人間的なおこないをひとつ先に挙げておきます。その回答No.80のお礼欄のことばです。
 さてわたしとのやり取りでは そうですね。No.71の補足欄の言葉です。
 むろんほかにもありますが そしていくらかはそのつながりを追ってみないと実態をつかめないでしょうが そこでは りとるきすさんや はあとまいんどさんも参加しておられるので たのしみに関連投稿をも読んでみてください。

 あぁ いい例を思い出しました。
 【Q:なぜ神はイエスをこの世に送ったのか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3093850.html
 ☆ わたしは 以前の名前(だから noname#80116 になっています)で書いたものです。回答No.4&17&19です。そこでじつは回答No.15 noname#96295 が あまがっぱです。そこで半ばほどに
 ■(回答No.15) 歴史の濁りが話すのと、濁った精神が話すのは、 / どっちがましな言葉を吐くんだろう。。。
 ☆ とあるでしょう。《濁った精神》は わたくしのことを言っています。そんなただ一人の人間の考えは取り上げるに足りず たとえ《濁っていても歴史ないし世界の全体の流れ》のほうが まだましであり健全であると言いたげのようなのです。
 これだけでは 証明し得ていませんが なんだったら本人にたずねてみてはいかがか?

 ぢゃあ ものはついでです。もう一例挙げてみましょう。
 【Q:水による洗礼は必要不可欠なことですか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3013375.html
 ☆ わたし自身のですが じつは OKWave でのデビュー質問です。したがって あまがっぱとの初めての出会いです。
 最後の回答No.47が noname#96295 であって その補足欄には 《 amaguappa さん》という呼びかけがありますから これで証明できました。その投稿は No.9&15&29&34&そして47です。
 いまちらっと見てみると この質問ではぶつかってはいませんね。だとすると そのあとですね 衝突したのは。わたしの考えを《濁った精神》に譬えていたのが あったはずなんです。なかなか見つかりません。
 なかなか見つかりません。いつもいつも衝突していたのではありません。
 仕方がないので 直近のものから 次の文章について触れておきます。
 【Q:《常識のない高齢者》です。思う存分ご批判をどうぞ】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6433458.html
 ☆ その回答No.25ですが これはさすがに違法行為にまでは到りませんが ただしこれでは もはやふつうに信頼関係を築くという気づかいは無用になります。とてもともに何かを仕上げるといった協力関係につけるとは思えません。つまり開き直っただけというかたちです。
 ★ 「ゾンビ」「幽霊」とは何なのだろうと、よくわかりません。
 ☆ もはや生きていないという意味です。信頼関係が築けない。

 議論のほうは すでに書いたもので なお持ち堪え得ます。と考えます。

 ふとひらめいたのですが あなたはわざとわたしをためして 敵の側にまわっているのですか?

投稿日時 - 2011-01-21 16:46:42

ANo.79

「はじめにイメージありき」は岩波新書のほうですが、図書館にありました。
「現代美術論」もきっとあったのかもしれないけど、借りてくるののわすれました。


AかBか迷うのは、木村さんもきっと同じだと思います。
だから、ちょっとお茶をにごしたいいかたになるのだと思います。

まだあんまり読んでないけど、ただ、強い意志は感じます。
つまり、「芸術の為の芸術」になりすぎてしまっている現状に、
そもそも論「原始美術の考察」から一石を投じたいっていう。

象徴という言葉が頻繁に出てくるのはそういうことだと思います。


>たとえば富士山の美の体験においては 
>その一瞬のうちに〔そのいばらの道を〕超えている。
>という見方なのですが どうでしょう?

そういうことでいいと思います。
たとえば未来に、ロケットにだれもが乗れるようになって、
宇宙から地球の美しさを見ることがあたりまえになっても

太宰いわく「だけどやっぱり富士はいい」なのだと思います。

岡本太郎さんはわたしはただの抽象表現の人という見方はしてません。
「太陽の塔」は、それこそ都会の中にそびえていても、
そこの景色だけは、なんだか古代の風景にタイムスリップして見えて
きませんか。

投稿日時 - 2011-01-21 13:15:29

お礼

 はあとまいんどさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ヤクタアレアエストさんが うまいことツッコミを入れてくれたので いまわたしは上機嫌です。きょう一日ハイな気分でいるでしょうね。
 あぁ わが不徳のいたすところ われには何と敵が多いことか。なあんて 《不徳》などとはこれっぽっちも思っていません。でも敵は多い。

 さて何でしたっけ?
 岡本太郎は 以前にも書いた覚えがあるのですが 《金平糖》党宣言をしていたのをわたしはパクリました。ハリネズミではありません。金平糖なのです。そういう交通(話し合い)の仕方のことです。
 もっと以前には 海舟の言う《みんな敵でいいぢゃないか》でしたし これもそのまま保って来ています。
 いちばんの問題は 大いに言論でたたかえば何の問題もないのに 人びとは つねに《意識の排泄》電波で応戦して来ます。そうすると《アース役はつらいよ》なる寅さん現象が 引っ切り無しにつづきます。もちろん それは 違法電波だよと言ってやるのですよ。いまでは生体電気現象といったふうにも研究されていますが その当時は 電波などというとむろんバカにされました。
 ただしちょうどその今出すところを言い当ててやると もう何とも言えなくなるのです。なるのですが あとは けむったいから 俺の前からいなくなれという反応に変わります。《意識の排泄》・その垂れ流し電波が 列島を覆っていますし 感染しています。アース役はつらいよと言っていけばよいと考えます。

 さて何の問題でしたっけ?
 岡本太郎は 縄文土器などの縄文人の美を発見した人でしょ? たたえられていますよ。
 太陽の塔は まだ具象が残っていますね。顔などとして。それですくわれていると思います。

 富士山の美をめぐっては 考えが同じになりましたね。エへ。

 木村重信:
 ★ ~~~~~~~~~~
 まだあんまり読んでないけど、ただ、強い意志は感じます。
 つまり、「芸術の為の芸術」になりすぎてしまっている現状に、
 そもそも論「原始美術の考察」から一石を投じたいっていう。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ 一石も二石も投じているのですが 分かるようで分かりづらい。明快のようで 分からない部分を残す。残念ながら いまそういう受け止めです わたくしは。
 ◆ 心霊化
 ☆ という用語も出て来ますね。これが いまいち分かりづらい。抽象化(これは 用語としてはっきりしていて分かります)と象徴 あるいはオブジェ これらもわたしの自分の中にしっくり位置を占めないでいます。とほほ。

 ★ AかBか迷うのは、木村さんもきっと同じだと思います。
 ☆ とおっしゃる分には たぶんそうなんだろうと思うのですが その《 A や B 》の選択肢の中身も はあとまいんどさんが思っているほどには わたしも・たぶんほかのみなさんも 把握しかねている部分があると思いますよ。
 ★★ ~~~~~~~~~~~~
 A.近頃の作品は自閉的だから、ここまで広まるとは思えないなー。
  もっとコミュニケーションを目指す方向になればいいのに。

 B.こうなっちゃうと、もやもや=この作品って情報記号みたいになっちゃって
  本質つまり、人間の奥のところに働きかけるっていうのが
  薄れちゃうんじゃないかなー。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《もやもや》〔あるいは それと微妙に異なるところの《もどかしさ》〕とは何か? あるいは 《自閉的》という言葉がポーンと無造作に投げ出されている。ように見える。ですよおおん。

 太宰は――これは 批判でも何でもありません―― それこそイメージがわるい。マイナス・イメージなのです。ということは しっかりと言葉の表現でそのイメージをぬぐい去った上で主張を推し進めて行かねばならないのぢゃないかと思ったりします。


 * そう言えば インスピレーションだとか ちゃおぽるぽさんから 用語の整理の課題が出されていましたね。《象徴・オブジェ》もつかみにくいですし。・・・

投稿日時 - 2011-01-21 14:23:57

ANo.78

他の回答者との応答を見て、思うところあって、戻ってきました。貴方が私に求めた「見止める」ですが、辞書にある「見止める」=「様子を見る」では意味が通じないから、「重要なところに立ち止まって吟味し、意見を認めてほしい」(認める=見て視線を止める)ということを、音と文字の変換を言葉遊びにした造語なのでしょうね。私は結局、貴方が提示した議論の材料では、ご期待にこたえることはできませんでした。
ただし貴方がエチケット云々と私に言い出したからには、今後はエチケットを貴方が率先してお守りになるかと思い、他の回答者の方も参入し、「嬉しい悲鳴」とも他の欄で書いていたので、まぁ私が抜けてもいいかと思って、離れました。が、なかなかどうして、雨合羽さんの気を、相当、悪くさせてしまったようですね。彼女は私の質問欄に応えてくれた当初、「ネットには善意で話をする人ばかりでもない」と忠告してくれたものですが、いや、貴方の話し方は、よくないことではありませんか?私は随分と貴方に評言を呈したので、貴方が私にそういう態度をとるなら仕方ない側面はあるかもしれませんが(それでも私としては誠意を欠いたつもりはないのですが)、ただ貴方の雨合羽さんへの態度はいただけないと思います。

私は段々と貴方の議論の様相がわかってきました。他人の議論を批評するのは失礼かもしれませんが、そもそも質問欄を投稿する以前から、次のような強い信念をお持ちではありませんか。信念というのは絶対に譲りたくないというものです。

1人間は時代や空間や、様々な隔たりを超えて、同じ感じ方を出来る。
2芸術は感受性によって、鑑賞するべきものである。
3個人の主体には、絶対的に、敬意を払うべきである(そこで構造主義など主体に懐疑的である議論は一貫して批判している)。

さて、雨合羽さんの意見は、少なくても1と2に関して、反対か、別の見方を提示しているといえるでしょう。貴方としては信念として反対なさっているのかもしれません。しかし彼女の回答をざっと読みましたが、一貫していたと思います。確かに参考文献の明示が少ないのに議論の運びが早いので、彼女の議論が予め概観ができた人が読めばわかりはするでしょうが、知識が不足しており、具体的な議論以外は徹底的に疑うという亀の歩みをよしとする学術スタンスの私などにしてみれば、惜しいことではあります。
ただそういう私であったにせよ、認めるものはあります。雨合羽さんの議論は飛躍や矛盾はないでしょう。貴方が鱶の如く食らいついている箇所(貴方がお礼欄で示すcとaの矛盾)ですが、aは元を読むと貴方とコミュニケーションするための譲歩表現と私には見えますよ。つまり、彼女の立場は貴方とは違うのではあるが、その差異を認めて、その上で双方の見解をやり取りしようとしたと読めます。
コミュニケーションのための配慮による譲歩表現を矛盾だとか、その後の補足について立場を守りたいだけなどと食らいついても、どうしようもないというものに見えます。貴方としては、cからaという意見なのでしょうが、それは貴方の意見であって、客観的に相手の意見を認められないのでしょうか。私が貴方の意見を認められないのは、貴方の応答が不十分と思い、質問しても結果を得られなかったからです。しかし彼女の議論がそうであるなら、質問すればいいでしょうし、私は彼女が説明をちゃんとしていると思います。そんな風に「評言」を呈するものではありませんよ(これが評言なら、貴方に対しては、相当の誹謗中傷も評言として許されることになるでしょう)。彼女のように貴方に期待して、せっかく真面目に議論してくれた人に不愉快な気持ちをさせるのは、いけないことではありませんか。そういう積み重ねの結果、何が起きたか、貴方はよくご存じのはずでしょう。

投稿日時 - 2011-01-21 10:10:36

補足

 アレアさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 よくぞ言ってくれました。まさにぴったりの評言をこれほどうまく言ってくれました。
 ★ (これが評言なら、貴方に対しては、相当の誹謗中傷も評言として許されることになるでしょう)。
 ☆ すなわち あまがっぱなる投稿者からは まさにその《相当の誹謗中傷》がわたくしに対してすでに――先に――なされたのです。その事実をお示しします。
 ■ (【Q:常識のない高齢者 (言語が苦手な人)】回答No.30) ~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6430103.html
 (投稿者 amaguappa )

 じゃれ-つ・く【戯れ付く】
 ざれ-ごと【戯れ事】

 第三者から上記を言われるなり目を三角にして吊り上げる人の精神には何が欠けているか?
 答え: 行いに重要性があると認めてもらいたい

 つまり戯れ付いていると言われるのは、似た者同士だからなのだ。
 非線形理論で総括して平和である。

 投稿日時 - 2011-01-20 04:04:42
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ 投稿文の全部ですが 質問は《本歌》のほうですよ。ただしいくらかは背景説明が必要でしょうか あなたにとっては。まづ問題の誹謗中傷は 
 ■ つまり戯れ付いていると言われるのは、似た者同士だからなのだ。
 ☆ この一文です。内容は
 ○ 質問者( tarako009 )は その《荒らし》をする相手と《似た者同士だから》《戯れ付いている》のだ。
 ☆ になります。《荒らしの相手》とは わたくしのことです。ほかにも荒らしの常習犯は 三四人ほどいますが 過去の質問を見ればすぐにこのたらこが そういうことを行なっていたということ そして その行為を もちろんあまがっぱが じゃれているみたいだと評したことがあるという意味です。
 ■(【Q:われわれ日本人は ひょっとして互いに互いを神と思っているのですか?】) ~~~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5615111.html
 (回答No.12 投稿者 amaguappa )
 (第二段落) bragelonneさんにじゃれている人物の一人を初めてお見かけしたのは、「蜘蛛の糸」に六道についての投稿を寄せてもらったときです。・・・
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ただしこの質問には たらこは出て来ません。そしてほかの質問でも その内容からして削除されているものが多いのです。そしてほかの荒らし屋といっしょにしてこの《じゃれている人物(* 複数)》と名指されています。よって たらこの投稿をお示しする必要はないと判断します。(じっさいこの《じゃれている》という表現で すでにあの質問では意味が通じていますから)。(《蜘蛛の糸》とは あまがっぱのそういう質問のことです)。
 確認します。あまがっぱは
  ○ 質問者( tarako009 )は その《荒らし》をする相手( bragelonne )と《似た者同士だから》《戯れ付いている》のだ。
 ☆ という誹謗中傷を為した。こういう事実が わたしの・あまがっぱに対する犯罪者扱いのような応答の仕方をみちびいた。これです。


 さて ほかにもお叱りを受けていますね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~
 1 人間は時代や空間や、様々な隔たりを超えて、同じ感じ方を出来る。
 2 芸術は感受性によって、鑑賞するべきものである。
 3 個人の主体には、絶対的に、敬意を払うべきである(そこで構造主義など主体に懐疑的である議論は一貫して批判している)。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 基本的な考えの違いをまづ明らかにします。わたしの言葉で言いなおします。

 (1) ひとには《共通感覚 sensus communis 》がそなわっていると想定している。

 (2) 視覚にうったえる芸術すなわち美術は それを見たわたしたちが《うつくしい》と感じる作品がある。美術は この鑑賞がすべてである。(そこから派生する評論などは 別ものだ)。

 (3) ひとは その存在が――孤独であってしかもそれは孤独関係であるというあり方において実は自由―― 絶対的なコトである。(一人ひとりが掛け替えのない存在である)。
 生命存在ということ。あるいはもう少し具体的には 自由意志のこと。その人の自由意志による判断ないし意志表示は それとしてまづ互いに絶対的なコトと見なされる。
 互いに批判することも自由であるが その説得をつうじて互いに見解を見なおすということ。
 (この自由意志にもとづくという意味での主体を無と見なす考えは みづからを幽霊ないしゾンビだと見なすことにひとしい)。

投稿日時 - 2011-01-21 11:26:38

お礼

 さて具体的に:
 ★ 貴方が鱶の如く食らいついている箇所(貴方がお礼欄で示す c と a の矛盾)ですが、a は元を読むと貴方とコミュニケーションするための譲歩表現と私には見えますよ。
 ☆ 確認します。

 ☆☆(No.71お礼欄) _____________
 ■■(回答No.68) ~~~~~~~~
 最後に付け加える形になりましたが、
 ( a ) 作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ(48でいただいた応答について)。
 ( b ) でも、歴史的に美術そのものが変容を迫られてきたのです。人の精神が自然科学や光学とともに変容してきた部分に呼応してです。そういう話として問題を扱わなければならないでしょう。
 ■■ (回答No.71)~~~~~~~~~~~
 ( c ) 作家個人の制作の問題と美術史の変容の問題は別、というお話をさせていただいているのですが。

 ( d ) もちろん美術史は精神史に沿うものであるという見解でそのように述べています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆☆ もし( c )のとおりであるなら 《作家個人の制作の問題》には《美術史の変容の問題》は 基本的に影響を与えない。ゆえに

  ( a ) 作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ。

 が生きるというものです。・・・
 ____________________

 ☆ 途中で端折りました。
 ( c )と( a )とはむしろ矛盾しないのです。
 上に確認した命題(1・2・3)にもとづき 《ひとは 外の社会環境の変化によって その美の感覚が消えてしまったりするような変化をこうむることはない》 しかも 《その美の感覚は 一定の時間過程を経て成るというものではなく そうではなく 対象を目にしたとき一瞬のうちに成るというかたちで自然本性において与えられている》 このことを確認しています。
 そこでまづ( d )ですが これは《精神史》をどう捉えるかで もめようとしていますので保留しておきます。(たいした問題にはならないでしょう)。
 そこで( b )です。
 ■ ( b-1 ) 歴史的に美術そのものが変容を迫られてきたのです。
 ☆ これはおそらく《美術そのものの変容》ということの中に ひとの美の感覚も変容をきたしたことを含むと見るべきでしょうね。つまりもしそうであれば ( c ・ a )と矛盾します。
 ■ ( b-2 )人の精神が自然科学や光学とともに変容してきた部分に呼応してです。そういう話として問題を扱わなければならないでしょう。
 ☆ これについては ほかにおぎないを投稿しているようです。ただしその結果はまだあいまいです。
 要しますと その最後の一文:
 ■ そういう話として問題を扱わなければならないでしょう。
 ☆ この指摘にもとづき あなたも
 ★ a は元を読むと貴方とコミュニケーションするための譲歩表現と私には見えますよ。
 ☆ という解釈をみちびき出した。のではないですか? たしかに( c ・ a )の命題とは別様の《話として問題を扱う》必要を言うのなら おそらくあなたの解釈が妥当でしょう。

 話をやはり端折りますが もしそうであるなら――つまり ( c ・ a )の命題と( b )の指摘との間には矛盾がないというのであるなら―― 今度は あなたとの間にもそこにたどりついたところの《見解の相違》ということであり その結論で互いに合意することになる。こうですね? これ以外に考えられません。

 むすびのことば:
 (あ) 見解の相違だという認めの言葉を明らかに述べればよいし 述べなければならない。(学識の深い浅いといったウワベの事柄を出すほど 動揺をきたしていたらしいのは いかに? とも問い返し得ますが)。

 (い) しつこくするとすれば ( a )の《譲歩》は何だったのか? これです。(わたしは話を早くするためにあなたにゆづりましたが 表現は矛盾していると言わねばならないでしょう)。

 (う) 見解の相違で合意したあとの課題としては:
   ○ それなら 人間の《精神》もしくは広い含みを持ってながら人の《自然本性》が近代以降に別のものに変容するといった変化がもたらされた。と主張していることになる。その仮説からして証明をし始めていなければならない。
 つまり そういう議論として はじめに ことわっていなければならない。さもなければ《われらが審美眼は 劣化したか》といった時代遅れの質問にわざわざしゃしゃり出てくる謂われはない。

 こんなところでしょうかね。どうですか? 
 あなたのわるいくせは 早合点すると 一方の側に寄りついてしまうことです。

投稿日時 - 2011-01-21 12:04:27

ANo.77

ああもしかして「精神史」という語をうまく捉えられないでいるのですか。

もしそうであれば、下記のわたしの言葉は理解し難かったのではないでしょうか。

「光学と自然科学が美術をどのように牽引してきたかという視点を持たれますと、キリスト教が幻燈を使ってイメージを庶民に伝えたことを詳しく考察できるでしょう。そこから、クレドとイメージについて考えるという方法が思い浮かびました。デカルトを参照しながらの作業になるかもしれませんね。そこから写真や映画やTVやインターネットへ飛び上がって、現代のイメージ論へ届くと思います。」

広い鏡面の発明や、遠近法の発明や、幻燈機の発明や、鏡面を多用できる建築素材と建築技術の発明や、写真の発明や、映画の発明や、精巧な複写機の発明といったことがらが人間の精神に変化をもたらしているという意味の「精神史」です。

投稿日時 - 2011-01-21 01:14:40

お礼

 それで どうなるのですか?

投稿日時 - 2011-01-21 05:59:47

ANo.76

こんにちは、

未熟者の登場です。よろしくお願いします。

この場がかくも紛糾するのは、ロゴスとイメージの定義が人によってまちまちだからだと拝察いたします。

イメージについては、ザッキさんと質問者さん(以下ブロンさん)が最初から食い違っていた点です。辞書には14もの違った定義が載っていて、これは作者である木村氏がどの定義を選ぶのか、確認するしかないでしょう。

例えば私はイメージは他人とは分かち合えないものだと確信していますが、雨合羽さんはイメージは共用出来るとおっしゃる。どちらが間違っているといえるものではないでしょう。どちらも辞書には定義されています。でもどちらも正解とすると、木村氏の文章の解釈は正反対なものになります。

ロゴスについてもブロンさんは表をおつくりになって、それに沿って説明せよとおっしゃるけれど、私はロゴスというのは”論証を目的とする言葉”という意味だと、アメリカ英語風に明確に解釈しています。もやもやしたものを含む余地はないです。

これではブロンさんが”quote”なさった短い文章といえども、解釈の仕方がテンデンバラバラになるのは、当たり前ではないでしょうか。

さて、これを”常識を超えた”ブロンさんがどうまとめられるか、興味の尽きないところです。

失礼をいたしました。

投稿日時 - 2011-01-21 00:13:58

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 まづ専売特許を何度もですが掲げます。

  ○ ロゴスとイメージ ~~~~~~~~~~~~~~
  
   ロゴス(α):無根拠〔と人間との関係は 非思考の場=クレド〕
   _____________________________
   ロゴス(β):中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
         
   ロゴス(γ):本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい?

   ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ この図式は ヤクタアレアエストさんとのやり取りでわたしの理解するところを示したものです。かれとの間では 共通の了解が得られたようです。それで ほかのみなさんにも通用するのではないかという意味で たたき台としてご提案しています。むろんほかの理解・ほかの図式があれば それによってご説明くださいとはっきりお伝えしております。

 ★ ロゴスについてもブロンさんは表をおつくりになって、それに沿って説明せよとおっしゃるけれど、私はロゴスというのは”論証を目的とする言葉”という意味だと、アメリカ英語風に明確に解釈しています。もやもやしたものを含む余地はないです。
 ☆ とはおっしゃいますが 上の図式で 《ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理》というのが その《”論証を目的とする言葉”》を含みます。よ。

 ★ これではブロンさんが”quote”なさった短い文章といえども、解釈の仕方がテンデンバラバラになるのは、当たり前ではないでしょうか。
 ☆ 木村重信の文章は 質問者としてわたしは 途中で気づいたところで《出汁にして使っただけのようです》とお伝えしています。これも けっきょくみなさんへのお知らせになります。
 ですから 焦点は表題のごとく《われらが審美眼は 劣化したか》という主題にあります。
 つまり木村の文章があまりにもその解釈の分かれを呼ぶのであれば いっさい放っておいてもらってもよいわけです。言いかえると ご自分の解釈で むろんその内容を示しつつですが 回答内容を述べていただくというかたちで いいわけです。解釈をしないで 初めからご自分の回答を述べていただくのもよし。こういうことになります。

 ★ 例えば私はイメージは他人とは分かち合えないものだと確信していますが、雨合羽さんはイメージは共用出来るとおっしゃる。どちらが間違っているといえるものではないでしょう。
 ☆ それでかまいません。まづは質問者のわたしとやり取りをしてください。できると思ったところで みなさんそれぞれとの互いの了解を 同じところと異なるところとについて 明らかにしてまいりたいと考えます。
 イメージにかんしてなら わたしとのやり取りでは

  ロゴス(β):中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ

 をお使いになるか それともこの理解を批判して あたらしい定義によってご見解をしめすというかたちを取るか そのようになさっていただけば問題ないと考えます。

 ちなみに
 ★ イメージについては、ザッキさんと質問者さん(以下ブロンさん)が最初から食い違っていた点です。
 ☆ このご理解は精確ではありません。わたしは断片的にイメージの定義をしましたが ざっきさんは 判断基準の互いの違いを指摘されたとしても このわたしの定義については きちんとした《食い違い》を示されたことはありません。細かいところですが。

 木村の文章は忘れてもらってもかまいませんし 取り上げても大丈夫ですし あるいは ほかの方々のご見解を取り上げてご自分の考えを示してもらっても大丈夫だと思います。よりよい理解にたどりつけばありがたいですし よかったと考えますから。

 紛糾という場合 中身について見解が分かれるというのと そしてそうではなく すでに中身ははっきりしているのにそのはっきりした内容を飲み込みたくないと言ってじたばたしているのと ふたつあります。
 あぁ ざっきさんは ご自分の話の進め方にわたしが乗らなければ答えを言わないというかたちで紛糾しています。めづらしいと思います。もっとも乗らないなら それはそれでいいから ご自分のやり方で進めるとまでは言っておられるようですが そのあとは進みません。

 こんな情況だと思いますよ。

 * いちばん簡単なのは 質問者はひどっちさんのご見解に賛成していますので それに賛成か反対かで 自説を展開なさることではないでしょうか。

投稿日時 - 2011-01-21 06:30:36

ANo.75

わたしに矛盾があるというあなたの論理は本当に破綻しているのですが、ご自分の目にはそれでつながってみえるのですね。それだけですね。ただそういうことです。

あなたにはあなたの論理がつながって見えるのだから、あなたの主張は続く。あなたはあなたという己れを信仰しています。これをフランス語で、foi de soi といいます。

投稿日時 - 2011-01-20 23:31:48

お礼

 そのまま返せばよいご回答内容です。
 
 ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-01-21 05:58:14

ANo.74

> わかったけれども こうやってみづからの立ち場だけは守りたいというところだとお察しします。ありがとうございました。

あきれて物が言えません。わたしはとても丁寧に論説しておりますのに残念です。

何の学部にせよ、修士課程だけは出られたのでしょう? なのにあなたは、進学高校生ほどの論理構成力も失くされてしまっています。

あなたがわたしに「矛盾」とおっしゃるときは、いつも矛盾でないことが多くの人にわかる程度の話なのです。一つも矛盾だったことはないのですよ。

わたしは、あなたを馬鹿呼ばわりしないで放ってしまうので、ご自身で気付かなかったのでしょう。
だからといってこともあろうに冒頭のような言葉を吐いてみていい気になったりするほどの道化にはおなりになりませんように。

話が理解できないなら理解できませんでしたと言えばいいのですよ。わたしの学歴を鼻にかけるつもりはありませんが、わたしとあなたで知識のバックポーンが違っていて当然です。
しかし、大事なことは、知識や学歴が違っていても、自分の怠惰を乗り越える人は、豊かな対話を手に入れられる、ということなのです。

怠惰と老いに負けないように。

突拍子のない方向にねじ曲がって道化になる人を見るのは、寂しい眺めです。

投稿日時 - 2011-01-20 22:07:25

お礼

 ご回答をありがとうございました。

 ★★(回答No.68) ~~~~~~~~
 最後に付け加える形になりましたが、
 ( a ) 作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ(48でいただいた応答について)。
 ( b ) でも、歴史的に美術そのものが変容を迫られてきたのです。人の精神が自然科学や光学とともに変容してきた部分に呼応してです。そういう話として問題を扱わなければならないでしょう。
 ★ (本回答)~~~~~~~~~~~
 ( c ) 作家個人の制作の問題と美術史の変容の問題は別、というお話をさせていただいているのですが。

 ( d ) もちろん美術史は精神史に沿うものであるという見解でそのように述べています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ もし( c )のとおりであるなら 《作家個人の制作の問題》には《美術史の変容の問題》は 基本的に影響を与えない。ゆえに

  ( a ) 作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ。

 が生きるというものです。すなわち《いばらの道》をたどる以前にすでに 即自と対自の問題は済んでいる。( b )のごとく《人間の精神も変容を迫られた来た》けれども ( d )のごとく《美術史は〔* 個人の〕精神史に沿うものである》ゆえに ( a )の命題が生きる。こう帰結しています。

 矛盾というものです。



 うんともすんとも言えないというお答えとお見受けしました。
 ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-01-20 22:16:42

ANo.73

zakky74でございます。

お久しぶりです。

>ゴッホはいかがですか?
> 美をお感じになりますか?

美を感じる事もございますが。
感じない事もあります。

ゴッホを好んで観る訳でもなく、ゴッホに嫌悪を感じる訳でもなく、ゴッホを鑑賞する機会そのものが少ないんですよね。

> あるいは 誰かいい画家を見つけておいでですか?
> あったら おしえてください。

絵を鑑賞するという機会そのものがございません。

ですから画家もほとんど知りません。そういう意味では、画家が描く絵によって美を感じる事は少ないんですよね。画家も、絵も、ここで具体例を挙げる事が出来ません。

自分でも絵を描く事はとても苦手で、うまく描けません。平面的な絵と言うんですかね?ただ、絵を描く事が嫌いという訳でもございません。自分でも結構楽しんで描きます。

ところで、bragelonneさんが仰る「いい画家」というのは、僕の判断基準によるいい画家という事だったのでございましょうか?それとも、一般的に言う判断基準によるいい画家という事だったのでしょうか?

投稿日時 - 2011-01-20 21:17:28

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 自分でも絵を描く事はとても苦手で、うまく描けません。平面的な絵と言うんですかね?ただ、絵を描く事が嫌いという訳でもございません。自分でも結構楽しんで描きます。
 ☆ そうですか。わたしは 絵は好きですが そしてたぶん画くのも好きですが 自分の作品というわけには行きません。

 ★ ところで、bragelonneさんが仰る「いい画家」というのは、僕の判断基準によるいい画家という事だったのでございましょうか? それとも、一般的に言う判断基準によるいい画家という事だったのでしょうか?
 ☆ まったく無条件で問うています。もしどうしても特定してくれということでしたら たとえば
 ★ 美を感じる事もございますが。 / 感じない事もあります。
 ★ 平面的な絵と言うんですかね?
 ☆ というような場合にすでに用いている《判断基準》でいいわけです。


 《イメージ》について答えをお持ちだとうかがったのですが この質問は《審美眼》と言っていますから イメージについても美の問題から明らかにしてもらえるとうれしいです。

投稿日時 - 2011-01-20 21:36:58

ANo.72

えーと、あとですね、ご質問にはすべてお答えしてあると思いますので、それが信じられないというのでしたら、美術か哲学のカテゴリであらためてご質問なさってください。
わたしの投稿を引いてお尋ねくださってかまいませんよ。
作家の固有名詞やスタイルにお詳しくないとすればブラジュロンヌさんには想像しにくいところもあると思います。みなさまに教示を求められると徐々に話が具体的に見えるようになるのではないかと思います。

投稿日時 - 2011-01-20 18:16:35

お礼

 ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-01-20 20:20:34

ANo.71

☆ 矛盾というものです。

えっ?

作家個人の制作の問題と美術史の変容の問題は別、というお話をさせていただいているのですが。

もちろん美術史は精神史に沿うものであるという見解でそのように述べています。

光学と自然科学が美術をどのように牽引してきたかという視点を持たれますと、キリスト教が幻燈を使ってイメージを庶民に伝えたことを詳しく考察できるでしょう。そこから、クレドとイメージについて考えるという方法が思い浮かびました。デカルトを参照しながらの作業になるかもしれませんね。そこから写真や映画やTVやインターネットへ飛び上がって、現代のイメージ論へ届くと思います。手がければ大部の著作になることでしょう。

投稿日時 - 2011-01-20 17:55:19

お礼

 ご回答をありがとうございました。

 ★★(回答No.68) ~~~~~~~~
 最後に付け加える形になりましたが、
 ( a ) 作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ(48でいただいた応答について)。
 ( b ) でも、歴史的に美術そのものが変容を迫られてきたのです。人の精神が自然科学や光学とともに変容してきた部分に呼応してです。そういう話として問題を扱わなければならないでしょう。
 ★ (本回答)~~~~~~~~~~~
 ( c ) 作家個人の制作の問題と美術史の変容の問題は別、というお話をさせていただいているのですが。

 ( d ) もちろん美術史は精神史に沿うものであるという見解でそのように述べています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ もし( c )のとおりであるなら 《作家個人の制作の問題》には《美術史の変容の問題》は 基本的に影響を与えない。ゆえに

  ( a ) 作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ。

 が生きるというものです。すなわち《いばらの道》をたどる以前にすでに 即自と対自の問題は済んでいる。( b )のごとく《人間の精神も変容を迫られた来た》けれども ( d )のごとく《美術史は〔* 個人の〕精神史に沿うものである》ゆえに ( a )の命題が生きる。こう帰結しています。



 わかったけれども こうやってみづからの立ち場だけは守りたいというところだとお察しします。ありがとうございました。
 

投稿日時 - 2011-01-20 20:06:32

ANo.70

わかりました。たぶんAだと思います。

ほっぽど購入しようかと迷いましたが、やっぱりやめときます。

ありがとうございました。頑張ってください。

投稿日時 - 2011-01-20 13:52:52

お礼

 つづいてですね。

 ★★(No.69) ~~~~~~~~~
 A.近頃の作品は自閉的だから、ここまで広まるとは思えないなー。
 もっとコミュニケーションを目指す方向になればいいのに。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この規定だけでは 何とも言い難いところがありますね。
 《自閉的》というのは 内向的であってそれはむしろ自省をひとつの軸とするということかも知れません。自省は周りまわってコミュニケーションを目指していると思われますし。

 本のほうは わたしの感触では いまひとつはっきりとした見方がつかめない。こういう感じで読んでいます。『はじめにイメージありき』は けっきょくひとことで言えば分かりませんでした。

 直前でのお応えを見てください。

投稿日時 - 2011-01-20 14:03:01

ANo.69

カウスもといカオスです。すいませんボタンみたい。

「モノ」ということでいいと思います。

昨晩また少し考えてみました。

「いばらのみちについて」


作者「何だかこのもやもやってどう表現すればいいんだろ。じゃあ作ってみよう。」
  「できた。」
  「そう、そう、こういうことなんだよね。まんぞく、まんぞく」

観賞者「なんだか、これみているともやもやするなあ。
    あのもやもや表しているみたいだ。
    なんか、わかるよねー。
    ホントにもやもやする。すごいなー。」

その後、巷に広まった。
   「そうそう、これっていったら、もやもやだよね。わいわい」


この最後の場面をどうネガティブにとらえているのかが、知りたいです。

A.近頃の作品は自閉的だから、ここまで広まるとは思えないなー。
  もっとコミュニケーションを目指す方向になればいいのに。

B.こうなっちゃうと、もやもや=この作品って情報記号みたいになっちゃって
  本質つまり、人間の奥のところに働きかけるっていうのが
  薄れちゃうんじゃないかなー。

Aの意見だったら賛成で、Bなら反対です。
それは、太宰の富士山を見た時の愛情表現が理由です。
「けっ、富士山然としやがって、風呂屋のペンキ絵みたいじゃねえか。」
記号化してしまった富士山への愛情表現です。
これは、富士山やペンキ職人への最高の賛辞だと思うからです。

ですので、オブジェが空間デザイン的になったりするのもいいんじゃないかと
思うぐらいなのです。

ただ、それ読んでいないので、どっちが「いばらのみち」か、あるいは全然
違うことなのかもわかりません。

岡本太郎さんの作品はもえですね。

投稿日時 - 2011-01-20 12:22:28

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ カオスです。
 ☆ 《混沌》でしたら 《ロゴス(β)》の《中身の混沌たる直感イメージ》に当てはめました。それに限るというわけではありません。

 ★ もやもや と もどかしさ
 ☆ これらふたつを分けてとらえなくちゃならないのぢゃないですか?
 もどかしさは 上の《ロゴス(α)に迫るような直感イメージ》における・まだ何となくはっきりしないなぁというときの感覚を言うでしょうし。
 もやもやは いろんな場合があるでしょう。
 わたしが 村上春樹の作品について《モヤモヤ・ワールド》と言っているのは 何ら新しい心つもりを定めないで現状維持をつづけようとするときの足踏み感です。一般にはわたしが 上司アマテラス役から受けた《アース役はつらいよ》なる電磁波の世界と呼ぶ閉塞感および停滞感のことです。
 こうなると B に近い。近いけれども違うのは 《本質》をむやみに出すと困ると思うからです。もっとも《ロゴス(γ)》の直観ヒラメキは ものごとの本質を見抜く一種のさとりを言います。つまりむしろヒラメキとして捉えたほうがよいと考えるからです。
 そうすると A だとも言い難い。

 ということは 例示が具体的ではないから 何とも言うことが出来ない。かも知れません。この絵だとかあの絵だとかを例に出せば 話は早いかも知れません。
 富士山の自然を一幅の絵に見立てたらですか? それはそれなりに 美の体験があるのではないですか? もやもやはないでしょうし。説明のために言葉で表現しようと思えば もどかしさがついて来るでしょうし。表現する前の段階でしたら すっきりしているでしょうし。

 ★ 岡本太郎さんの作品はもえですね。
 ☆ 分かりました。と言いますか 抽象画のことですよね? 美の体験までは行かない感じですが それは人それぞれなのでしょう。

 つまり 《いばらの道》は たとえば富士山の美の体験においては その一瞬のうちに〔そのいばらの道を〕超えている。という見方なのですが どうでしょう?

