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締切り済みの質問

ミトコンドリア イヴ

●およそ25万年前 人類共通の祖先 ミトコンドリアイヴは
 アフリカに誕生した・・・。

 人類を他の類人猿と 分けた「もの」とは何でしょうか?
 みなさんのお考えをお聞かせください。

 ◇わたしの考え。
 人類を人類たらしめている「もの」は
 最近つくづく感じているのですけれども
 「やさしさ」なのではなかろうか?・・・と。

投稿日時 - 2003-04-15 02:07:21

QNo.523139

暇なときに回答ください

このQ&Aは役に立ちましたか?

9人が「このQ&Aが役に立った」と投票しています

回答(28)

ANo.28

自分の体を発見したことではないかと思います。同時に自分が体の中に閉じ込められている存在ということも分かり、この孤独性を解消するという強い欲求が生じ仲間を大切にするようになったというようなことはなかったかなと思います。

投稿日時 - 2011-01-24 15:32:03

ANo.27

その優しさの根源は何だと思いますか?
その優しさは元々在ったと思われますか?

人類を人類たらしめているのは
思いやりなのではなかろうか?...と...

投稿日時 - 2007-04-09 10:39:55

ANo.26

ちょっと休憩が長いが。
どうも、確度のあるものをはじき出すのに時間がかかる。
それが優しさと言うのはようやった、俺には思いつかない、びっくり+なっとく回答だと思っているのですが、。
狼が人間の子供を育てたり、水で暮らしていたトンボの幼生が、陸に上がって成虫になること(生息環境が激変している。環境の多様性、を上手く利用して生きているとも見れる。パーソナリティを、ライフステージによって使い分けている。いくつかのパーソナリティでもって、ライフステージを実現している。と。)とか、オランウータンとか、燕もそうだけど、人間に、彼らの持つ能力?が、どれもあるような気がする。
人間は飛べません。飛べないんだけれど、ツバメとの共通点があるのではないのか?渡りなどは周遊性であり、いろんな生き物がそういう方法を取っている。ツバメや人間だけじゃない。
ツバメの個性は侵害できないが、人間に見るツバメっぽさが、ありえる。
それは、ツバメとこうもりの間には無いものかもしれない。植物もおなじ。
人間と共生できない生物はいないのではないか?という話の延長になるかもしれないが、人間という生命システムが、他の、「かなり多く」の生命システムを継承しているのではないのか?ということです。
現世代に生きる生物は、どれも進化の最先端であり、どの生物も、過去の様々な生命システムを継承しているのだと言えばそうなのだし、人間に限ったことではないのだが、。
人間は、あらゆる地球生物の、生命に関われる可能性を秘めて生まれてきているのではないのか?と言うことを考えます。
猿と人間を分けたものというのは、その可能性ではないのか?
自然界と言うのは、年を経るにしたがって、進化の余地と言うものを減らしながら、分化して行き、形をつくってきているように見える。
可能性(余地)が、減っていっているように見える。
しかし、実には、生の可能性というものは、自然が年を経るにしたがって、増しているように感じる。
つまり、自然は、年をとるほど、その将来の可能性、生命の可能性を、確かに増やしていっている。
人間は、その顕著な現れであるかもしれないのです。
それが、以前から言っていた、ある種の宇宙性ではないのか?
その片鱗を、すでに人類は持っている。
歪になるが出してしまおう。 
宇宙性と、人間の地球生命システムさとがどう繋がるのか?
 
結論:宇宙に発つなら、サルより人である。
   なぜなら、人には、地球の生命システムが、
   ふんだんにつぎ込まれていると思うからです。
   人のほうが、猿よりも大事だと言っているのではなく、
   端的に、結果として、宇宙に立つのは人ではないだろうか?
   という結論です。
   
★人と猿をわけたもの。
それは、宇宙に生きる可能性です。
 
地球は、もとより宇宙を見ていて?宇宙世界にある天体です。人間を通して、地球が宇宙を見れるという考えもあるだろうが。
 
人間は非常に地球的な生命でもあるが、同時に、宇宙の片鱗が見える。というよりも、そう思いたいと言うきもちがあるのか。
猫やツバメにも宇宙性が見れるといえば見れるんだが、それに比べれば人間の方が、遥かに宇宙生物っぽさを感じれる。同種だからか?それとも、俺が人間だからか?
毛が薄いからかも。
 