投稿日時 - 2011-01-20 13:54:51

ANo.68

(承前)
こうして、objetといってもいろいろな方法論によってsujetの表象ではないところに立とうとした作品たちが様々あるわけですが、観賞する人々とどれだけ効果を共有できるかということが、作品の客観性をどれだけ約束してくれるかであり、しかしイメージの共有度ということでいえばすでに商業広告写真の世界がそれを超大に果たしてしまっているのです。うつくしさの表象などというものは、現実的にほとんどそこで生産されて消費されているとさえ言えます。均質に象徴がはたらきそのスピードも速いことによって、商品広告は同時代性が味方をしている業界なのです。

そして美術作品は、どんなにobjetとなっても、同時代性が指差す方向へ象徴が飛ぶことを、わずかにも蒙らないというわけにはいきません。むしろobjetだからそれを免れないと言ったほうがよいのかもしれませんね。時代が変われば用も道具も変わりますから、用にも道具にも振り回されるobjetと化した現代芸術は、プッサンの遠景や馬遠の余白と同じように時代を超えて人に共有されるものにはならないでしょう。
そしてもちろん、プッサンや馬遠がお猿さんやペンギンにとって無意味であるように、象徴(この心象連絡網を象意探しと混同しないようにしてください)を働かせる知能によってしかイメージの生起はないのですから、「普遍的な人間性」に届くために象徴ではない手段が表象においてあるとはいえないでしょう。ことさら「阿保でも病人でも」というのは無理でしょう。

最後に付け加える形になりましたが、作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ(48でいただいた応答について)。でも、歴史的に美術そのものが変容を迫られてきたのです。人の精神が自然科学や光学とともに変容してきた部分に呼応してです。そういう話として問題を扱わなければならないでしょう。
クレドは用語の違いから嵌めどころが探れませんでした。またこちらを覗いてはみますがそろそろお暇しようと思います。

投稿日時 - 2011-01-20 03:50:28

お礼

 確認していただきたいのですが:

    *

 そうですね。《同時代性》がなぜそんなに《制約》となっているのか・成っていると見なければならないのか? 横着ですが この一点にわたくしの場合は問い求めが集中していると思います。

 ご回答をありがとうございます。

 ですからNo.48で質問を浴びせるかたちを取りましたが その最後の一文の前の文章についても 何故? という疑問を抱いています。
 ★★★(回答No.48) ~~~~~~~
 イメージが像を結ぶことむしろ極端には視像を結ぶことそのものを排する試みによって objet たらんとしているという側面は現代美術にはあるでしょう。その自己否定的契機をどう作品に投入するかは、著者の主張の眼目にあたるところだろうと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆☆ この事項について今回あらためてご見解・ご説明を受け取ったと思います。
 ★★ クレドのほうに重心を持っていけるとよいですね。
 ☆☆ というお考えを持ってもよいということでしたら そういった方向においてもしくはそういった角度から切りこんでいくとすれば どうなるか? とは思っています。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ★(本No.68) クレドは用語の違いから嵌めどころが探れませんでした。
  ☆ たしかに切り捨てたと受け取りました。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (すなわち 木村の文章は 勝手ながら出汁にしているだけという見方をも このやり取りの途中で持ちました。著書はそれとしていま読んでいますが)。

 すなわち
 ★★ 自己否定的契機
 ☆☆ を何故持たなければならないか? 《美術界のコモンセンス》は何故そうでなければならないか? これになると考えます。

 ★★ 普遍的な人間性はあるでしょうか? また、シンボルつまり象徴が時代や場所を超えてそのとおりに解されることは可能でしょうか?
 ☆☆ 前者は そのまま《ある》と想定されるでしょうと考えます、
 ★★ 後者についてはそのとおりというのは無理で、知的体系を動員して知解するという手続きによってしか、時代や場所を超えて象徴に踏みこむことはできないでしょう。
 ☆☆ たぶん《象徴》を持ってくるとややこしくなると考えます。そうではなく――つまり 美術界のコンセンサスに対してただ上の〔* 普遍的な人間性はあるという〕想定にもとづくことのみによって異を唱えるのですが―― これこれの絵はうつくしいという事件があればよいという考えです。
 人間にとって人間性というみづみづしい力と言って来ましたが そういう普遍性の想定です。象徴がどうだこうだは もう関係しないかたちです。
 ★★ 霊感的と言ってよい素早さで論理のない結びつきに捕らわれなければ象徴のはたらきは無いからです。
 ☆☆ たぶん ですから 象徴のはたらきかどうかを問う前の段階において イメージが単純に直観なるヒラメキを呼ぶ直感としてはたらくかどうか これを絵には問うています。いちおうそのようにやり取りは進んで来ていますので そのような切り口が間違いであるとすれば そのようにご批判ください。

  *

 すなわち今回もあらためて
 ~~~~~~~~~~~~~
 ★ 自己否定的契機
 ☆ を何故持たなければならないか? 《美術界のコモンセンス》は何故そうでなければならないか? これになると考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なぜならば
 ★【ω】(本回答No.68) 作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ(48でいただいた応答について)。
 ☆ だからです。すなわち木村の言うようにその弁証法過程におけるところの
 ▲ 総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む。
 ☆ という視点からさらにすすんで《いばらの道》はすでに初めに超えられていると言ったことになるからです。《ロゴス(α)につながるロゴス(β)としての直感イメージ》を見ると言ったことになっているからです。すなわち
 ★【ω】 作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ。


 ★ でも、歴史的に美術そのものが変容を迫られてきたのです。人の精神が自然科学や光学とともに変容してきた部分に呼応してです。そういう話として問題を扱わなければならないでしょう。
 ☆ 矛盾というものです。

 それとも じゃれついているのみなのでしょうか?
 じゃれつくというのは なぜそうするか? どういう意味があるのか?

 
 ★【ω】 作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ。

 

投稿日時 - 2011-01-20 10:17:02

ANo.67

48,55,59.
確認しておくべきと思うのですが、「何々を表現」するのではないことについてよく考えてごらんになったでしょうか。
現代美術のobjetとは即物的な様態を指しており、作品が、たとえば匂いとか手触りとかノイズ音とか空間占有性とか支持体(表象でない基底のほう)とかに狙いをつける、あるいは、作品概念自体をモノ化することに狙いをつけるのが常套となっています。それゆえ評言にも偏りが生じて、環境と関わりを持っている作品だとか、身体と関わりを持っている作品だとか、観賞において問題提起的だとの評言に強みがあり、うつくしいという評言は、甚だ立場を弱くしています。
うつくしいという評言が生きているのはファッションや広告の領域になっており、これは、20世紀初頭に台頭を果たした商業写真や写真雑誌の、写真というイメージ材の果たした役割が大きいでしょう。ですから写真論というくくりで語られる分野に踏み込まないと、イメージや美とその表象について考えることは片手落ちになるのですね。

そうした現代美術のobjetのありよう、心を揺さぶるにはどうやって関わってやろうかというありようは、美術に実験をもたらしたけれども、どうなんだろうか、というのが、木村氏の対自という言葉を後押しするはずです。
だから、対自と呼ばれる自己否定的契機が訪れねばならないのは、極端にいえば展示後に清掃のおばちゃんやブルドーザーのやっかいになる美術作品たち、撤収後にソフトウェアしか残らない美術作品たちであり、もっと穏やかなほうで言えば、なにを表しているではなく出来事や運動や経過の表出であるとか、規則性の再現であるとか、意味の抹消の痕跡であるとかを、観賞用に纏めたものたちにであるわけです。

ところで第二次大戦以後は、大量の死、墓、ガス室、ナンバープレートなどを、想起することと想起しないことの両義にかけて沈黙として提起する美術作品が溢れていますが、「象徴」というのはデリケートで、はたらかなくてもいいところにもはたらきますし、また、はたらいてよいところにはたらかない場合もあります。それが、モノとなるか表象となるかの境目ですね。象徴と関係がないということは、モノとの対峙を純粋にモノとの対峙とすることです。したがって、お猿さんやペンギンがするようにそれを眺めるということです。
戦禍のテーマにかぎったことではなく、纏わりつく表象性から逃げさせようとしているのか、呼び込もうとしているのか、揺れて戯れているような作品は即自的です。技法と形式は、観賞者を「表象の内容に現場参加させること」と「内容を想起させること」についての考え方の現れですが、その意味では、20世紀モダニズムを牽引したグリッドやコンポジションや縞や滴痕や拳跡などの美術は、技法と形式によって、現場参加や想起を拒絶したものでした。

20世紀モダニズムの源流に、唯美主義芸術と純粋芸術があります。写真の台頭以後の運動であり、視覚や運動の研究が進み、音楽性と感覚を重んじ、形式や概念を抽象することに熱意を注ぎました。そうして「うつくしさ」や「感動」「共鳴」を抽き出すこころみが、作品のobjet化への道なのです。そういうこころみは、実に普遍的な人間の心の揺れ動きを掻き立てることを目指していましたが、美術をとおしての現場参加や想起が、憧憬や省察や伝承に人々を駆り立ててきた歴史からすれば、画期的な、科学的な、あたかも最新の心理学のようなメソッドにのっとったものだと言えます。

つづきます

投稿日時 - 2011-01-20 03:44:54

お礼

 ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-01-20 20:21:11

ANo.66

むしろカウス的な連続性といった方が近いかもしれません。

公園化どこか外に出てそこの外気なり空気なりを風景なり
を感じてみてください。そのとき体はどういう運動をして
いますか。

あるいは、色がみを短冊に切って、
一回ひねっててーぷではり、任意のところをハサミ切断する
作業を繰り返すと、色の部分と白紙の部分が混ざっていき
ませんか。

ところで、話はかわりますが、マシュマロさんの引用で、

>思想に先立ち、それに生気を吹きこむイメージは、
>永遠にながらえ、時代と民族をこえて受け入れられる。
>ミロのヴィナスは、
>この像のもつ「女性のイメージ」によってあらゆる人
>たちにその精神的意味を伝え、
>中世ヨーロッパの農民層のキリスト教徒化は、
>キリスト教聖者伝のイメージによって可能となった

これは、個人的な偶像崇拝の考えと似ているかなと思いました。
つまり、観念や思想のもつ普遍的なイメージを抽出して
オブジェにすることで、分かりやすくなって、
シェアが拡大したっていう。

ただそれと作者がもつ観念や思想を即自的にオブジェにすること
とどうリンクしていくのかがわからないんですけど。

なにぶんそれ読んでませんので、何とも言えませんが、
すいません。

投稿日時 - 2011-01-19 12:22:08

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 木村の文章は そのままでは飲み込めません。
 たとえば 挙げられている事例が 適切かと言うと 全部が全部そのままを認めることはできないと考えています。
 ▲ 思想に先立ち、それに生気を吹きこむイメージは、永遠にながらえ、時代と民族をこえて受け入れられる。
 ☆ この場合の《イメージ》はすでに 単なるあいまいな直感であるだけではなく ただし何か論理をきちんと当てはめたというところまで行かなくとも すでにものの見方としては筋が通ったかたちである直観ヒラメキになっていることを言うはずです。
 それを木村が文章の中の例示のごとく説明することは そのねらい通りにかなっているかと言えば あやしい。こうも考えます。

 ▲ ミロのヴィナスは、この像のもつ「女性のイメージ」によってあらゆる人たちにその精神的意味を伝え、
 ▲ 中世ヨーロッパの農民層のキリスト教徒化は、キリスト教聖者伝のイメージによって可能となった
 ☆ いづれの例示も 言わばその奥行きに乏しいと見ます。
 もし《精神的意味》を言うのなら まづ初めのイメージおよびその直観ヒラメキにおいてその美的感覚をも加えて意味があると見ていると捉えるべきでしょう。そしてそのあとに 《女性のイメージ》でもいいでしょうから そのような――簡単に言えば平俗的な・まつわってくるようないくつかの――イメージをもともなって 伝えられたと見るのでしょうね。

 《キリスト教聖者伝のイメージ》が先に来たと見るのも どうかと思いますねぇ。何ぼ何でもそれぢゃぁ 農民層は阿呆だったと言わんばかりです。その物語――聖書のことですが――の中身を耳で聞いて納得した上でなければ 絵(絵物語)だけで誰々は聖者だったと思うというのもおかしいでしょう。

 ★ これは、個人的な偶像崇拝の考えと似ているかなと思いました。
 ☆ 木村の文章だけからは そう思っても仕方ないかな。いや まづは眉につばをつけてください。やはり。

 ★ つまり、観念や思想のもつ普遍的なイメージを抽出して オブジェにすることで、分かりやすくなって、シェアが拡大したっていう。
 ☆ シェアの拡大は放っておきますが じつは
 ★ オブジェ
 ☆ というのがわたしにはまだよく分かりません。
 たとえばキリスト・イエスの話を聞いてあたまに入った上で あの十字架上の像を偶像として崇拝すると言うなら それはそれとして オブジェとなっているという理解をするのですが だからオブジェとは何だ? と言ってもよく分かりません。ただ《もの》と言っているだけのように思われます。
 オブジェって何ですか?

 * 偶像崇拝がいいと言っているのではありません。ぎゃくに十字架像でわるくないぢゃないかという観点に立っていちど言ってみますが もっと問題が大きくて複雑なのは あなたも提出したところの《聖者ないし聖なる》という概念の内容をめぐってのことです。
 すでにこの《聖性》が偶像――つまり観念の偶像です――となっているときには 世の中のふつうのありさまを《俗性》として分けてしまって見ている。という弊害が起こります。聖と俗に分けて あたかもあたまの中が分裂したごとくに一方の《聖性》にあこがれる。生活〔の日常性〕がそれによって引き裂かれる。アイドルを引っ切り無しに求める。生活をほっぽり出してでもアイドルを追い掛ける。・・・
 それにくらべれば磔の像などは――《ピエタ》の絵の話が出ましたが―― かわいい偶像ですよ。むしろ自分も同じようにわたしにとっての世の中のひとつの十字架を背負って社会に貢献するのだと思ったとすれば じゅうぶんではないですか。
 オブジェって何ですか?

投稿日時 - 2011-01-19 13:47:16

ANo.65

こんにちは、

たくさんの方が回答なさっていて、素晴らしいですね。

1)イメージとロゴスの関係について。ちょっとした思い付きです。

月並みな喩えですが。

月という実体があるならば、それをさし示す指が言葉である。
そして水に映った月がイメージである。
イメージとロゴスは実体を通してのみ関係があり、それ以外に影響しあったり、退け合ったりすることはありえない。

質問者さんの仰るひらめきはインスピレーションであって、これは言葉やイメージに掻き立てられた創造力の働きによる。そして時を経て生まれるのがヴィジョンである。

ヴィジョンは創作者の設計図であり、ラフスケッチのこともあり、ほぼ完成図に近いこともある。そして、そのヴィジョンを実体とするとそれを媒体に映した時にまたイメージが生まれる。

外界からのイメージと、創造力(内面)からのイメージをごっちゃにしてしまうと、木村氏のような言い回しになってしまうように思います。

言葉が足りなくてすみません。いつものように、質問者さんの豊かな知識と経験にもと付いた想像力で補ってくだされば幸いです。

2)お詫び

ゴッホの絵(アイリス)を添付したときに説明不足でした。大変失礼をしましたので、お詫びを兼ねて説明いたします。

10年ほど前に地元の小学校で美術のクラスのお手伝いをしていました。”ピクチャー・レィディ”といいまして、一年に八人ほど画家を選んで、スライドと映写機を持って、絵画について、周辺のエピソードなど交えて三十分ほど雑談をする、という不思議な企画でした。

ミケランジェロ、ダヴィンチ、ピカソ、ゴッホ、フレデリック・レミントン、アンドリュー・ワイエス、ジャクソン・ポラックと続きましたが、いつも最後に一番好きな作品の投票をしました。一年生から五年生までまんべんなくまわりましたが、皆、不思議と良いものはよく判るんですね。

ミケランジェロですと”ピエタ”、ダヴィンチですと”モナリザ”、ピカソですと”鏡の中の女”、ゴッホですと”アイリス”が他を圧して一位に輝きました。そのときにしたのが、”ゴッホは白いアイリス”云々の説明です。子供だましなのは当然です。子供達にした説明ですので。

あの回答の後、すぐに旅行に出ましたので、時間に追われていて、失礼いたしました。改めてお詫びします。

我々の審美眼が衰えたかどうかとのご質問に、私の経験からは、”否”とお答えしたいです。

3)これがまた、宗教画に戻ることは出来ないかとのご質問には、また長い長い回答が必要ですので割愛させてください。新しい質問をなさってくださることを切に希望いたします。

投稿日時 - 2011-01-19 03:03:56

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 3)宗教画に戻る・・・
 ☆ たぶん《人間画》と言えばよいでしょうか。
 人(画家)によって或る程度見る角度や表現にあたっての切り口が違うでしょうから 同じ主題であっても・つまりは同じパウロならパウロについての事件を扱う主題であっても 現わされた視像は趣きがちがってくるでしょうね。その《人間》を表現する絵のことです。
 直感をむろん排除しないわけですから 《神秘》も含まれるでしょうが わざわざこれからは宗教画というふうには言わなくてもよいのではないかとは思っております。
 (ちなみに 写真では間に合わないですから 絵画になると思います。コンピュータ・グラフィックで表わされ得るか どうでしょう?)

 お答えを見て 新しい設問をするかどうかを考えてみます。
 〔とは言っても これはたぶんみづからが創作をする人(つまり画家)でないと 設問の仕方も分からない部分が出て来るかも知れないとおそれますが〕。

 ★ ”ゴッホは白いアイリス”
 ☆ 傍若無人の暴言癖は 直りません。(このところ 少し社交辞令が言えるようになりましたが)。これが ブラジュロンヌだとあしらっておいてくださるとこちらもたいへんありがたく安心です。
 (しかも――しかもです しかも―― ふつうは《こちらこそお詫びをせねばなりません》と言うのですが それをめったなことでは言いません。相手の粗さがしを――話が深まってくると――平気でやりあうのが 信頼関係だと思い込んでいるところがあって お詫びのし合いをしないという考えをかたくなに持っています。あやまつなら我れありとも言って来ていました)。
 (あるいは 人は誰からおそわるか? 〔情報や知識をひと(他人)からおそわりつつ〕自分からだ。というシンネンの持ち主なのですから ちょっとやそっとでは 煮ても焼いても喰いつきづらいだろうと思います。なにしろ 《常識のない高齢者》ですから)。
 (要しますと そのほうが 暮らしやすい・過ごしやすい・つきあいやすいのではないかと・・・)

 ★ 1)イメージとロゴスの関係について。ちょっとした思い付きです。・・・
 ☆ これは にわかには反応がさだまりません。
 わたくしに分かっていることを項目別に書き出して 互いにとってよりよい答えを見つけ出したいと考えます。

 (あ)★ 外界からのイメージと、創造力(内面)からのイメージをごっちゃにしてしまうと
 ☆ この《内外》という事柄については いままでもそうでしたが あまり問題にしていません。もしそれでは問題が起こるようでしたら さらに追究したいのですが 木村重信の表現はそれとして捉えておいて〔そこからもという意味ですが〕 互いに共通の別の見解を得たいと思います。
 外界からのイメージも内面で受け止めますし 内面から起こるイメージも たぶん・おそらく外界との接触が間接的にでもあったのではないかと思いますし。内面でほかの人をひとり思い浮かべたとき内面のイメージを得たとすれば 外界との接触があったとも言えるでしょうし。

 (い)★ インスピレーション・創造力・ヰ゛ジョン・設計図(ラフスケッチのこともあり、ほぼ完成図に近いこともある)
 ☆ これらの概念を どう位置づけるかですよね? 次の図式あるいは別の図式でみなさんと共通のかたちで追究するとよいとまづ思います。《実体》は 物体でも観念でも《ものごと》というほどの意味に受け取りましたが。

 ○ ロゴスとイメージ ~~~~~~~~~~~~~~
  
   ロゴス(α):無根拠〔と人間との関係は 非思考の場=クレド〕
   _____________________________
   ロゴス(β):中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
         
   ロゴス(γ):本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい?

   ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ どうでしょう。みなさんからも案を出してもらうのを待ちましょうか。ちゃおぽるぽさんからもこのような図式で説明を添えていただくなら 話をすすめやすいかも分かりません。
 案が浮かんだら 補足欄にでもわたくしも書くことにします。そろそろニ千字にて。

投稿日時 - 2011-01-19 10:06:05

ANo.64

 夜分恐れ入ります。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

 また、ご賛同いただきまして、この場をお仮し、厚くお礼申し上げます。

> ☆ 著作権の存続を言っておられるのですね。
 かつて 暴力団の仕事について みかじめ料やノミ行為などがもし社会公共の仕事として必要であるのならば みなその今の暴力団員その人たちを公務員にすればいいではないかと書きました。
 芸術家は 公務員という位置づけではだめなのでしょうね。
 もしどうしても葬式仏教が必要であるのならば 坊主を公務員にすればよいではないかと考えたことがあります。


 まず、葬式仏教が必要されるのでしたら、坊主を公務員にすることはむしろ賛成でございます(困っておられるお坊さんもおられるでしょうし、金銭の授受の関係も明瞭になることですから)。
 暴力団につきましては、必要な分だけ、そうしてもよろしいかと存じます(財政状況から、全員というのは難しいかと思われます)。
 ただ、芸術家の場合ですと、そのときの為政者のご機嫌伺いをしてしまう人達も出てきてしまう危険性もあろうかと推察されます。つまり、芸術と政治が密になり過ぎてしまい、その結果、為政者の意の向くままに世論を導いてしまうような作品をつくってしまうことが、若干ではございますが懸念されます。


> ひょっとして ひどっちさんは ご自分でも絵を画いているとかしたりして。・・・

 実を申しまして、愚生は、大学4回生の頃までは、声楽家を目指しておりまして......
 残念ながら、体格が貧弱であったため(当時は、53 kgぐらいでしかなかったものですから)、諦めてしまいました。

 駄文、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-01-19 00:24:36

お礼

 分かりました。ご回答をありがとうございます。

 ★ ただ、芸術家の場合ですと、そのときの為政者のご機嫌伺いをしてしまう人達も・・・
 ☆ 公務員の芸術家は 自由をもらいものと思ったりすれば 何かと周りの旗色を見たりしてしまうでしょうね。あるいはぎゃくに自由過ぎて 社会関係としての適度の張り合い(緊張)がなくなってしまうかも知れません。

 そうして
 ★ ~~~~~~~~~~~
 葬式仏教が必要されるのでしたら、坊主を公務員にすることはむしろ賛成でございます(困っておられるお坊さんもおられるでしょうし、金銭の授受の関係も明瞭になることですから)。
 暴力団につきましては、必要な分だけ、そうしてもよろしいかと存じます(財政状況から、全員というのは難しいかと思われます)。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ よい方向に行くようなら そうしたほうがよいと思います。


 ★ 実を申しまして、愚生は、大学4回生の頃までは、声楽家を目指しておりまして......
 ☆ ううーん。化学者と音楽家ですか。また何かとおそわりたいと思います。音楽は 質問の仕方が分からないかなァ。とほほ。
 新聞記事で 十代のワ゛イオリニストが 二三人出て来たそうですね。二十代では 女性が多くて この十代は三人とも男だそうです。
 ベートーベンのパテティックは 最近なかなか面白いと思って来ているのですが 何か聞き方といったようなことがありますか?
 ベートーベンの余韻を残して エリック・サティを聞くとじつによろしいと思っています。サティに合わせたのかどうか分かりませんが けっきょくわたしは BGM として聞くのでそこのところは割り引いてあしらっておいてもらわねばなりませんが。

投稿日時 - 2011-01-19 09:00:51

ANo.63

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> 現代芸術は、それぞれつぎの作品によって、役割を終えています。

 モンドリアン《リンゴの樹》が出すのならば、ワグナーは少し的外れかとも思われます。と申しますのも、調整は(多少不安定なところがございますが)存在しているからでございます。ですが、つぎの終えた理由につきましては、概ね意見を等しく致します。

 文学は、筋書から解放され、現実的な生活感を失なった。
 音楽は、調性から解放され、旋律・和声・リズムの法則を失なった。
 絵画は、写実から解放され、実用性とともに存在意義を失なった。

> 現代芸術は、それぞれつぎの事情によって、役割を終えています。

 音楽や文学は、情報革命によって、著作権ビジネスが破綻します。乞食同然の辻音楽師や吟遊詩人たちの、自発的作品に戻るはずです。すべての芸術が“タダ同然”で鑑賞できるようになりつつあります。
 未来芸術は、注文主や広告主に頼らず、作者の自己負担で作られます。

 ただ、一つ懸念されますのは、芸術家達の生活が何によって保障されるかでございます。以前ですと、パトロンの存在、現在では“家元制度”+“資本主義による経済活動”によって、生活費を得ておりますが、完全な自己負担での(注文主や広告者なしでの)芸術活動では、ある一定の歯止めがかかるように思われます。つまり、「金持ちでなければ、芸術家にはなれないのではないの?」 という懸念がございます。特に著作権が形骸化し てしまいますと、さらに、生活費を稼ぐのは困難になるのではないかとの不安もございます。その結果、芸術の衰退の可能性も否定できないかと思われます。

> 新規絵画様式の模索実験(キュビズム等)の成果とは何か?
 ☆ の《模索実験》 これをも超えて――ただちに無条件に超えて――芸術家自身もおのれの美の体験にもとづき 自己表現として創作に励んで欲しい。こう思います。
 自由であれ。という至上命令。

 全く、意見を等しく致します。無条件に超えて、“美”(=感動)を表現していってもらいたいと願っております。
 ただ、「模索実験の成果とはいったい何だったの?」、「一般庶民 or その後の芸術家に与えた影響とは何だったのか?」につきまして、芸術史家の観点から総括して欲しいとも願っております。

 以下、勝手ながら愚見を申し上げたく存じます。

 将来、100年もしくは200年後の歴史家は、「20世紀芸術を振り返ったときには、“美”の愚直なまでの探究というよりも、“実験”という趣が強かった。そして、22,3世紀の今日では、20世紀の芸術作品において、見るべきものはごく限られたもののみである。」
 と語るものと、愚生は予言致します。

 最後まで、お読みいただきましてどうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-01-18 19:20:03

お礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。

 いやあ 全部復唱することになります。そうですね。そうですねと。

 もっとも ワグナーについて そしてそれとからめて挙げられているモンドリアンについて 詳しくありませんので――ワグナ―の曲はよく聞いていましたが―― その点は申し訳ありません。

 ★ ただ、一つ懸念されますのは、芸術家達の生活が何によって保障されるかでございます。
 ☆ 著作権の存続を言っておられるのですね。
 かつて 暴力団の仕事について みかじめ料やノミ行為などがもし社会公共の仕事として必要であるのならば みなその今の暴力団員その人たちを公務員にすればいいではないかと書きました。
 芸術家は 公務員という位置づけではだめなのでしょうね。
 もしどうしても葬式仏教が必要であるのならば 坊主を公務員にすればよいではないかと考えたことがあります。

 ★ 二十世紀芸術の総括
 ☆ これを経て ふたたび文学も音楽もそして絵画も あらたな創作活動を始めるかも知れません。一人ひとりの生きるありさまや美の体験があるでしょうから それぞれ切り口が異なっていいはずです。
 万葉集4,500首の過半数は無名の人が詠んだものですし。


 ひょっとして ひどっちさんは ご自分でも絵を画いているとかしたりして。・・・

投稿日時 - 2011-01-18 20:04:40

ANo.62

フレンチクルーラーを内と外の連続性と見てください。
外で感じて、内で感じる、外に出力してまた、、、、。
入力装置と出力装置の連続。

また、No.53の「もどかしさ」を「赤ちゃんの泣き声」と
見ると、お探しのなにかのヒントになるかもしれません。

投稿日時 - 2011-01-18 13:32:42

お礼

 そうですね。つづいてですが

 《作品がすべて》という意味は さらにそのときの直感がまづはすべてだということになります。
 その意味では 内と外との二つの世界 あるいは 入力と出力との二段階があることは 前提に置いていないのです。見たままのことを 鑑賞と言っています。
 そこに美の体験があったとなれば 神の言葉に触れるかのような直感イメージあるいはヒラメキ直観があったということを知ります。むろん 人それぞれではあります。

投稿日時 - 2011-01-18 13:46:57

ANo.61

スタンスを明らかにするのはいいことだと思います。

>それで けっきょく つねに誰にとっても 直感イメージや
>直観ヒラメキがかたわらに(もしくは むしろ中心に)伴なわれていて
>その体験(事件)とコギト(思考)として得ている認識とのやはり一致
>をつねに問い求めている。

おおむねは同意です。

ただ、個人的に問題としたいことは、
「これこれこういうことを意味した作品」ということの内側に
こだわる姿勢です。それはだけど、表現、なんたって新しい表現
とかっていいたいわけじゃなくて、やはり、作者が意図するしな
いにかかわらず、作者と作品のフレンチクルーラー関係に情熱が
いきすぎて、鑑賞する側の、フレンチクルーラが振動しないこと
にはっていう、そこがなんかなんかの感じがもやもやするってこ
とが、いいたかったのです。
その辺もちょっとずうずうしいのを承知でブロジェロンヌさんの
この場所をお借りして、アマガッパさんなどにもご意見をいただ
きたかったという、かってな思惑でした。すいません。

後は、坊主にあこがれてたゴッホの作品が嫌いにならないことを
願いたいです。坊主憎けりゃ袈裟まで憎しっていう、宗教観でな
いことを祈るばかりですが。

投稿日時 - 2011-01-18 12:26:03

お礼

 わたしがよく飲み込めていないのかも知れません。ご回答をありがとうございます。

 わたしに分かっていることは
 ○ 作品がすべてであり 鑑賞として作家は関係ありません。
 ☆ ですから
 ★ 作者と作品のフレンチクルーラー関係
 ☆ というのも分かりにくいのですが 《作者と作品との関係》にはこだわりません。
 こんなところでしょうか。

投稿日時 - 2011-01-18 13:07:58

ANo.60

アマガッパさんみたいに詳しくないけど、

ある部分は想像で書きます。

表現にこだわるか、神秘や精神性にこだわるかという
のは波のようなものだと思います。

例えば、宗教色が強くでていると、意味(シニフェ)が重要
絵画技術が向上すると、表現(シニファン)が強く出る。
印象が重要、ちょっとだけ、意味(シニフェ)も重要かも。
もののなかにみる抽象性を表現(シニファン)
また精神分析が進むと意味(シニフェ)中心
と波打ち時代は進むわけですが、

そこで聖書中心主義としては、結局、まずは、神の見言葉ありき、
としたいわけですよね。

しかし文字はイメージをシンボライズしたものとわかった。

仮に鳥がバタバタと飛び立つ鳥をシンボライズした記号を仮に「バタ」
と発音していたとしたら、ちょっとまずいわけです。

だってそれでは、シニフェ(神のみことばが絶対)優位という理論
がくずれてしまいますから。

簡単に言うとこういうことでしょうか。

投稿日時 - 2011-01-17 15:48:19

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 まづ ロゴス(広くは 《ことば》)とイメ―ジとの位置づけを見てください。

 ○ ロゴスとイメージ ~~~~~~~~~~~~~~
  
   ロゴス(α):無根拠〔と人間との関係は 非思考の場=クレド〕
   _____________________________
   ロゴス(β):中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
         
   ロゴス(γ):本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい?

   ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《ロゴス(α)》は 人がまったく分からない領域です。でもその《無根拠》と人とは どこかつながりがあるという想定です。よって ロゴス(β)としての直感イメージが来ます。別の言い方をすれば 神が人の心の窓をノックするという。
 そこで 我れに還り わたしがわたしである。となると 直観ヒラメキが得られたと見ます。
 あとはさらにその事件についての言葉による分析が コギト(思考)として持たれます。


 ★ そこで聖書中心主義としては、結局、まずは、神のみ言葉ありき、 / としたいわけですよね。
 ☆ 今ではキリスト・イエスはいないわけですので 言葉で語られ文字で書かれた聖書をつうじてしか 分からない。その意味では 聖書を中心的な資料とします。
 問題は 神が わたしの心の窓のもとにおとづれたかどうかです。そのことと聖書に書かれたこととが 一致していると分かれば クレド(信仰)がたしかなものとして成ったとなります。そのとき確かに
 ○ はじめに 神のみ言葉ありき。
 ☆ とも 表現されます。
 それで けっきょく つねに誰にとっても 直感イメージや直観ヒラメキがかたわらに(もしくは むしろ中心に)伴なわれていて その体験(事件)とコギト(思考)として得ている認識とのやはり一致をつねに問い求めている。こんな感じですかね。


 たぶん《宗教》と《精神分析》は 信仰や思考に何ら関係ないと思いますよ。
 《神秘》は それとして 直感イメージにかかわって 人によっては現われ持たれるでしょうし――ちなみに 《異言(シャリバリ=デタラメ言葉)》と言います―― 《絵画》は このイメージ直感やヒラメキ直観に大いにかかわって来ます。
 それらの美の体験を解釈したものは 《預言》と呼ばれます。基本的には人に分かるような表現で語られコギト(思考)にもとづいていますが しかも少しは《神秘》のほうにかかわってもいます。

 この《預言》を 金儲けあるいは支配欲を満たすために組織をつくって集団において教義とするのは 組織宗教です。
 精神分析は 《神秘や異言》の分野の存在をいいことにして わざわざ《無意識》という領野を立てたものと思われます。必要がないと考えます。意識していないものは意識していないし 意識にのぼったものは意識している。ただこれだけのことだと考えますから。
 《イド(それ・あれ)》といった力やはたらきが それとしてあるとは考えません。すべて 人間としての《わたし》の中に起こる自然本性の動き(記憶なら記憶)とおよびわたしの意志による動き(知解や意志による判断)とであると見ます。意識しているかしていないか その区別があるのみであると。
 どうでしょう?

投稿日時 - 2011-01-17 19:43:53

ANo.59

先ず、55にいただいた丁寧なご応答にさらにお応えします。わたしは、木村氏の主張を矢印で書き出してみながら、昔の人は話が曖昧だなあという一種の憧憬と讃嘆の念を覚えていました。なんとなく黒川紀章さんの怪力・電光石火・着想の華のような文章を思い出して。
疑問に思っておられる箇所について、木村氏が形象化や形象的イメージを言う段階で、そもそも象徴というのは音の世界については言わない代物ですから、これは象形すなわち「書字の起こり」のことだと思われ、それが一人勝手な形象ではなく近隣の誰かに通じる性質であるという意味で「象徴としての」形象であると、そのような形象化を言っているのでしょう。一言でfigurationなのですが。ですから、ブラジュロンヌさんが「言葉」とお書きの音素の部分には、木村氏はこの箇所では触れていないように思いました。
それから、「思想形式としての言語」というのは難しい事柄ですね。あの言語にしてあの思想ありというのは洋の東西の科学も哲学もそうでしょうが、あの思想にあの言語ありき、いやまた、あの言語にあの思想ありき、という同時発生的様相を解きほぐすのは至難の業です。
ところでおっしゃるような、文字をもたないうちの抽象的な思考というのは、楽器や舞踊の助けを借りて共同体が共有しうる表象となると思いますが、そこには宿りのロジックがあるので、自ずと精霊信仰を強化することになるでしょう。降ってきてまた立ち去るという束の間のものたちを相手にするので、再現性や統合性についての議論が活発になることはあまりないのではないでしょうか。

48のご応答のほうに移ります。(g)に関するわたしの見解に反応をいただいていますね。
まず、イメージや視像を回避しようとする知覚的なありかたを現代美術のobjetの即自の例として考えるわけですが、
(これは美術界のコモンセンスになっていると思います)(そこからクラークが印象理論を展開したりフリードが客観性や演劇性によって作品を切り込んだりしてきています)、
では、その自己否定契機として木村氏に対自とされる「普遍的な人間性のシンボル」というのはなんのことだろうかというのが、美術界のコモンセンスでは答えが出せないところです。
普遍的な人間性はあるでしょうか? また、シンボルつまり象徴が時代や場所を超えてそのとおりに解されることは可能でしょうか? 後者についてはそのとおりというのは無理で、知的体系を動員して知解するという手続きによってしか、時代や場所を超えて象徴に踏みこむことはできないでしょう。霊感的と言ってよい素早さで論理のない結びつきに捕らわれなければ象徴のはたらきは無いからです。
そこで、一つの手段を提案するとすれば、時代や場所の制約をシンボルがそんなに受けているのだから、その制約を壊そう、抜け出そうとすることで、普遍性に少し近付くことができるだろう、そして、何がそのような制約であるのかをしっかりと見つめるということは、同時代性を見つめて問うことであるだろう、というのがわたしの書いたことの意味です。
これを読んでいただいたうえで、応答のご質問(1)~(5)は変化しますでしょうか? ご質問の書き直しがあればお願いします。また後日にまいります。クレドのほうに重心を持っていけるとよいですね。

投稿日時 - 2011-01-17 03:17:07

お礼

 そうですね。《同時代性》がなぜそんなに《制約》となっているのか・成っていると見なければならないのか? 横着ですが この一点にわたくしの場合は問い求めが集中していると思います。

 ご回答をありがとうございます。

 ですからNo.48で質問を浴びせるかたちを取りましたが その最後の一文の前の文章についても 何故? という疑問を抱いています。
 ★★(回答No.48) ~~~~~~~
 イメージが像を結ぶことむしろ極端には視像を結ぶことそのものを排する試みによって objet たらんとしているという側面は現代美術にはあるでしょう。その自己否定的契機をどう作品に投入するかは、著者の主張の眼目にあたるところだろうと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この事項について今回あらためてご見解・ご説明を受け取ったと思います。
 ★ クレドのほうに重心を持っていけるとよいですね。
 ☆ というお考えを持ってもよいということでしたら そういった方向においてもしくはそういった角度から切りこんでいくとすれば どうなるか? とは思っています。
 (すなわち 木村の文章は 勝手ながら出汁にしているだけという見方をも このやり取りの途中で持ちました。著書はそれとしていま読んでいますが)。

 すなわち
 ★ 自己否定的契機
 ☆ を何故持たなければならないか? 《美術界のコモンセンス》は何故そうでなければならないか? これになると考えます。

 ★ 普遍的な人間性はあるでしょうか? また、シンボルつまり象徴が時代や場所を超えてそのとおりに解されることは可能でしょうか?
 ☆ 前者は そのまま《ある》と想定されるでしょうと考えます、
 ★ 後者についてはそのとおりというのは無理で、知的体系を動員して知解するという手続きによってしか、時代や場所を超えて象徴に踏みこむことはできないでしょう。
 ☆ たぶん《象徴》を持ってくるとややこしくなると考えます。そうではなく――つまり 美術界のコンセンサスに対してただ上の想定にもとづくことのみによって異を唱えるのですが―― これこれの絵はうつくしいという事件があればよいという考えです。
 人間にとって人間性というみづみづしい力と言って来ましたが そういう普遍性の想定です。象徴がどうだこうだは もう関係しないかたちです。
 ★ 霊感的と言ってよい素早さで論理のない結びつきに捕らわれなければ象徴のはたらきは無いからです。
 ☆ たぶん ですから 象徴のはたらきかどうかを問う前の段階において イメージが単純に直観なるヒラメキを呼ぶ直感としてはたらくかどうか これを絵には問うています。いちおうそのようにやり取りは進んで来ていますので そのような切り口が間違いであるとすれば そのようにご批判ください。


 前半ですが
 ★ 一言でfigurationなのですが。
 ☆ とお書きのところは 木村に即してどうもそのようであるとお伺いしました。これは 美術論の全体観にうといので残念ながら そういう反応になります。
 ★ ところでおっしゃるような、文字をもたないうちの抽象的な思考というのは、楽器や舞踊の助けを借りて共同体が共有しうる表象となると思いますが、そこには宿りのロジックがあるので、自ずと精霊信仰を強化することになるでしょう。降ってきてまた立ち去るという束の間のものたちを相手にするので、再現性や統合性についての議論が活発になることはあまりないのではないでしょうか。
 ☆ そうですか。もう少し 伸びる――心あるいは精神性が伸びる――とは思っていたのですが 限界があるということかも知れません。文字を持たないアイヌの口承文芸・ユカラにおいて 自然人という出発点が かすかに社会的な交通の契機を宿しているであろうとは見たのですが 確かに《再現性や統合性についての議論が活発になることはあまりない》 こういう限界はあるのでしょう。とわたしも見なければならないかと思いました。残念ですがと言いますか でも 出発点ではあるという動き(契機)は見ておいてもよいかなとは思っています。(ちょっと中途半端なものの言い方ですが)。

 ありがとうございました。

 * 《ロゴス》の段階別の区分についても 見てもらっておくとよいかも知れません。

投稿日時 - 2011-01-17 05:36:21

ANo.58

すいません。
amagappaさんが言おうとしていることをたぶんちょっと
誤解していました。引用が多すぎて理解するのに難しい
です。

でも、個人的にはスタンスは変わりません。
誤謬が例えあってもおおらかにシェアが拡大すること
はいいことっていう。

投稿日時 - 2011-01-16 13:43:14

お礼

 つづきです。

 ★ 誤謬が例えあってもおおらかにシェアが拡大すること / はいいことっていう。
 ☆ もしこうだとした場合 それでもその結果は 別の問題を引き起こしていませんか?
 資本主義社会では ピカソが一たん共同の観念ないし幻想として君臨するようになると たけしとかいうその思想が阿呆の人間が これを踏み台にして金儲けをします。その観念ないし幻想が 人びと一般に否応なく降りかかってくるという副作用があるという意味です。
 オザワ何とかという人間は 過去の者です。それでも副作用が人びとに降りかかって来ているところがある。それを取りはらうのに手間暇がうんとかかっています。

 まぁもしすべて問題はないと言うとしますと このように別の考え方もあるのだということ そのような批判が自由におこなわれるということ これを実現させていなければウソだという意味がわづかに問われるでしょうね。

投稿日時 - 2011-01-16 14:22:21

ANo.57

金儲けはうさんくさくて俗的だという固定観念。

少し前に、偶像崇拝について発言したこともあったと思うけど、
坊主にだって信仰をいつまでもつきつめていきたいという欲求は
あったんですね、でもある日こう思ったんです、いやまてよなんの
為につきつめるんだっけって、人々を救うためだよね。じゃあ、
もっと広く分かりやすく身近にすることの方が先決じゃないかって
いろんな種類の仏像作って、浮世に生きる人のご利益を中心に、
したって全然いいじゃんって。

ゴッホが好きだということですが、ゴッホの温かい色遣いやタッチは
崇高を目指すという方向ではなく、もっと、やわらかくて、あたたか
くて、人間臭い視線の気がします。牧師をあきらめてボンズにあこが
れたのも、浮世絵に影響をうけたのも、ただ、異郷へのあこがれとい
うだけではなく、そういう理由もあったのではとも思うのです。

即物的になることを否定的に見るのはある一つの意味では賛成です。
しかし、それは自閉的な意味ではなくて、既存の価値観という閉塞から
脱却し新しい価値観を創造する必要性を感じるからです。

しかしそれは狭き門の問題ではなく、例えて言うとフレンチクルーラー
の問題なのです。メビウスの輪という厚みゼロの裏表で考えるからよく
ないのであって、老いも若きも、やわらかくて甘くてしたしみのある味
が重要なのです。

投稿日時 - 2011-01-16 12:41:28

お礼

 そうですね。情報やその解釈のあり方が錯綜していますね。

 ご回答をありがとうございます。

 まづ わたくしに関しましては 《崇高》ということに 個人のクレド(非思考=信仰)つまりそこにおける美の体験をからませることはあっても 組織宗教の聖性だとか死後の天国極楽だとかそういった崇高の主題はいっさいありません。(むろん組織宗教は この個人の神体験ないし美の体験としての直観ヒラメキやその観想や理論としての世界観をパクって教義にしているということになります)。

 坊主が あくまでひとりの人間としてクレドの体験とその自己表現にこだわるのであれば――つまりたとえば親鸞はそのようにあろうとして 弟子を持たずみな同朋だと言い 簡単に言えば組織もこわしました―― その自己表現に見るものがあると考えます。規則や教義にしばられているのであれば 何をか言わんやとなります。

 ★ 金儲けはうさんくさくて俗的だという固定観念。
 ☆ ですから この《金儲け》も 個人か組織かあるいは 金融資本を背景とした売り込みとしてのキャンペーンによるものか で違って来ます。《聖俗》といった対立する二項によって分けたりする判断の基準は いっさいわたくしにおいてはありません。
 みな俗であり その中でも《おのれの美の体験にもとづき自己表現を 死ぬまでうんうんと身づからを推して 固めていく(サンキーレ)ということ》 この生活態度(思想)が確立した(サンキーレした=サンクトゥス)ことを《サンクトゥス⇒聖なる》と呼びます。そういう意味での崇高さを問題にしています。何度も繰り返しますが 組織宗教の《聖俗や崇高さ》はまるっきりいっさいこれっぽっちも関係ありません。唾棄したいところです。その組織の長は もっともくだらない人間のあり方であると断言します。
 《人をすくう》ったって おのれの美の体験にもとづきその美を自己表現しつづけて行けばいいわけです。それ以外に何もすることはありません。
 《狭き門》といった規定や教義は何一つかかわりがありません。ただし 現実は 上の自己表現ほどむつかしい務めもないでしょう。たしかに狭き門ではあるのです。まったくふつうの生活をつらぬくこと これほどむつかしい仕事もありません。
 フレンチクルーラーも それを思いついた人にとってはその人の自己表現のひとつのかたちだったかも知れません。

投稿日時 - 2011-01-16 14:14:54

ANo.56

何だか難しい話になってきちゃいましたね。
マシュマロさんとアマガッパさんが木村さんの引用と
解説を丁寧にやってくれたので、良かったですね。

しかし、私には話が難しすぎるというのもあるし、崇高への
ベクトルにも、それほど興味がないというのもあるからだと
も思うけど、何点か気になるところがあります。

分析や科学が発達することは、悪いことじゃないと思います。
シェアを拡大することに一役買っていると思うからです。

例えば宗教などの信仰をより身近に感じさせて分かりやすく
させるとか。聖書を題材にした作品が絵の技術の進歩によっ
て、即物的な様相の現実味を帯びて、信仰って何だか楽しい
なって、俗化するとか。

また、何が何だか説明のつきようのない情熱が込められた作品
が分析されてこれは「何が何だか説明のつきようのない情熱が
こめられた作品で云々」と説明がつき、シェアが拡大するなど。

物質文明を否定する向きはありますが、もう少しダイナミック
に見れば、地球、宇宙という自然の科学的解明がどれほど進ん
だかと考えれば、大したことはないとも言えます。

どちらかというと自己完結的になりすぎることの方が気になり
ますが。

投稿日時 - 2011-01-15 12:27:53

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 芸術家を 自分たちの金もうけのためにキャンペーンを張って売り出すとかの話ですか?
 でもどうもこの話は クサイです。

 ですから たとえば聖書の話に題材を取って 画家の独自の解釈で いろんなふうに描くことが出来るのではないですか? 現代においてもです。現代においてこそ その自由度からすれば 画家の力量が問われているのではないですか?
 宗教――わたしが軽蔑を込めて言うところの《組織宗教》――からもはやまったく自由になっているのですから。
 ですから この《組織宗教》ゆえにその解釈もあるいは或る種の仕方で感受性や実際の感覚までもが その組織の権威から規定され規制を受ける なんてことほど おろかでくだらないことはないのですから――つまり その組織の命令にしたがうところの《自己完結》が求められていることほどくだらないことはないのですから―― いまこそひとつの主題にとっていろんな画家が競うようにして 描いて行ってよいように思うのですが どうでしょう?
 音楽や詩や小説や映画などでも競えばいいわけです。よね?

投稿日時 - 2011-01-15 13:23:33

ANo.55

http://okwave.jp/qa/q6433458.html マシュマロさん#20ご提示の「はじめにイメージありき」の引用から次をまとめます。
この箇所で木村氏は、形象化と論理の発達の相関関係を確認します。
現実が表象されること → 象徴たる言語が形象化すること → 形象的イメージの助けによる「象徴的な」思考が可能 →思想形式としての言語が起こる(思想の象徴)、との主張です。
ただし、わたしは、「象徴的な」ではなく「抽象的な」思考が可能になったと書くべきであると思いました。また、これに続くドヴォルシャックのテーゼへの異議は、不毛であると思いました。美術史=精神史という符号はいずれにも変りなく、そこで美術史を述べるか、精神史を述べるかの違いは、記述者のもつ概念構造の成り立ちに関わる違いであるからです。書かない部分にどれだけ広がりや奥行きを保持しているかの違いであるからです。
それから、後段落で感じたことは、木村氏のイメージについての考察はE.H.ゴンブリッチのような美術における原理的視点に基づくものではなく、つまりウォーバーグ派が培ったようなイコノロジーを精神史に敷衍する類のものではないということです。そうではなく、比較文化論の方法を問題にしていると言えます。すなわち、ひとつの時代のロゴスと別の時代のロゴスを突き合わせるような歴史観を退け、木村氏が記号や象徴と呼ぶところの形象としてのイメージの延長や移植による通奏から、大文字でない歴史むしろ精神史を考えたいということのようです。
これは、ちょっと頭をよぎることを言えば、フーコーのエピステーメーがパロールを掬い挙げるのと同じ仕事を視覚的に行うといった緻密な難題を置き去りにはできないだろうということと、甚だロマン主義的に異質な他者の発掘と相対化を無邪気におこなうにせよ、シュルレアリスム的にイメージのコラージュを拡張するにせよ、やはりイメージの変貌における精神分析的手法が、ちょうどディディ=ユベルマンが扱い続けているようにして、どこかの時点で与することになってしまうのではないか、すなわち自閉したロゴスを招くだけではないのか、ということが懸念されます。
ひとまず、引用箇所の読了のメモとします。

投稿日時 - 2011-01-15 03:30:59

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 きちんと読み解いてくださってありがとうございます。
 そうですね。わたくしの場合は 俯瞰はよほどのことがあって必要だと判断した場合でなければしませんので その点 見方がずれるのですけれども わたくしもきちんとお応えしたいと思えば どうでしょう 言葉もしくは文字の起こり この主題については 或る程度具体的に・感覚としても追認しうるかたちで分かったらいいなとは考えます。

 ★ 現実が表象されること → 象徴たる言語が形象化すること → 形象的イメージの助けによる「象徴的な」思考が可能 →思想形式としての言語が起こる(思想の象徴)、
 ☆ このまとめに関しましては 第二段階の《象徴たる言語が形象化すること》と第四段階の《思想形式としての言語が起こる(思想の象徴)》とのあいだが どのように違うのかなどについて 分かりづらかったです。
 たとえば第一では 《現実が〔* イメージをつうじて捉えられ そのイメージを形象に表わすことで〕形象化される》と解しますが もしそうだとしますと 第二では 《この形象が 象徴となって 言葉にあらためて対応することとなる》といった感じで受け取っていました。
 太陽が お日さんのイメージとして持たれ これが形象として表わされる。するとこの形象が 象徴としてあらためて お日さんならそれとしての言葉と対応するかたちを得る。といった感じです。

 そうしたとき では 第四段階ではどういう事態が起こっているのか? おそらくおっしゃるような解釈をわたしも得ました。《思想形式としての言語が起こる(思想の象徴)》 あるいはただし
 ★ ただし、わたしは、「象徴的な」ではなく「抽象的な」思考が可能になったと書くべきであると思いました。
 ☆ といったところでしょうか。《形象から象徴を得て この象徴をつうじて 観念を得る。(もしくは 言葉が観念としても持たれる)。つまりは 〈抽象的な観念ないし思考〉が出来るように成る》でしょうか。
 あとは この抽象的な思考が 《イメージ⇒形象化⇒象徴化⇒抽象的な観念を得る》のあとさらに《文字》を得たかどうかで どう成るか・どう変わるかに関心があります。
 たとえば 自然と一体であった精神は 原始心性として 到るところに《精霊》を見て取っていると その後の《歴史感覚を得た人間》は捉えますが・つまり何はどうあれ《かみ》という言葉をもって世界を見ていたと捉えますが ではこの《かみ》として――たとえば 空の電気現象を《神鳴り》として――表わし世界を見て取ることは 《抽象的な思考》ではないのか? そのようなとき文字を持たない文化においては 何が起こっているのか?

 しっかりと批評をあたえていただきましたので がんばってお応えしました。これは 時間をかけて考えて行こうと思っている主題ですので いますぐどうこうということではありません。そんなかたちでしかお応えできませんが お礼とします。ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-01-15 05:36:06

ANo.54

 こんばんは、ご返答いただきまして、厚くお礼申し上げます。Hidocchiでございます。

 このOKWAveにおきましても、ピカソの理解に困っておられる方々が多いようでございます。
http://okwave.jp/qa/q2730553.html 
http://okwave.jp/qa/q4376641.html 
http://okwave.jp/qa/q5139041.html 

 上記ご質問内容を拝読していくうちに、映画「コレクター」(1965年)を思い出しました。以下には、その中の台詞を列記してございます。

「巨匠がいい絵だというから、いい絵なのだろう」
「こんな絵をいい絵だと感じられる人間は百万人に一人だけさ」

つまり、
・一般人の現代美術に対する見方(認識の仕方)が、専門家の意見によってかなりの部分が影響を受けている。
・ピカソの絵を否定はしないが、一般人には理解不可能だろう(すばらしい絵だと、感じられるのは百万人に一人ぐらい)。

 と言わんとしているかと考えられます。つまり、現代美術は、ある特定の審美眼を持った人たちにのみ、それを享受できるものなのかもしれません。

 そこで、ピカソ等のパトロン(擁護者)は誰だったのか、という疑問が浮かんできました。そうしますと、以下の陰謀論(?)がヒットしてきました。

鬼塚英昭著「二十世紀のファウスト」
http://mayonokuni.web.fc2.com/faustjyoukann.pdf     p.43から
 「合法的マフィア」の連中は投機の対象として商うために、彼らの(ピカソ等のです)絵に高値をつけた。こうして、ニューヨークを中心にガラクタとしかいいようのない作品が氾濫するようになる。それは技術を要さない。コピーしやすい作品である。大量にでっち上げ、大量に売りまくり、本当の利益者はほほえみ続けたのである。絵画の利益なぞたいしたことはない、と思ってはいけない。ユダヤ王ロスチャイルドもこの方法で財をなしていったのである。かつての名画は数が少ない。ならば、名作を大量に作らせればよい、というのがアメリカの泥棒成金たちの考えた方法であった。
 ニューヨークの近代美術館は、シュールレアリズムやキュービズムの絵を現代絵画の傑作として認め、その理論を確かにするための手段をとった。

 もちろん、これを証明する手立てはないのですが(愚生が証拠をつかんでいれば、とっくの昔に消されているかと)、ニューヨークの近代美術館はピカソや抽象絵画の作品を多く所蔵していること。またピカソは多作で有名な画家であったし(参考1)、ピカソの絵画はかなりの高値で取引されていること(参考2)。これらのことから、不思議と信憑性が増してきます。

参考1:http://labaq.com/archives/51119609.html (ギネスブックに載っているのだそうです)
参考2:http://blog.hix05.com/blog/2010/05/-nude-green-leaves-and-bust.html (ピカソの油絵が美術品としての史上最高価格1億650万ドルで落札された)

 陰謀論の是非は述べられませんが、新規絵画様式の模索実験(キュビズム等)の成果とは何か? と問いましたならば、これに回答を与えてくれる人は少ないように見受けられます(できれば、ご教授願いたいのですが)。

 今回は、美学とは何の関係もない話しに終始してしまい、申し訳ございませんでした。

 駄文、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-01-14 20:00:24

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 かなり辛辣で議論は強烈です。
 OKWave の質問の第三に掲げられたところで 《ヘンテコ芸術》と呼んで 蓼食う虫も好き好きの論理での回答がありました。おそらく《陰謀論》を薄めれば そういう見方になるのではないかと思いました。ほかの質問への回答の中からわたしの判断で 二件を引用しておきます。

 ▼ (最初の質問【Q:ピカソの絵が理解できません】・回答No.5) ~~~
 
 未来芸術論 ~ 仲介者の退場 ~
 
 現代芸術は、それぞれつぎの作品によって、役割を終えています。
 
 文学:プルースト《失われた時を求めて》&ジョイス《ユリシーズ》
 音楽:ワグナー《神々の黄昏》&ストラヴィンスキー《春の祭典》
 絵画:ピカソ《ゲルニカ》&モンドリアン《リンゴの樹》
 
 現代芸術は、それぞれつぎの理由によって、役割を終えています。
 
 文学は、筋書から解放され、現実的な生活感を失なった。
 音楽は、調性から解放され、旋律・和声・リズムの法則を失なった。
 絵画は、写実から解放され、実用性とともに存在意義を失なった。
 
 現代芸術は、それぞれつぎの事情によって、役割を終えています。
 
 とくに絵画は、写真術の発明によって、わずかに残された“芸術性”
を商品化し、虚偽産業として生きのびようとしています。
 あたかも茶道や華道が、作法産業として絶滅を免れたように。
 
 わたしは、つぎのように現代芸術を見つめています。
 
 音楽や文学は、情報革命によって、著作権ビジネスが破綻します。
 乞食同然の辻音楽師や吟遊詩人たちの、自発的作品に戻るはずです。
 すべての芸術が“タダ同然”で鑑賞できるようになりつつあります。
 
 未来芸術は、注文主や広告主に頼らず、作者の自己負担で作られます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 今後考えるに値すると思いました。

 ▲ (第二の質問【Q:ピカソの絵の良さについて】No.5) ~~~
 宗教画の時代
 ↓
 もっと人間社会のありのままを描きたい!
 ⇒ルネサンス(遠近法の発明)
 ↓
 以降、写実性重視の時代がずっと続く
 ↓
 19世紀ころ、写真の発明により画家達の生命ピンチ
 ↓
 そんななか、日本の浮世絵に感銘を受けた一団
 「3次元を2次元に忠実に写し取るより、
 もっと感じるままに描いたらいいんじゃね?」
 ⇒印象派、ポスト印象派の登場

 ↓(ここから様々分岐、発展)

 ・「つか、色とかも見たとおり描かなくていいんじゃね?」
 ⇒フォービズム
 
 ・「形とかも見たとおり描かなくていいんじゃね?」
 ⇒キュビズムの登場・・・ピカソはたぶんこのへん

 ・「現実にあるものを描かなくてもいいんじゃね?」
 ⇒シュールレアリズムの登場

 ・「つか、もうどうでもいいんじゃね?」
 ⇒抽象絵画、ドリップアートとかいろいろ登場
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは分かりやすいと思ったのですが シュジェ(主題)もフォルムもまったく自由・つまりどの時代にも誰にとっても自由という見方をすでに出しておりますので この分かりやすい図式を超えて進みたいと思います。つまりは 
 ★ 陰謀論の是非は述べられませんが、新規絵画様式の模索実験(キュビズム等)の成果とは何か?
 ☆ の《模索実験》 これをも超えて――ただちに無条件に超えて――芸術家自身もおのれの美の体験にもとづき 自己表現として創作に励んで欲しい。こう思います。
 自由であれ。という至上命令。


 ◆ (鬼塚英昭著「二十世紀のファウスト」) ~~~~~
 ・・・国連に飾られているピカソの《ゲルニカ》は醜悪美の最高傑作だ。

 〔「合法的マフィア」の連中は投機の対象として商うために、彼らの(ピカソ等のです)絵に高値をつけた。
 ・・・(中略)・・・
 ニューヨークの近代美術館は、シュールレアリズムやキュービズムの絵を現代絵画の傑作として認め、その理論を確かにするための手段をとった。〕

 今やポロックは金持ちとなり 自分を金持ちとしてくれた《合法マフィア》たちに酒混じりの怒りをぶつけるまでに成りあがった。アートは創造されたのである。ポロックのような神々が多数誕生してきた。神々は自分たちの芸術を荘厳なる輝きの中で飾ることを要求した。芸術はかくて《キャンペーン》の時代に突入した。(p.43)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ひゃああああああああっ すごい。

投稿日時 - 2011-01-14 22:41:29

ANo.53

なんだか迷走してる気がします。ちょっと整理したくなりますね。

イメージは、五つの感覚の出力結果から人間が、ぐるぐるポン
して、ヒラメキつまり悟性により、像を結んだ瞬間の出力結果
と考えていい気がします。

幼児の時の自閉時期の体験での話ですが、それ以前は短い言葉
をおもちゃのようにして子い犬のように遊ぶことも可能でした
が、
文章というものを絵本で親しむようになると、文それ自体が持
つ自立した世界観つまり文そのものが指し示す意味に気を取ら
れて、ではそれを発信した人は実際にいったいどういう、
コミュニケーションを取りたいのかがまったくどのように思考
をめぐらしても分からなくなり、ですからそれにたいする明確
な文での返答も迷宮入りしてしまいます。

程度の差こそあれ幼児には、そういう、どのように文に展開して
いいかわからないもどかしさを常に感じているのです。
しかし、それも社会での訓練でうまく言語に変換していくことが
できる様になります。

しかし、この「もどかしさ」こそが、社会性へのエネルギーです
よね。また、芸術への情熱の源にもなります。

しかし、それが既に巷にあまりにも出回っているとしたらどうで
しょう。
エネルギーの源である「もどかしさ」はもうすでに像をむすんで
しまってある芸術作品がカタルシスの作用となり、泡のように、
はじけてしまうかも。

簡単にいうとそんなようなことだと思うのですが。

投稿日時 - 2011-01-14 13:15:01

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~
 エネルギーの源である「もどかしさ」はもうすでに像をむすんで
 しまってある芸術作品がカタルシスの作用となり、泡のように、
 はじけてしまうかも。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ うん? 
 ★ カタルシスの作用
 ☆ は 美としてプラスですよね?
 ★ 泡のようにはじける
 ☆ は マイナスのイメージなのですが その点 いまひとつ分かりづらい。
 ★ 〔* 文ないし文章に表わされた自己表現を 他者として読み解くときの〕エネルギーの源である「もどかしさ」
 ☆ は 或る程度は 無くさないで保っていたほうがよい。でしょうか?
 ★ ~~~~~~~~~~~~
 しかし、この「もどかしさ」こそが、社会性へのエネルギーです
 よね。また、芸術への情熱の源にもなります。
 ~~~~~~~~~~~~~