優しさが、宇宙に生きる可能性、宇宙を見ることを生んだのか、宇宙に生きる可能性が、優しさという風に現れたのか。
進化目的と進化の可能性、獲得能力、または環境変化など、どれが進化に先立つかというよりも、やはり、シーンは同時に多数起こっているのでもあり、
イヴに何かの思いが生まれた故に、イヴはイヴになったと見れば、その思いの発端は宇宙にあるのか、地球にあるのか、どこにあるのか、色々検討できそうでわからんが、生命の本質を、そういう思いの発端に垣間見ることができるかもしれん。
 
イヴがイヴに生まれた思いゆえにイヴになったのであれば、原人間には、人間特有の思いが生まれる可能性があって、それは、今の俺らにもあることになる。
人間さは、察しのとおり、優しさだけではないだろう。
他の原人には、別の人間能力があったのだが、結果優しさが残ったのかもしれない。優しさは社会進化を促すし、個人世界も掘り下げ、広げれるからな。
その他原人たちの能力が何であったか知らんが(同じ優しさであった可能性もある)、その淘汰、混血の中で、今ある優しさが生まれてきたのかもしれない。 

結局、優しさや、以前にゆった宇宙性からはあまりはなれることが無かった考察になって、残念でもあるが、まぁ、少しなりのなんかにでもなるかもしれん。
回答者のほうばかりが得ている気もするが。
そうだとしたら、それは愛嬌ゆうことに。

投稿日時 - 2003-05-29 18:20:30

ANo.25

ツバメを見てて思ったけど、こうもりと似てる。
食べ物が同じせいか?こうもりは音、ツバメは光で獲物(ニーズの対象)を認識、感知してるんだけど、飛び方が似ている気がする。
人間が感知するもの(ニーズの対象、またはそれ以外)を、同じに感知している生物がいるなら、それは、人間と似ている面があるのではないか?
また、人間が、何にも似ていない面があるならそれは何か?というアプローチで。優しさとは別の回答がでるかも。

 
まず、人間の感知するものから。
A・自分存在のある面(事物)〔ニーズ化可〕
B・自分に対する他存在のある面(自分ではない)〔ニーズ化可〕(事物)
C・自分もふくむ存在のある面。(世界関係)〔ニーズ化不可、面化不可〕(事物背景)
D・見えている存在のある面以外の存在〔知らないというニーズ化が可〕(知らない事物)
 
D.知らない事物を感知すると言うのはおかしいが、知らないことがあるということは、イヴには分かったか?これはどうだろう。イヴに、探究心があるかどうか。
たぶん好奇心のヴァージョンアップ、分化であろう探究心は、イヴにはありえたと見る。言語が未発達でも、探究心は個人的だから。探すは他生物にもあるが、探究心は、熊が鼻を鳴らして周りを知ろうとすることや、未確認物を噛んだりしてみることじゃない。既知の事物を、さらに知ろうと、見ようとすることだ。食いもしないバッタをバラバラにしたり、物をぶつけたり、水遊びしたりすることが、そういうものの一端だろう。遊びの破片としてありえる探究心だ。子供はイヴに遠くないと思う。砂浜の、砂と水を一緒に混ぜて投げると、砂の水玉ができる。色々して見る。
 
C.事物背景。これはどうか?イヴに分かったか?D.の延長で、分かったのかもしれない。寝に入る前の状況で、感知してたかもしれない。悠久にあると言ったようなものを感じたか?優しさがあったとするなら感じれるが、これは置いとこう。
 
B.自分に対する他存在のある面。むずいな。あるものを、いろんな角度で見れていたか?D.とはまた違うのかもしれない。オランウータンが、バナナ?の葉で雨宿りしてたから、遊びの一端ではある。オランウータンはほとんどずぶ濡れてたんだよ。明らかに。だから、あれは、雨をよける傘ではなく、雨を他の角度で感じるための葉っぱなのではないかと考えれる。傘ではない。
遊びの中で、様々な角度で物に触れえたのは事実であり、探究心が芽生えるのも想像しえる範囲だと思う。物の変化を見て、それに他の影響を明らかに見れる。イヴなら。これが進めば、茎が折れれば草が枯れることも分かる。これらの発見と、自分にある他のニーズとを結び付けれたかどうかは、わからん。(草を枯らして、暖かい寝床をつくるなど。)ありえるが。
 
A.自分存在のある面。怪我を見れる。それは犬にでもある。ここで言うのは、少しなりとも、自分のパーソナリティを認識できたか?ということだ。イヴが。
砂漠にいながら、森にいた時の状況を思い出すことができたか?熊や犬、蜂の帰巣本能的能力が、言葉少ないイヴの顕在意識に現れたか?
砂漠にいた自分を、森にいる自分に見れるか?
これができれば、砂漠での経験も、森で活かせる。
生息可能範囲がかなり広くなる。水を運んだりできるようになるかもしれない。道筋が非常に多くなる。
固形物は猿でも犬でも運べる。水はどうか?水のみ場で水はのめるが、巣に持って帰って子供に与えれるか?
 