 わたくしの文章は 長く凸凹しているので イライラすると言われました。その《もどかしさ》がプラスにはたらくといいのですが。

 ヒラメキのイメージとその結像からさらに象徴(シンボル)として形象化したあと 文字も作られ 文を読む作業が生まれる。《もどかしさ》をおぼえる。
 ★ しかし、それも社会での訓練でうまく言語に変換していくことができる様になります。
 ☆ と整理してみましたが。

投稿日時 - 2011-01-14 16:04:27

ANo.52

貴方の書き方は、何度か読まないとわかりませんね。議論を拒絶したのかと思いましたが、数度読んでいくと、次の議論の提案もなさっている。少し読むのが大変でしたよ。

エチケットとおっしゃる文献学云々は、この場合は、貴方が注目してほしい文章を私が拾わなかったという怒りでしょう。ただ、私の立場も分かってもらいたいのですが、貴方は明晰なつもりでも、私には本当に、貴方が何を言いたいのか最初はわからなかったのです。結果的に「囮」になっている箇所が多いと思えば、貴方がいかに力説しても、無視も必要だと感じたのです。右往左往は困ると言ったのはそういう意味です。
また原理主義的であるとか、貴方が誤解だとおっしゃっている議論の矮小化だとかは、私の主観的なまとめであって、いうなれば私の「評言」です。私の判断の自由も認めていただきたいものです。実際、貴方も評言の意義はよくわかっておいでのはずです。別の欄の話になりますが、貴方は、躊躇いなく「評言をくりだす」ことを常にやってきたと私にお書きでした。私がそれをしたからといって制止される理由はないでしょう。しかし貴方をご不快にしたことは謝りましょう。

しかし、もしかしたら貴方はこれでは礼儀の問題を謝罪したにすぎないから不十分で、まだまだ謝罪が欲しいとおっしゃるかもしれませんが、それなら、まず誤解を解くのを手伝ってくださる必要があるでしょう。まず貴方は結語で「のっぺらぼう」という独特の言い回しを使いながら(正直、私はこういう表現が理解しにくいので、できたら別の言葉を使ってください)、自分の理論がなぜダメなのかとおっしゃいますね。私が貴方の議論の土台でわからないといっているのは、他人の内面を覗けないのに、議論を「われわれ」と一般化しえる理由です。通常は不可能なはずです。そこで――私が疑っているのは、問題など最初からないところに、問題があると騒いでいるだけではないのか?ということです。問題が発生したとしても、貴方個人の話なのではないか?とも思えたのです。
しかし、いやいや、そうではないのでしょう。きっと集団的な「われわれ」の間で、貴方のいう美を認識する直感が欠損していると考えられる事例が、多々あったのでしょう。それが何かと聞いているのです。貴方がこれが「善」に関わるというのなら、その話をしてください。凶悪犯罪が増加しているのは、美を認識する直感が衰えたせいであるということなのか?――など、私はあまり貴方の言わんとすることが焦点を結んでいません(きっとそういう話ではないのでしょう)。ともあれ、私はそれが「善」の問題と関係させられるのは古典主義的な美学の範囲内で承知しています。真・善・美が一致するという議論がありました。しかし私が知っているのは二百年前の話です。そこで現代に生きる貴方が考えている次の段階の議論に歩みを進めてください。ただ繰り返しになりますが、その具体的な根拠となる例が欲しいと考えています。

そして私は思ったのですが、貴方からあげられる具体的な劣化の症例が欠けているので、一つ重要な問題が議論されていなかったように思います。それは美の直感が劣化したというが、劣化の性質が何だったのかということです。たとえば直感の範囲と強度に関する劣化は全然別のものです。範囲というのは、ゴッホはわかるが、ピカソはわからないという話です。強度というのは、わかるといっても、感激に痺れをなす程のものなのか、「ちょっといいかも」といって終わるかどうか、という問題です。
そして強度の判断については、鑑賞する作品で有利と不利があるでしょう。ゴッホは、あの南仏風の色彩やミストラルのようにうねる筆使いからして、直感に訴えかける強度という点では、非常に強いのかもしれません。線形のピカソはそうではありません。そうしてみるとこれは劣化というより、単に性質の違いという疑念も浮かびます。いかがですか。

投稿日時 - 2011-01-14 13:13:12

お礼

 たしかに普遍性をめぐる理論ないしその議論は むつかしいです。

 ご回答をありがとうございます。

 そのむつかしさの思いを 次の質問でのましゅまろさんとのやり取りでおこないました。
 【Q:《常識の無い老齢者》・・・】No.23へのお応え
 よろしかったら 見てみてください。

 《怒り》だとか感情の問題と見なすことがお有りですが あるいは
 ★ しかし貴方をご不快にしたことは謝りましょう。
 ☆ という話に持って行かれますが わたしの言う話はかんたんです。見解の相違をそのつど見止めて・つまりそうだと書きこんで 次にすすみましょうという意味です。
 たとえばクレーの絵とナチスの件は たしかにわたしの言い分を認めたかたちで次の議論にすすんでいると見えるのですが そういう場合は(つまり一たん見解の相違となったときに なお再考の余地があったのなら) その判断結果をひとこと文字にしておくことは大事だと考えます。
 (むろん 見解の相違のままだという判断を下すこともありますから その場合には 仕方ありませんが それでも見解の相違から前へすすめませんと出来れば触れておいたのがいいでしょう。と思います)。

 《美の体験》にもっぱらもとづく美学理論は あなたからも回答を寄せてもらった《マ(間・間合い)の理論》と地続きです。
 【Q:マ(間・間合い)の理論】  
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6327849.html

 それで マがうまく取れてうまくまじわりがすすめられるときには 美の感覚が 言わば自然本性にのっとって主観としてだけでも善であると捉えます。マが違うならば 善ないし美の感覚も マチガイであると――やはり主観の判断事項としてに限られたかたちにおいて――見なします。
 その意味で 美の経験は けっしてのっぺらぼうではないと見ています。善とそしてその損傷という負の善 これら二つの状態に分かれるということを――あくまで主観的にですが―― 見ています。
 ピカソがそれに当たるかどうかは分かりませんが 一般に絵画なら絵画の作品の中には これはどう見ても やぶれかぶれ〔から発した表現〕ではないかと思わせるものもあるのではないでしょうか? 簡単に見て そういうところから 善ないし美の正負ふたつの場合に分かれることが起こると見ます。決してのっぺらぼうに(どれを取っても どっちもどっちでまったく相対主義の世界にあるというかたちで) 美の感覚が起こるのではないと見ます。


 ひとは この世界においてその世界は必然の王国とさえ呼ばれるほどであるなら やむを得ず 《心に逆らわないというおのれの善》を棄てることがあります。あるいはそんななまっちょろいと見られるかも知れない状態を通り過ぎて自分からすすんで この善を放棄し 善を傷つける人生をえらぶことさえあります。
 この主観の判断事項は それでも一般性を持つと言い張る所以は すでに触れたと思いますが むしろ感性におけるやましさの感覚です。心の胸騒ぎやあるいは 顔を赤らめることやまた 言葉をしゃべるときにしどろもどろになったりすることが 《善を傷つける》意志決定にはともなわれるという事態です。
 共通感覚ということ。
 そしてあるいは 自由ないし自由意志という公理も 経験的な相対的な根拠です。心にさからう自由もあれば したがう自由もあるという人間の自然本性のあり方です。(自然本性は 精神としては 記憶・知解そして意志という三つの行為能力といった分析にもつながります)。
 《真・善・美が一致するということ》が 主観ごとに当てはまるという仮説です。

 今回は こんなところでしょうか。中途半端を承知ですが こんな感じです。

 念には念を入れます。
 ★ エチケットとおっしゃる文献学云々は、この場合は、貴方が注目してほしい文章を私が拾わなかったという怒りでしょう。
 ☆ そうではなく 見解の相違ならそれとして互いに見止めるということ。見止めたとひとこと言っておくこと。また再考の余地があったのなら その結果を述べておくこと。これを主張します。どうですか。

投稿日時 - 2011-01-14 15:46:51

ANo.51

たびたび失礼をいたします。

アイリスの絵の感想は、その通りです。

そこに一本補助線を入れます。左から三本目のいかにもひ弱そうな、しかも一本だけ葉っぱに守られずに、茎だけですっきりと立っている白いアイリスが、この作品の焦点だといわれます。

この白いアイリスは、ゴッホであるし、また、鑑賞者でもあります。

右側に、猛々しく野放図に伸びた藍色のアイリスは、ゴッホの才能を認めない世間であったり、家族であったり、学校の友達であったり、会社の上司であったりするでしょう。

でも、白いアイリスは染まらずに飛び続けるのでしょう。

これに気付いたとき、胸が痛んでたまらなくなったのを覚えています。
質問者さんはどうでしょうか。

今日は時間切れのため、これにて。お粗末さまでした。

投稿日時 - 2011-01-14 09:29:49

お礼

 ううーん。だめ。その解釈はだめ。

 ちゃおぽるぽさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ご解釈は ぴったりです。おっしゃるとおりです。だから だめ。

 なぜ だめか?

 ◆ すべての人と同じようになりました。すべての人を得るためです。
 ☆ もしたとえ世間の一部の有力な《低俗》ワールドが いかにくだらないことを言ったりしたりしていても まづそれと同じようになる必要があります。文字どおり《低》だとすれば わたしたちはその同じ地平にまで降りていくことが第一歩になると思います。
 またそこでなら 売り言葉に買い言葉でなりとも 答え返すことができます。
 白いアイリスは うそとしてでも藍色の群れと同化するのがよいでしょう。
 そこでムラハチブにされたとすれば 去る者は追わず来る者は拒まずで行けばいいのぢゃないですか。

 白いアイリス――カッコよすぎるのは駄目です。と思いますが どうですか?

 お粗末さまでした。ミスター小言勇太郎でした。わたくしは 《感情的になっている》そうですから。

 * つまり《白いアイリス=ゴッホ》だと見なせば それは褒めたことにはならない。さあ どうでしょう。

投稿日時 - 2011-01-14 10:09:55

ANo.50

そろそろまとめに入られるということなので、

いにしえの日本の美風にしたがって、短歌ひとつ、絵に添えて、
質問者さんにお送りします。

”白鳥はかなしからずや
     空の青海のあをにも
            染まずただよふ”    若山牧水

ゴッホの絵がうまく添付できればいいのですが。

参考URL:http://www.harley.com/art/abstract-art/vangogh.html

投稿日時 - 2011-01-14 02:47:44

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 《 Irises 》――左半分奥の橙色の群れが 生きていると思いました。その前面の青い群れのほうが 力づよい印象であることは ほんとうだと思いますけれど。



 《まとめに入る》ことができるかどうか 分からないようにもなって来ました。

 声をかけてくださって ありがとうございます。

投稿日時 - 2011-01-14 07:35:19

ANo.49

最後の行に誤字がありました。

 いまの人間が見ている世界(の)その見る構造に

ところで、わたしの文章に超距離相関があると猪突さんに言われました。それでかつて恩師に労働を強いたことを思い出しました。申し訳ないことです。しかしよかったらメモ用紙とペンをお使いください。

投稿日時 - 2011-01-14 02:02:18

ANo.48

この質疑の投稿が面白いとハートマインドさんがお書きなので見に来ました。長い質疑ですね。例によってわたしは読む余裕もなく、直前の投稿以外は拝読しないまま書きだしますが、重なるか討議済みの部分はどうぞご容赦ください。
それにしてもお久しぶりですね。
育児で忙しいなら来なくていいよというお声を勝手に聞いたつもりで長考派のブラジュロンヌさんの質問には立ち寄らずにご無沙汰していました。クリヤさんの件の短い投稿以来になりますか。

ご質問のa~gが、木村氏の言説ではなく他者による要旨だとしたらあまり話は進みませんが、本人の言説か本人承諾済みの言説だとして所感を述べます。
その前に、二つの留意点があります。

ひとつは、美術批評は業界が狭く市場を横目に見た特徴的性格を持つので、用語の定義は平板かつ明確であり、キリスト教の視点による解釈には沿わないであろうこと。

もうひとつは、象徴(シンボル)とは、諸物間の意味の飛躍的一致がかなうことであり、その一方が視覚的に現れ他方が奥に潜むところの飛躍した一致となること。したがって、「それは何である」「それはこういう事である」等の理知的な認識が先に成り立っていないと機能しません。且つ、その理知的な認識のためには、概念形成がすでに行われていなくてはなりません。

本題に入ります。
【(a)イメージはロゴスに従属するのではない】
はじめに言葉ありきに対抗させる恰好ですが弱い言説で注意を要すると思います。「ロゴスに従属するのではない」を決して「ロゴスに先行する」と解釈してはならないでしょう。イメージは知覚に近いとも知的シミュレーションであるとも言われ議論は尽きませんが、美術史的には像または心象で済まされるでしょう。
イメージは「それは何」をめぐる象徴に囚われるとともに、象徴から逃れ正体へ向かう運動を繰り返し後退します。「それは何」つまり概念を中心とする理性的認識はイメージとのいたちごっこについて、他の諸要素の参照関係へ無数に繋留することによって安定を得ています。類似構造化とカテゴライズのプロセスというわけです。(a)のロゴスというのは言葉や理性的認識といった定義で、神学上の問題を含まず使われていると思いますが、したがって、イメージはロゴスに従属するのではなく、飛躍的参照において釣り合いをとる錘のようにロゴスを利用するといえるのではないかと思います。

【(b) ロゴスはイメージから抽象され、イメージの働きを基礎にして、象徴的な思考が可能になり、その結果として哲学や科学などがうまれた】
そんな簡単な話で済むものではないでしょう。抽象度の違う事物というのは世界に満ちており、ロゴスは教えられて学習する側面の大きいものです。知覚像を類似やカテゴリーに抽象するために既にロゴスの助けがおおいに必要です。でもこれはたぶん神話と星座のようなことを言いたいのではないでしょうか。

【(c)このイメージないしその記号としての美術の本質は変貌であって、発展ではない】
美術史家のディディ=ユベルマンなら変貌という一語に反応を示すでしょうね。ともかく、象徴のヴェールがかからないイメージの運動はないのですから、社会と人間と事物が変われば、ことは変貌とみなければならないのは当然でしょう。

【(d)進歩、退歩とか開化、未開とか言われるが、これはすべてのことをロゴスに翻訳して考える習慣が...】
19世紀に西欧を席捲したこれらの言葉ですが、まさに科学博覧会と万国博覧会のイメージから生まれたものと思いますよ。ロゴスによって構造化されたイメージですね。

【(e)(f) 現代美術の著しい特性として、即物的傾向をあげることができる】
20世紀の美術は、何かを表すとか主題はしかじかのことであるという傾向つまりsujetを離れて、物となったつまりobjetと化すことになったという意味です。

【(g)作品がオブジェとして即自的に完結することと、普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む】
an sich とfur sichの止揚はないから茨の道だと言うのですね。それにしてもobjetの否定がsujetへの回帰ではないのかどうかという議論が本文にはあるのではないでしょうか。
イメージが像を結ぶことむしろ極端には視像を結ぶことそのものを排する試みによってobjetたらんとしているという側面は現代美術にはあるでしょう。その自己否定的契機をどう作品に投入するかは、著者の主張の眼目にあたるところだろうと思います。勝手を言えば、美術が同時代性を問うならば、いまの人間が見ている世界をその見る構造に、つまりシンボルの働くところである参照の全てに、疑いを見せなければならないでしょうね。

投稿日時 - 2011-01-14 01:07:55

お礼

 ★(回答No.49) ところで、わたしの文章に超距離相関があると猪突さんに言われました。それでかつて恩師に労働を強いたことを思い出しました。・・・ 
 ☆ ほんとうですね。

 ご回答をありがとうございます。

 ★ (最後の一文) 勝手を言えば、美術が同時代性を問うならば、いまの人間が見ている世界のその見る構造に、つまりシンボルの働くところである参照の全てに、疑いを見せなければならないでしょうね。
 ☆ わたしは引用魔でもありましたが 質問魔でもあります。
 (1) なぜ美術が 世界の現実に疑いを見せ そのあり方を問うという仕事を引き受けなければならないか?

 (2) あるいはずばり 画家がおのれの美の体験にもとづきその美を視覚にうったえるだけの作品というかたちにおいて描き切れば それだけで――間接的には―― 《世界の現実を 人びとの心において 問うている》ことになるのではないか?

 (3) けれども そのような間接的なかたちにおいてにせよ わざわざ現実の問題を明らかにするというようなことは 画家としても鑑賞者にとっても 度外視しておいてよろしいのではないか? 

 (4) 美は もっと高い――あるいは逆に まぼろしのごとくの夢物語としての――志に答えるところにあり それに仕える者の務めは 世界を超えていてもよいのではないか? 人びとの中にはそう表現するお望みがあるとすれば 阿呆でも病人でもよいのではないか?

 (5) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
  【(g)作品がオブジェとして即自的に完結することと、普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む】
 an sich とfur sichの止揚はないから茨の道だと言うのですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから 即自的な《わたし》もしくはその自己表現としての絵作品は じつはすでにそれに先行する《わたし》の美の体験において――それだけでは 確認されてはいないという事実があるにもかかわらず――すでに対自的な我れ(もしくは そこから無理なくひろがるところの《われら》)に到っている。
 これが 美という事件であり 美の体験であり そもそも《うつくしさ》というコトではないのか?
 それは 弁証法的過程を超えているのではないか? 画家は 世界を超えていてもよいのではないか?