遊びの力というのは、非常にイヴに影響を与えているだろう。また、イブが、分泌物や便によるマーキングなどをしていた可能性は少なくないと思う。
鳥山を見て、果物のありかを悟ったかもしれない。そういう追跡能力を持ちえただろう。
アナグマに蜂の巣のありかを知らせる鳥もいるくらいだからな。 
 
・A~Dふまえつつも自由に。イヴに似ている生物について。
休憩。
イヴは、快感をえれるキャパが、他の類人猿よりも多かったのかもしれない。生きる世界がでかい、生き方が多様でありえてたってことだ。
 

投稿日時 - 2003-05-14 00:59:46

ANo.24

言葉で観えるのは、他人の思い出だと思う。
言葉をほとんど持たない時代に生きたイヴの意味は、思い出を大切にできた、思い出の世界をまとうことのできた、心のあり方にあるのか?
優しさというのは、モノというよりも、あり方なんじゃないのか?
無数のものに、近くのものに、遠くのものに、共鳴できる、いろんなところにあれる、心のあり方。
 
言葉は、後世に、あの人に、伝えたい。
そういう思いによって繋がれた、優しいものだったはずだ。
つまり、オリジナルの思い出から、次の人へ手渡し。
しかし、リアルタイムではない思い出が蓄積されていくと、良し悪しは別に、こうであればいい、こうして欲しい、人にたずねたり、そういうような思いを構築できるようになる。蓄積された思い出の世界によって、シュミレートできるからだ。
進化した学習だろうか。
 
自分の思い出、他人の思い出を問わず、思い出とともに生きれるのは、すばらしいことだ。
それがまったくなければ、生きるのは簡単ではない。
しかし、思い出のままに、思いのままに生きようとするのは、いただけない。
それは、今を生きてない。
まして、他人の思いのままに生きるなど、もってのほかだ。
ミームで暮らすということは、他人の思いのままに生きることになる(いいように利用される)かもしれないという、少なからずの危険がある。まして、現代経済社会のような、ミームの中で暮らすようになっては、既にそうなっている可能性が高い。
 
一見、自分の道が、自分の思いが、自分に厳しいように感じても、逃げない。
それができるなら、安易なミーム(古今問わず、他人の利己的な思い)の誘いにも乗らなくてすむんじゃないかな。
今まで見てきたミームの多くは、今思えば誘惑であり、優しくは無かった、。
残念だが。

将来。 
きらきらミームも、利己的ミームも、ともに目立たなくなると俺は思う。
なぜなら、皆、自分の思い出を大切にするようになるから。自分の言葉を、大切に思えるようになる。
ミームは、特に人語は、変わるんじゃないかと思ってる。進化する。
今なら、幸福とは何かを論じたら、本の一、二冊はすぐだ。
でも、そういうことが無くなる、とか。それぞれの私的言語が、統一の言語ゲーム上できちんと機能する。君の言う「サル」と、俺の言う「サル」が、今では、違う。未来には、全く違っても、意思が通じる。名詞が無い。名辞が無い。全く同じもの的言語を、それぞれの感じ方で感じれるようになる。圧倒的な多様性と、その正確さを、言語が得るわけだ。
嘘をつけば、嘘であることももちろん伝わる。正確だから。隠し事も、隠しているということが伝わる。内容は、もちろん隠れている。
「嘘ついてるんだけど、ほんとのことは言わない」
「隠してるんだけど、ばらさない」
こんな内容の会話が、論理が壊れること無くなりたつのでは?もちろん名辞が無いから、あやふやというのが無い。その状態が、はっきり伝わる。あやふやだったら、言語の波形もあやふやになる。よろめいたりするんじゃないか?(笑。
意味の明確でない共同幻想型の使用の概念というよりも、波動的な、言語体系。もの的言語。本音の形。(自然数とはいうが、別に自然界に数があるわけではない。数える者がいて初めて、数があるからな。自然界には、流れはあっても、同じものは二つとないから。)

本も、波で読む。字とか、そういうのじゃない。
もっと、大容量の言語。
自然体に近い言語だ。
歌もそこから来てる。音、波だから。
ちょっとSF系の思想になったが、。
モノ、感情、諸々を波形で読み取り、その波形をそのまま伝達に転用する。

無造作に散らばった、本音に疎いミームは、一般的に、人間に見放される。
もちろん、そのミームを使ってきた落とし前というか、後始末というか、供養?というか、そういう行為も、一部の人間と、自然がするだろう。
汚染された自然を元に浄化するのは、一部の、そういう思いを強く持った人間と、自然だと思う。
別に、それがえらいわけじゃないが、。
きっと、人の、この星の未来はすばらしい。
 
みんなが、自分自身の本当の思い出を生んでゆき、そして、他人の優しい思いを大切にできるようになれば。
>カワセミです。
いいところに住んでるな。
俺んちは、場末の都市だ(笑。
海を渡って来るツバメとか、回遊魚にも申し訳ない。
 
もう夏やのに、多くの人は死んだように寝てて、俺はつまらん。蛇はちゃんと起きてるけど。期待するのはもうやめだ。
生活なんて、生きる気になればどうにでもなるんよ。
生きることに馴れ馴れしいのは、最高にうっとい。
>森羅万象をリアルタイムで把握するために
 顕在意識に多くのキャパシティが必要なわけです。
 それは 現実がよりはっきり観えることを ・・

人類は、ちゃんと自分の能力を使えているのか?
顕在意識をよく使うと、そこの領域が広くなるとか。脳も筋肉みたいな感じで。
神経だし。頻繁に使えばより敏感に。
 
おれは、キャパシティの増大よりも、見方の違いやと思う。
どうやって今ある顕在意識の「機能」を、発揮状態にするか?
潜在意識や、森羅万象との連携というか、それらが
はっきり観えることを可能にするんじゃないかと。
関係性、因果関係をモノ的に見る見方の獲得。
そして、リアルタイムで動いている関係性を、観る。
両方を兼ねて、より綿密に、かつ全体が見える。
 
思い出によって、つまり、かつて見たことを思い出すだけではリアルタイムには見れない。
だけれども、明確に見るには、思い出も必要。
なぜなら、思い出(言葉ではなく)は時間を見れるからだ。ただし、思い出で観れるのは架空の時間だが。
 
たくさんの思い出。それとともに、
静かなる内部(因果関係などの関係性)を、動なるモノ的(観測者も投じた総体として、石ころの内部に観測者を見るように)に、また、静かなる外部(遠方の風景など)を、動なる関係性(自らに感じるヴァイオリズム、季節)に投射できるような見方があれば、森羅万象を、リアルタイムで的確に観ることに、近づける。
と、思う。
ここでいう森羅万象を見るとは、森羅万象を知っていることに他ならない。それは、未来を予測したり、過ちを正したりとか、そういうことではなく、まさに、「みえている」、「わかっている」ということだ。
遺伝子を見つけることと、森羅万象が見えることとは、ちがう。見つけるとは発見であり、「見えている」ということではない。
見えているとは、その見えている現実に、理由を兼ね備えているということだと思う。
進化した発見かな?
  
凄みは勇気を凌ぐ。
 
日本のつばめには夏風を感じるな。流線型。
それに、ツバメは稲妻的に速い。疾風。
地上最速、隼よりはやい。
最高時速340kmだす種もある、らしい。ほんまかいな。
しかし、100kmで直角には曲がれない。
きららっ!って感じで目につくわけではない。
せせらぎにはねる日差しを、そのまままとっているような、玉虫色の輝きか。
ツバメは、空中静止できない。でも、海を渡れる。いろんないき方があるな。
生き方が違えば、姿も変わる。
尊敬できる、共に生きれる友だちだ。
人間が共生できない他生物はいるだろうか?
たぶんいない。微妙なところがウイルスだ。
>・・・行動の差が
 運動能力を分けたと考えられます。
 
いろいろ考えれそうだな。先に、今まで無かったある能力の片鱗かなにかを、獲得する場合もありえるからな。
 
翼が先か、飛ぶことが先か。
必要が先か、あり方が先か。
↑こういう考え方はむしろ進化を語る上では末端ではないか?
その根幹に、同時という要素は、必ずあるだろうな。
リアルタイムだ。優しさもそうだと思う。
今の望みが、あり方であり、それを実現する行為、生き様か。
他人の思い出に振り回されると、今の自分が本当に何を望んでいるのかが分からなくなる。
進化もない。他人の思い出に合うように、歪に変形するのかもしれない。
つまり、生きれない。
少なからず現代人は、半死に状態のことも少なくない、といえるだろう。
 