 ☆ 復唱もせず いただいた命題を取り上げ残しておりますが たとえば次の参考資料などにあたっていただければ よいかと考えます。

 【Q:《常識のない高齢者》です。思う存分ご批判をどうぞ】
 そこでのましゅまろさんからのご回答。特に
  No.20:『はじめにイメージありき』結語部分からの抜粋
  No.22:『東洋のかたち』 第二部 信仰のかたち イメージの復権

 ☆ 言いかえると これだけでは まだ見解をそれぞれ突き合わせるという作業までですが。出そろうということも 大事ですから。
 

投稿日時 - 2011-01-14 08:07:22

ANo.47

前回の投稿の趣旨は、もう少し冷静に話し合おうではないか?という呼びかけです。したがって、貴方の出方を見たわけです。

大雑把にまとめると、貴方の考える美学の枠組みにのるか、のらないか、を私は迫られているようです。結果、貴方が設問の時点では明確にできなかったかもしれない(と私には思われる)ことが、段々と明らかになりました。
・社会的な問題はこの際、論じない。
・認識の問題に絞る。
・個々の作品の事例は重視しない。
美学の学術としては以上の設定では限界があるような気がするのは正直な感想です。しかし、もう始まってしまった話ですし、質問主の貴方がそう思うなら、それで良しとしましょう。これは議論の枠組みを設定するというだけのことですし、その権利は質問主がもっています。別の箇所で述べたように、質問主はこういう意味で、議論の主導権をもっているのです。この点で労力を使っても、平行線に話は終わるでしょう。上述のルールにのることにしましょう。
歴史的背景としてのナチスの問題は、貴方の主張が明確になってきたら最後に私から「貴方は違うというかもしれないが、議論はネオナチ的である」と批判することがあるかもしれません。が、貴方の今の記述では、まだその段階ではありませんし、私もそこまで言っていません。というのも貴方の記述は貴方の意思と関係なく、原理主義的な書き方になってしまっただけのことのようだからです。ナチス的な議論にならないことを願うと釘を刺したまでです。Hidocchi氏の丁寧な補足を読みました。少なくても、貴方がファシズム支持者ではないことはわかりました。それはそうだろうと思っていました。ですので、ブラック・ユーモアなのかな?と思ったのです(ファシズム支持者でも、突然、ナチスで何が悪い?!という話をする人は少ないでしょう)。細部で議論の余地は残りますが、貴方にファシストのレッテルを貼ったわけではないので、私の書き方が悪かったら許して下さい。

さてBragelonneさんに話を戻して、貴方が反復して問うている次の一節は、私には挑発としか読めなかったが、重大な問題を言っているのでしょうね。「んなわきゃない」などという言葉は、真面目に議論したいなら、おやめになった方がいいでしょう。冷静さを欠いているだけにしか読めないのですから。

>★ つまり、設問者個人が、日常的に見てもよくわからない作品があり、自
分の研ぎ澄まされた感受性を妨害されていると感じ、どうしたら より感受性を
砥ぎ済ませられるか?――と問う議論と小さくまとめられるからです。
  ☆ んなわきゃない。
  ○ 《無根拠》なる石に〔* 《 α 直感》をめぐるかたちで〕つまづくと
すれば それは審美眼の劣化につながっている。 
  ☆ とはっきりと宣言しています。

これは貴方の設問設定に関連する同意を求めていると読める箇所です。しかし私には議論の結果、質問欄はそもそも何を問うているのかがわからなくなってしまいました。もちろん、次第に明らかになったものもあります。
・何が劣化したと思っているのか?
――第一次的審美眼である直感。原初のαと呼ぶもの。
・どういう要因か?
――logosの理解の浅さ。純粋な直感を妨げる社会的価値基準など第二の審美基準が蔓延していること(?)。

しかし一方で貴方は、各個人が美と感じる対象は違うことを認めらっしゃいますね。つまり、各個人が口にはしないけれども、感慨に打たれる瞬間があることを認めているわけです。では、なぜ他人が美と感じているものを「劣化」だと判断できるのですか。貴方は他人の直感αの様態を覗けるわけではないですよね。そうしてみると貴方がどのような問題を受けて、劣化だといっているのかが分からなくなってしまったのです。
なるほど美術史家の書いた本には、「私、キムラは一枚の絵画の前に立ち霊感に打たれた」などと書かず、「~~という画家は1890年生まれであり、生来の憂鬱症を抱えていた」などと第一次的直観の話をせず、第二次的な情報を並べているわけです。しかしそれは、直感が衰えたとみなす根拠にはなりません。書かないだけかもしれませんから。同じことは、著述家に限らず、一般的な人にも言えるでしょう。
さて、貴方が、直感の劣化が「われわれ」という一人称複数の集団に蔓延しているとまず感じた根拠はどこにあるのですか?これは木村の文献は関係ないようですが(gの解釈でしょうが、これは囮なのでしょう?)、改めて教えてください。それがわかるだけでも、私にとっては得たものがあるでしょう。

なお、「審美眼」の劣化と言わず、「直感」の劣化と言うことにしましょう。審美眼はもっと広い意味をもっていて、話が混乱しやすくなりますから。

投稿日時 - 2011-01-14 00:07:12

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 次のわたしの方針について合意が成ったでしょうか。

 ☆☆(No.44お礼欄) ~~~~
 【A:話の進め方のあらたな提案】 で それでも絵画や画家についての議論をしてこそ美学が成り立つというご主張であるのならば わたくしに出来る限り その議論に応じますと 今回お伝えいたします。
 【B:その提案にのっとって ただしまづはそれまでの話を整理しておく作業】 その初めに すでに議論のすすみに応じて 懸案となっている一件を取り上げ お尋ねしている。こういう情況です。どうですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち【A】の軌道修正について合意が成り 【B】のわたしの言い分について答えてくれたものと受け取ります。

 表現のもんだいに過ぎないかも分かりませんが ただし 次のような内容を言ったおぼえはありません。
 ★ 大雑把にまとめると、貴方の考える美学の枠組みにのるか、のらないか、を私は迫られているようです。
 ☆ そうではなく 話し相手つまりわたしの考える《美学の枠組み》を それがたとえご自分の枠組みとは異なっていても それが異なっているものとして持たれているということそれ自体について認めるということ これをわたしはあなたに迫っています。《のれ》とは言っていません。

 ★ 「んなわきゃない」などという言葉は、真面目に議論したいなら、おやめになった方がいいでしょう。冷静さを欠いているだけにしか読めないのですから。
 ☆ こういうことを問題にするのは わたしとしてはめづらしいのですが 何が《真面目》であるのか そういう主題についても立ち止まってお考えになることを 徒労としてでも お伝えしておきます。
 というのも 前回の【B】の話は単純であって 相手の言い分を まづは見止めるところから話はすすめなければならないと〔だけ〕言っています。

 ★★(回答No.43) ~~~~~
 つまり、設問者個人が、日常的に見てもよくわからない作品があり、自
 分の研ぎ澄まされた感受性を妨害されていると感じ、どうしたら より感受性を
 砥ぎ済ませられるか?――と問う議論と小さくまとめられるからです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このような《まとめ》をしたことはないとこちらは言っているのですから 勘違いでしたというような趣旨の受け答えがまづ必要であり大事です。その受け答えをしたと同じになるというような話の進め方に成ってはいますが それは きびしく言えば間違いです。文献学のいろはのいです。
 議論などをするつもりは ありませんが 応じるというからには 議論のエチケットを守っていただきましょう。そうでなければ 《んなわきゃない》とならなければウソです。

 分かりやすいのであれば それでは 言いましょう。そのようなマ(間合い)の取り方 これが じつは 美学にしても何にしても すべてです。そういう話を 質問者としては しています。そうとすれば そこに《直観につうじる直感 α 》の問題つまりその劣化のもんだいがあるのではないか? こういう心づもりがあります。
 おそらく この趣旨が 原理主義でありファッショであると疑われており その心づもりとしては 宣告したいというところなのでしょう。
 そしてそれなら それは わたしの提出した《美についての 人の善とその損傷とさらにその癒やしをめぐる理論》のもんだいです。これは――というよりも 《ロゴス(α) すなわち神》を出したところで 話が確かに何でもありの情況になったのではありますが―― 同じくたしかに進めがたい主題です。逆に言うと そこまでの議論の用意が 互いにあると合意したことを意味しませんか? ほかの参加者の方々にしてみれば 勝手にやってくれと言う人もいるかも知れませんが あなたとの間では そういう言わば段階(局面)に入っているのではないですか?

 でもそのことは 成るべく措いておきましょう。質問者としては 回答者の要望にこたえたい。その方針ですすみます。
 ただし 過去は 話しのつづきとしてまったく度外視していいわけがないと考えますから すでに触れたいろはのいとしてのエチケットを守っていただきましょう。
 ★ つまり、各個人が口にはしないけれども、感慨に打たれる瞬間があることを認めているわけです。では、なぜ他人が美と感じているものを「劣化」だと判断できるのですか。
 ☆ この問いについても 先の《理論》如何の問題になっています。この理論ではだめだというのなら 出来れば理由を添えて そう(答えになっていないと)言った上で話しをあらたにすすめていたただきたい。それは 美の体験は決してのっぺらぼうではないの問題です。
 まづはこういった応えになります。

投稿日時 - 2011-01-14 07:18:57

ANo.46

zakky74でございます。bragelonneさん、こんばんわ。

先日、bragelonneさんに提案しておりました件ですが、

>>ご自身の判断基準を一旦は横に置いておくのが嫌なのでございましたら、・・・明確にお応えなき時は、・・・それが、bragelonneさんの本意と違っていたとしましても、僕はその様に判断致します。

によりまして、bragelonneさんはご自身の判断基準を横に置いておくのが嫌だとの姿勢であると僕は判断しております。ですが一方では、bragelonneさんは判断基準の問題性2.と3.についての理解と納得は実感込みでされている事かと推測しています。

2.一人ひとりの判断基準は全部違う(だから人と人は分かり合えない)

3.だからと言って一つにさせたらもっと問題(機械的・ロボット的・ファシズム)

ですからこの判断基準の問題性2.と3.について、如何様に突破していくのかが課題として残っております。

>早く回答を書きなさい。

これは何についての回答でございましょうか?

イメージについてという事として受け取りまして、投稿を続けようと思いますが、もし違う事についての回答を求めていらっしゃるのでしたら、仰って下さいませ(bragelonneさんの質問に対して)。

ところで一段階、僕は既にイメージがどういうものかをbragelonneさんにお伝えしております。ただ、そのイメージの伝達には大変な難しさを孕んでいる事を予測しておりました。明確な悟りという表現を引き合いにしながらの取り組みでした。

当然の事ながら、bragelonneさんに伝わっていたものは僕がお伝えしたかったイメージではないと僕は判断しました。僕がお伝えしたかったイメージが前提となった上でのbragelonneさんからのご意見でしたら、僕はその事には疎通・交流を図る上で意味も価値もあろうかと思います。

ですが、僕がbragelonneさんに受取って頂きたかったイメージのイメージではなかったんですね。bragelonneさん側のイメージを前提として、その上にbragelonneさん側の論理が展開されているのを感じました。

bragelonneさんは、質問者としての立場でございますし、僕は回答を投稿する者としての立場でございます。まずイメージを100%受け取った上で、その100%のイメージを下に選択が始まるかと思います。

ですが、そもそもbragelonneさんに伝わっているイメージはほぼ0%でございました。伝わっているイメージがほぼ0%なんですけれども、bragelonneさんからは次々とbragelonneさんの論理が出てきます。ほぼ0%の土台の上で、一体どんな循環がなされ、共に交流を創り上げていけるというのでしょうか?

この時、僕にはbragelonneさん側のイメージを受け取り、bragelonneさんの判断基準を理解する選択もございましたが、この時はそれを選びませんでした。Q&Aのサイトであり、僕がA側のポジションだったからです。

僕側のイメージがほぼ0%で伝わっている場合、bragelonneさんから出てくる論理に僕が合わせますと、それだけでも文字数を食らいますし、生産的ではございません。

故に、bragelonneさんに伝わっているイメージは違うという事を中心にお伝えし、疎通・交流のズレを悟りの観点からお伝え致しました。

すると、bragelonneさんは、まるでその意図とイメージが伝わっているかの様な土台の上でまたもやbragelonneさんの論理が展開されておりましたが、何とそこでも僕が伝達した悟りの観点とは違うイメージでございました。ここでも、ほぼ0%でございます。

このままではマズイと思いました。

低い循環率を高める事が先決だと判断した為に、bragelonneさんの情報処理によってイメージが曲がって伝わっている事をお伝えした上で、その理由はどこにあるとお考えなのかをbragelonneさんにお聞きしたところ、

>と言われれば わたくしの側にそのことについての確固とした対策・・・

と仰りました。仕組みをご存じないと判断しましたので、その仕組みと対処法をお伝え致しました。

それが判断基準の問題性と、判断基準をいったん横に置いておくという事でございます。予測は出来る事ですが、実はここでもbragelonneさんはご自身の判断基準から来る論理が展開されております。

イメージのイメージは、bragelonneさんの判断基準の外の事でございます。ですが、bragelonneさんはご自身の判断基準を選択されました。すると次に理解すべきは判断基準の不完全性でございます。

如何でございましょうか?

投稿日時 - 2011-01-13 22:38:36

お礼

 ゴッホはいかがですか?

 美をお感じになりますか?

 あるいは 誰かいい画家を見つけておいでですか?

 あったら おしえてください。

投稿日時 - 2011-01-13 23:01:11

ANo.45

 こんばんは、ご返答いただきまして、厚くお礼申し上げます。Hidocchiでございます。

 今回は、別段、ご回答に供することはございません。ですが、ANo.44におきまして、愚生の意見に関し言及がございましたので、ご返答いたします(このままですと、愚生はファシズム擁護者と受け取られないからでございます)。

> ナチスのホロコーストの延長にある退廃芸術という排除運動

 ・ユダヤ人の迫害
 まず、ユダヤ人に対する相当のルサンチマンがドイツ国民の中にありました。そして、ヒトラーが反ユダヤ的な発言をくり返し、ドイツ人に優越感を芽生えさせることによって自分の人気を上げていったかと察せられます。そして、ユダヤ人を差別し、さらに首相、総統(首相にして大統領)へと権力を伸ばしていったものと解しております(ヒトラーは極めて民主主義的な手続きにより、公約(?)を守り続け、権力を拡大していきました)。

・ホロコースト
 ユダヤ人大量殺戮でございますが、この問題につきましては、様々な説がございます。以下に、R.ヒルバーグの解釈を述べさせていただきます。
 まず、官僚たちはユダヤ人たちを「憎悪」してはいませんでした。4つの権力集団(官僚・軍・産業・政党)は自分たちの判断がどこに導くかを知らないまま独自に行動し、ある時には互いの仕事をさえぎり、前人未踏の犯罪へと邁進していったというものです(このホロコーストにより、大儲けした産業もございました)。ここでの主犯は一人ではなく、ドイツ官僚全体に及びます。

 従いまして、ユダヤ人の迫害、ホロコースト、そして退廃芸術の排除運動は、根本的に異なるもの(つながりがないもの)と考えております。

> 退廃芸術 という排斥運動も「劣等」とみなしたものを排斥する流れにあるものです。一方、受動喫煙の禁止とアスベストの問題は排斥運動ではなく、健康への配慮というものでしょう。「どちらも近代合理主義」と同列に議論できるものではないはずです。

 そもそも、“近代芸術”を身体的・精神的な病気の表れである「退廃」だと論じた理論を掲げたのは、マックス・ノルダウ(ユダヤ人)だったかと記憶しております。
 一方、優生学の問題でございますが、従来、優生学・優生思想はナチスの残虐性を立証することに主眼がおかれていました。この残虐性は愚生も認めております。ですが、そもそも優生学(eugenics)が最初に唱えられたのはイギリスですし、また当時では、アメリカも含め、スウェーデンのような福祉国家においても公然と進められてきたのも事実でございます(ドイツ以外の国々で表沙汰にならなかったのは、戦勝国であったという理由は大きいかと思われます)。

ソース:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%AA%E7%94%9F%E5%AD%A6 

 また、「受動喫煙の禁止とアスベストの問題は排斥運動ではなく、健康への配慮」ではなく、厳密には、「受動喫煙の禁止とアスベストの問題は排斥運動でもあった」と考えています(背景には、兵士の増員というものがありました)。
 そして、上記政策反対論者は、“禁煙ファシズム”というスローガンでもって(宮崎哲弥氏や養老孟司氏等です)、抵抗しているのもご存知のことと思われます。
 因みに、ドイツでは“健康増進”のための政策提言は、過去の経緯から、積極的に乗り出せない状況にあります。もう、過去のトラウマから開放してあげるべきかと考えております。

・ナチスによるその他の排除
“軍需産業(=特定の産業)と政治家との癒着を排除(既得権益の撤廃)”

 これも、ヒトラーを、ドイツ国民が拍手喝采のもとでリーダーとして迎え続けた理由の一つかと考えております。
 
参考:ロバート・N. プロクター著「健康帝国ナチス」

 仰いますように、“「どちらも近代合理主義」と同列に議論できるものではないはずです“
 には、愚生に落ち度がございました。申し訳ございません。

> 第三者も閲覧可能なものだから、気をつけたいところです。

 いえ、逆でございます。確かにナチスには“負”の遺産もありました。愚生もこれを認めております。ですが、“功”ともいえる遺産もありました(それでなければ、当時第二の経済大国にはなりえなかったと推察されます。
 換言いたしますと、“ナチス”という言葉のみで、思考停止するのは、危険かと考えております。
 従いまして、「現代美術に批判を加えることは、たとえナチスがそうであったとしましても、避ける必要はない」は、撤回するつもりはございません。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-01-13 20:25:40

お礼

 ひどっちさん ご回答をありがとうございます。

 残念ながら ナチス論 ヒトラー論 ドイツ国民論などなどは わたしには荷の重い課題です。
 《わが闘争》を読んだときには この文章は 批評や批判の対象にはならないと考えてしまい それからあとは そのままになっています。

 質問者として 見守っております。

投稿日時 - 2011-01-13 21:19:56

ANo.44

貴方は前回の回答のお礼欄で、感情的になってらっしゃいますね。信頼関係もないからこれ以上は話せない、といわんばかりです。三カ月程度しか貴方を知りませんが、貴方の悪い癖です。確かに私生活では、私は嫌いな相手に淡々と話すのがいかに難しいかを感じることがあります。しかし貴方は学術の話をなさっているのだから、ご自分の主張を整理してまとめてくださればいいのです。説得的に話すのは同情的に語るのとは違います。貴方はそういう様式に慣れないようだから、どういう点で説得されないか、以下にまとめておきます。

まず美学的に納得できない理由について。それは話が抽象的だからです。抽象的な概念は整理したでしょうが、美学の議論なら、個別具体的な作品や流派を論じ、例を挙げるべきです。貴方の議論は、抽象的に、何が至上命令だとか、何がcredoと考えるか、霊感を受ける文献は何か、自分の意見に敬意を払ってもらいたい、という話です。これは学問ではなく、所信表明ではないでしょうか。簡単に水掛け論になってしまいます。
整理すると貴方の主張は、
・直感的な美意識(第一次的な審美眼)が現代では衰えているのではないか?
ということですね。その理由づけはいろいろできるでしょうが、私への話では、
・credoだとかlogosの理解が不十分であること、
・社会背景や歴史性などをすぐ持ち出す輩がいること、
ということになりそうです。
私の立場は、第一次的な審美眼が不十分であると敢えて認めた上で、その補助となる第二次的な審美眼の有用性とその発展性の議論をしています。貴方は私に同情するなどと嘯いていますが、なるほど、貴方にしてみると欠損している症例が出てきたとお思いなのでしょう。こういう話し方は生産性が無いので、喧嘩論法でしかないと思いますが、それが貴方の流儀なら仕方ないことです。ただし相手の意見で認めるべきところがあれば認めればよいし、認められないところは質問すればよいとは申し上げておきます。

しかし貴方の方もどうも煮え切らないらしい。というのも、貴方がこれで、あらゆる芸術に見開かれているのなら、なるほど貴方はcredoに対する深い理解を通じて、直感を洗練させえたことになります。しかし貴方がお好きだといっているのは、既に認められた巨匠ゴッホであって、別段、特に独自の議論を展開しているわけでもありません。
仮に直感的に貴方が普通の人が認めえない美の様態を直感によって浮き彫りにしたなら、貴方の感受性に敬意が払われもしましょう。たとえばよく詩人が絵画論を書きますが、少々、議論が飛んでいようと、常人離れした鮮烈な美意識で議論を展開したら、それは見事なものです。しかし貴方は何を言いましたか?――お手上げだといって、私がさらに促して、数行で終わっただけではありませんか。たとえばルネ・シャールのゴッホによせた散文詩などご存知ですか。貴方が直感的に美を認識し、なお且つそれが排他的ではなく、豊かなものだというのなら、その内実を示してもらわないとなりません。貴方はそれがおできにならないようだ。したがって、貴方が「審美眼が劣化した」と結論しても、何ら納得できないのです。これが第二の、日常的なエッセイとして納得できない理由です。

しかし、貴方が直感による鮮やかな評論を展開できないでも、それは筆力の問題であって、一般的にそういう認識があっていいという話なのかもしれません。ただし貴方は十分に議論を尽くしたでしょうか。たとえばシモーヌ・ヴェイユの『キリスト教的直観』などご存知ですか。貴方と同じくcredoの話をしていますが、原理主義的な印象はありません。ヴェイユの取り上げるテーマは多岐にわたりますが、領域を独断で定めるのではなく(つまり審美眼とは直感以外のことを言わないと貴方は唐突に決めてしまうが、そういうことはしない)、例証もしています。問題意識も社会の深い病巣と結びついており、問題提起に意義を感じられます。ところが貴方は「われわれ」が何者かの説明さえ、していない。右往左往しており、右往左往でいいじゃないかとおっしゃる(存在の甘え?)。しかし、まず自分の立場を決めて理路整然と議論を尽くさなければ、主張がわかりません。相手の認めるべきところも、反対するべきところもわかりません。これが第三の、思想的に納得できない理由です。

以上、三つの角度から述べたように、説得的に議論するとは、同情するとか、相手の心理を思いやるとか、ということではなく、するべき議論をするというに過ぎません。貴方はそれをしなかった。したがって、仮に貴方ご自身が原理主義ではなくても、原理主義的な話しぶりになり、最後は開き直ってしまった、ということだろうと思います。

投稿日時 - 2011-01-13 15:20:10

お礼

 そうですね。まづはご回答をありがとうございます。

 もしどうしても議論を尽くさなければ話はかみ合わないということでしたら どこまでやれるか分かりませんが そのように振る舞ってまいります。

 たとえば こうです。
 ☆☆(No.43お礼欄) ~~~~~~~
  ★ つまり、設問者個人が、日常的に見てもよくわからない作品があり、自分の研ぎ澄まされた感受性を妨害されていると感じ、どうしたら より感受性を砥ぎ済ませられるか?――と問う議論と小さくまとめられるからです。
  ☆ んなわきゃない。
  ○ 《無根拠》なる石に〔* 《 α 直感》をめぐるかたちで〕つまづくとすれば それは審美眼の劣化につながっている。 
  ☆ とはっきりと宣言しています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この一件は お認めになったのですか。どうですか?

 何ら触れられていないので 議論をすすめると言っても 実際にはそうも行かない。と言いますか わたしの流儀で――という意味は 美の鑑賞のみにしぼって話し合いをすること つまり 評論は美の鑑賞とはまったく別の作業であると前提しているということ この前提と流儀で―― 話をすすめてもよいと受け取る謂われはあったわけです。
 この件では ボールはそちらに行っていますよ。

 すなわち 《ゴッホ論》は 何らこの質問で質問者の問題意識においては問うていないのです。ゴッホの絵は 《 α 直感》が与えられる美を宿すと言って たぶん同じことを表明する人が三人ほどいれば よかったとなるお話です。ほかの画家にしても 同じくそういう表明を集めて あぁよかったという話です。
 そのような単純な話でじゅうぶんであるのは 何故かと訊かれるならば 《人が美ないし真理を直感するのは それぞれの人間がどういう思惟と行動を経てその生きる過程でどういう意味をもって起こることなのか》という理論を説明しました。
 美の体験とは それまでの人生においておのれの心に逆らわないという善が損傷を受けていたとすれば その損傷を癒やし直すという意味を持つ。わたくしの場合は ゴッホであった。誰々は これこれの画家だった。というお話です。(そう確定させるために 多少の疑問点について尋ねてはいます)。
 けれども そのゴッホについて論じよということは――むろん 論じてもかまわないわけですが―― この問いに関しては何の関係もないわけです。欠かせない事項ではないわけです。

 で それでも絵画や画家についての議論をしてこそ美学が成り立つというご主張であるのならば わたくしに出来る限り その議論に応じますと 今回お伝えいたします。
 その初めに すでに議論のすすみに応じて 懸案となっている一件を取り上げ お尋ねしている。こういう情況です。どうですか?

 せっかくですから もう一件お尋ねします。同じく鑑賞と評論(もしくは 作品の評価)とを分けての話において クレーの作品にちなんで:
 ☆☆(No.43お礼欄) ~~~~~~~~
 美術作品を《退廃芸術》であると《評価》することは ですから ここで問題にしていないことになります。そのようなナチス関係とはまったく別個に それぞれの作品を見ていけばよい。こういう趣旨だと理解します。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ナチス関係は 美学にとって重大な主題であるのではなかったのですか? それなのにこれも素通りでしたね。どうでしょう。
 せいぜいがその主題は 美術作品が社会の中で特に権力によって利用される歴史的な事例 あるいはつまり美術をめぐる社会力学の議論だと思われますが どうでしょう。

投稿日時 - 2011-01-13 20:56:49

ANo.43

>一般的には かたちのととのったものをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。そして どう生きたか で善の損傷のあり方が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに――それをつうじて 善の損傷の癒しとして――美を感 じるかが千差万別になると思われます。かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。

一部では賛成で、一部では反対です。多くの美術品を許容するというところに賛成し、「かたちが整わない醜いもの」という主観的な用語に反対です。ともあれ、貴方は、一人一人の美は別物だから、統合的な理論は必要ないし、わからないものは、わからないままでよいというお考えなのでしょう。
私が統合的な話をしたがったのは、一つには、これが美学の話だと思ったからです。上述なら、美学の議論というより、日常的な相談の要素を含んでいたと思います。つまり、設問者個人が、日常的に見てもよくわからない作品があり、自分の研ぎ澄まされた感受性を妨害されていると感じ、どうしたら より感受性を砥ぎ済ませられるか?――と問う議論と小さくまとめられるからです。そうしてみると、余計なことを忘れて、自分の意識に集中しろという回答の仕方もあったでしょう。全部に目を通せませんが、そういう回答者の方もいたのだろうと思います。ところが私は愚かにも、美学や歴史の話をし、牛刀をもって鶏を割いていたのかもしれません。
私の議論は貴方への有益なアドヴァイスにはならなかったかもしれないが、しかし貴方が上述の引用のように、個々の美意識の尊重を認めるのであれば、貴方が「わからない美術品」も他者にとっては大切であり、それを「劣化」と呼ぶ気はないという視野へ貢献したと考えてみることはできそうです。というのも、ゴッホが好きでない人にしてみたら、愛好家は審美眼が無いということにもなるでしょう。ピカソを嫌いな貴方にしてみたら、ピカソ愛好家は審美眼が無いということになる。しかし、そうではない視野をもう貴方はお持ちなわけですから、審美眼の「劣化」という言葉を手放すのに、やぶさかではないはずです。劣化も何もないということでしょうから。

「われらが審美眼は劣化したか?」という問いについては、以上から、「劣化もなにも最初からなかった」と答えることができそうです。白黒をつけたいのではなく、貴方が議論して有益であったら、私はよかったと思うので、まとめるのです。

さて、最後にチラッと書いてありますが、貴方が「躓きの石」と呼ぶ理解不可能な芸術は、私にとっては試金石なのです。つまり理解できないものに向き合う経験を対自的と捉えるのなら、即自とあわせて原初的な直感へと近づいく弁証法的な契機と考えられるのです、
簡単にいえば、私のような考え方をする者は貴方より貪欲であるか、完全なものを求めたいのでしょう。自分が理解できる美では満足せず、より統合的な「全」である美を理解したいと思えば、弁証法を繰り返して、より完成された形に近づいて行けるとも考えるわけです。これは、昔、私の師が言っていた話ですが、その時に言及されたのが、聖アウグスティヌスのSi fallor, sum「あやまつれば、我れあり」でした。理解できないものを糧として、さらに自己の確立をしていくという解釈です。貴方の解釈とはまた別かもしれませんが。

P. S.
最後にナチスのホロコーストの延長にある退廃芸術という排除運動と、アスベストや受動喫煙の禁止を同列に置く議論に、驚いたので、追記しておきます。二つは全く別物です。ナチスは骨相学のように疑似科学pseudoscienceを用いて、特定の民族を劣等とみなし、断種をはかっていました。退廃芸術 という排斥運動も「劣等」とみなしたものを排斥する流れにあるものです。一方、受動喫煙の禁止とアスベストの問題は排斥運動ではなく、健康への配慮というものでしょう。「どちらも近代合理主義」と同列に議論できるものではないはずです。私がナチスの話を持ち出すまでもなく、日常的な雑感という範囲で議論を留めておいて欲しいという話だったのかもしれません。こういう牽制の仕方は、知識がある常識人ならブラック・ユーモアとして笑えることなのでしょうが、第三者も閲覧可能なものだから、気をつけたいところです。

投稿日時 - 2011-01-13 02:28:48

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。

 文献学を重んじその合理的で妥当な判断基準に則ろうとすることと 人が生きること――これが 美の体験につながります――とは やはり別であると見るのでしょうね。

 美術作品の鑑賞とその評価とは 第一次と第二次以降の作業との違いに当たりますが じつは ここで《審美眼》と言っているのは――今頃定義しても始まらなくて申し訳ないのですが―― 第一次の美の体験のことです。そして美の鑑賞と言えば それだけだという見方をしています。コギトによる情報や知識は 美の体験にとって 必要条件とはならない。これです。

 美術作品を《退廃芸術》であると《評価》することは ですから ここで問題にしていないことになります。そのようなナチス関係とはまったく別個に それぞれの作品を見ていけばよい。こういう趣旨だと理解します。

 わたしが 《おあとがよろしいようで としたいのですが》と言ったのは もはやあなたには言わずもがなであるはずだと踏んだからです。
 わたしはそのことを いまもまだうたがっていませんが おへその位置やいまの生活等のご状態が――これは わたしにまだ詳しくは分からないみたいです――このご回答をあらたにみちびいたとは思います。

 端的に 《Si fallor, sum「あやまつれば、我れあり」》の解釈の違いにも 文献学によるご議論と生きるときの美の体験からの会議との違いが見て取れるようです。

 でもその違いは 乱暴に言ってしまえば どちらに力点を置くかの違いだけだとも見られます。問題はそれがあるとするなら 今回あなたは 人の審美眼がのっぺらぼうでよいとわたしが考えていると受け取ってしまったことにあります。
 んなわけないでしょう。

 《あやまつなら》 《 α 直感〔そしてそこからヒラメキ直観とその言葉による表現および伝達 それによって 互いに――見解は違っても――同じ人間ぢゃわいとまでは分かり合えるということ〕》を わたしは我れに還ることによって・《わたしがわたしである》ことを取り戻して 実現させ得るという解釈を出しているのですから  この広い意味での美の体験を 言ってみれば――原理主義だとあざけられても これだけは人が人である限りにおいて――必須のことであり至上命令でさえあると 内心は思っているわけです。
 このことは 対話の進み具合いに応じて 追い追い――つまり相手とのシンライ関係の構築にともなって―― お話するということになっています。
 《 α 直感》を普遍的な理論として打ち出すには 無神論者をも説得することが出来るように これからまだまだ知恵をはたらかせ表現にも工夫をこらさなければならないことでしょう。
 でももうその思いはゆらいではいないわけです。その工夫としては 歴史の事実やそれについての人びとそれぞれによる見方としてのやはり事実がありますから それらの事実認識からまづ始めなければならないというときに 右往左往するということにもなりましょう。浅田彰は ポストモダンの一辺倒ではなかったというひとつの事実認識は これを見過ごしたら致命的な傷を自分に負います。人間の能力から言って 右往左往しないほうが めづらしい。

 ★ つまり、設問者個人が、日常的に見てもよくわからない作品があり、自分の研ぎ澄まされた感受性を妨害されていると感じ、どうしたら より感受性を砥ぎ済ませられるか?――と問う議論と小さくまとめられるからです。
 ☆ んなわきゃない。
 ○ 《無根拠》なる石につまづくとすれば それは審美眼の劣化につながっている。 
 ☆ とはっきりと宣言しています。感受性は これも与えられるものだと捉えておけば 間違いは起こらないでしょう。

 ★ 個々の美意識の尊重を認めるのであれば
 ☆ 一人ひとりの《わたし》の自由意志による判断を尊重します。どれだけ〔仮りに言って〕劣化した審美眼による鑑賞ないし評価だとしても その個々の判断自体はとうといものです。またその同じ自由意志をつうじて同時に 《 α 直感》としての境地に到ること――つまりそのことをつねに願っているわけですが――でなければ 何にもならないわけですから。

 かみほっしたまうならば うつくしき世界が三分の一の部分において現われて来るでしょう。


 * ★ 「かたちが整わない醜いもの」という主観的な用語に反対です。
 ☆ 漢字がいけなかったようです。《かたちが整わない》のは 《見にくい・見づらい》と言っても それは一般性を持っており ひとり主観的な見解に立った用語だとは見られないはずですから。

 * たぶんこれ以上わたしがあなたを説得するというような調子でものを述べ続けるなら それは《同情》になります。

投稿日時 - 2011-01-13 09:54:13

ANo.42

私としては「現代アート」という大きなくくりではなく、もう少し細分化して議論する余地が残っていると思ったが、それでは、これで終わりにしましょうか。いつものパターンに戻ってしまったように思います。「いちゃもん」なのでしょうが、実際、あまり反論にはなってらっしゃらないのです。

>キリスト・イエスの出現と死を境にして この直感および直観の喪失もあるいはいまどしどし言っていきますが 原罪もぜんぶきれいにちゃらになりました。(中略)α の直感も回復されました。(中略)心の明けと伸びとを自覚しないなら 理論どおりには行かないことがあるということになります。

>直感しなかったときには 二次的な方法を取ってもいいですし 採らないで放っておいてもよい。となります。

最初の引用で(αとは原初の直感を示すとここで取り決めた言葉ですが)、貴方は原罪がαの喪失の要因と見定めて、キリストの出現で既に回復されていると考えたというわけです。これは宗教的な根拠によって正当化されています。しかし後の引用で、直感されない場合があるとも、貴方は認めているわけです。この矛盾をどう考えましょうか?
私自身は、原初的直観αが今は不完全で、喪失されたと考えています。そこで直感による美術作品の鑑賞の限界があるとみた上で、私は二次的手段によって補い、即自且つ対自の段階にまで高めるのがよいと考えたのは前に述べた通りです。
しかし貴方にしてみたら、直感的鑑賞には限界など無いわけです。特に貴方は、直感を回復しており、且つ心が解放されているのでしょう。
ところが、ここでわからないのは、それなら、なぜ貴方が全ての芸術に見開かれていないのでしょうか?ピカソにも何でも、心打たれて鑑賞することができることになるのではないでしょうか?そこで貴方のおっしゃることは矛盾しています。
この矛盾から見ると、αは完全に回復されたと言えないか、credoと美学を別個のものとして分けないとならないといえます。あるいは、貴方は神credoに対してまだ十分に見開かれていないということであって、さらなる宗教的な修練なりをもって、原初の直感を回復するべきということなのかもしれません。どちらにせよ、美学の議論を終わりにし、宗教の議論であるわけです。宗教の議論とは、いかにして原初の直感を回復できるか?という原理主義に近い方向でしょう。

全体の感想を述べておきましょう。貴方は美学について専門外でしょうからあまりピンとこないかもしれないが、ナチス云々は「劣化」であるとか、審美基準の確立という時に、やはり考えざるを得ないものです。井戸端会議であるとおっしゃるのなら、なるほど、楽しい会話だけすればいいわけです。美を鑑賞するのに基準など無い、心のままに鑑賞すればよい――と言うのは愉快でしょう。貴方にしてみると宗教的直観の回復にあたって、「その他」は無用なことになるでしょう(ただこれが私には、原理主義に見えるわけです)。
私が井戸端会議をせず歴史性の考慮を促したのは、貴方を学術的な流れに関心のある研究家として扱ったからです。別に貴方の自由を制限しているつもりはないし、自分の見方を押しつけているわけでもないのだが、貴方の反応は過剰に身を固くしてしまうので、私としてはやりにくいのです。私とて、貴方が有益な反例を挙げてきたら、それは認めたでしょう。
しかし貴方の場合は実践と学術が分けられていないらしい。「右往左往」は議論ができなくなります。たとえばlogosの説明はきちんとなさったが、木村を支持するのか否かも、かなりぶれていて、議論がしにくかったというところはあります。実践と統合してもよいが、もう少ししっかりしていただきたいと申し上げましょう。こういう時に、真価が問われるのではありませんか。

追記)
神の無根拠は、パウル・ティリッヒの「存在への勇気」の項目を参照してください。彼は一例で、同様のコンテクストは、その当時の神学者らを調べて行くと浮かび上がるのです。原理主義は歴史的視点と相いれないのかもしれませんが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92

>ティリッヒは信じるということは疑うことと切り離すことができないと考えている。神は対象として確かめることができないから、もちろん理論的に証明することはできず、信仰は実存的な決断にならざるを得ない。(中略)サルトルは「神が存在するとしてもたいしたことではない」と言った。人は結局は孤独に、神とは関係なく実存を決定しなければならないというのが彼の考えだが、ティリッヒの考えはその逆である。

投稿日時 - 2011-01-13 00:10:21

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 すでに理論上は 《 α 直感》は回復されている。けれども現実はその理論通りにはなっていないし ちょっとやそっとでは ならないらしい。
 この《理論》について述べます。

 生きることは それ自体に意味があるといういみで《善》です。何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・ひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。
 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけます。

 さてひとの感性には 善も悪もありません。感性は 第一次的な知覚そのものを言います。われわれは記憶の中からあれこれを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときむしろ精神の秩序作用としての記憶に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりすると われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。
 これが 第一次的なかたちにおける善かそうでない悪かの分かれ目だと捉えます。この感性を知性として(つまり 言葉にして表わし認識して)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められ この限りで 人間にとっての《善もしくは悪》が決まります。
 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。しかも 基本的なかたちで 《うそ・いつわりを言わない》が善であり《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。

 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。《審美眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて 真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞とともなる)動きだと考えます。
 実際には 真理は 想定上のなぞですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて問い求めているのではないだろうか。ひとの世界にウソがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その規範を超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。

 けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか?
 それは 生きた過程としての《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてなぞの美ないし真理〕を求めているかが違って来ます。審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。

 一般的には かたちのととのったものをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。そして どう生きたかで善の損傷のあり方が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに――それをつうじて 善の損傷の癒しとして――美を感じるかが千差万別になると思われます。かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。

 これが 理論です。理論どおりに行くかどうかの分かれ目を説明しています。簡単に言えば へその曲がり具合いによって その人の美学が そのつど おのれの姿(もしくは心)をあらわすかのように決まって来るものと考えます。
 蛇足ですが 神学は要らないわけです。神学の以前に 決まったかたちに そのつど現われるという見方です。

 どうか無根拠なる石につまづか・・・。

投稿日時 - 2011-01-13 01:05:44

ANo.41

 こんばんは、ご返答いただきまして、厚くお礼申し上げます。Hidocchiでございます。

 また、iacta-alea-est様におかれましても、きめ細かな解説をしていただきまして、どうもありがとうございました。

> ☆ このところ わたしはひとつ思うところがありました。わたしのこととしてその人が言うには ここへ書き込むのは《至福の時間》だろうと決めつけています。ということは その本人が けっきょく何だかさびしそうな人なんだと思ってしまいました。

 このようなご事情があったのですか。ご心中お察し致します。
 何分、群集心理が惹起されますと、必然的にそれがエスカレートしてしまい、おそらくは当の本人すらも、する前には想像だにしなかった行動もとってしまうものかと思われます。
 ですが、一時期のように、ご回答欄への複数によるアラシはなくなったかと思われます。残念なことではございますが、ある程度のアラシは覚悟しなくてはいけないものかと愚生は諦めております。

 まず、ここで問題となっております“ロゴス”の定義について少しばかり言及させていただきます。以下のWikipediaにもございますが、愚生は“3”の意味、つまり、「(論理的に)語りうるもの」、もしくは“1”の「理論・論理」と定義し、前回の回答をさせていただいた次第でございます。
 
ソース:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B4%E3%82%B9 

1. 概念、意味、論理、説明、理由、理論、思想などの意味。
2. キリスト教では、神のことば、世界を構成する論理としてのイエス・キリストを意味する。
3. 言語、論理、真理の意味。転じて「論理的に語られたもの」「語りうるもの」という意味で用いられることもある。

 木村氏がこのロゴスを如何様に定義したのかは不明でございますが、氏の著作からは、キリスト教関連のものが一切ないため、“1”もしくは“3”と推察致しました。

ソース:http://www.shikoku.ne.jp/isp/ethno/ethno01/mingei03.htm

> ★ シュルレアリスム美術 および キュビスム
 ☆ そんなことまで考えて絵を画いているのですか。でも 作品は 一枚の絵ですよね。それらのつながりに《発展》があるから見てみろと言っているのですか? 厄介なことですね。

 愚生も、「いちいち、頭で考えなくっちゃ、いけないんだ」と思いますと、鑑賞するのにも憂鬱感を覚えてしまいます。

> ★ 一方、( b )の「その結果として哲学や科学などがうまれた」とございますが、科学におきましては、次のアインシュタインらの言葉から、類推可能と思われます。
 ☆ こちらは わかりやすいと思います。あれですかね つまり線形におけるような思考のつらなりから新しいものを得るというよりは 非線形においてヒラメキなどをつうじて得られるのであると。

 まさしく仰るとおりでございます。

> ☆ 即自において → 《対自的な〈わたし〉》 → 《即自かつ対自》のすがたを取ったおのれを発見する。
 
 はい、“主義”に陥りますと、おのずから“弁証法的展開・発展”(=ロゴス中心的志向)を考慮せざるを得なくなってしまいます。
 ですが、確かにナチスは、クレーなどを退廃芸術と呼んで排除したのは史実でございます。一方、ナチスは当時の近代合理主義の象徴的存在でもありました。世界で始めてアスベストを禁止したのも、また、他の国々に先んじて“受動喫煙”の害を主張したのもナチスでした。(おそらく)これらを否定する日本人は余りいないかと思われます。従いまして、現代美術に批判を加えることは、たとえナチスがそうであったとしましても、避ける必要はないものと愚生は考えております。全くの自由かと思っております。

 最後までお読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-01-12 19:58:48

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 木村氏がこのロゴスを如何様に定義したのかは不明でございますが、氏の著作からは、キリスト教関連のものが一切ないため、“1”もしくは“3”〔* すなわち 《ことば・概念・論理》などの意味〕と推察致しました。
 ☆ 木村は クリスチアニズムとは特別に関係ないとおっしゃるのですね?

 ▼ (木村重信) ~~~~~~~
 このような意味において我々は、初めにロゴスがあったのではなく、初めにイメージがあったというのである。(『はじめにイメージありき』(pp.209-211)――【Q:《常識のない高齢者》・・・】回答No.20)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このように書いていれば 一方で確かにヨハネ福音の冒頭の文を思い浮かべるものですが 他方で それだけを言っているのみであって ほかに聖書について考えたり論じたりしてはいない。

 ▼ (同上・承前) ~~~~~~~
 そしてこのイメージが可塑的な石や土や布のような物質に移されたとき、イメージは永続的な記号ないし象徴となって、自らの存在を延長し、時と場所を隔てた他の人びとにも影響を与えて、経験の他の多くの部分をも活気づける。
 精神の成長とは精神の領域を拡大していくことであるが、それはイメージの働きによって拡げられ、鋭くされ、生命づけられるのであり、従ってイメージの働きこそが文化一般の先行条件なのである。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こういった調子ですすめて行っているようです。結びの一節の引用ですので ひとことくらいクリスチアニズムに関係するのなら触れていてもよいとは思われますね たしかに。
 きょうは図書館に行けませんでしたが あとは実際に読んでみての判断ないし確認になります。

 ▼ イメージの働きこそが文化一般の先行条件なのである。
 ☆ というような言い方であれば 論理や言葉のはたらきとしてのロゴスより前に このイメージが作用するのだと言っている。となれば いわゆるキリスト教と張り合おうとしているようには見えない。らしいですね。

 次はそっくりそのままを引用すかたちの復唱になります。
 ★ ~~~~~~~~~~~
 ですが、確かにナチスは、クレーなどを退廃芸術と呼んで排除したのは史実でございます。一方、ナチスは当時の近代合理主義の象徴的存在でもありました。世界で始めてアスベストを禁止したのも、また、他の国々に先んじて“受動喫煙”の害を主張したのもナチスでした。(おそらく)これらを否定する日本人は余りいないかと思われます。従いまして、現代美術に批判を加えることは、たとえナチスがそうであったとしましても、避ける必要はないものと愚生は考えております。全くの自由かと思っております。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ナチスを出されると何かとビビります。こちらがビビらなくとも 言おうとすることが相手に通じなくなるという結果が多い。となると 話が厄介になる。したがってややもすると ナチスという言葉にかかわるものはすべて悪い・忌み嫌うべきだという風潮になる。これも むろん まづい。
 主題ごとに是々非々で扱って行ってよいのだと。
 この点は 復唱せずにわたしは来ましたので ここに掲げておきます。

 いやぁ ひどっちさん ぶれないですね。イメージの取り扱いで今回わたしは 右往左往でした。非思考のクレドと思考のコギトとの位置づけでは基本がありましたけれど。
 ありがとうございました。

 もうしばらく続くと思います。まとめに入ると思います。

投稿日時 - 2011-01-12 21:04:19

ANo.40

貴方の立ち位置は、かなり明確になってきました。貴方はキリスト者としての側面を出すのがためらわれたようだけれど、私としては、やはりヨハネ福音の話を振ってよかったと思います。ImageはLogosに含まれると貴方はお考えだという意義が、よくわかりますから。あの図はよく示されていたと思いますし、私にもわかります。神は無根拠であるから、信じるも信じないも、「サイコロを振って」奇数と偶数の目が出る確率のようなものです。だから信じようと呼びかけたのが大戦後の宗教者で、だから信じないと言い出したのがサルトルらといえるでしょう。貴方が説明を気になさっていた無根拠の辺り、私はよく承知しています。――さて、審美眼の劣化の話でしたね。

貴方はどうやら、バベル以前にあったであろう、直感的αによってコミュニケーションを目指す造形を芸術と認定なさっているようです。それは新しい意見ではありません。象徴主義symbolismeがそれを目指していました。一般的に日本で象徴主義はsymboleという言葉の語源に沿って、割符AとBが合致するような記号体系であり、コンセンサスに加わるための教養なり素養がないとならないと思われているようですが、これは誤解なのです。むしろA=Bと記号的に解読できない、一が全である次元を目指しているのです。

>そういう意味で 《シュジェ(主題)からフォルムへの移行》を見るだけではなく もともと《決まった主題からも固定したフォルムからも ひとは自由である》という視点を いま・ここで・だれもが・つねに 言い張っていてもよい。こう考えます。

同意するところです。ただ、こうなるとゴッホのみならず、ピカソにも認められるところがあってよいといえるでしょう。貴方は直感しなかったが、他の人は直感するかもしれません。というのもlogosの原初の姿は、全てを含みうるのでしょう(この理屈で極論をいえば、ゴミ箱アートもまた、ある人にとっての美なのでしょう)。

問題は、直感しなかった時に、それを芸術じゃないと呼んで退けるか、別の理解の仕方を模索するかなのです。直感しなかった時に、私は貴方がいう「αより後の二次的な認識方法」があってもよいだろうと思います。それは教養であって感性とは別物であり、なるほどそればかりだと劣化だけかもしれません。しかし切り返してみますが、一次的なものだけに陶酔する美意識こそ即自的であって、未熟であると言えないでしょうか。対自的(つまり直感で理解できない)アートに触れてこそ、即自且つ対自という次元に美意識を洗練させることができると考えられないでしょうか。

自分が好きなものを好きと言い切るのは子供にでも出来るし、子供の方がはっきりしているでしょう。しかし、子供がαに最も近い存在なのでしょうか。子供は無垢だというが、それはこういう意味ではありますまい。我か強い人ほどαに近いという話にしかなりませんから。Si fallor, sumというように、自分の審美眼が磨かれるのは、好きなものを好きだと声高に主張するからではなく、誤りも積極的に認め、対自的に自分の美意識を考える視点を獲得するからでしょう。
同じことで、歴史をもちだすことは受け入れられないとおっしゃるが、それは立場によりけりです。貴方が芸術家の立場に身を置いて「歴史や流派などを超越して私は美を追求している」というなら、考えない自由を主張するのもまたいいでしょう。しかし美術史を考える立場であるなら、歴史を横に置かないわけにはいきません。実際、「審美眼は劣化したか」という設問は「われわれ」という集団を問うものであって、美術史的な視野を収めるべき問題提起です。

まとめると、貴方が劣化していない審美眼というのは、αにこだわることであり、好きなものを好きと言い切る子供の純粋さに近いのかもしれません。それはcredoとして純粋であるという根拠があります。しかし美の認識はcredoだけで語れるものではなく、社会的・歴史的多重性を考慮するべきであると私はお答えすることにしたいと思います。もとより芸術は、宗教とは別個の体系をもっていたのですから、credoと共通点もあるが、相違点があってもよいでしょう。いかがでしょうか。

投稿日時 - 2011-01-12 13:54:46

お礼

 今回は 俗に言うひっかかったところについて評言を述べますので いちゃもんをつけるみたいになります。
 まづはご回答をありがとうございます。

 ★ 神は無根拠であるから、信じるも信じないも、「サイコロを振って」奇数と偶数の目が出る確率のようなものです。だから信じようと呼びかけたのが大戦後の宗教者で、だから信じないと言い出したのがサルトルらといえるでしょう。
 ☆ 後者の無神論派については 問題ないですが 前者については きびしく妥当性を求めてまいります。
 自分から《信じる(つまり 無根拠を受け容れる)》をおこなってもいいのですが・自由なのですが たぶんキリスト・イエスの指し示した神の場合の非思考(つまり信仰)は そのようではないでしょうね。或る晴れた日にかれのほうからやって来るということだと思います。ノックされたとき あなたは受け取って領収証を切るか それとも見過ごすか どちらかになります。いづれの場合も そこで信仰が始まります。すでに始まっていたでしょうが 自覚的に始まることでしょう。

 参考に:
 ▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕 ~~~~~~~~~~
 自然といふは
 自はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。
 然といふは しからしむといふことばなり。しからしむといふは行者のはからひにあらず 如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。
 
    * 爾(に・じ):しかり。そうである。

 ▼ (道元:現成公案) ~~~~~~~
 自己を運びて万法を修証するを迷とす。
 万法進みて自己を修証するは悟りなり。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ バベル以前にあったであろう、直感的 α によってコミュニケーションを目指す造形
 ☆ 《バベル以前と以後》ですか。たとえ同じ言葉をしゃべっていても もはや互いに他者どうしというのは 相互理解が容易ではなくなったということでしょうか? 
 でもその事件を境に考えるよりは もともとアダムとエワがエデンの園で神に背いた(つまり おのれに背いた)ときから ウソでない心とウソの心とが生じたわけで 意思疎通のむつかしさもその時からのものだと思うのですけれど どうでしょう?

 直感的 α というのは 非思考の場においてわたしに心が開いた境地――心の明け・伸び――をもたらすものと捉えるのですが そのあと この境地が人間どうしのコミュニケーションにはたらくということを見ようとしていますか? 分かり合えるという交通のあり方をみちびくこととして。

 象徴主義に行く前に この《直感的 α 》を得るというのが 美の体験だといまは言っているのですが いづれにしましても(バベル事件によって断層が出来たかどうかを別としましても) キリスト・イエスの出現と死を境にして この直感および直観の喪失もあるいはいまどしどし言っていきますが 原罪もぜんぶきれいにちゃらになりました。
 心の窓をノックする何ものかに対して 諾否のいづれを答えようと 心の明けと伸びとは 得られました。原罪などはへっちゃらのちゃらです。なかったことになりました。α の直感も回復されました。

 ということは 象徴主義であろうとするか否かにかかわらず 人は神につながり 人どうしとして――理論的には――つながっていると言っていいと思います。心の明けと伸びとを自覚しないなら 理論どおりには行かないことがあるということになります。

 では 次の命題に移ることができるか?
 ★ ただ、こうなるとゴッホのみならず、ピカソにも認められるところがあってよいといえるでしょう。貴方は直感しなかったが、他の人は直感するかもしれません。というのも logos の原初の姿は、全てを含みうるのでしょう。
 ☆ 理論どおりに行くかどうかということ この問題がここでも起こります。しかも それではその《理論》とは何を言うのか?
 ★ 貴方は直感しなかったが、他の人は直感するかもしれません。
 ☆ このはずです。つまり 理論は 人それぞれだということになりかねません。どうなりましょうか?
 ★ 問題は、直感しなかった時に、それを芸術じゃないと呼んで退けるか、別の理解の仕方を模索するかなのです。直感しなかった時に、私は貴方がいう「α より後の二次的な認識方法」があってもよいだろうと思います。
 ☆ たぶん 《直感したとき その美の体験をかさねて行くこと》なのでしょうね。直感しなかったときには 二次的な方法を取ってもいいですし 採らないで放っておいてもよい。となります。

 おあとがよろしいようで と行きたいのですが どうですか?

投稿日時 - 2011-01-12 17:35:27

ANo.39

今までは貴方の問題意識を明らかにするための議論だったのですが、目的は果たしたので、そろそろ劣化の議論をした方がいいのかもしれません。まず議論を整理してみましょう。
(1)貴方はlogosとはヒラメキであり、善悪や美醜の区別をすぐにつけるものであるとした上で、木村がlogosの一要素であるimageを強調しているに違いないと考えた。むしろ自分の議論と木村は似ていると当初思っていた。「はじめにズレがあった」というデリダの差延をもじった浅田彰の議論に比べたら、まだlogosを理解しているではないか、と思った。
(2)しかし木村の議論はlogosを否定してimageを顕在化させているのであり、根本的に貴方と違うことを言っているのではないかという疑問が一方ではあった。

さて、(1)の場合は考える方向性が同じなので、劣化というのは変ではなないでしょうか。項目gの解釈も「囮になった」=「あまり重視せずともよい」ということらしいので、根拠がよくわかりません。(2)であるなら話はわかりますが、貴方は必ずしも同意しきれるわけではないとお考えらしい。
私は本が手元に無いので、これ以上は水掛け論になってしまう危険があります。そこで木村は横において、見方を変えてみましょう。仮に最初から最後まで徹頭徹尾imageしかないのだ、symboleもない、という議論をしている論者がいたとします(デリダと言い切っていいのか不安ですが、彼の差延はそういう要素があるかもしれません。判断決定を保留させますから。それにアンチlogosなのは確実です)。こういうX氏がいたとして、彼の美意識は劣化しているのか?と改めて問うてみましょう。議論の対象を変えるわけです。

作者のsujetがダイレクトに伝わらないという意味では、imageだけの世界は勘違いに満ち溢れているでしょうね。バベル以降の状態です。何かパッと作ってしまったガラクタが「見ようによっては、深い美を表現しているかもしれない」などということが起きたり、精巧な作品の意匠が伝わらずにガラクタとみなされたりするでしょう。現実にそれは起きているかもしれず、子供の作ったオブジェがMoMaには飾られているそうです。あるいは私の質問欄で問題になったように、ただのゴミ箱がアートとみなされているという事態でしょう。――これを美の判断基準の劣化であるとみなし、imageを信奉は何かがおかしいと述べるのは、それはそれで有意義な問題提起です。

ただimageの議論の射程にはlogos中心主義が生んで来た弊害を打ち崩すという議論があるはずです。Logos信奉は極端には、キリスト教的な古典主義が美の絶頂でそれ以外は評価に値しないということにもなりかねません。ヘーゲルが象徴段階と呼んだ古代は、即自の段階に留まっている芸術とみなされていました。何かモヤモヤっと太陽のような神を表現したいと思ったら、千手観音像のように手を大量につけてしまったのは、表現をあまり考え抜いた上のことではない――などという議論にもなります。貴方は寛容であるように気を遣ってらっしゃるらしいけれど、logos中心主義に基づく審美眼は排他的なのです。実際、一瞬にして美醜が判断できるのでしょう?

そこでlogosとは思いこみではないか?十全に美について考える機会を失っているのではないか?logosの方こそ、即自に留まっており、自らの知りえないものに見開かれていないのではないか?と問えるかもしれません。
ただし、この議論が説得力を持つのは、場合によりけりです。千手観音像や精巧な中国美術を非キリスト教なので受け入れられないと考えた十九世紀の評論家を前にした時、木村的なimageの反論があってもいいでしょう。
逆に現代で、本当に意匠のないゴミ箱を前にアートだと騒いでいる集団を前にして、彼らがlogos中心主義を脱構築するimageを見出したと言っても、あまり面白くないでしょう。1970年代辺りにいうならそれは説得力をもっていたかもしれませんが、もう十分に脱構築された後です。今はむしろ、審美眼とは何かを再考し、新たな規範を模索する時期だとも言えるかもしれません。

貴方がこういう流れを考慮に入れて「審美眼が劣化したか」と問い、logos復興をお考えになるなら、議論は有意義でしょう。すなわち、logosという概念はもっと広いのであって、ポストモダンの思想家が批判したような狭いものではない、など。より具体的に、劣化しない審美眼がどういうものかは、貴方が個々の美術品を論じて示してくださることと思います。ただ一つ言えば、ナチスはギリシア的なlogosを称揚し、パウル・クレーなどを退廃芸術と呼んで排除したのです。二の轍を踏まない議論を望みます。

投稿日時 - 2011-01-12 06:21:59

お礼

 ご議論がつづいています。ご回答をありがとうございます。

 ひとつ断り書きが必要だとふと記憶がよみがえりました。
 浅田彰は 《はじめにズレがあった》という命題を 断定し切ってはいなかったという記憶です。生命存在のはじめから《ズレ》があったかどうかは分からず 仮説であるとことわっていたのではないかと思います。ところが その『構造と力』がどこを探しても見つかりません。ほかの本はあるというのにです。取り敢えず このことをしるして公平を期します。

 ★ (2)しかし木村の議論はlogosを否定してimageを顕在化させているのであり、根本的に貴方と違うことを言っているのではないかという疑問が一方ではあった。
 ☆ これは 木村の文章にあたるほかないとなりますが わたしの解釈としては こうです。
 ○ 経験思考(コギト)としてのロゴスよりも前にイメージがある。
 ☆ だとすれば ロゴスを否定しているのではないとなります。そしてそのあとは 《ロゴス(α)》を何と呼ぶかの違いの問題になるのだと。どちらでもよいであろうというのが わたくしの捉え方でした。

 審美眼の劣化を見るというのは どこにかと言えば とにもかくにも《ヒラメキ》を見ない・とうとばない というところにです。ロゴス(α)に達するようなヒラメキのことです。
 このヒラメキは 《直観につうじる直感》としてのイメージであり得ますが 《直観として本質を見抜くヒラメキ》でもあり得ます。後者は そこに論理――あるいはむしろ観想=テオーリアからみちびきだされる理論=テオリ――をともなっていることもあり得るはずです。
 と言うよりも イメージを先行させつつ 本質をめぐる理論をみちびく直観というふうに 全体をまとめて言ったほうがよいかも知れません。
 しかも美術作品にあっては これを《美》というかたちで瞬間ワザとして与えられると捉えられます。音楽を聞いているとき あるいは小説にせよ論文にせよ文章を読んでいるときに得られるヒラメキも それ自体は 一瞬のコトでしょうけれど。
 このヒラメキを――なぜなら それこそが《無根拠》という《はじめ(α)》との関係から来ると想定しているからですが―― ないがしろにするのは 美の感覚を劣化させる元だと見ています。

 さらにそして もしこの大文字のヒラメキについて はっきりとした根拠がある・つまりそれは人間に理解できると言うのであれば それも或る種の劣化を美学ないし世界観に対して引き起こすものと思われます。
 つまりたとえばイメージにしても・本質にしても・実存にしても・愛とか慈悲とかにしても あるいは真理とか至高の善とか創造主とか これらの代理表現で指し示しているに過ぎないその《なぞ》を 人間の経験合理性によって分かるのだと言うとすれば それは《非経験の無根拠(α)》をないがしろにしていることですから――世界はこの経験世界しかないと決めつけることですから―― その存在のあり方が縮こまっていると思われます。世界の見方が小さくまたのっぺらぼうになってしまうはずです。
 ★ 作者の sujet がダイレクトに伝わらないという意味では、image だけの世界は勘違いに満ち溢れているでしょうね。

 ☆ もしくは 非経験の領域が 人間の理性によって分かったと言っていることですから 有限な人間が勝手に存在のあり方を膨らませてしまったことになります。表象し得ぬものを表象し得たとうぞぶいているに過ぎないわけですから 世界観のバブルのようなことになります。すなわちさらに それしかないと思い込むならば
 ★ logos 中心主義に基づく審美眼は排他的なのです。

 ☆ このように――学問の流儀から行けば ずるい行き方なのですが―― エリアーデもそしてかれに拠って木村も《超歴史的世界》と言ってもいましたから―― 超然的な超越論的な(ひどっちさん言うところのアプリオリな美の感覚を想定するかたちの)美学から行くならば
 ★ 今はむしろ、審美眼とは何かを再考し、新たな規範を模索する時期だとも言えるかもしれません。
 ☆ という問い求めの姿勢は つねにその場その現在その《わたし》において問い求められてしかるべきであるし じっさい知らず知らずのうちにでも問い求めているものとさえ考えられます。
 そういう意味で 《シュジェ(主題)からフォルムへの移行》を見るだけではなく もともと《決まった主題からも固定したフォルムからも ひとは自由である》という視点を いま・ここで・だれもが・つねに 言い張っていてもよい。こう考えます。
 むしろそうしないで そこに歴史的な弁証法過程をわざわざ見ようとするのは それだけでも 劣化とは言わずとも縮こまった見方に立っているというように 思われます。

投稿日時 - 2011-01-12 12:22:51

ANo.38

2. 即自且つ対自
さて木村の「即自」云々の方ですが、貴方は、「結果的に囮になってしまった」とおっしゃるので、あまり設問の項目gに関する貴方の解釈は重視しないでも良いという許可が出たと思うことにしましょう。私は木村のモデルを、次のように考えています。
1. imageなる虚即と本質が混じった様態が原初αにあった。
2. この即自に対して、対自であるオブジェが現れる。
3. imageとobjetが即時且つ対自という様態に至り、symboleが生まれる。

私の推測ですが、木村は実存主義の影響下にあったのかもしれませんね。事実、貴方のリンク先でも、木村は次のように述べたとなっています。「(論考の目的は)つまり、先史人や未開人の造形活動が外的世界と内的世界に関する人間 の実存的な意識化を明らかにしていることを証明することであった」。著作は1971年なので、年代的にも実存主義が日本で流行った時代でしょう。

そこで実存主義に即して、木村のモデルを説明したら、実存であるimageは本質に先立つのであり、ある芸術家の主観でしかなかったimageは対自によって、symboleへと生成されることになると言えないだろうかと私は考えるのです。これは「女は女に生まれるのではない。女になるのだ」と同じ定式です。即自のimageだけでは交流などできないから、即時且つ対自のsymboleが今度は並行して必要だというのです。
なるほど貴方のいうとおり、imageでは「無根拠に躓くから劣化だ」というが、並行して、木村はそれもわかって別の段階を提示もしているのです。そこで批判の矛先があまり的をえていないと私は感じたのでした。

また上記の議論でHidocchi氏へのお答えにもなっているでしょう。同系統の議論なので、反論ではなく、私の議論を補足してくれたと思います。
ご指摘のように、こうした対自且つ即時が個人のレヴェルではなくグループ間で起きた結果、ブルトンという教皇が君臨したシュルレアリスムにおける体系化-ismeに結びつくというのはその通りでしょう。別にシュルレアリスムに限らず、流派や様式があれば、同じことは起きます。木村はさすがに大研究者だから、議論は多角的で、imageについて極論をぶつ一方で、綿密なフォローも入っていると考えられるのです。つまりimageしか原初に無いとしてその効用を述べたが、原初以降ではimageと別のものがあると言っても矛盾はないわけです。
さて科学の例は、言葉で考えるのではなく、何か別の要素が必要だという趣旨でしょう。しかし、これは二つの別々の例があがっていますね。いきなり正答するのがアインシュタインで、煮詰める中で答えがわかっていくのがクーンと読めますから。繰り返しかもしれませんが、木村の「はじめにイメージありき」という説でも、聖書的な「はじめにlogosあり」のどちらのモデルでも、「言葉=理詰め」ではない要素があるという話ではあるのです。直感的に閃いて正解がわかる――というのなら、図式的に分類したらlogos支持なのでしょう。何か思い浮かんだが、やってみる中で別の確固としたものが生まれてきた――というのなら、imageだったのでしょう。二つはよく似ていますが、全体では大きく違います。アインシュタインはlogosなのでしょうが、クーンはimageの人かもしれません。ともあれレスポンスありがとうございました。

さて話の相手をbragelonneさんに戻して、最後にゴッホはお手上げということですが、古典主義云々はさておいても、質問の趣旨は貴方のαで何が起きているかを聞いているのですから、もう少し頑張っていただきましょう。何を直感するのかを分析して、そこに虚飾imageが混じっているのか、いきなり本質が来るのか――それが問題なのです。おそらく後者だとお答えになると思いますが、それがどのようなものなのか。気になるところです。もし既にどこかで議論していたら引用してください。眼は通しても、もう追いきれる量ではなくなっていますから。

投稿日時 - 2011-01-11 23:08:31

補足

 つぎの文章におぎないを添えます。

 ☆☆(お礼欄) ~~~~~~~~~~~
 すなわち 第一次つまり美の鑑賞そのもの――しばしば 瞬間的なコト――において おそらく《ロゴス(α)》のクレドをおこなう《わたし》にまで わたくしが広がり深まるのだと考えます。そのあと第二次以降の美の解説というのは ロゴス(β)のイメージの直感やら (γ)の本質・シンボルなどの直観やら あるいは(δ)の文章にあらわした理解やらを言うのではないかと。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《ロゴス(α)》へと突き抜けるような体験 これは きっかけとしては結局(β)の直感イメージであったり (γ)の本質を見抜く直観であったり あるいは(δ)のふつうの散文のごとき論理的な文章であったりすると考えます。
 言いかえると 非思考の場の成り立つのは 経験世界におけるあらゆる経験をきっかけとしてであると考えます。比喩としては 《なぞの何ものか》が 或る日或る時わが心の窓をノックするといった体験なのだと。(δ)の理詰めの思索の途中においても どこか上から斜めからその線形の論理を一たんさえぎって ヒラメキが起こるといった感じだという説明になると思います。

 イメージ・直感・シンボル・ヒラメキ・直観・本質・論理などについて 非経験の領域(α)と経験世界におけるそれら(β~δ~・・・)とをやはり区別するのがよいと考えます
 (β)以降の下位概念としては あらゆるモノゴトが(α)のクレドのきっかけになるということでしょうし この(α)のクレドの対象(もしくは非対象)である《なぞ》のことを どういう呼び名で呼ぶかは すべて自由だと考えられます。鰯の頭でもよいはずです。要は その呼び名が あくまで仮りの表現であるということだと言えるはずです。
 ぢゃあ仮りではないそのモノ(物自体?)は何だと言われても 表象し得ない・無根拠だとしか言えないわけです。それゆえ《霊》という言葉をも当てることがあるわけです。
 ・・・

投稿日時 - 2011-01-12 11:12:57

お礼

 ご回答をありがとうございます。
 ここ(=No.38)は つぎのNo.39へのお応えの前置きのようなことがらを拾って述べます。

 まづ《ロゴス》の段階的区分(といったヘンな分析)をあらためて見ておきます。

 ☆☆(No.34お礼欄) ~~~~~~
  
   ロゴス(α):非経験のなぞ(クレド):父なる神
   ロゴス(β):異言(まぼろし):聖霊なる神の・人間への訪れ
         (直観より前の直感としてのヒラメキ。まだ意味不明)
   ロゴス(γ):預言(解釈):直観=ヒラメキ⇒人間の言葉化

   ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そしてこれにもとづき 《イメージ》などに即して書きかえてみます。

 ○ ロゴスとイメージ ~~~~~~~~~~~~~~
  
   ロゴス(α):無根拠〔と人間との関係は 非思考の場=クレド〕
   _____________________________
   ロゴス(β):中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
         
   ロゴス(γ):本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい?

   ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ですから 前置きと言いましたが これほど(自分で言うのもなんですが)明快な見方はないとも思うのですが どうでしょう?


 【Q:《常識のない高齢者》・・・】のほうで ましゅまろさんから ゴッホの作品《マルメロ、レモン、梨、葡萄 1887年》をおしえてもらったとき(回答No.16) 実際に〔ヱブ上でですが〕見たときわたくしにも 強烈にその絵は・あるいはむしろその色彩は 飛び込んで来ました。同じくヱブ上で ゴッホの絵はすべて見ているのですが 初めて見たもののように新鮮な力をもって迫って来ました。
 ひと呼吸ないしふた呼吸をおくと その黄色が単調ではないかとも感じました。あるいは葡萄がなんで白いのかなどなど。
 ところがいづれにしましても 美を感じることは 個人個人にとってそれぞれ絶対的なコトであると見ます。《第一次》というような熟さないだけではなく 実際の内容としては違うはずだとすら思われる言葉を使っていますが この第一次の感覚が すべてだということを言いたいわけです。
 そのあと その美の言葉による分析やら作家のこと・作品創作の背景また時代背景などなどの解説やらが 第二次以降にともなわれますが 同じく言いたいことは この第一次と第二次とのあいだには カテゴリの区別があるのだと思われることです。はっきり言えば 第一次のみが 美の鑑賞であり 第二次以降は 広い意味でのお勉強だと考えます。教養というのでしょうか。

 すなわち 第一次つまり美の鑑賞そのもの――しばしば 瞬間的なコト――において おそらく《ロゴス(α)》のクレドをおこなう《わたし》にまで わたくしが広がり深まるのだと考えます。そのあと第二次以降の美の解説というのは ロゴス(β)のイメージの直感やら (γ)の本質・シンボルなどの直観やら あるいは(δ)の文章にあらわした理解やらを言うのではないかと。
 言いかえると イメージと対立するようなかたちを取る狭義のロゴスは (γ)の概念・言葉なのでしょう。
 あるいは あなたの場合には 《なぞのロゴス(α)》をも 《本質》と呼ぶ人もいれば それに対抗するかたちで《イメージ》と捉える人もいるという前提で話をされていましょうか?
 それは 呼び方の問題だと思います。要は 《無根拠・表象し得ぬもの》という大前提を置いておいてもらえば かまわないということでしょうか。
 その《無根拠》にしても 《クレド》というならすでに人間である《わたし》の経験行為も含まれている。ならば それは《本質》と言うよりは《実存》なのである。と説く向きもあるでしょうね。
 なにはともあれ この《ロゴス(α)》は 神は有ると言って表わしても神は無いとして表わしても どちらも互いに同等に人間にとっての《非思考の場》であるという想定なのですから。

 このあたりで次に続いて行きます。

投稿日時 - 2011-01-12 09:49:23

ANo.37

さて、私の問いが波紋を呼んだようです。Bragelonne氏の質問欄なので、彼に語る形をとりますが、問題の所在を貴方はおわかりになってらしたようですね。長いので二つに分けて投稿します。

1.ヨハネ福音
ご指摘のように「はじめに~~ありき」のような表題の論考は、探せばいくらも見つかります。したがって木村の論を特に聖書に結ばなくても、インパクトのある表題として選ばれたに過ぎないのかもしれません。ただ貴方の場合、imageの位置についてcredoと関連させて、考察しているわけだから、私から見ると、ヨハネ福音を引用して議論した方が明確に貴方の位置がつかめるだろうと思ったのです。
ロゴスの段階で示されたことは私も考えていました。言語化される前に、曖昧な直感があるのかもしれません。これを直感αと呼んでみることにしますが、貴方の議論は、原初のαでは、すべてが混然一体となっているので、imageだろうと何だろうと、含まれていてしかるべきとお考えなのでしょう。

しかし、本が手元にないのだけれど、木村はlogosにimageが含まれていないと考えていると読めるわけです。つまり木村は「credoにあるlogosの前段階にある命名し難い様態αをimageと呼ぼうなど」という甘いことはいっていないはずです。木村はむしろ logosとimageを対立させ、原初の状態では、credoだとかlogosだとかは存在しないと言っていると考えるべきでしょう(「初めにロゴスがあったのではなく、初めにイメージがあったというのである」)。
「存在しないものを西欧のキリスト者が後付けで作った」ととまでいったかどうかわかりませんが、少なくてもlogosは自然状態では発生しないのです。だからこそ、本質であるlogosが堕して虚飾imageが生まれたのではなく、最初にはimageしかないから imageはlogosに従属などしようが無い、というわけです。

こうした挑戦をしておいて木村の関心にあると見えるのは、原初にimageしかないモデルにおいて、logos中心のキリスト教圏では見過ごされていた利点を明らかにすることと思えます。エリアーデの次の一節を引用しているようですね。

>「文化を《開かれたまま》にしておくものは、イメージとシンボルの現存であり」、「超歴史的世界への《入口》を構築するイメージのおかげで、異なった《歴史》が互いに伝達可能となるのである」(エリアーデ)

イメージは、完全に意思を伝達する様態ではないし、logosの基準からすれば劣ったものかもしれないが、誤解を含めて解釈の多様性を許容し、違ったコンテクストをもつ時代や文化をつなぐことになる――として評価しているわけです。極論すれば誤解もまた面白いじゃないか、というわけでしょう。
ここまででシンボルの議論は残していますが、象徴主義との関連でいうとまた複雑だけれども、まずはsymboleの語源通り、割られた符号AとBが合致す るという意味で考えていいでしょう。このA=Bという規則があって誤解のない伝達手段も並行して存在することは認めるが、木村はimageに力点を置くわけです。

これを貴方がポストモダンと感じて、善悪の判断を放棄していると憤り、話を一貫させたいのなら、虚飾であるimgaeは原初に無く、原初には本質しかなかったと主張しないと本来はならなかったのではないですか。しかし貴方は寛容にも、次のように書いてしまっていますね。「《ロゴスに従属するのではないイメージ》というのは 《ロゴス(ないし コギト=思考)に先行する〈ひらめき(つまり クレド=非思考の場)〉》と解します」。繰り返しですが、木村は貴方が期待するような意味でのimageを論じているとは思えないのです。この意味では貴方は、反対するべきところを反対なさっていないと私には見えています。

続く。

投稿日時 - 2011-01-11 21:48:52

お礼

 ううーん。そりゃあ そうなんでしょうけれど。それは おっしゃるような対立がきれいな図式となって描かれるようなんですけれど。

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。この主題は おもしろいのですが――ゲーテのファウストでの思索に触れたときには 何日も考えつづけましたが―― もう答えは決まっていると思うのです。
 きわめて非合理な言い方をしますと:
 ☆☆(No.34補足欄) でも 《無根拠》の石につまづくのが 現代人であると〔言うと〕すれば それは審美眼が劣化しているおそれがあります。よね。
 ☆ ということになるはずです。
 たとえロゴスに代えてイメージと言おうとも それは《無根拠――表象し得ぬもの――》と相場は決まっていると思うのです。なぜなら 非経験の領域であるということと かたちとしては一元論であるしかないからです。《一》は 《全体》という意味でもあります。

 もし《本質》にかかわるロゴスに代えて 虚飾であいまいなイメージを持って来ても 《無根拠》のことに変わりはないからです。
 本質と言っても 表象し得ないのですし イメージと言い切れたとしても じつはその曖昧さということについて表象し得ているということはあり得ません。
 経験世界における《はじめ》のことではないからです。
 経験世界を超えていると想定されるわけですが 《超えている》ということは じつにその超えたという対象である経験世界を覆い包むことさえあると考えられます。まったくの推測ですが 想定にもとづくなら 非経験の領域が 経験世界をすべて包んでいたり貫いていたりすることが考えられます。
 そのあと 経験世界における出来事として ヒラメキやらそれと同じような段階においてイメージやらが 経験存在である人間にあたかもあたえられる。

 おそらく《ロゴス(ことば)》という言葉を用いたのは その《無根拠(つまり 神のことを言っているのですが)》にかたどって人間の存在があるということを言いたいためだと考えられます。
 《非経験》にかたどって《経験存在である人間》の姿がある。
 あまり例として出すのもどうかと思いますが それでも分かりやすいと思われるので出しますが 《仏性が 人間にやどる》といったそれこそイメージで捉えるとよいと考えます。そのように《ことばが 人間にそなわる》というかたちです。それに同じくふさわしい言葉は やはり《愛》なのでしょう。


 もし どうしてもあいまいさにつながる《イメージ》という言葉を これら《ことば》や《愛》のほかに――しかもそれらを追い払って――使いたいという場合には その理由はかんたんであるように思います。つまり 《仏性》にしてもそれを宿していても そのままではその知恵がはたらくというわけではない。万人にそなわる《ことば》にしても それを用いて意思疎通を図っても つねに話が通じるとは限らない。《愛》にいたっては いったいどこにそんな人間にとって普遍的な愛などがあるのかとうたがわねばならないほどの情況が 現実なのである。
 といったマ(間・間合い)の違いや混沌・混乱の姿をこの《はじめ》である無根拠の内に写してみたいという心つもりではないか。

 かつて そう言えば 浅田何とかという人は

  はじめに ズレがあった。

 とか言ったのではなかったですか。ズレという語の上に バツ印が置かれていたような。デリダか誰だかの影響があるのかどうかも知りませんが 《無根拠》のことをこのように《ズレ》と言ってしまうと おそらく《イメージ》の持つあいまいさや虚飾性ですかそのような意味あいではなく そのほかにそれこそ ソシュール=丸山圭三郎の《人間世界は 非自然つまりその意味での文化のみによって成る》という大きくはポストモダンの思想に行き着くように思われます。《ヒラメキ》はあり得ないことになるはずです。

 ですから この《はじめの無根拠=イメージ》説の場合には 《自然(特に感性)》を容れているはずですから 単に《ロゴス》を別の言葉で言いかえただけだという見方が かろうじて出来るのではないですか? そういう感じで受け取ったのだと思いますが。・・・

投稿日時 - 2011-01-11 22:54:13

ANo.36

 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> つまり こんなことは 世界観の問い求めの前提領域でけんかをしているようなことですので 何がたのしくてこんなことをやっているのかと 連中に問いたい。

 以前は、単に日常生活の「憂さ晴らし」と思っていたのですが......

> つぎの問題も どうしてどうして 重大です。

 ご参考にしていただき、厚くお礼申し上げます。

> ――《アース役はつらいよ現象》が後を絶たないようです。

 仰る通りかと存じます。
 なお、以前、krya 1998様のご回答に”寅さん”の名前の由来があったかと記憶しております。以下に、その概略を示させてもらっております。

・寅さんの誕生日:昭和15年なのだそうです。つまり、“辰”のようでございます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E3%81%AF%E3%81%A4%E3%82%89%E3%81%84%E3%82%88_%E5%AF%85%E6%AC%A1%E9%83%8E%E3%81%8B%E3%82%82%E3%82%81%E6%AD%8C
・寅さんの由来は、映画監督の斎藤寅次郎 からきているようです。


 ANo.34のご質問者様から質問がございましたので、愚見を述べさせていただきたく存じます。
 なお、これは、ANo.34様に対する“反論”といった主旨ではなく、ヘーゲルを持ち出しました愚生の補足説明でございます。

 まず、( g )の件ではございますが、例えば、“シュールレアリスム”でございますが、ここには、その名の通り、“ism(ismus)”、つまり“主義”が含んでいるかと考えられます。そして、“主義”である以上は、ある境地・目的地なるものが前提として、存在するかと考えられます。従いまして、この“主義”には、必然的に、弁証法的展開・発展が要求されるものと解されます。つまり、「即自(an sich)」である未熟な段階から出発し、「対自(für sich)」という「即自」内での相反するものの認識を経て、「即自かつ対自(an und für sich)」というものへと展開・発展していく、つまり、その“主義”のある到達点・境地へと目指していくものかと察せられます。もちろん、そこには、“ロゴス”が存在致します。
 このことから、“現代美術”には、(その他のキュビスムにしましても)必然的に展開・発展の作用が存しているかと考えられます。このことが、( c )の「美術の本質は変貌であって、発展ではない」と矛盾するものとして、木村氏が述べている(異議申し立てをしている)ものと思われます。
 一方、( b )の「その結果として哲学や科学などがうまれた」とございますが、科学におきましては、次のアインシュタインらの言葉から、類推可能と思われます。

・アインシュタイン「理詰めで物事を考えることによって、新しい発見をしたことは、私には一度もない。」

・ポール・K・ファイヤアーベント著 村上陽一郎訳「知についての三つの対話」p.21から、
「トム[トーマス]・クーンが量子力学の革命に直接関わった人たちのなかで現存する科学者にインタヴューしたことがあります。その際彼らの最初の反応は、成書にあることをただ繰り返すことだった。でもクーンの方が一枚上手だった。前以てクーンはその人物に関連する書簡類や私的な覚書などの類をよく読んでいた。それらは成書に書かれていたこととは随分違う内容だった。クーンが論点に触れていくうちに、相手も実際にはどんなことが起こっていたたのかを少しずつ思い出していった。この話はニュートンにも当てはまりますよ。研究をするということは。結局、非常に特殊・特別・一回限りのものとの出逢いということに.....」

 ご参考になれば、幸甚に存じます。

投稿日時 - 2011-01-11 19:58:27

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 いちど もう閉めようと思った時点から ずいぶん続いています。《迷宮化》とは決して思いませんが(その批評に反論をしませんでしたが)。

 ★ 以前は、単に日常生活の「憂さ晴らし」と思っていたのですが......
 ☆ このところ わたしはひとつ思うところがありました。わたしのこととしてその人が言うには ここへ書き込むのは《至福の時間》だろうと決めつけています。ということは その本人が けっきょく何だかさびしそうな人なんだと思ってしまいました。
 わたくしは以前にいちどここを去ろうかと思ったことがあります。以前は 教えて! goo で入会していたのですが あまりにもわたしの質問が 通報によって削除されるものですから そしてとうとう始末書のようなものを書いて 会員としての活動をつづけて欲しいと運営部からメールで言われたものですから それほど通報ですべてが決まるのなら もうやめると言って退会しました。そのとき 続けるかどうかを思案しました。
 BIGLOBEで再入会して続けていますがそれは別として ここへの書きこみを その本人は 憑かれたかのようにおこなっているのではないかと思ったのでした。
 つまり 《憂さ晴らし》以上の憑きもののように感じたという話でした。(わぁ 落ちがありません)。

 ★ ・寅さんの由来は、映画監督の斎藤寅次郎 からきているようです。
 ☆ ありがとうございます。単純なんですね。

 ★ “ism(ismus)”、つまり・・・“主義”である以上は、ある境地・目的地なるものが前提として、存在するかと考えられます。従いまして、この“主義”には、必然的に、弁証法的展開・発展が要求されるものと解されます。
 ★ シュルレアリスム美術 および キュビスム
 ☆ そんなことまで考えて絵を画いているのですか。でも 作品は 一枚の絵ですよね。それらのつながりに《発展》があるから見てみろと言っているのですか? 厄介なことですね。
 ★ このことが、( c )の「美術の本質は変貌であって、発展ではない」と矛盾するものとして、木村氏が述べている(異議申し立てをしている)ものと思われます。
 ☆ ううーん。(読んでみなくてはいけなくなっているのですが いまひとつ気がすすまないのは なぜでしょう)。

 ★ 一方、( b )の「その結果として哲学や科学などがうまれた」とございますが、科学におきましては、次のアインシュタインらの言葉から、類推可能と思われます。
 ☆ こちらは わかりやすいと思います。あれですかね つまり――まちがっていたらごめんなさいですが―― 線形におけるような思考のつらなりから新しいものを得るというよりは 非線形においてヒラメキなどをつうじて得られるのであると。

 分かりました。気が進まないのは もともとヒラメキしかないと思っている人間にとっては こういう主題について議論すること自体に疑問を感じる・・・ですかね。
 ★ 「即自(an sich)」である未熟な段階から出発し、「対自(für sich)」という「即自」内での相反するものの認識を経て、「即自かつ対自(an und für sich)」というものへと展開・発展していく、
 ☆ 即自において その未熟なままながら ただしヒラメキがある。その直観によって 対自のあり方もすでに含まれてしまった。ゆえに 自己表現をおこなう。作品として仕上げる。その結果 その作品に《対自的な〈わたし〉》も表現された。他者からその批評を聞いて 作者は その段階でみづからの《即自かつ対自》のすがたを取ったおのれを発見する。らせん状の発展のようでいて どこか一時点において一瞬のうちに 垂直的な突き抜けが起きている。
 いやぁ ちょっと分かりませんが。
 もしそうだとすれば ひとつの作品ごとに それに先立つ上への突き抜け事件(ヒラメキ)があって その結果を反映して 作品はそれとして完成している。ううーん。試行錯誤と行きましょう。

投稿日時 - 2011-01-11 21:05:47

ANo.35

もう話は自己完結してしまいまたが、改めてお聞きしますが、
木村重信さんの主張のどういうところが疑問なのでしょうか。

もしよろしければ頭だけで考えるよりも、
「言語をちょうど覚えようとしている幼児の観察」を実体験
してみてはいかがでしょうか。個人的にはポストモダンは、
そこからはじまると思っているのです。

投稿日時 - 2011-01-11 12:24:03

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 《自己完結》って 質問者が答えを見つけたってことですか?

 そりゃまあ 木村重信の文章にかんするあらたな問題提起については――わたしの中では――そうですけれど。

 ヤクタアレアエストさんの問うているところは 聖書の文句に木村は挑戦しているのではないかというかたちです。
 わたくしは そこまでのうたがいを持たなかったのですが 《はじめにイメージがあった》というふうに言いきってしまうと コギト(論理思考)としてのロゴスよりも前にあると思われるイメージよりもさらに前にあると想定するクレド(非思考)が見えなくなってしまうとは 初めから(趣旨説明のときから)思っていて そのことまでは問うていました。
 言いかえると イメージの代わりにクレド=直観=ヒラメキを置いて考えるなら ほぼ木村の言うとおりであろうと見なしていました。回答No.34のお礼欄で 《ロゴス》にも――変な話ですが――段階があるだろうという捉え方を出しました。それが わたしからの答えです。(まだ 対話の途中です)。

 聖書(ヨハネ福音)の《はじめにロゴスがあった》というのは 神のことですから 《イメージ》というようなあいまいなものではなかろうという疑義です。
 昔の日本人は 八百万の神々を言っていたので そのようなあいまいさは――きわめて平俗的な解決策ですが―― 《神》の下位概念として(つまり 唯一神の分身のようなものとして)とらえれば どうですかと言ったわけです。
 言いかえると 多神教というのは 唯一神の別名であろうという意味になります。でも多神を多元と言ったり特には 善悪の二元論として唱えることになれば それには きっぱりと反対しなければなりません。善神もいれば 同等の存在として悪神もいるということになれば 世の中ひっちゃかめっちゃかになります。他人の島を他人のものとしてとうとぶのもよし それをだましてでも・あるいは力づくででも獲るのもよし 何をやっても 善でも悪でも すべて世の中やりたい放題ということになります。善は悪 悪は善という考えだからです。

 善悪の二元論は 古くは古代ペルシャのザラトゥシュトラ(ゾロアスター)が説いたと言います。その後 それと聖書とを融合させて マニという男が説きなおしましたが これは ほぼ絶滅しました。
 ただし クリスチアニスムの中では グノーシス主義(総称で いくつかの派に分かれる)は この二元論に立ち続けています。異端と見なされていますが 信仰(クレド=非思考)としてというより 思考・思索として有力となっている流れがあるようです。

 ポストモダンというのは むろん二元論ではありませんが 一元論をしりぞけるという点では 実際には善悪の判断をあたかもどうでもよいというふうに見なしているところがあるのではないでしょうか?
 わたくしが 《無根拠》と言ったとき それなら《一元論》をもしりぞけて 何事も決めつけないのだと取る場合に ポストモダンに近いと思われるかも知れません。ですが これは まったく違います。無根拠を クレドの中になぞとして抱いているというかたちだからです。コギトないし理性で決めつけるような一元論ではないというのみです。

 めんどうですが 重要だと思いましたので。

投稿日時 - 2011-01-11 13:55:06

ANo.34

もう既に議論はいろいろ出て、他の質疑応答とあわせて迷宮化しており、私は追えないところもあります。ただ私とのやりとりで出現した問いなのは確かだし、前は議論が生産的になりませんでした。少し落ち着いてやることにしましょうか。最初に正直に断っておくと、失望させるかもしれないが、私は外国にいて手元に木村の文献が無いから、貴方が設問で書いていることを額面通りには、応えきれないのです。木村の引用箇所をどう解釈するかということなら答えられても、木村が何を言いたいかを責任をもって答えることはできません。
しかし他の方との質疑応答を見ていると、貴方も別段木村の文献にこだわる気はないようです。そこで木村の文献は、貴方の美意識を明らかにするための素材程度に考えても、いっそよろしいのでしょう。ただ私はせっかくの素材を生かし切っていないと考えるので、少し質問をさせていただきます。議論が重複する場合は、引用を遠慮なくお使いください。

Q1. イメージについて
まず表題の「最初にイメージありき」ですが、これはヨハネの福音書の「最初に言葉ありき」のもじりなのでしょう。ヨハネの福音書における言葉Word, Verbeですが、これと比較してimageがあるわけです。

>Au commencement était le Verbe, et le Verbe était en Dieu, et le Verbe était Dieu.
>初めにみ言葉があった、み言葉は神とともにあった、み言葉は神であった。

木村は明らかに「最初に言葉ありき」のモデルに対して異論を唱えるために、imageという語を使用しています。ここでいうimageとは虚飾と本質がないまぜになったものというくらいの意味か、虚飾そのものという意味でしょう(おわかりでしょうが、仏仏を引くとimageはreproduction visuelle d’un objet sensible「感覚的なものの視覚的再生産」とあるように、惑わす幻影などのニュアンスを含んでいます)。
しかし聖書的な原初の「言葉」とは本質を捉えたものであって、虚飾など含まない純粋なものなのではありませんでしたか。神なのですから。これを念頭に置いて、ヨハネの福音書の出だしをimageに置き換えてみましょう。スキャンダラスなことが起きるはずです。こうなると聖書を全否定するといってもよいかもしれません。貴方にとって、暴論なはずですが、この転倒をどうお考えですか。貴方は聖アウグスティヌスの研究家なのだから、私より深く考えていることがおありでしょう。

Q2. 劣化と考えた根拠について
設問文に書いてある貴方のgの項目の解釈が、私はまったく、わからないのです。もう一回説明してもらえないでしょうか。「即自的」と「対自的」はヘーゲルの用語で、「即自」は全部の様態を含んでいる未熟な状態です。「《作品がオブジェとして即自的に完結すること》そのものの中に その美術を前にして《普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること》は含まれているはずだと見ます」というのは、即時の理解として正しいでしょう。
しかしこれが理由で、劣化という結論になるのは私には飛躍に思えるのです。というのも木村が書いているのは、「即自」ではなく、対自との統合が起きたan und für sichの段階だからです。貴方が批判している箇所は、木村の引用箇所の文意を外しているように思えてしまうのです。私の日本語力の問題かもしれませんが、かみ砕いて説明してください。
おそらく木村とすれば、cで造形は発展するものではないと看破している以上、進歩も退化も最初からなく、imageの移り変わる様態に過ぎないものをロゴスに基づいて、芸術だとか、芸術でないとか、進歩だ退化だと判断していたに過ぎないと「常識破り」をする立場なのでしょう。

Q3. 劣化でない芸術について
その要件を端的に教えてもらえませんか。他の回答者との応答を見ると、古典主義的なものというのが鍵になるのでしょう。そこでたとえば貴方が、CredoをもたらすVerbeが本来の原初に位置するべきであって、これを想起させてくれるのが古典主義芸術だとし、木村がそのモデルを否定していることに憤りを覚えているなら、実に一貫しています。
ただそれだけでは単線的で、面白くはありません。キリスト教と芸術が未分化ということにもなります。むしろ問題は理論を拡張し、古典主義以外の作品をどうやって評価するかにかかっているといえましょう。そこでゴッホがお好きというのは、なぜですか。古典主義的な美意識と照らして回答してくださると、議論が一貫しますが。

ゆっくりお答えください。申し訳ないけれど、私は即お返事できないのです。

投稿日時 - 2011-01-10 12:46:04

補足

 お礼欄のつづきになります。

 ほんとは木村の本を読んで考えを述べたほうが筋でしょうが 今回は ほのめかしに任そうと思いました。お礼欄の発言で 基本は事足れりと考えますという強引な応えです。

 懸案のようなかたちで残る主題を取り上げておきます。
 いちばんわたしにとって申し訳ないながら分からないのは ゴッホがどういう流儀や派閥に属すると見なされているか これを知らないということです。
 ★ そこでゴッホがお好きというのは、なぜですか。古典主義的な美意識と照らして回答してくださると、議論が一貫しますが。
 ☆ とんと分からないのです。《原初の美》は 或る意味で 絶対的ですよね? そしてただし その具体的なきっかけ(つまり 絵画です)は 人それぞれであるのでしょう。ゴッホはわたしにとっての美だという意味になります。でも その美には 共通感覚がはたらくのではないかとも夢見ています。ほかにも ゴッホに匹敵する画家がいるであろうという捉え方です。

 ☆☆(趣旨説明) 《作品がオブジェとして即自的に完結すること》そのものの中に その美術を前にして《普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること》は含まれているはずだと見ます。
 ★ ・・・木村が書いているのは、「即自」ではなく、対自との統合が起きたan und für sichの段階だからです。・・・
 ☆ 《主観的に=自由勝手に画いた即自的な完結》が そのままほかの主観(人びと)から見てもそれらの人にとって《即自的な完結》のすがた(素形)――原初の美の鑑賞体験――となればいいんですよね? それが社会という観点から見て 《即自的かつ対自的》な素直なあり方であると。
 どうも わたしは 木村を出汁に使っただけのようです。ひょっとして あなたに対しては 囮(おとり)に使ったことになるのかも分かりません。結果的に。

 ★ 進歩も退化も最初からなく、imageの移り変わる様態に過ぎない
 ☆ とは――《イメージ》の取り扱いに拘らないとすれば―― 言えると思っています。上手下手があるだけでしょうし あるいは――人によって違うとは言え―― 原初の美への迫り方が よく表現出来ているかその程度問題があるだけなのでしょう。
 〔こう言うと 語弊があるようです。ありました。( ctaka88 さんからの物言い)。そもそも《美》といったものが どこかにそれとして鎮座ましましていると言うのか? と。《わたし》つまり主観における美の体験としてあるという答えをしました〕。

 《イメージ》論ですが:
 簡便法と言いますか 極めてあいまいに答えようとしているのですが たとえば 空における電気の現象は 《神鳴り》であり そのモノは《いかづち:いか(厳)‐つ(属格・ノ格)‐ち(霊・神)》です。日本人の言語習慣に関する限り。つまり その言葉をめぐって想像するなら おそらくこの雷は 木村の言うところのイメージの一種として〔も〕捉えられているはずです。
 その奥に――と言っても ただのおとぎ話ですが―― さらにクレドなる非思考の場があって 究極のロゴスなる神を おおよそ普遍的に想定しているということではないでしょうか。この神は 無神論の《無神》と言いかえても まったく間違いは起こらないというからくりになっていますから。すなわち《文字はころし 霊は生かす》。――《無根拠の勝利》。(やたら勝負や勝ち負けを言うとお叱りを受けていますが)。

 でも 《無根拠》の石につまづくのが 現代人であると言うとすれば それは審美眼が劣化しているおそれがあります。よね。

投稿日時 - 2011-01-11 11:09:05

お礼

 ひゃああ そんな問題をふくんでいたのですか。たしかに
 ▲ はじめにイメージありき (著作集〈第2巻〉の表題)
 ☆ でした。

 ご回答をありがとうございます。今回は 主題の中身を確認する作業をした結果を述べます。

 次のサイトを見つけました。そして そこから今問い求める主題は なるほどヨハネ福音の初めの句に取って代わろうとする議論だと分かりました。

 ▼ (色彩としての神) ~~~~~~
 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/ESSAY/TETUGAKU/7.html
 〔中ほどからの〕【80】雑記(色彩と形態、イメージその他)
 〔その第7項〕

 ● 岩田誠『見る脳・描く脳』から。──ホモ・ロケンス(喋る人)ならぬホモ・ピクトル(描くヒト)について。

   <およそこの地上において、ヒト以外のいかなる存在も、描くという行為を自発的に営んできたことはない。なぜヒトだけが自発的に描くようになったのか。これは、ヒトのみが喋ることができる、ということと同じほど不思議であり、かつ重大な意味をもつ問題である。>(7頁)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち ホモ・ロケンスにとっては 《はじめにロゴスがあった》であり ホモ・ピクトルにとっては 《はじめにはイメージありき》なのだと。
 《ロゴス》は これをゲーテは《おこない》と訳したのでしたか あるいは読んでも分からなかったクリステワ゛は《初めに愛があった》とか何とかだそうですが ラテン語訳ほかは 《ことば》なのでしょうか そこに《イメージ》が割って入ろうとしている。こういう構図なのでしょうか。
 すなわち:
 ▼ (同上 【80】雑記〔その第6項〕) ~~~~~
  ● 木村重信氏は『はじめにイメージありき』の末尾で、次のように書いている。

   <…我々は、原始美術をオブジェからシンボルへの展開として考察したのであるが、しかしその目的は、それらの歴史的な変遷を辿ることではなく、イメージの機能と意識の発達との関連を明らかにすることにあった。つまり、先史人や未開人の造形活動が外的世界と内的世界に関する人間の実存的な意識化を明らかにしていることを証明することであった。
   …思想に先立ち、それに生気を吹きこむイメージは、永遠にながらえ、時代と民族をこえて受け入れられる。…このように

     「文化を《開かれたまま》にしておくものは、イメージとシン
     ボルの現存であり」、「超歴史的世界への《入口》を構築する
     イメージのおかげで、異なった《歴史》が互いに伝達可能とな
     るのである」(エリアーデ)。

   /このような意味において我々は、初めにロゴスがあったのではなく、初めにイメージがあったというのである>(210-1頁)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ★ これは大変なことに成って来ました。こういった命題が提出されているとは! 〔ひょっとすると ざっきさんの命題とかかわって来て わたしは軽く応えたので(でもタイミングは もうまちがっていないはず) 不明をわびなければならないことになりましょうか〕。

 まづはヨハネのしるした文の解釈を述べることから再出発します。
 ☆☆(趣旨説明) ( a )などの《ロゴスに従属するのではないイメージ》というのは 《ロゴス(ないし コギト=思考)に先行する〈ひらめき(つまり クレド=非思考の場)〉》と解します。
 ☆ つまりは結局のところ 《ヒラメキ(ないしクレド=非思考の場)》に対応する《ロゴス》も――それは もはや非思考というごとく なぞですが――あるわけです。あると想定しています。どう言いましょうか 仮りにいくつかの段階に分けて捉えるならば:

   ロゴス(α):非経験のなぞ(クレド):父なる神
   ロゴス(β):異言(まぼろし):聖霊なる神の・人間への訪れ
         (直観より前の直感としてのヒラメキ。まだ意味不明)
   ロゴス(γ):預言(解釈):直観=ヒラメキ⇒人間の言葉化

   ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理

 さて ここで《イメージ》はどこにどう位置づけられましょうか。
 その前に アウグスティヌスに触れてご期待に添いたい(また 押韻!)と思うなら 

  ○ あやまつなら われあり。( Si fallor, sum. )

 を出しておかねばならないでしょう。マ違いに気づくなら 我れに還り クレドの次元にまで《わたし》は開かれる。つまり《わたしがわたしである》である。そのマチガイに気づくのには 《コギト(我れ考える)》も一役買っていると言うべきでしょうが。(あとは補足欄にて)

投稿日時 - 2011-01-10 17:11:06

ANo.33

zakky74でございます。

こんばんは、bragelonneさん。ご無沙汰しております。

>> ★★(回答No.21) ~~~~~~
> ☆ こうであれば ・・・
> ☆ と言われても 上のように《判断基準の問題点2.》がわれわれの前に横たわっていると言うかぎり 何も出来ないのではありませんか? 言いかえると どこから話を始めても・また判断基準を引っ込めようが引っ込めまいが すべて同じことになると考えるのがふつうではないですか?

そうですね。ふつうはそうでございましょう。

> でもね これまでわたくしが 相手の言おうとするところを出来るかぎり汲んで そのあと自分の考えを差し挟むという順序でやり取りをして来なかったことがありますか? いまあなたはわたくしがそうしていないとおっしゃっているわけです。そしてそれは あなたの言いたいことがわたくしに伝わらなかったからだと。
> わたくしにピンと来ないこと 理解しようとしても理解が得られないこと にかんしては どうすることも出来ません。

そうです。そのままではどうすることも出来ませんね。
ですから、僕からは代案を申し上げておりました。

> だから ほかのご文章にて 話をすすめるために 応じたというところです。まさか ほかの質問への投稿は ご自分の考えとは別だということではないでしょうから。

この作業が、bragelonneさんにとっての意味ある事なのは分かります。僕もそこに付き合う選択肢もありますが、仮にbragelonneさんにとっての無意味であったとしましても目的の為に疎通・交流を計ろうとするのかに、その時は関心がございました。

> わたしが勘違いをしたのは 一回きりです。しかもそのことについては きちんと直しました。

そうでございましょう。bragelonneさんの仰る通りです。
bragelonneさんの判断基準から見てそうでございます。

では、僕の判断基準から観たら何回だと思いますか?

>> ★ 言葉遊び
> ☆ うんぬんについてですが いいですか わたくしはすでに
>  ○ クレド=非思考=直観=ヒラメキ⇒感覚および思考
> ☆ このように基本的な認識を示しています。いいですか?
>  ○ 非思考
> ☆ ですよ? 思考に非ず です。思考は言葉でおこなうものです。だったら基本の命題において《言葉遊び》をするわけないぢゃないですか。仮りに表わすならば 《たとえ》としてこれこれの図式が ことばをつうじて 得られる。これも或る種の仕方で《イメージ》であるかと思う――こうお伝えしています。言わば代理表現なのです。

そうですね。

ですが、KnowとDoとAmは、それぞれ段階が違うものとも認識しております。

それと、Knowであっても、無知の知という事もございます。僕がお伝えした言葉遊びという話の展開において、「bragelonneさんが明確に理解している事は何一つないのではないでしょうか?」との投げ掛けが最もキーワードなのでございまして、

>  ○ クレド=非思考=直観=ヒラメキ⇒感覚および思考
> ☆ このように基本的な認識を示しています。

という認識を示していらっしゃいますが、例えばですが「そもそも、クレドさえも明確な理解がなく、ロゴスさえも明確な理解が無いのではないでしょうか?」という事がお伝えしたかった事の種でございます。

bragelonneさんにとって、とても受け入れ難くて聞きにくいお話かもしれません。一体どういう意味で、「明確な理解が無い」と言われているのか、まで関心が行きませんよね。

> いくら人と人とは分かり合えないからと言って これほどはっきり述べていることが素通りされているようぢゃ 何をか言わんやとなりませんか? 

ふつうはなるかと思います。
bragelonneさんもやはり不快でしたか?

もしそうでしたら済みませんでした。

人と人が分かり合えない事を、仕組みとして確認し、代案をもって臨む事に関心がありましたが、その為には明確な自覚が必要であろうと判断し、人と人が分かり合えていない状況を浮き彫りにさせたかったのでございます。

> ctaka88 さんとは 美学のあり方で真っ向から互いの見方が異なっているにもかかわらず コミュニケーションは取れているとお思いになりませんか?

どこをどう観るか、観点によって判断は異なります。

判断基準の事を一切気にしなければ、勿論コミュニケーションは取れておりましょう。

ただ、判断基準の問題性は、人間だったら誰もが皆、共通にして抱えている問題性です。判断基準が全く違うctaka88 さんとbragelonneさんのコミュニケーションが図れている道理がございません。

字数制限が^^;

投稿日時 - 2011-01-09 22:38:40

お礼

 早く回答を書きなさい。

投稿日時 - 2011-01-10 08:27:22

ANo.32

自己完結的に劣化するアートという定義をもうすこし考えてみたい
と思います。

創造する側が陶酔して停滞することと考えたらどうでしょうか。
例えば、音の粒をそろえることにとらわれすぎるあまりに、全体の
メロディーの美しさがかえってパサパサしてくることもあるでしょ
うし、またメロディーを創出中にその創出する本人が酔ってしまっ
たら、迷子になってしまいます。いずれにしても独りよがりになっ
てしまっている状態ですよね。現代の劣化の特徴はこの辺じゃない
のかなと思ったりします。社会問題や経済低迷要因とリンクしてる
みたいですね。

ゴジラのテーマは4分の4拍子と4分の5拍子の交互に繰り返すという
正統的な西洋音楽に反したものでしたが、大地の地響きのような、
迫力のあるサウンドに知らず知らずに引き込まれてしまいます。
決して、自己完結的とも独りよがりとも思えませんが、日本の当時
の音楽アーティストは認めようとしませんでした。けっきょく、
これだって逆輸入の評価からなんですね。

自然を感じる自由な感覚を近代社会という枠の中で頭で考えすぎて、
マーケットに反映できないジレンマです。おつきあいを優先させすぎ
た結果おつきあいにのみこまれて、もともとは何が大切だったかをわ
すれてしまう。問題はそれほど難しいことじゃないのに。

投稿日時 - 2011-01-09 15:59:16

お礼

 なるほど。《独り善がり》のもんだいであるようです。――はあとまいんどさん ご回答をありがとうございます。

 いま ひどっちさんとのやり取りでは サイコパスあるいはそこまでひどくなくても モラルハラスメントないしいぢめの問題が持ち上がりました。
 わたしは知らなかったのですが このいぢめは 本人は自覚がないというぢゃないですか。知らずにおこなっている。むしろ自分は被害者であるのだと。
 そういう閉じられた世界がつくられているのですね。あるいは 自分の世界をつくってその中に閉じこもっているという状態のようです。しかも あたまはしきりに動いていると言います。弁も立つのだと。それを武器にして そうしようと思えば議論を吹きかけるのだと。

 芸術家もしくはアーティストが ひとに対して攻撃的であるかどうか分かりませんが あたかもこの自分の世界の中にどっぷりと浸かっているという状態として捉えると分かりやすいでしょうか。
 村上春樹の世界は 決して攻撃的ではなくむしろあたまの中がつねにというほどモヤモヤした状態にある人物が登場すると見るのですが そして作家は 読者に対して そのモヤモヤ・ワールドでよいのだからその場での現状維持ですすみなさいというメッセージを伝えようとしているとやはり読むのですが いまの《独り善がり》と共通であると思われることは けっきょく《蚕が繭の中に自分の世界を見出しているかたち》ではないかと ふと思いました。
 そしてこのモヤモヤ・ワールドの住人たちは むしろおそろしいほど真面目なサラリーマン・タイプであるようだとも言います。
 ★ おつきあいを優先させすぎた結果おつきあいにのみこまれて、もともとは何が大切だったかをわすれてしまう。
 ☆ というような情況も 案外似ているように思いました。あるいは 
 ★ 自然を感じる自由な感覚を近代社会という枠の中で頭で考えすぎて、マーケットに反映できないジレンマです。
 ☆ たぶんこの《自然》ということも あくまで《繭》の中にいて繭の中の世界には反映させようとは思っているのではないか こうも思いました。《おつきあい》も《自然もエコ》も あるいは最先端の技術も製品も 大いに採り入れているのだという生活態度なのではないでしょうか。
 閉じたかたちで――と知らずに――《自己完結的》な生き方をしているということかも知れません。何もかもを引き受けるかたちで あたまの中はモヤモヤになるほど世界を構成するものごとの概念がいっぱい満ちていることでしょう。
 ここまでがんばったのだからという思いで《自己陶酔》にまで到っているかも知れません。
 ★ 社会問題や経済低迷要因とリンクしてるみたいですね。
 ☆ の側面でした。

 やっぱり エポケーですね。

投稿日時 - 2011-01-09 16:29:28

ANo.31

 こんばんは、ご返答ただきましてどうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> ☆ これは こうなりますと――たぶん なおまだ表面上の現象と言うべきなのでしょうが――《善をすっかり欠如させた究極の悪》という状態があたかも想定されているかのようです。
 関係性をまだなお保っているなら 人間であり善であると言えるでしょうか?


 善であるとは断じかねますが、人間であるとは考えてございます。

> ☆ 《分かった》と思う反面で どうでしょう 《精神異常者》という規定は 更生にとって・つまり人間にとって 建設的なのでしょうか?

 
 《精神異常者》という表現は、単に、以下のソースから採ったものでございます。なお、この述語におきましては、まださらなる研究が必要なものとも考えております。

ソース:Wikipedia 精神病質

> 先ほどの《精神異常》という規定と同じような問題かと思うのですが 要するにこれは《いぢめ》ですよね? だとしますと 本人は自覚しているのではないか? まづこの疑問が思い浮かびます。

 香山リカ著「知らずに他人を傷つける人たち」からご紹介させていただきます。
 これは、フランスのイルゴイエンヌ医師の「モラル・ハラスメントー人を傷つけずにはいられない」(高野優訳)の日本語ー紹介本となっております。そこで、p.106からでございます。
「イルゴイエンヌ医師は言う。
 (中略)これを治療することによって、モラル・ハラスメントがなくなるわけでもない。(中略)もちろんこの人々が、自分のなかのその悪意の存在に悩んで、精神科医を訪れるわけではない。この人たちは、自分達の行動がまったく正常なものと思っているからだ。だから、治療を受けにくるなんてとんでもない」
 そこで、対策としまして、イルゴイエンヌ医師は「法律に訴えること」を勧めています。
 以上から、「自分は正常であり、むしろ自分がしているのは”いじめ”ではなく、むしろ、自分が”犠牲者”だと考えている」人が多いようなのです。つまり、いじめの自覚はないようなのです。

> 《自信のなさや甘え》から自由な人はこの世にいるのでしょうか? 《自己顕示欲》を持たず その振る舞いからまったく自由な人間は いましょうか?
 

 ペニシリンを発見した偉大なフレミングも”自己顕示欲”があったろうかと思われます。 もし”自己顕示欲”なるものを全否定してしまいますと、抗生物質なしでの生活を甘受する覚悟が要求されるものと推察されます。

> わたしの勘では嵐の前の静けさといった雰囲気がまだただよっています。


 公の場所で、ある特定の個人様を”非常識”と独断的に前提にした上で、同じ考え・感想を持つ人達をつのる というのは、ある意味、「集団リンチ」に通じるものがあるものと考えております。愚生もされた経験がございますが、これを認めることはできかねます(単に、愚生の器が小さいのかもしれませんが.....)。

> ☆ どうなんでしょう こういったロゴス重視そしてさらには〔単純なる・一面的な見方に片寄るところの〕ロゴス優位の考え方は 独善的なアマアガリと同じ根を持つのでしょうか? どうでしょうか?
 
 一面的な見方に片より過ぎてしまいますと、仰るとおりかと存じます。

 少し話が異なりますが、ポストモダニズム全盛の頃には、へんてこりんな記号、複雑怪奇な数式をもちいられておりました。そして、「これを理解できないお前の方がバカだ」という風潮がございました。(結局これも例のカーソル事件にて自ら墓穴を掘ってしまうのですが) もしかような姿勢の硬直化がはびこってしまいますと、これは、もう「独善的なアマアガリと同じ根を持つ」と解するのが妥当かと考えております。 

 

 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-01-09 01:21:26

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ちょっと重箱の隅をつつきすぎました。

 《集団リンチ》をわたくしも認めていません。たぶん 中性子爆弾か何かのように それを受けてもわたくしの場合その身を素通りしてしまうのでしょうか(つまり 脳天気です) これでも《人を愛し 欠陥を憎む》つとめをおこなっているつもりです。
 ただし 相手にしないというのも けっきょく相手の心の中に炭火のくすぶるにまかせて 効果があると思います。ただし この取り合わないという手は それをつらぬかなくてはならない手だとも思います。わたしは ただちに欠陥に対して憎むことをおぼえますので それなら 出来る手立てを考えなくてはなりません。

 ★ もし”自己顕示欲”なるものを全否定してしまいますと、抗生物質なしでの生活を甘受する覚悟が要求されるものと推察されます。
 ☆ おもしろいですね。なるほどですね。

 ★ ・・・以上から、「自分は正常であり、むしろ自分がしているのは”いじめ”ではなく、むしろ、自分が”犠牲者”だと考えている」人が多いようなのです。つまり、いじめの自覚はないようなのです。
 ☆ そうだったんですか。たとえば最近のいぢめは 昨日いぢめる側だった者が きょうはいぢめられるという目に遭っているといった事例がよくあるようになったと聞いていたものですから 自覚はあるものとばかり思っていました。
 年少の子どもたちの場合をいうよりは 社会の中での問題として捉えなければならないでしょうか。
 ★ モラル・ハラスメント――人を傷つけずにはいられない
 ★ 知らずに他人を傷つける人たち
 ☆ なんですね。これは いったいどういう事態になるでしょうか。たしかにそこまでのことでしたら
 ★ そこで、対策としまして、イルゴイエンヌ医師は「法律に訴えること」を勧めています。
 ☆ という事務処理としてのごとく扱ったほうが よいように思われます。というか それしかないと思われて来ます。ふうむ ですね。

 例の質問でも わたしの質問のほうでも 嵐ではありませんが つづいています。これをたのしむわたしがいます。不謹慎にも。(つまり こんなことは 世界観の問い求めの前提領域でけんかをしているようなことですので 何がたのしくてこんなことをやっているのかと 連中に問いたい。こういう意味です。意見の相違があれば そしてさらなるつき合わせや歩み寄りをしたくないのであれば それとして合意しておけば済むはずなのに)。


 つぎの問題も どうしてどうして 重大です。
 ★ 少し話が異なりますが、ポストモダニズム全盛の頃には、へんてこりんな記号、複雑怪奇な数式をもちいられておりました。そして、「これを理解できないお前の方がバカだ」という風潮がございました。(結局これも例のソーカル事件にて自ら墓穴を掘ってしまうのですが) もしかような姿勢の硬直化がはびこってしまいますと、これは、もう「独善的なアマアガリと同じ根を持つ」と解するのが妥当かと考えております。 
 ☆ ちりも積もれば山となるです。ささいな振る舞いだけの流行現象にすぎないのでしょうが。
 独善的なアマアガリを成した者ほど カリスマを帯びるかのごとく(なぜでしょう?) みづからもカリスマのごとく振る舞い周りからもちやほやされ 総じて言って《裸のアマテラスさま〔もどき〕‐ふつうの人間スサノヲ》連関としての――後者にとっては実質的に《無縁慈悲》に近いような――《アース役はつらいよ現象》が

後を絶たないようです。
 まづは この理論的な分析とその認識から始めて 燎原の火を広げて燃やしつくすように持って行きましょうか。

投稿日時 - 2011-01-09 07:28:49

ANo.30

例えば子供がひくようなモーツアルトの練習曲は、普通に聞いたり
楽譜を見る限りでは、難しい曲の様にも思えないし、また高度な
技術も必要ない様に思えます。しかし、音の粒をそろえるいう基礎
技術が出来てないと意外に難しい。単純で簡単な曲ほど、技術の差
が出てしまいます。
一方ショパンの情緒的な曲は手が大きく開けば情緒に任せて、案外
解釈の幅も自由で、それなりにはひけてしまいます。
また、シンセやエレクトーンは、タッチもくそもなく、どっちかっ
ていうと作曲ツールに近い。自動演奏機能はたぶん機械のように正
確で厳密なタッチを要求されるモーツアルトの方が得意かもしれま
せん。だからといって、アコースティック楽器を弾くロボットが、
人間のかわりができるとは思えません。厳密な中のわずかな揺らぎ
の美しさは出せないからです。
アートの創造には、作曲技術も演奏技術も必要だと思いますが、どち
らも、基礎技術は必要です。作曲は泉のように出てくる知恵のあうと
ぷっと作業とすると、演奏は五感をあうとぷっとする職人の作業とい
えるかもしれません。演奏には作曲の知識は必要ですが、作曲には、
演奏の技術の知識は必要ですが、技術そのものは必要ではない。
作曲技術と知識は、スピード感のある商業的な現代アートにはかかせ
ません。それを踏まえたうえでの、演奏技術の鍛錬であれば自己完結
におちいることを避けられるかもしれません。

投稿日時 - 2011-01-08 16:41:07

お礼

 ふうむ。むつかしいですね。ご回答をありがとうございます。

 芸術は やはり歴史のあるもので 伝統のよいところは 何だかんだと言っても 公然とであれ隠然と暗黙のうちにであれ 受け継がれて来ているのだ。むろんこの伝統というのは 昔からの《原初の美》の系譜なのだ。いろんな幅があるにしても。
 いま音楽の演奏という芸術創作を例に取って考えるに 基本の筋は この伝統に立つし伝統の中身を身に受け継いでさらに伝えようとするのだし しかも一人ひとり演奏家のそれぞれ《わたし》の――ちょっぴりとしてでも《わたし》の独自の自己表現としての――創作なのでもある。
 筋道をきちんとわきまえつつ 演奏する《わたし》は自由にゆらぐのだ。

 そのようにして芸術するわたしの創作が 現代アートとしてはお呼びでないというのであれば それもよかろう。――と言うのか? それとも 出来るだけは 現代人の要請するような現代アートの要件に合わせようとするのか?

 それにしても 美術は 作曲と演奏とが一体となった芸術作業ですよね。

 どうぞ添削を。

投稿日時 - 2011-01-08 17:12:12

ANo.29

 こんばんは、ご返答ただきましてどうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> ちょっと前に もはや《あらし》も止んだかと口走ったら 案の定と言わんばかりのタイミングで やって来ましたおとっつぁん。(いや まだ 若いですかね)。


 相変わらずの「上から目線」には.......   おそらく、まだお若いかと思われます。

> 持論としましては  どちらかと言えば 感性はスサノヲであり 理性がアマテラスという捉え方になっています。理性は 感性という土壌の中から 自己の姿をあらわすと見ています。

 了解致しました。

> 言いかえると アマテラスの単独分立そして果ては独立したかのごとくの《観念の帝国》の樹立――つまりそういう意味での(逆立ちをするような)アマアガリ――は いただけない。と見ます。


 意見を等しく致します。


> サイコパス( psychopathy )という術語を初めて知りました。

 モラルハラスメントとほぼ同じようなものかと思われます。ただ、サイコパスは”精神異常者”として、一方、モラルハラスメントは犯罪者(フランス等)として扱われる違いがございますが......

・サイコパス:http://www.psy-nd.info/ 
・モラルハラスメント:http://www5a.biglobe.ne.jp/~with3/gyakutai/morahara/kagaisya.htm 

> チャオポルポさんは アメリカ在住の画家でいらっしゃるのに わたくしは 脳天気でやり取りをしています。

 
 ”インタラスサノヲイズム”、つまり、スサノヲ間の関係性を重視するお方(bragelonne様)に、別段問題があるとは思えないのですが......

 

 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-01-08 02:22:27

補足

ひどっちさん いつもお答えくださってありがとうございます。

  
 ★★(回答No.28) ~~~~~~~~~
 「主人公グスタフ・アッシェンバッハの芸術論」
 美と純粋さの創造は精神的な行為であり、努力を要するものである。精神への到達は、感覚を通してなど絶対に不可能。感覚への完全な優位を保つことによってのみ、真の英知に到達できる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうなんでしょう こういったロゴス重視そしてさらには〔単純なる・一面的な見方に片寄るところの〕ロゴス優位の考え方は 独善的なアマアガリと同じ根を持つのでしょうか? どうでしょうか?
 ☆☆ 言いかえると アマテラスの単独分立そして果ては独立したかのごとくの《観念の帝国》の樹立――つまりそういう意味での(逆立ちをするような)アマアガリ――は いただけない。と見ます。

 ★☆ チャオポルポさんとのやり取り
 ☆ では たとえば面談しているなら もっと何か細かいところにも気がついて話が出来るのかなぁと思うものですから。(でも ありがとうございます)。

 ☆★ サイコパス
 ▼ (サイコパスとは何か) ~~~~~
 私たちはどんな悪人も少しくらいは良心を持っているだろうと信じていると思います。しかし、世の中にはそんな考え方が全く通用しない「サイコパス」と呼ばれる人間が存在しているのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは こうなりますと――たぶん なおまだ表面上の現象と言うべきなのでしょうが――《善をすっかり欠如させた究極の悪》という状態があたかも想定されているかのようです。
 関係性をまだなお保っているなら 人間であり善であると言えるでしょうか?

 ★ モラルハラスメントとほぼ同じようなものかと思われます。ただ、サイコパスは”精神異常者”として、一方、モラルハラスメントは犯罪者(フランス等)として扱われる違いがございますが......
 ☆ 《分かった》と思う反面で どうでしょう 《精神異常者》という規定は 更生にとって・つまり人間にとって 建設的なのでしょうか?

 ★ モラルハラスメント
 ☆ 割りと――と言っては 自分の不明を暴露するだけになるのですが―― しっかり詳しく分析されているのですね。
 ▲ (モラルハラスメント) ~~~~~~
  § 4.加害者とは
 (4)生育歴
 加害者がこのような傾向をもつ原因は、まだ、はっきりとはわかっていません。
 ただ、加害者の生育歴や過去の経験が、強い影響を与えているようです。

 加害者は以前、何らかの形で虐待を学習したことがあり、しかもそれを、
 虐待だったと認識していないことが多いのです。
 それだからこそ、虐待を切り抜けてきたつらさを、虐待の形でしか
 出せないのかもしれません。

 そのうえ、自分がかつて受けた苦しみに対する復讐であり、
 そういう人間関係しか知らないことの表れともとれる自分の虐待行為にも、
 加害者自身はまったく気づいていません。

 今までに対等な関係の経験がなく、今も安心して本音を語る場所を
 持っていないであろう加害者にとっては、そのように自分の加害行為に
 無自覚でいないと、生きてはいけないのかもしれません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ほかにもおそわりましたし この引用箇所は 少しあたまを回せば分かりそうとも思える内容ではありますが その目で かのお若い質問者とその回答者連について見ますと なるほどとそれぞれについてうなづけます。その上でなお まだまだ しっくり来ない感覚があります。
  先ほどの《精神異常》という規定と同じような問題かと思うのですが 要するにこれは《いぢめ》ですよね? だとしますと 本人は自覚しているのではないか? まづこの疑問が思い浮かびます。
 そうして このような《生育歴》の情報にもとづきその相手をながめたりしつつ 話し合わざるを得ない情況になったとき その情報にもとづく《あぁ かわいそうな人なんだ》という同情をこちらが持つことは どうも美の感覚の回復にとって建設的なことではないように思えるんですが 果たしていかがでしょうか?
 

投稿日時 - 2011-01-08 07:58:50

お礼

 かの質問において ki さんは もはやすでに受信についての鎖国状態にあると考えます。発信のみの人間性(善)であると。
 kr さんはほかの人たちにおつきあいしているかたちだと見ます。
 特に ma さんへのですが その人はここまでのことを言うのなら 直接にわたしに向かって 《なんぢゃおまえ 話がせこいやないか》とでも言ってくればよいのに。推論を示しているようで まだ印象批評に終わっているところがくやまれます。

 《自信のなさや甘え》から自由な人はこの世にいるのでしょうか? 《自己顕示欲》を持たず その振る舞いからまったく自由な人間は いましょうか?
  けれどもたとえばここで質疑応答に参加しているということは 《ほめられる》ことを目的としていると見るべきでしょうか? あるいはぎゃくに いわゆる承認欲望のない人間――社会の中でその人間関係を持てているという自覚とその自己の位置づけをのぞまない人間――は いましょうか?
 ▲(モラルハラスメント) ~~~~~~
 2)言葉は武器

 加害者は最初のうちは、敵とみなした人間に直接何かを言うことは
 ほとんどありませんし、相手が何かを訊いたとしても、会話は成立しません。

 しかし、加害者が何も話さないわけではなく、話すのが苦手なわけでも
 ないのです。

 それどころか、むしろ、論争が好きなのではないかと思えるほどの
 雰囲気を持って言葉を使います。

 しかし、その話は自己完結的であり、その言葉は、相手とのコミュニケーションの
 ためのものではなく、勝つための武器なのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん人をあげつらうには 《真に賢明であれば》というように《賢明》という言葉を使えば《勝てる》と思っているのでしょうか。

 
 わたしの勘では嵐の前の静けさといった雰囲気がまだただよっています。

 ひどっちさん いつもいつもありがとうございます。

投稿日時 - 2011-01-08 08:15:21

ANo.28

 こんばんは、Hidocchiでございます。

 皆様のご意見を拝読していく中で、ふと映画「ベニスに死す」を思い出しました。
 主人公アッシェンバッハの回想シーンで、友人のアルフレッドとの論争場面がございますが、彼ら二人の芸術論を想起した次第でございます。

「主人公グスタフ・アッシェンバッハの芸術論」
 美と純粋さの創造は精神的な行為であり、努力を要するものである。精神への到達は、感覚を通してなど絶対に不可能。感覚への完全な優位を保つことによってのみ、真の英知に到達できる。

「友人アルフレッドの芸術論」
 美は自然に発生するもので、努力とは関係なく、芸術家の自負以前に存在する。美は感覚だけに属するものである。どうして、アッシェンバッハ先生ともあろう方がそれを理解しないのですか!

 この回想シーンの後に、アプリオリな美を持つタッジオの顔が映ります。そして、ギリシャ彫刻を彷彿させるタッジオに惹かれ、ほとんど、ストーカーのような行動に出てしまいます。
 そして、ラストシーンでは、アッシェンバッハが、海辺で地平線彼方を指差すタッジオを見つめながら、毛染め液が顔から流れ出るという醜い姿で倒れます。つまり、自身の芸術論は完膚なきまでに崩壊させられてしまう訳でございます。

 上記の2つの芸術論には、愚生は自身を持って回答を寄せることはできませんが、トーマス・マン、そして木村重信氏は、この「アルフレッドの芸術論」に近いものと察せられます。

 直接の回答にはなっておりませんが、ご参考になれば、幸いでございます。

投稿日時 - 2011-01-07 20:36:30

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ちょっと前に もはや《あらし》も止んだかと口走ったら 案の定と言わんばかりのタイミングで やって来ましたおとっつぁん。(いや まだ 若いですかね)。
 おまけに今度は 仲間をつのっている。やっと(8番目で) 良識派の登場となりました。
 今回は 別の意味の嵐の前の静けさというような雰囲気にもなって来ました。(そういう感じがします)。

 トーマス・マンは ト二オ・クレーガーでしたかは読みましたが(でも 覚えていません) 魔の山も ヨセフの物語も 途中で――どういうわけか今でも分からない理由にて――投げ出しました。ヱ゛ニスに死すも 読んでいません。(というよりも 世界の小説をしっかりとまんべんなく読むという方針をしっかりと立てなかったのが 敗因だと思います)。

 うかがう限りでは 〔直観につうじる〕直感による美と論理による美との対比であるように思われます。
 考えてみれば このような対立する二項の比較というやり方も あまり生産的ではないように ふと思いましたが 要は 感性の側面をないがしろにしないということではないでしょうか? 直観に通じるとすれば すでに思考によってもものごとの本質を見抜くという中身を得ているか 得ることになるということですから  論理を排除しているわけでもない。こうも思われます。

 持論としましては  どちらかと言えば 感性はスサノヲであり 理性がアマテラスという捉え方になっています。理性は 感性という土壌の中から 自己の姿をあらわすと見ています。言いかえると アマテラスの単独分立そして果ては独立したかのごとくの《観念の帝国》の樹立――つまりそういう意味での(逆立ちをするような)アマアガリ――は いただけない。と見ます。



 サイコパス( psychopathy )という術語を初めて知りました。


 チャオポルポさんは アメリカ在住の画家でいらっしゃるのに わたくしは 脳天気でやり取りをしています。
 ほかのみなさんとのやり取りについても おぎなうところなどありましたら よろしかったら おしえてください。

投稿日時 - 2011-01-07 21:20:56

ANo.27

こんにちは、

もうひとつの質問からこちらのほうに飛び込みいたします。

具象から抽象への移行(イメージによる美からロゴスによる美への移行)は美意識の劣化を意味するか?

判りやすいたとえで行きますと、

古事記、万葉集、伊勢物語などの歌物語の詞書が不要になり、
時代を経て、勅撰和歌集、私選和歌集が盛んになり、
連歌の時代がやってきて、
最後には俳句にたどり着いてしまう、

そのプロセスに似ているように思います。

ギリシア神話や聖書の物語をフレスコ画などの手法で描いていたのは、詞書の間にいくつもの美しい和歌を挟んで物語を進行させていった手法に似ています。

和歌だけを並べてそのメリハリを楽しんだ和歌集は、印象派の絵が直接的に人間の感覚に語りかけてくるのにそっくりです。

連歌は、過渡期ということで、現代美術の変幻自在さを思わせます。

俳句にいたると、これは省略の美。”菜の花や月は東に日は西に”。他のものは隠されてしまいます。

歌は世につれ、世は歌につれ。
ピカソは芭蕉と考えられてはいかがか。

柿本人麻呂は芭蕉翁よりも優れているか?
芭蕉に至る道は劣化の道か?
いかが思われますでしょう。

一度、川柳、俳句に行き着いてしまったら、歌物語に逆戻りをするのは、一考、不可能のように思われます。

アメリカでも、現代はinstant gratification(今すぐ出来ないのは無価値である)とvirtual reality(コンピューターの中の現実)の時代であると言われます。

先の回答者さんの仰ったように、写真やコンピューターグラフィックが幅を利かせている時代に、油絵を描くことが果たして価値のあることか、疑問に思うこと頻りです。

演劇と音楽に比べて、絵画、彫刻は芸術として認められるのが遅かった。演劇と音楽に比べて、手業による制限の多い表現形式であるからでしょう。絵画は画題に依存する、そして一度描いてしまったら、いつまでもそこに存在する。重い鎖を首にかけられたようなものです。現代には向かない芸術形式なのかもしれません。

投稿日時 - 2011-01-06 10:44:16

補足

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 少し質問の趣旨を忘れていました。あるいはその底にあったと思われる趣旨にあらためて気づきました。
 ★ 具象から抽象への移行(イメージによる美からロゴスによる美への移行)は美意識の劣化を意味するか?
 ☆ このように問うたのも 実際ですが いちばんの勘所は つぎです。

 ○ ~~~~~~~~~~~~~
 現代の芸術観としては 具象よりは抽象 イメージによる美よりはロゴスによる美がそれぞれ とうとばれる。そういった変化そのものについては 歴史的な自然環境の変化や社会情況の複雑化といった避けられない要因があるかも知れない。
 ただし もし《論理によって分かる美》が現代の美意識であって それでなければ現代のものとしては美ではないというのであれば これは おかしい。
 古典的な美のかたちにしか美を感じないのは 美意識の劣化だと そういう現代美学派のほうが言おうとしている。
 それについては 抵抗する。論理による美にしか美を捉えられないとすれば それこそが 美の感覚の劣化なのではないか?
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ もともと こういう趣旨にて問いを起こしています。

 でも今回のご回答は どうでしょう? 少し違った意味合いが添えられていましょうか?
 ★(質問者によるご回答の要約) ~~~~~~~~~~
 ロゴスによる美への変化は もはや避けられないし 元に戻れるような変わり方ではないのだ。歴史的な趨勢であり 社会の情況も舞台も段階も――ときには 人間のあり方も――すっかり変わってしまった。
 古典的な美の感覚にしか美を感じない場合を貶めて言うのではなく そうではなく現代人は その昔の情況からはまるで違った世界に突入して来ているのだ。古典的な人間観による人間性に訴えその昔の美意識を守ろうといった努力だけでは何ともし難い情況の中に追いやられるかのごとく入ってしまっている。
 このような現実認識から始めなければ 美学も何も話は成り立たない。まづは素直にこの歴史的変化を受け止め受け容れることから始めなければならない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 さて 細かく見てまいります。
 ★ 演劇と音楽に比べて、絵画、彫刻は芸術として認められるのが遅かった。
 ☆ 《芸術として認められる》ということに ふたつの次元があると考えます。二つ目の次元というのは 社会の有力者によって認められること・あるいはもっと即物的に言って生業として成り立つということを意味する場合です。
 ですから第一次のふつうの次元というのは 日常生活の次元です。絵画・彫刻について 木村重信も《( c )・・・美術の本質は変貌であって、発展ではない。》と言うように たとえばわたしはアルタミラ洞窟の野牛の絵を例に出したのでした。これが 第一の次元での美術であり それとして《芸術としても認められている》ということを言いたいためです。生活の中に溶け込んでいれば それとして認められているという意味です。
 原始時代のであるからではなく ひとりの人のヒラメキにおいて得られたそのときの美であり 原初の美と言いました。この《原初の美》に――なぜなら 《わたし》たちのあいだに共通の感覚( sensus communis )があると信じられるからです―― すべてのイメージないしパトスとしての感覚やさらにはロゴスにまつわる論理思考や想像力が発するという見方です。
 つまりは このような美の感覚の歴史は――つまり《原初の美》の主題とその系譜については―― 人間が人間であるかぎり変わらないという見方です。 

 ★ 写真やコンピューターグラフィックが幅を利かせている時代に、油絵を描くことが果たして価値のあることか、疑問に思うこと頻りです。
 ☆ そういうふうに捉える分野――古典的美あるいは伝統的美の見方からすれば 感性の表面的な分野ですが――における美の感覚もそれとして現象するとは言わなければならない。こう思うのみです。次のご指摘についても 同じことが言えると考えます。
 ★ アメリカでも、現代は instant gratification (今すぐ出来ないのは無価値である)と virtual reality (コンピューターの中の現実)の時代であると言われます。
 ☆ 英文――英語という言語の文の構造(じつは 無構造)――という言語慣習からして そういうキハ(際・極)への振り子の振れは どこよりも大きいのだと受け止めています。

 ★ 一度、川柳、俳句に行き着いてしまったら、歌物語に逆戻りをするのは、一考、不可能のように思われます。
 ☆ これには 長い議論が要ります。

投稿日時 - 2011-01-06 13:31:02

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 判りやすいたとえで行きますと、

 古事記、万葉集、伊勢物語などの歌物語の詞書が不要になり、
 時代を経て、勅撰和歌集、私選和歌集が盛んになり、
 連歌の時代がやってきて、
 最後には俳句にたどり着いてしまう、

 そのプロセスに似ているように思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですね。《俳句》が文学あるいは少なくとも詩学の中で 歴史的に現代にまで来て その到達点であるということならば うなづくことも出来るかも知れませんが どうでしょうねぇ。
 おっしゃるように《うた》は 社会的・公的な認知としては確かに歌物語の中に置かれて初めてそれらが貴ばれています。たとえば わたくしの別の質問の中に採り入れた次のうたも やまとたけるの物語の中に――もともとは それとは別にうたわれ覚えられていたに過ぎないものが――置かれて初めて 公式には日の目を見たわけです。
 ▼ (記歌謡31) ~~~~~~~~~
  やまとは くにのまほろば   倭(山処)は  國のまほ(秀)ろば  
  たたなづく あをかき     たた(畳)なづく 青垣
  やまこもれる         山隱れる   
  やまとしうるはし       倭しうるはし
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ただしつまりは 逆に言えば もともと――第一の次元において―― 日常生活の中からヒラメキが得られそれの言葉による表現も与えられるようになったものです。《原初の美》がありますし 保たれていると言ってもいいほどです。やまとたけるの話とは切り離して受け取ることが出来るからです。

 あるいは と言うよりも おそらく《うた》は 独りいるときの自己表出のほかは 相手があって呼びかけ答えるというかけ合いの――互いの――自己表現だったと思われます。また いまもそうであると考えられます。
 ということは ウタも詩も芸術も 国家(あるいは豪族の家系)の正式な歴史書や歌集として編まれるという第二次の社会的認知によりも 第一の日常生活の次元におけるその息吹きのほうが うんと大事であると考えられます。原初の美の中核の部分です。
 ★ 連歌
 ☆ は どうでしょう? 市民のたのしみとして 第一の次元にとどまっているでしょうか? 第二の・社会権力(ないし権威)による認知の次元と足して二で割ったような成り立ちをしていませんか? いやいやあくまで市民の次元においていとなまれる芸術であると言われれば おそらくそれは生活日常とはすでにかけ離れてしまっているのではないか? と問うことになるでしょう。
 求愛のウタやあるいは冠婚葬祭での呼びかけ・問いかけとしての生活のウタからは 一たん離れてしまったあとだと考えられます。(実際にそのようにウタがうたわれることがあったとしても それは風流なことですねと受け答えられておしまいになるのではないでしょうか?)
 
 では
 ★ 俳句
 ☆ は どうか? じつはこれは現代では 生活日常の中に溶け込んでいます。無名の俳人がたくさんいます。ただしその表現の形態もしくは中身は どうか? 十七文字という形態にも制約され 中身ははっきり定義することもむつかしいのではないでしょうか?
 別に言いかえると 《わたし》がその自己表現の動態を生きるとき――《わたしがわたしである》ことを うんうんと推しながら 表現し切って行こうとするとき―― 確かにその一人ひとりは 正真正銘の芸術家であり しかも その中身はこの《自己還帰》の過程の全体(つまり一生)において捉えるかたちの芸術となっている。つまり 一つひとつの作品じたいには その内容があまり見るものはない。(そもそも 定型の容量が短すぎて表わしがたい)。

 ★ 俳句にいたると、これは省略の美。”菜の花や月は東に日は西に”。他のものは隠されてしまいます。
 ☆ わたしの見方から行けば こうです。《省略》していようがいまいが 《原初の美》もしくはその言葉への翻訳ないしその加工 これが表わされ伝えられ得れば それは芸術だと認められるのではないでしょうか?
 ★ ”菜の花や月は東に日は西に”
 ☆ そうですね。《原初の美》を凝縮したと言えましょうか? どうでしょうか?
 ▼ (人麻呂 一・48)~~~
  東(ひむかし=日向かし)の
  野に かぎろひの立つ見えて
  かへり見すれば 月かたぶきぬ
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうでしょう? 社会的な権力もしくは権威があたらしいものと交替するというような――それとしての日常性の出来事――とかかわっているようには思います。(ぎゃくに言うと 美術の問題ではなく 社会力学をどう生きるかという美学のもんだいに成り変わっているかも知れません)。

投稿日時 - 2011-01-06 14:33:39

ANo.26

仕事が立て込んでいて、遅くなってしまいました。

まず、北の海辺で育った私には「うに」と「海鼠」は全く違ったにおいのものなので、これを誤読すると印象が全く違うものに感じられます。
少なくとも、海鼠は裸足で踏んづけると気色が悪いだけですみますが、うには裸足で踏んづけると怪我をしてしまいます。

bragelonneさんは普遍的な「原初の美」を想定されていますが、私にはそのような普遍的な「原初の美」があるとは思えません。これでは「美」そのものが存在することになってしまいます。
自然の中に美を見出すのも、芸術作品の中に美を見出すのも、自分へとつながる存在を感じるからだろうと思います。しかしながら、「自分へとつながる存在」は、それまでの自分という人間存在から離れてあるわけではないのですから、「美」そのものがあるから美しいと感じるわけではないはずです。

製作の側からいえば、無明から浮き出た泡のようなものをとらえ直し、存在そのものとして自己の外に生み出されたものが「作品」だろうと考えまます。何らかのものとしてあることで、作品そのものは自然に在るものと同値かもしれません。そこに美を見出すかどうかはあくまでも鑑賞者の側の問題です。

芸術作品をそこまでの歴史を背景に、(鑑賞されることを待っている)存在そのものとして出現します。 そこに美を見出す人間がいる以上、審美眼に優劣はあり得ません。

なお、私は人間の歴史については徹底した楽観主義者なので、長期的に見て人間の歴史に退歩を見ない人間です。

投稿日時 - 2011-01-06 01:03:17

補足

 くたかさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。お互いに歩み寄りが出来たのではないでしょうか?
 というのも おそらく次の二つのことをお応えすれば ひとまづの合意を見たというところであるように思います。

 ・《原初の美》は 一人ひとりの《わたし》の感覚に生じるものです。ただしその主観がひろく共同性を持つとも考えます。センスス・コムニスつまり 共通感覚であり 共同主観です。コモンセンスとして 常識とも訳されて用いられているようにです。

 ・《審美眼に優劣がある》と 暗黙の内にであれ 言おうとしているのは 現代芸術の――みづからの主張としては 主流を行くというところの――専門家や関係者たちのほうです。質問者としてわたくしがここで《現代芸術は劣化したのではないか》と言っているのは その主流に対するささやかな抵抗であるに過ぎません。

 ☆ ですから 推論の出所は違いますが 
 ★ なお、私は人間の歴史については徹底した楽観主義者なので、長期的に見て人間の歴史に退歩を見ない人間です。
 ☆ というお考えとも何ら衝突するところはないのです。平俗的に言えば 《〈ゲルニカ〉の美を分からない者は 芸術音痴だ》という風潮に異を唱えているのみなのです。それが通れば 人間の歴史をつうじて美の歴史も ふつうに――共通感覚が生きたかたちで――つらぬかれて来ていると見ることができるというものなのです。
 わづかに残る――と言っても おおきな案件ですが――相違点としては 《共通感覚》派からすれば カンディンスキーの抽象画にも現代美術としては 《これが分からなければ おまえは美の感覚がマヒしているのではないか》というメッセージが込められているのではないかとおそれるというわけです。

 【Q:うつくしさに打たれたきみは だれなのか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6353509.html
  ▼ (その回答No.9) ~~~~~~~~~~~~~
 (1) 芸術の自己否定
  ・・・ヘーゲルが「芸術の死」を宣告したように、近代芸術とは自己否定することによってしか自らが芸術であると証しだてられなくなったのです。・・・
  ▼ (回答No.6) ~~~~~~~~~~~~~~~
 近代における美術は作家に教えてもらうものでもないのです。直感でわかるのではなく、論理でわかるものです。自らが考察し、つかみとり、咀嚼するものです。作品はそのきっかけに過ぎないのです。「わからない」「漠然とした恐怖に襲われる」ということが始まりです。心奪われエポケーの状態になるのではないのです。
 私に言わせると直感でわかると思っている人間が怠け者なのです。そして直感で認識できる美を求めるなら、事例は現代アートを避け、古典的な美術を上げるべきでしょう。古典的なアングルの裸婦は見るからに美しく、男性の欲情を冷ややかに煽ります。青みがかった背景に理性的に若い女の裸体が提示されることで欲望は客観化され、容易に同化しきれない冷やかさがエロスを生みます。画家は文化的であるとは何か、美とは何かを丁寧に鑑賞者に教えてくれます。
 しかし近代美術は違うのです。問題を提起するだけです。鑑賞者が作品を前にし、思索し、思考し、そこで初めて美のイメージを生むのです。鑑賞者と芸術家のコラボレーションであるといってもよいでしょう。この質問欄でやってらっしゃるように徹底的に問うていいのです。しかし答えるのは自分なのです。

 美とはコラボレーションであるという思想は「開かれた作品」というもので、西洋独特のものかも知れません。芸術家にしてみれば自己を表明し、それを他者に鑑賞され解釈されることで、自分の埒外にある認識と融合します――そして一次元高い段階に登っていく、というものです。キリスト教的です(ただこう書くと今度は宗教批判に議論が飛びそうで頭が痛いのですが。私は一つのことに集中して議論するのが好きなので)。
 結論的には、bragelonneさんが美だと感じている認識は、近代美術には当てはまらなかったということになるかもしれません。ただし議論する事例に対し転換期を踏まえて適切に分類しないと議論が定まりません。さもなくば論難になってしまうのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 鑑賞者が 見て何らかの直観につうじる直感を得たあと思考に移るのは これまたとうぜんのことです。その部分が共通であることを除けば 《審美眼に優劣がある》という見方を持ち込むのは このような現代芸術派だと考えます。この回答のあとは 質問者であるわたしからの問いかけに対する答弁をすでに放棄したかたちになっていますので この今のような問いをもうけています。

投稿日時 - 2011-01-06 10:11:51

お礼

 上の引用は あらましにまとめたり省略したりすると意味を曲げるおそれが出て来ますので 長くしました。

 ★ 「うに」と「海鼠」
 ☆ は 忘れづらいですが うまく取りまとめづらくもあります。楊貴妃は 遠く離れた海からなまこを取り寄せて食べていたそうですね。この味覚にしても好き嫌いがあります。ただし 美容にいいとか健康のためであるとかと言えば おっしゃるところの《躍動感》やみづみづしい力につながるというところで 普遍性があると言えばあります。
 そういうかたちで 原初の美ないしそもそも美ということにも――あくまで個人の感覚を基礎として そしてまた今度は個別の対象についてではなく必ずしもそうではなくすべての対象に共通の要素として《美をめでる》ということの〔あくまで個人の心における〕動きである――何がしかの普遍性を捉えてもよいのではないでしょうか?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 自然の中に美を見出すのも、芸術作品の中に美を見出すのも、自分へとつながる存在を感じるからだろうと思います。
 しかしながら、「自分へとつながる存在」は、それまでの自分という人間存在から離れてあるわけではないのですから、「美」そのものがあるから美しいと感じるわけではないはずです。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《自分へとつながる》という《あくまで個人としてのわたしの感覚》が基礎です。主観に発します。そして《自分へとつながる存在》というのは――じつは カンディンスキーならカンディンスキーという――個々の対象そのものでは必ずしもなく そうではなくそれは《〈わたし〉の感覚が じつは・じつに 人びとにとって〈共通の感覚〉でもあるというそのこと》なのではないでしょうか? そういう《原初の美》です。
 象徴的にそして極論して言えば 《ゲルニカ》にはこの原初の美がないのではないか? 
 なくてよいし ないのが《近代》以降では 《ただしい》という風潮が蔓延しているのではないか?
 ――こういう問いにこの質問は発していましたし 結論も同じその問い自体なのです。

 ★ ~~~~~~~~~~~
 製作の側からいえば、無明から浮き出た泡のようなものをとらえ直し、存在そのものとして自己の外に生み出されたものが「作品」だろうと考えます。何らかのものとしてあることで、作品そのものは自然に在るものと同値かもしれません。そこに美を見出すかどうかはあくまでも鑑賞者の側の問題です。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは いわゆる写実ないし写生という技法について言われているのではないでしょうか。つまり《作品そのものが自然に在るものと同値》という技法なのであり 作者はそれとして そこに美を見出しているものと思います。あるいは美を見出す可能性としての美を提示したというかたちです。
 人間や世の中は だいたい《無明》の状態にありますから
 ★ 無明から浮き出た泡のようなものをとらえ直し
 ☆ なのでしょうが その中にあっても一瞬のヒラメキあるいはカガヤキを作者は捉えたということかも知れません。
 観衆から言えば このヒラメキを芸術作家は捉えていて欲しいし 捉えたからこそ表現したと思いたいと思うのです。ゲルニカには感じませんが カンディンスキーの場合にはそういうことなのでしょうし かれはその抽象画の場合にはわづかにこのヒラメキをそのままの象(かたち)では表わさなかった。そうではなく 実際に目にみえたものを棄ててしまって おそらく心の目に見えるものを表わそうとしたのであろうとは見ます。
 そこで ここからあとは お願いのようなものですが 《心の目に見えるかがやき》を連想し類推して行って人びとが会得しうるように――人びとのほうが自由に抽象することができるようなかたちにおいて――見て分かるほどの具象を残して欲しかった。それなら 原初の美を 共通感覚においてわれわれも共有することができるようになるはずです。
 だからと言って その美あるいはそのイメージそのものは われらには表象しえない。なぞに留まる。でも美術としての芸術としての美の追究は つづく。


 おあとがよろしいようで。

投稿日時 - 2011-01-06 10:59:38

ANo.25

あけましておめでとうございます。

どうお答えしていいのか、まだよくわからないままなのですが、

例えば、対位法やフーガなどの作曲技法の理論や知識が十分理解
されていなければ、美しい音楽を作り出せないかといえば、そう
ではないのだと思います。

しかし、私たちが美しいと感じる音楽には、それがまったりとし
たロマン派のものだろうと、またどれほど深い部分の情緒に訴え
るものであったとしても、やはりそういった歴史的な理論の積み
重ねが知らず知らずのうちに、含んでいるし、聴衆も求めてしま
うものではないだろうか。

ていう結論を持っていきたいっていう潮流がある様に思いますが、
ただそうであっても、

もう少し人間の自由な感覚は現代にはもっと必要だと思えてなら
ないのです。もちろん安っぽく身をくねらせるだけのものが、いい
とは思いませんが、ただ自己完結的になりすぎているものには、
パワーはありません。
心を自由にするというおおらかさは今の時代だからこそ求められて
いると思うのですが。

投稿日時 - 2011-01-03 13:37:02

お礼

 おめでとうございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ どうお答えしていいのか、まだよくわからないままなのですが、
 ☆ とおっしゃる割りには どうもひねりを効かせたご回答のようで 焦点をどこに取ればよいのか戸惑います。いろんなふうに解釈できる内容のようです。

 ★ 心を自由にするというおおらかさは今の時代だからこそ求められて / いると思うのですが。
 ☆ この結びの言葉に関しては おそらく参加いただいているみなさんの納得する思いであろうかと考えます。
 そのつてで まづ次の考えが来ます。
 ★ もう少し人間の自由な感覚は現代にはもっと必要だと思えてなら / ないのです。
 ☆ もし仮りに美の感覚が劣化しているようであれば こころを開いていくようにとのことだと思います。
 ただし
 ★ ~~~~~~~~~~
 もちろん安っぽく身をくねらせるだけのものが、いい
 とは思いませんが、ただ自己完結的になりすぎているものには、
 パワーはありません。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ひとつに《身をくねらせる》ことも必要であろうと。たぶん いろんな可能性を試すという実験も必要であろうと。
 ひとつに さりとて作品としてはそのつどその自己表現ということにおいて その作品が完結していることも大事である。中途半端なものとして提出するものではないであろうと。
 ただし もうひとつに
 ★ ただ自己完結的になりすぎているものには パワーはありません。
 ☆ このあたりが むつかしいですね。《自己完結的になりすぎる》とは 作品ごとに完結し独立している姿をあらわすことが大事だからと言って 縮こまってしまっては 元も子もないということでしょうか?
 予算を組むときに 出ると入るとを数字の上で辻褄合わせをするだけに終わるかのようなかたちで自己完結的になっても しかたがないではないかと。それならいっそのこと飛び跳ねるごとく 試行錯誤を正直に愚直に繰り返すのもよいだろうと。

 質問者が回答内容を復唱してすすむのは 対位法なのでしょうか?
 とは言え ひねりの効いた文章をまだ消化し得ていないうらみが残りました。さらに発展させて行ってくださるならありがたいです。

投稿日時 - 2011-01-03 14:51:26

ANo.24

 あけまして、おめでとうございます。Hidocchiでございます。


 愚生におきましても、さらにあたらしいあゆみをともに進めて行きたいと思っております。ご指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。



> ★ ジョン・ケージ・・・の作品には、「4分33秒」というものがございます。
 ☆ おそらく 変化ないし劣化が起こっていても この《動態》――つまり飽くなき尽きざる探究――が大事であるというように考えます。
 

 仰られますように、”飽くなき尽きざる探究”は大切かと思います。ただ、「”アヴァンギャルド的”な要素を含んでいない作品は、芸術ではない」という風潮が非常に強かったのが、残念だったかと思っております。

> 現代芸術の主流がその昔とは変化した状態にあって いま存続しているのは おもには資本主義社会にそれとして合っているからであろうと思われます。そうでないと売れないからなのでしょう。そして一般人の審美眼は その声がかぼそい。そのことに甘んじなくてはならない状態にある。・・・

 

 昔(19世紀以前までです)では、画家と申しますと、おもに”肖像画”、”教会から依頼された絵画”の創作で(パトロンの存在下で)、生活していたものかと思われます。もちろん、そこには、依頼主の趣向に会わせた当時の流行に従ったものと推察しております。ただ、そのような状況におかれましても、たとえ金銭的には恵まれなくとも、自分の作風(美)を高めていこうとした画家はいたように察せられます(レンブラント等でございます)。また、ゴッホにおきましても(デッサン力はしっかりしておりましたので)、当時の”はやり”に従い作品を描いていれば、あんなにも貧しくはなかったようにも思われます。
 一方、現代におきましては、資本主義経済のもと、”たんに一時的にでも売れればいいもの”を産出しているのが現実とも思われます。そこではやはり、薄っぺらくなってきているのはやむを得ない状況なのかもしれません(評価は百年後ぐらいに、しかるべきものが下されるのでしょうけれども)。


> ★ 海老沢敏 礒山雅(NHK・ETVで市民大学のような講座を開いていました) 皆川達夫
 ☆ の名を知っています。


 よくご存じなのですね。昔、FM クラシックアワーの解説者もつとめていたかと記憶しております。


> ★ 詳しくは分かりませんが、アプリオリな美的感受性のようなものが備わっているものかと思っております。
 
 ☆ そう言えば《美学》というきちんとしたジャンルがあるわけですよね。そういえば読んだこともあったかも知れません。新書版程度のものでしたか。倫理学や哲学にけっきょく近いのでしょうし 究極の美論はむつかしいのでしょうか?

 

 美学は、カントやヘーゲルによる著書もございますため、哲学とはかなり関連の深い学問分野かと考えております。ですが、残念ながら、愚生の勉強不足のため、何も申し上げられません。誠に申し訳ございません。

> 小林愛美というピアニストが 天才だと言われていますが どうですか? よいと思って聞いております。最後の決定打として何かまだ分からない感じです。 

 ショパンの練習曲op.10-4をYouTubeにて聴きましたが、テクニックに関しましては、申し分ないと思います(粒の揃った洗練された音、指周り等です)。ですが、愛美ちゃんの師匠二宮裕子氏は、PTNAの副会長で、実質上のピアノ実務のトップでございます(責任者は専務理事の福田氏でございますが)。もちろん、PTNA傘下の株式会社東音企画が、愛美ちゃんをバックアップしてくれています。そこで、もし、二宮裕子氏等のバックアップ力が弱まった際には、未知数となります。ですが、将来を見守るべき逸材であることは確かだと感じました。

ソース:
http://www.piano.or.jp/info/about/organization/ 
http://www.to-on.com/about/
http://www.to-on.com/artistpromotion/artists/aimi_kobayashi/

 末尾ではございますが、bragelonne様はじめ、愚生の拙い文面をお読みの方々におかれましては、さらなるご活躍を心よりお祈り申し上げます。

投稿日時 - 2011-01-02 23:10:16

お礼

 あたらしい年のおよろこびをつつしんで申し上げます。
 ご回答をありがとうございます。

 小林愛美をめぐって
 ★ 師匠二宮裕子 PTNA 傘下の株式会社東音企画
 ☆ などお詳しいのですね。PTNAでは 名誉会長が羽田孜と知って そういう政治力の問題もあるのかなと思いました。
 ★ 粒の揃った洗練された音
 ☆ と聞きますと ワ゛イオリンの鈴木理恵子を思い出しました。うっとりとさせる音色でした。(ヱブ上では演奏を聞けないかも知れません)。

 ★ 美学は、カントやヘーゲルによる著書もございますため、・・・
 ☆ 必要に応じて 就いて学ぶこともあろうかと思います。(ただちには食指が動きません。何故だか です)。

 ★ 仰られますように、”飽くなき尽きざる探究”は大切かと思います。ただ、「”アヴァンギャルド的”な要素を含んでいない作品は、芸術ではない」という風潮が非常に強かったのが、残念だったかと思っております。
 ☆ 変な類推に飛びますが タモリも《アワ゛ンギャルド的な要素》がいっぱいでしたが 江頭2:50のそれとは違って 一皮剥けて抜けだして来ました。ですから実験というとすれば あらゆる可能性を追求するわけですから これはひどい!という場合も入るかとも思いますが 固定されてしまってはもう いただけないですよね。(江頭2:50は それなりに需要があるのかも分かりませんが)。

 変な言い草をひとくだり:
 歴史知性を見出した古代人の美とその系譜にルネサンスを!

 (でも 縄文人の美もありますね。どうしましょう?)

投稿日時 - 2011-01-03 10:25:04

ANo.23

zakky74でございます。

こんにちは、bragelonneさん。

>次のご文章を引っ張って来ました。

この作業が何とも僕からはbragelonneさんらしく見えてしまうのですが^^;
ご自身の判断基準を一旦は横に置いておくという作業はなさらないと受け取って宜しいんでしょうか?

> ☆ このご思想の表明は 残念ながらまだ いまここで問い求めている《イメージ》そのもののことではないですね? そのイメージを得ている・またイメージ出来ているという表明ですね? わづかにほかにそのものが《 HITOTSU 》と名づけられているという明示はありますが。

前回の投稿にて、僕は幾つかの質問をbragelonneさんに投げております。その事についてのbragelonneさんの返答がございません。少なくとも僕にはそう見えておりますし、このページを見られている他の方も、何人かはそう思われているのではないでしょうか?

それで、僕とbragelonneさんの間で、疎通・交流がかみ合っていない事を道具にしまして、人間共通に働いている問題意識の投げかけ(判断基準の問題性)を致しました上で、僕から伝えたいイメージを伝達する際には一旦はbragelonneさんの判断基準を横においておいて頂きたいとのお願いを何度もしております。

それなしにして、その次はございませんでしょう?

また、bragelonneさんがご自身の判断基準を一旦は横に置いておくのが嫌なのでございましたら、僕はそれでも構いません。別の方法を考えます。提案に対して、乗りたくないのか乗りたいのか、お応え下さいませ。明確にお応えなき時は、僕側では後者で判断させて頂きます。それが、bragelonneさんの本意と違っていたとしましても、僕はその様に判断致します。

ところで、bragelonneさんに僕が感じている事なのですが、ご自身の持っておられる思考体系に相当自信がおありなのだと見受けます。その思考体系全般は、正直どういったものかは分かりません。お時間があるなら、お茶でもしながらお話を伺いたいものです。

ただ、僕は少々残念に感じております。言葉遊びの様にも思えるからです。

言葉遊びについてですが、例えば科学を借りて伝達してみたいと思います。

水とは何ですか?の問に対して、一般的にはH20(水分子)の集まりと言ったりします。とても水について奥行きが深まり理解が深まります。応用力や活用術が身に付き、とても水に対して付き合い方が密着します。

それでH20とは何ですか?の問に対して、H(水素原子)とO(酸素原子)の集まりと言ったりします。先ほどと同様にして、理解が深まり応用・活用が益々盛んになります。

水をもっと知りたいから原子が知りたくなります。原子は、原子核と電子で出来ていると言います。その先には、素粒子・ヒッグス粒子・・・と続きます。ですが、行き着くところは未だ分かっておりません。解明されておりませんし、未解決問題だったんです。

すると、解明されていない未解決の何か・・・が集まって未解決の何か。その未解決の何かが集まって別の未解決の何か・・・その様にして出来上がっているのは未解決の何かです。

人間は、そんな未解決の何かたちを、部分で分けて、違いを付けて、それっぽいのをイメージしやすい名前を貼り付けているのですが、結果的にそれら全ては理解していない事になります(理解しているつもり・・・ならばその通りかと思います)。

結果的に、水1滴が何なのかを明確に理解している訳ではありません。同様にして、分子・原子・核・電子・素粒子・ヒッグス・・・なども理解しておりません。理解していない状態なのに、名前を付けて理解している気になっているのが科学の現在地かと思います。

理解している訳では無いのですが、そこに名前を付けて、お互いの関係性を決め付けて、遊んでいるかの様に見える訳でございます。その事を言葉遊びと申しました。

bragelonneさんに感じるのは、そうした言葉遊びでございます。

言葉は沢山知っていらっしゃるでしょうし、多くの情報・知識・思想・哲学などに触れていらっしゃるかもしれません。ですが、理解している事は何一つ無いのではないでしょうか?

ソクラテスの、無知の知はご存知かもしれません。

ですが、言葉を知っているだけで、理解にも遠く、実践にも遠く、やはり理解していない他の言葉を引用してきて理解した気になっている印象を受けます。勿論、引用された言葉も突っ込まれると、他の言葉を引用するスタイルでございましょう。

引用ばかりが行われる中身の無い言葉遊び・・・

僕がbragelonneさんと疎通・交流する際には、そこに終止符を打つキッカケになれば良いなと思っております。

投稿日時 - 2011-01-02 15:42:04

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 前回はお応えの仕方を変えました。その理由を述べます。
 たとえば
 ★★(回答No.21) ~~~~~~
 判断基準の問題性2.〔* 《一人ひとりの判断基準は全部違う(だから人と人は分かり合えない)》=回答No.18〕のところに、誰もが皆、判断基準は違うから人と人は分かり合えないと書きました。現に、bragelonneさんの判断基準からは、僕はもったいぶっておりますし、カルトっぽいですよね?

 僕が話せば話すほど、僕がお伝えするイメージとは全く違う話ばかりがbragelonneさんの判断基準によって展開されている事について、bragelonneさんは疎通・交流が噛み合っていると思われているのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こうであれば 何はともあれ直截にずばり回答内容についてどう判断するかを述べるのが いちばんであるという理由です。ほかの質問へのご回答は 《イメージ=さとり》についてのずばり回答には達していないとわたくしが判断する内容でしたが それでもそれにもっとも近いものだと見なしたからです。

 すなわちくどいように添えますが
 ★ 僕から伝えたいイメージを伝達する際には一旦はbragelonneさんの判断基準を横においておいて頂きたいとのお願いを何度もしております。
 ☆ と言われても 上のように《判断基準の問題点2.》がわれわれの前に横たわっていると言うかぎり 何も出来ないのではありませんか? 言いかえると どこから話を始めても・また判断基準を引っ込めようが引っ込めまいが すべて同じことになると考えるのがふつうではないですか?

 でもね これまでわたくしが 相手の言おうとするところを出来るかぎり汲んで そのあと自分の考えを差し挟むという順序でやり取りをして来なかったことがありますか? いまあなたはわたくしがそうしていないとおっしゃっているわけです。そしてそれは あなたの言いたいことがわたくしに伝わらなかったからだと。
 わたくしにピンと来ないこと 理解しようとしても理解が得られないこと にかんしては どうすることも出来ません。
 だから ほかのご文章にて 話をすすめるために 応じたというところです。まさか ほかの質問への投稿は ご自分の考えとは別だということではないでしょうから。
 わたしが勘違いをしたのは 一回きりです。しかもそのことについては きちんと直しました。


 ★ 言葉遊び
 ☆ うんぬんについてですが いいですか わたくしはすでに
  ○ クレド=非思考=直観=ヒラメキ⇒感覚および思考
 ☆ このように基本的な認識を示しています。いいですか?
  ○ 非思考
 ☆ ですよ? 思考に非ず です。思考は言葉でおこなうものです。だったら基本の命題において《言葉遊び》をするわけないぢゃないですか。仮りに表わすならば 《たとえ》としてこれこれの図式が ことばをつうじて 得られる。これも或る種の仕方で《イメージ》であるかと思う――こうお伝えしています。言わば代理表現なのです。
 いくら人と人とは分かり合えないからと言って これほどはっきり述べていることが素通りされているようぢゃ 何をか言わんやとなりませんか? 

 ctaka88 さんとは 美学のあり方で真っ向から互いの見方が異なっているにもかかわらず コミュニケーションは取れているとお思いになりませんか?

投稿日時 - 2011-01-02 18:47:29

ANo.22

bragelonneさん、早速のレスありがとうございます。

まず、ご覧になった解説は、なんと「海鼠(なまこ)」を誤って「うに」と読んでいます。
この詩全体を「幻想」として分析的に解釈していることが、ちょっと私にはわかりません。
賢治にとっては、現実の世界に対するイメージがこの詩になっていると私には感じられます。世界は美しいと同時に醜く苦しいが、やはり美しいものであるというイメージ=認識です。この詩がシュールレアリズムと違うのは、自動筆記的な叙述ではなく、明確な世界への認識が表現されているからです。

bragelonneさんが、当初問題として建てている「イメージ」は、私が上で使った「イメージ」とは内容が異なっていると思います。
 
>( a ) イメージはロゴスに従属するのではない。
>( b )  ロゴスはイメージから抽象され、イメージの働きを基礎にして、象徴的な思考が可能になり、その結果として哲学や科学などがうまれた。

このようなものは、井筒俊彦先生の著書(「大乗起信論」についての本だと思いますが、今、手元にないので確認していません)にいう、無明の底から浮き出てくる泡のようなものと、現実とのつながりを把握していないからではないかと思います。その意味で、私の見方はzakky74さんの意見に近いかもしれません。
bragelonneさんは井筒俊彦先生の何かお読みになっていますでしょうか。

私のいうイメージは、感情を含めた認識そのものの表現です。この点はbragelonneさんの言う「イメージとすでに成っていれば それは《ひらめきが 何らかのすがたかたちを現わした(つまり表象しうるものとなった)》のではないか」にちかいですが、少し違うのではないかと思います。
イメージは、表現技法により当然制約されます。絵画であれば、画材、絵筆等々によりそのイメージ=認識は違ってきますし、逆にイメージによって表現技法が選択されもするはずです。つまり、イメージは表現される手法を持って初めてイメージなのであって、「表象しうるもの」自体としてのイメージはあり得ないと考えます。

私にとって、芸術の何に感動するか=何を美しいと感じるかと言えば、作家の表現技法と認識=イメージ
が相俟って、私のなかに躍動感を伴って新たなイメージを呼び起こすからです。このような意味では、世界の見方がまるで異なっていれば、ある人間には感動を呼び起こす作品であっても、別の人間には何の感動もよばないものであるのも当然のことです。
これをもって、美の感覚が劣化したとは言えないのではないでしょうか。

なお、私の考える時代区分からいえばカンディンスキー以降は現代です。

投稿日時 - 2011-01-02 00:49:05

補足

 お礼欄からつづくかたちになります。
 イメージをめぐる話に入っています。

 ★ イメージは表現される手法を持って初めてイメージなのであって、「表象しうるもの」自体としてのイメージはあり得ないと考えます。
 ☆ それは ざっきさんも触れておられる《伝達ないし意思疎通》の側面から見てのことだと考えます。言いかえると おのが身体においてあるいはあたまの中において何らかの象(かたち)に表わされたものをおぼえた。というイメージもあるはずです。よく見ると たとえば《野牛》のかたちをしていたと知る。あるいは《ひもじい。何かを食べたい》といった意味としての象であったと。
 ですから――断片的イメージ論によりますれば―― この第一次の表象も イメージと言えばイメージなのだと思いますよ。
 ですから 原初の表象から これを思考によって加工してしまったかたち――たとえば 料理したあとの野牛の肉の表象――まで イメージは広がっていると考えます。
 そしておそらく 《さとり= 全体としての世界観= イメージ》というときのおそらく中核となる《イメージ》というのは わたしの言葉で翻訳するなら それは《クレド=非思考=信仰=直観=ヒラメキ》のときの何らかの表象に始まるものだと思います。むろん その――ときには――混沌としてきわめてあいまいなマボロシでしかない表象としてのイメージも やがて堂々とその人の知解(思考)を経て いわゆる哲学としての世界観にまでなって表わされるものと思います。
 絵画や詩は この世界観が凝縮されたかたちになるものと考えます。音楽も――長いものもありますが そして特に言ってみれば別の意味で抽象的ですから―― この世界観ないしそこですでに見たゆえ伝えようとする美は 凝縮して表わされると考えます。 

 そのとき
 ★ イメージは、表現技法により当然制約されます。絵画であれば、画材、絵筆等々によりそのイメージ=認識は違ってきますし、逆にイメージによって表現技法が選択されもするはずです。
 ☆ これは おっしゃるとおりのことでしょう。或る意味で 物理的な――したがって その意味でとうぜんな――制約条件でもあります。

 ★ 私にとって、芸術の何に感動するか=何を美しいと感じるかと言えば、作家の表現技法と認識=イメージが相俟って、私のなかに躍動感を伴って新たなイメージを呼び起こすからです。
 ☆ 同感するところと異感を残すところとがあります。つまりこれだけの説明では わたしにとっては――すでに上に述べて来ました見方からすれば―― 不満が残ります。
 ★ 私のなかに躍動感を伴って新たなイメージを呼び起こす
 ☆ のですが――あるいは《人間にとっての人間性としてのみづみづしいちから》とわたしは言ってきましたが―― この感動は なかんづく 《ヒラメキとしての世界観とその原初に見たマボロシのごとき美しさ》にかかわっているという感覚をおぼえるからだと思うのです。確かにそれはその《マボロシの美》そのものではないでしょう。その意味で原初の表象は 留まりがたく またひとに伝え難い。けれどもその美の感覚に限りなく近いかたちをおぼえさせる。ここに 美の感覚があり 美術のちからがあると見ます。(わたしにとっては 絵では ゴッホですが)。

 ★ ~~~~~~~~~~~
 このような意味では、世界の見方がまるで異なっていれば、ある人間には感動を呼び起こす作品であっても、別の人間には何の感動もよばないものであるのも当然のことです。
 これをもって、美の感覚が劣化したとは言えないのではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから――わたし自身の結論ですが―― ゴッホかカンディンスキーかは人によって異なります。けれども ヒラメキとして表象した原初の美のもとに それをイメージとして表現し人に伝えるというその方程式は 普遍的な事件なのではないでしょうか? 人間の自己表現のいとなみとして 美についても 普遍的なことではないでしょうか?
 そうして これは物議をかもすところですが もしそのように美は――想定として――普遍的なものであるとすれば それが原初の美を映し出しているかと問うことは 現代芸術についても なされてしかるべきかと考えます。いえ すでに成されているけれども その声はかすかなものに留まっているのではないでしょうか? その声の言い分は 現代芸術はその表わそうとする美が縮こまってしまったのではないか? というものです。
 つまり 現実と 非現実ないし超現実 これらをわざわざ別々にして分けて捉えるくせがついてしまっている。具象と抽象とをきびしく分けてしまった。かえってオブスクランティスモのごとくなる。つまり そもそも原初の美を見ていないのではないか。

投稿日時 - 2011-01-02 12:09:34

お礼

 くたかさん 満を持してのご回答をありがとうございます。本格的なやり取りになってきました。
 ひどっちさんのご回答No.12で 質問者としては基本的に問うた主題についての答えとして満足しています。ただそのあと述べましたように 《職業専門家のあいだに美の感覚について劣化ないし変化が起こっているのではないか》と見ることの具体的な例示は必要であるように思われます。そのぶん 本格的な問い求めになって来ました。

 これは 言ってみれば真っ向からの勝負になってしまいました。つまり質問者が 前回において《現代芸術の劣化》を確信したからです。お互い正々堂々とよりよい結論―― 一つかどうかは分かりませんが――を見つけるようにすすめてまいりたいと思います。
 
 宮沢賢治からまいります。
 ★ なんと「海鼠(なまこ)」を誤って「うに」と読んでいます。
 ☆ これにはびっくりしました。論旨はそれとしてたしかなものがあるようですから。
 ★ この詩全体を「幻想」として分析的に解釈していることが、ちょっと私にはわかりません。 / 賢治にとっては、現実の世界に対するイメージがこの詩になっていると私には感じられます。
 ☆ そうですか。ここですでに見方が分かれるようです。
 わたくしは この詩は 段落がはっきり三つに分かれていると――その解説子にしたがって――見ます。中ほどの幻想の世界を 前と後との現実が差し挟むというかたちではないかと。
 そうしてただちにですが わたくしの批判点は ふたつです。このように《現実と幻想》とをはっきりと分野別に・領域別に分けてしまっているというその見方が すでに総合的な観点を劣化させかけているというものです。現実の世界で感じたり考えたりする領域とそして夢を見るがごとく非現実を想い描く領域との区別です。
 しかもさらに問題が大きいことには その中ほどの段落に描かれた《幻想》が――おっしゃるように幻想のかたちを取った現実のイメージと見てもいいのですが―― その内容が はっきり言って しょぼいと思います。古代人のごとく 《現実の生活の中に全体として溶け込んでいる〈超現実〉の世界》から見てです。
 わたしは聖書の《まぼろし》の描述を思っているのですが いかに子供だましのおとぎ話であっても そこには《うつつと一体となったゆめ》があります。たとえばシャガールのような具象を残した画法でなら そのマボロシが 作品によっては いま言うような世界の全体観につながるかも知れません。その絵としてのイメージに 鑑賞者としての心の中の知識と想像力とを必要とすると思いますが。
 いやいや 賢治の詩は それこそそのような全体観を表わすものだと言うとすれば つまり
 ★ 世界は美しいと同時に醜く苦しいが、やはり美しいものであるというイメージ=認識です。この詩がシュールレアリズムと違うのは、自動筆記的な叙述ではなく、明確な世界への認識が表現されているからです。
 ☆ 焦点は 明確なかたちで 《その美しさが 世界の全体あるいはこの経験世界を超えてまで 心に訴えるか》ではないでしょうか? 自動筆記のマボロシは超えていると思います。思いますが 古代人が描いたような世界もしくは心の広さは 見えますか? ――わたくしは 銀河鉄道は 心がかえって縮こまっていると感じます。現実逃避と感じます。あるいは無力感です。わづかにそこの隙間を捉えて 美を描こうとしている。(シャガールは 旧約聖書の物語に助けられて 心が縮こまらずにそういう広大な世界を示し得たかも知れないとおことわりしておきます)。

 ★ ~~~~~~~~~~
 ・・・無明の底から浮き出てくる泡のようなものと、現実とのつながりを把握していないからではないかと思います。その意味で、私の見方はzakky74さんの意見に近いかもしれません。
 bragelonneさんは井筒俊彦先生の何かお読みになっていますでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ 井筒俊彦は イスラームものを二三冊読んだのみです。それとして(イスラームの解説として)すぐれたものだと思いましたが そのイスラームの内容については 総合的に言えば まだなおちんぷんかんぷんです。
 木村の言う《イメージ》は わたしは《直観=ヒラメキ=クレド》と言い直していますから 批判をなさっても そうかも知れないし そうでないかも知れないとしか言えません。わたしの把握する《イメージ》は これまで〔わるく言えば断片的に〕書いたもののみです。それゆえ 《イメージ》論としては まだなお課題としてあります。
 ざっきさんの全体観あるいは《イメージ=さとり》ということについては分かりますが それ以上はまだ何も明らかになっていないとわたくしは認識しています。

投稿日時 - 2011-01-02 11:26:17

ANo.21

zakky74でございます。

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。

> ご回答をありがとうございます。
> どうもNo.10からNo.16に移行するあたりで 話がかみ合わなくなっています。

それは正確ではございません。正確に表現するならば、それ以前も噛みあっておりません。かみ合っている様に見えていただけの事でございます。僕側で、それを視覚化と言いますか、意識化できる様に交流パターンを変えただけの事です。

判断基準の問題性があるから、そもそも噛み合おう筈がございません。
 
> No.10あたりでは わたくしのほうでは それまでの準備作業を経てやっとお答えがいただけると思っていたのですが それはまだわたくしのほうで ひとつ読みとりにおいて勘違いがありました。 《全体》観のことは受け取ったけれども それは《さとり》と一体のことであって しかもこの《さとり=全体観》のもとでこそ またもとでのみ 《イメージ》は分かるし 伝え聞くことができる――こういう新たな事態に出遭ったわけです。

> そうしたところのお応えである回答No.16では したがって今度は 《伝え聞く側において 伝え聞くときの態度をそれとして用意せねばならない》とうけたまわりました。エポケーをしておきなさいと。

僕がお伝えした悟りは全体観の事ではございませんが、その様に仰るのはbragelonneさんの判断基準から出たものでございましょうか?それとエポケーもbragelonneさんの判断基準から出てきたものでございましょうか?


> それに対するわたしからの応えは こうです。つねに相手の文章は 虚心坦懐に読んでいる。ただしその読んだ結果については 自分の判断をほどこす。
> こうしてほかの投稿の方々とやり取りをして来ています。互いに同意し・・・

これはbragelonneさんの判断基準から出ているものでございましょうか?

もったいぶっている様に見えている・・・
カルトの様に見えている・・・

僕は、どの様に観られても、その事そのものは事実ではございませんので如何様に観ていただいても構いません。ですが、辛いのはお伝えしたいイメージが伝わらないのに、一体どうしてお互いの疎通・交流が始まるというのでしょうか?

判断基準の問題性2.のところに、誰もが皆、判断基準は違うから人と人は分かり合えないと書きました。現に、bragelonneさんの判断基準からは、僕はもったいぶっておりますし、カルトっぽいですよね?

僕が話せば話すほど、僕がお伝えするイメージとは全く違う話ばかりがbragelonneさんの判断基準によって展開されている事について、bragelonneさんは疎通・交流が噛み合っていると思われているのでしょうか?

この状態でも、虚心坦懐で臨まれているのでしょうか?

僕がご提案したいのは、イメージの疎通・交流の循環率を上げませんか?という事です。その為に、一旦はbragelonneさんの判断基準は横においておいて頂きたいのです。何故ならば、bragelonneさんの判断基準の外、bragelonneさんの判断基準では判断されない事をお話するからです。

それは、僕が特別の様に聞こえるかもしれませんが、そういう事ではなくて、本来は誰とお話していてもそうでございましょう?人間は、誰もが皆、判断基準を持っているのですから。

故に、何度かお願いしているのですが、判断基準の問題性を抱えているままでは、bragelonneさんが言われる共に創り上げていく事は無理ですので、bragelonneさんが話を受け取る時にはご自身の判断基準を一旦は横に置いておいてもらいたいのです。

如何でございましょうか?

投稿日時 - 2011-01-01 03:53:03

お礼

 あたらしい年を迎えました。あらためて出発したいと思います。
 ご回答をありがとうございます。

 次のご文章を引っ張って来ました。
 ★★(【Q:天国と地獄】回答No.11)~~~~~~
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6411017.html

 僕は、全てはHITOTSUから出来ている事を明確にイメージ出来ますし確信しております。

 神も天国も地獄もございません。HITOTSUから出来ていて、神にもなったり天国にもなったり地獄にもなったりする神秘な動きだけがあると思っております。

 全てはHITOTSU。
 HITOSTUは全て。

 ★★ (同上 回答No.14) ~~~~~

 有限も無限もHITOTSUから出来ていると解釈下さいませ。

 そして、人間も神もHITOTSUから出来ています。

 もう一度、お伝え致しますと、全てはHITOTSUから出来ている事を明確にイメージ出来ているという事でございます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ このご思想の表明は 残念ながらまだ いまここで問い求めている《イメージ》そのもののことではないですね? そのイメージを得ている・またイメージ出来ているという表明ですね? わづかにほかにそのものが《 HITOTSU 》と名づけられているという明示はありますが。

 この説明を聞いて――虚心坦懐に受け取った上で――どういう応えを持つか? 
 まだ何も分かりませんね。つまり かみ合うかどうかも まだ分かりません。たとえばこの《 HITOTSU 》を 《最高位の神》と呼んだ場合にも同じような思想として受け取りはしますが まだそれだけのことにとどまります。
 この HITOTSU についてのイメージ あるいはそもそも《イメージ》とは何かについての説明としては 不十分だと思うという答えを返すはずです。たいていの人は。重ねて言えば まだかみ合うかどうかの以前の段階にあるという意味です。

 こういうお応えになると思いますよ。

投稿日時 - 2011-01-01 18:20:15

ANo.20

年が変わってしまいましたが。

具象から抽象への移行については、今、東京駅前の三菱一号館美術館で開催されている「カンディンスキーと青騎士展」をご覧になって頂ければと思います。
ちょうどムルナウから青騎士の時代で、具象から抽象への移行期の作品が並んでいます。
これだけだと、具象から抽象へと移行したカンディンスキーの喜びというものが伝わりませんが。

具象から抽象への移行で、ビックリするのはタッチの変化です。具象の時は、一つずつ確かめるように置かれていた筆が、抽象になると実に軽くなっているように、私には見えます。カンディンスキーの抽象画は絵の具があっさりと塗られています。

別方面からいうと、私にはカンディンスキーの抽象画と宮沢賢治の詩「真空溶媒」が一つのものに感じられます。

投稿日時 - 2011-01-01 00:49:24

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。賢治の詩を読んで思ったことなんですが どうも今回は この抽象画という画風にしても現代美術は わたしの感じでは正直な話 《美の感覚が劣化している》と思いましたね。

 ▲ 真空溶媒 (Eine Phantasie im Morgen) 春と修羅(宮沢賢治の幻想)
 http://blog.hix05.com/blog/2010/02/-eine-phantasie-im-morgen.html

 ☆ この解説つきの詩を読んだのですが 要するに一般的な言い方をすれば 《現実逃避》の芸術なのではないか? これです。

 そもそも古代の人間たちは 神話を持ちその中身がどうであれ超自然的な存在ないし力を《かみ》と呼んで ふつうにその言葉を日常生活にも使っていた。カミは 言語慣習の中に溶け込んでいた。
 言いかえると カミは いかに非経験で非思考であってもカミという言葉で表わしながら 人びとの現実の一部であった。
 自然と超自然 現実と非現実 思考と非思考 うつつとゆめ についてこれらの言葉では区別しつつ しかも世界全体としてはこれらのまとまりが大きな現実であった。

 ということは その後西欧では 近代という時代が来るのでしょうが そこで 身体と精神 感性と理性 非合理と合理 についての区別が明確に意識されるようになり 果てはそれぞれの後者が勝った。その傾向が有力になるにつれ 超自然や非現実や非思考やゆめが 落としめられたし 貶められた。
 したがって 《ゆめ と うつつ》とははっきり別のものとなった。それらのまとまりとして 世界が成り立っていたというその作りと見方が変わってしまった。
 それなら 芸術も美術もそれなりに変わるであろうし 変わって来たと思われるのです。

 世界の全体としての《具象》が 狭義の具象とそして抽象とに分かれてしまった。抽象は 抽象として単独分立してしまった。《超現実(シュールレアリスム)》が 単独分立した。強いて言えば 《合理思考ないし現実》の部分は わづかにその題目に表わされるのみとなった。

 宮沢賢治のこの《真空溶媒》の詩にしても 中ほどの部分ではっきりと《超現実 ないし ゆめ》の世界がそれとして独立したかのようなかたちで うたわれています。初めと締めくくりにおいて 現実が・現実も描かれていますが。

 これは ざっきさんが言っていることですが 《全体》観あるいは 世界におけるものごとについての総合的な見方 これがよわくなって来ている。こう推し測ります。その限りで 美の感覚も劣化して来ている。こんなヒラメキを じつは 持ちました。当否は さらに探って行きますが みなさんにもお披露目したいとも思いました。

 これは勝手な言い草ですが どうもいまこれからは美術や芸術にかんして カンディンスキーの通った道筋を逆からふたたびたどり直すことが 要請されているのではないでしょうか?
 ctaka88 さんには 何とも面白くもない話になりましたが このように考えてみました。どうでしょう。

投稿日時 - 2011-01-01 18:01:54

ANo.19

 こんにちは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。


> ☆ こういった事情にはうといです。NHKBSのクラシック倶楽部で毎日 演奏を聞く程度です。(最近オーケストラの演奏があまり興味を引かなくなって どうしたものかと思案しています)。


 愚生も最近は、小編成の楽曲しか聴かなくなってきました。理由はわからないのですが、以前聴かなかったもの(食わず嫌いしていたもの)に改めて興味が湧いてきたものと思っております。


> ★ なお、日本の音楽評論家に限って申しますと、意外と楽器を弾けない人が多いことが挙げられます(東大の文学部卒の人が多いです)。
 ☆ へえー そうですかと

 以下にソースを挙げさせてもらっております。その他に、仏文学科出身ではございますが、吉田秀和氏もそうだっかと記憶しております。
「1949年東京芸術大学音楽学部楽理科の設立(出身者角倉一朗、東川清一、船山隆)までは、普通大学の美学科が本格的な音楽学者を輩出するのが一般的であった(出身者野村良雄、海老沢敏、小泉文夫、服部幸三、皆川達夫、はいずれも東大美学美術史・美学藝術学の出身、礒山雅、長木誠司、渡辺裕らも学部は東大)。」
(Wikipedia 音楽学者 からでございます)



> ★ 美人平均説というのがあるようです。つまり、複数人の写真を複合しますと、それが美しい人物像になる というものでございます。
 
 ☆ これも そうなんですね。だとすれば 一般人の素朴な感性を或る程度は信じてもよいように受け取りますが いいんでしょうね。


 詳しくは分かりませんが、アプリオリな美的感受性のようなものが備わっているものかと思っております。

> あとは ざっきさんの提起され《さとりとイメージ》の主題がのこるようです。
 あるいは 現代美術ないし芸術において むしろ専門職業人たちのあいだに審美眼の劣化ないし変化があるのではないかという主題にかんして 具体的な例示や議論をしておくといいかとは思いました。
 

 ざっき様の”さとり”につきましては、愚生のオツムには理解できずにおります。客観的認識なるものは元来存在しなく、間主観性のよってのみ担保されていると考えておりますものでして.......

 以下に、ジョン・ケージの例を取り上げさせていただきます。氏の作品には、「4分33秒」というものがございます。これは、その間は何も演奏はしない というものでございます。つまり、その時折の不確定な会場のざわめき・雑音を聴くものと解釈されております。ですが、”音楽の定義”となる”リズム・メロディー・ハーモニー”を全く欠いたものでもございます。このことからも、”音楽”というよりも、実験”音学”といった方がふさわしいように考えております。そこに”美しさ”を求めろと言われましても.....

 駄文、お読みいだだきまして、どうもありがとうございました。
 また、本年も”荒らし”等様々なことがございましたが、一方ならぬお世話になりまして、厚くお礼申し上げます。
 それでは、良いお年をお迎えくださいませ。

投稿日時 - 2010-12-31 11:43:41

お礼

 ひどっちさん いつもいつも変わらぬおだやかでていねいな物腰にて わたくし自身はその金平糖のような物腰をちょっとやそっとでは変えられぬし むしろまだなお変えないと思っているところがありまして 恐縮はするのですが それ以上に隔たりがあると感じるものですから もはや恐縮をも通り超えていますので お胸を借りると言いますか 要するに全面的に甘えておりますが ご回答とごあいさつをありがとうございます。
 さらにあたらしいあゆみを ともに すすめてまいりたいと存じます。よろしくどうぞ。(荒らしが そう言えば 吹かなくなってきましたでしょうか)。

 ★ ジョン・ケージ・・・の作品には、「4分33秒」というものがございます。
 ☆ じつは これは タモリ倶楽部で聞きました。ほかにもいろんな作品がありました。ピアノを叩いたりです。そのとき思ったのは ここまでくればむしろあっぱれなのかも知れないと。言いかえると お笑いが入っていると言うべきですよね。
 また そのときには――おもしろかったものですから 贔屓目になるようですが―― このJ.ケ―ジは それこそいろん実験をおこなっているのであって 決して固定したものとして作品を出してはいないし そもそも美を決めつけてはいないようだというあと味が残っています。
 おそらく 変化ないし劣化が起こっていても この《動態》――つまり飽くなき尽きざる探究――が大事であるというように考えます。
 〔ということは 現代芸術の主流がその昔とは変化した状態にあって いま存続しているのは おもには資本主義社会にそれとして合っているからであろうと思われます。イデオロギを問題にするのではなく 要するに高く売れるからでしょうし そうでないと売れないからなのでしょう。そして一般人の審美眼は その声がかぼそい。そのことに甘んじなくてはならない状態にある。・・・〕


 ★ ざっき様の”さとり”につきましては、愚生のオツムには理解できずにおります。客観的認識なるものは元来存在しなく、間主観性によってのみ担保されていると考えておりますものでして.......
 ☆ 投稿の順序が先であれば ざっきさんも読んでくだすっていたであろうのに あぁ。でも読んでくださるでしょう。

 ★ 海老沢敏 礒山雅(NHK・ETVで市民大学のような講座を開いていました) 皆川達夫
 ☆ の名を知っています。

 ★ 詳しくは分かりませんが、アプリオリな美的感受性のようなものが備わっているものかと思っております。
 ☆ そう言えば《美学》というきちんとしたジャンルがあるわけですよね。そういえば読んだこともあったかも知れません。新書版程度のものでしたか。倫理学や哲学にけっきょく近いのでしょうし 究極の美論はむつかしいのでしょうか?

 ★ 愚生も最近は、小編成の楽曲しか聴かなくなってきました。理由はわからないのですが、以前聴かなかったもの(食わず嫌いしていたもの)に改めて興味が湧いてきたものと思っております。
 ☆ そういう要素もありですか。以前にはNHK FMでのクラシックをよく聞いていたところ そこでは交響曲が多かったように思います。小林愛美というピアニストが 天才だと言われていますが どうですか? よいと思って聞いております。最後の決定打として何かまだ分からない感じです。


 五年十年後くらいを目指しまして。

投稿日時 - 2010-12-31 13:38:56

ANo.18

zakky74でございます。

>> bragelonneさん側ではゼロ化の作業が必要となってきます。まずは、bragelonneさんの判断基準のゼロ化を意識されてみては如何でしょうか?

bragelonneさんは、イメージの位置づけについて僕から受け取る立場でございますよね?まずそこをハッキリさせておきたいのですが。僕は、bragelonneさんがイメージの位置づけをご自身で追及されるならばそれでもよいと思っています。

僕から聞かなくても構わない訳ですね。

今まで僕は、bragelonneさんはご自身がイメージについて分からないというので、明確に答を持っている僕はbragelonneさんがお聞きしたいと仰ったので伝えようかと思うに至りました。

ですが、曲がって伝わります。

この理由について、bragelonneさんは仕組みとしても分からないし、ご自身ではお手上げ・・・と仰いましたので、僕はそこに対してまず曲がって伝わる仕組みを共有致しました。

それが判断基準の問題性でございます。再度、書き記した上で補足致しますね。

1.人間は誰もが皆、判断基準を持っている(だからエゴの執着を超えれない)

bragelonneさんは、判断基準を持っていらっしゃいますよね?僕の話を聞いている時にも、理解する時にも、bragelonneさんの判断基準が働いています。

2.一人ひとりの判断基準は全部違う(だから人と人は分かり合えない)

bragelonneさんの判断基準は、bragelonneさん以外の人の判断基準と少しもかみ合う事がございません。全く異質なのでございまして、1mmも1秒も重なった試しが無いほどに違うものですから、自分以外の判断基準と分かり合う事はありません。

3.だからと言って一つにさせたらもっと問題(機械的・ロボット的・ファシズム)

一つの判断基準にさせたら人と人が分かり合えるかも?といって、一つにさせたら機械やロボットの様な生き方になってしまい人間として生まれてきた意味を喪失するからもっと問題。

4.人間の判断基準は不完全(だから、アイディア・やる気・イメージに限界がある)

bragelonneさんも、世界中の人間、そして歴史上のどんな人物も、完全な判断基準を持っている人は一人もいません。bragelonneさんも不完全な判断基準だから僕との疎通・交流でも丸ごとを受け取れません。

5.不完全なのに完全だと思っている(だからより一層我が強くなるし負ける事が出来ない)

bragelonneさんの判断される以外の判断は、山ほど、星の数ほどあります。

そして、そんな自分の判断基準に観点が固定されています。今挙げました1~5の判断基準の問題性をbragelonneさんが解消していない事。その為に、僕だけではなく、実は誰との疎通・交流も曲がってイメージが伝達されてしまうという事でございます。

bragelonneさんが分からなかった疎通・交流が曲がって伝わる事の理由について、今ここに申し上げました。この事はお認め頂けますでしょうか?

> でもわたくしも こう言っています。

でも・・・が来るんですね。
  
> 大きな最後の判断に関する・・・《まづは ただしいと思う》を《ゼロ化》せよということでしょうか? 意識的にゼロとせよという意味でしょうか?そこまで行くなら カルト宗教になっちゃいませんか?

このコメントが出ている事自体がかなりbragelonneさんの自己流理解でございますね。ゼロ化のイメージが違いますし、恐らくですがまた脚色されています。

> ところで あなたからのイメージは もう実質的にはつたえられているのでしょうか?

すみません、これはどういう意味でしたか?伝える作業をやっているのでしょうか、という意味ですか?それともbragelonneさんに伝達が完了しているのでしょうか、という意味ですか?それとも別の、でございましょうか?

>>(回答No.10) 悟りは悟りでございます。
> そのこととその悟りの中身をほかの人に伝えることとは 微妙に別だとお考えになりませんか?

僕が何故、この表現をしたのかという意図が曲がって伝わっています。

>別だということを・・・

今、重要な事はbragelonneさんは判断基準の問題性の事が全く自覚がございません為に、bragelonneさんから出てくる情報は実は全部かみ合いません。僕側から観れば必要性が無いのに、bragelonneさんが出している様なものです(bragelonneさんは必要だと思っています)。

今、勝負すべき事はbragelonneさんご自身の判断基準についてです。

この問題性を抱えている事についてどう思われているのですか?

投稿日時 - 2010-12-31 09:16:33

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 どうもNo.10からNo.16に移行するあたりで 話がかみ合わなくなっています。
 
 No.10あたりでは わたくしのほうでは それまでの準備作業を経てやっとお答えがいただけると思っていたのですが それはまだわたくしのほうで ひとつ読みとりにおいて勘違いがありました。
 《全体》観のことは受け取ったけれども それは《さとり》と一体のことであって しかもこの《さとり=全体観》のもとでこそ またもとでのみ 《イメージ》は分かるし 伝え聞くことができる――こういう新たな事態に出遭ったわけです。

 そうしたところのお応えである回答No.16では したがって今度は 《伝え聞く側において 伝え聞くときの態度をそれとして用意せねばならない》とうけたまわりました。
 エポケーをしておきなさいと。

 それに対するわたしからの応えは こうです。
 つねに相手の文章は 虚心坦懐に読んでいる。ただしその読んだ結果については 自分の判断をほどこす。

 こうしてほかの投稿の方々とやり取りをして来ています。互いに同意し合うところとそして見解の相違するところとを仕分け さらに対話をつづけていくという尽きざる探究の合意とともに その時点での互いの異同についてもきちんと認め合う。
 もし《さとり=イメージ》について聞くには このような対話についてのふつうの態度とは別の準備をこころのあり方として仕上げなければならないとおっしゃるのでしたら それは この時点ではもはや もったいぶっているとしかわたくしには思えません。
 というのが 今回へのお応えになります。

 たぶん一つの例をあげれば 次の点での認識がちがっているのでしょう。
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 2.一人ひとりの判断基準は全部違う(だから人と人は分かり合えない)

 bragelonneさんの判断基準は、bragelonneさん以外の人の判断基準と少しもかみ合う事がございません。
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 ☆ 部分的な理解による互いの同意あるいは対立 これを〔弁証法過程をつうじてと言っても言わずとも〕 互いに練り上げていけばいいのです。人間に出来るのは そのくらいのところであって しかも――じつは じつに クレド=ヒラメキ=直観におけるそれこそ全体観をつうじて それが見えない土台としてあるので―― 人は互いに あぁあいつも同じ人間ぢゃわいと分かり合える部分があるのです。
 この世界観での認識がちがっているのでしょう。

 ★ 僕から聞かなくても構わない訳ですね。
 ☆ ここにカルト宗教のきざしを見ます。この場合には確かに 全か無かで相手の反応および受け取りを前もって作り上げて行こうとする仕組みのことです。
 ほかのみなさんとのやり取りをどうかじっくりとご覧になって そのふつうの感覚を感じ取って行かれるよう のぞみます。

投稿日時 - 2010-12-31 13:05:20