>ほっぺは赤いんです。
あの赤はそれの変化か。
 
なんか、自分の言語が喋ってる間から廃れていくんだけど、それが、今はいいことのように思える。なんか、おれの言語が味気ない。
そのうち、意味のあることがいえるようになるような気がする。

投稿日時 - 2003-05-08 19:30:34

ANo.23

静なるものとは、止まっているわけではない。
厳密には、静かに動いているわけだ。 
遠い時間を生きているとも言うべき、祭りの真っ只中の、静かな叙情を感じる瞬間。
 
遠い時間を「も」行くもの(季節や、天体の運行(外的宇宙)をふくんだ空など)とは、明らかに情報量が巨大で、そのために、遠くなる。それを捉えるのに時間がかかる。
それを、そのままに時間かけてたら一生が終わってまうから、そうならなくても意味を発揮するように、遠くの距離として把握するわけだ。
認識のテクニックというか、そういう手段で把握できると思う。
 
つまるところ、進化した人間性を語る視点というのは、今の人間をまじに猿人と見るようなもので、非常にやりにくい(笑。
まぁ曲りまくってまかり通る、に、やっちゃうんだけど、。
 
見かけ上の優しさではない。
それはそうだ。
激しさが、優しさの反対とはあまり思わない。
激しさとは、短い時間、距離的に近いものであり、動きが激しい。
太陽だって、地上から見ればさんさんと、普遍的に輝くが、棍棒を使うような距離の、近くへ行けば、それはもはやかつての太陽では無く、そこは太陽の世界であり、人などお呼びのところじゃない。
激しいとかそういう次元じゃない(笑。
遠い時間を行くものを近くに、体感的に捉えると、そうなる。
 
だから、遠い時間を行くものを捉えれる優しさは、激しさの進化形だと思うわけだ。
だから、進化した人ではないが、人間性を含みつつそれを凌駕した存在は、優しいというよりも、、だからある種の宇宙性だと、思った。
夜空に見つめられる感覚。
その存在に見つめられると、そんな感じになると思う。
 
どんな感じかって、俺の感じたところ、ウレシ悲しい。


 
  
    夢中で喋ってる 
     
    自分もいた
  
    かたっぽの耳で
    
    聞いてた
 
 窓が開いてたっけか
 
     Black Birdを繰り返して
  
     穏やかな季節の
 
    部屋に入ってたはずの冷たい空気
   
  感じれてなかった
     
    そんなに夢中で 
    喋ってたんだね
    ただ
 
    傷ついた翼で
    飛ぶことを覚えたのか?
  
 
 
    空気が手に触れて
    何かに変わっていくと同時に
    何かを残していくようで
    


  
  
    
*低く飛ぶツバメを見て思ったんだけど(ブラックバードとは関係なく)、
    
 
            暗く輝く 背は青
   
あの飛ぶツバメ。
やつの背中は青い!
ツバメを、今まで思ってた以上に、美しく感じた。 
知らんかったわ(笑   
いままでは、飛ぶ姿だけを見ていた。
今年は、その飛んでいる色まで見えた。 
瑠璃色。 
 
いいね。
 
こんどは、瞳とかも見れるかな。

投稿日時 - 2003-05-06 02:54:41

お礼

●ツバメの背中が青いことに気づいたのは
 とてもいいことです。
 自分で観ることが いちばんまちがわないからです。
 ことばを受け入れることが その後の世界を
 ことばの力で変えてしまうからです。
 例えば ツバメの背中が青いという言葉を
 受け入れると ツバメを見るとき背中の青さに
 意識を奪われます。自分で観たことと
 言葉により観たことでは 違うのです。
 自分の力で 新しいものを観ることは そのような意味で
 とても大切なことなのです。

 小学生のころ 橋の下に落ちていたツバメの雛を
 ティッシュの空き箱に入れて ペースト状の
 チューブに入った餌で 飛べるようになるまで
 育てたことがあります。
 ほっぺは赤いんです。部屋の中を飛び回るように
 なったので 自然に返してあげました。
 ツバメの飛翔は 流線的です。
 身体や翼の形が その飛び方を感じさせます。
 時速100キロくらいで 直角に曲がれる鳥を
 知っていますか?
 カワセミです。我が家の斜面を低空飛行で飛んで来て
 わたしに鉢合わせになると 90度進路を変えて
 ぶつからないように飛ぶのです。
 驚きの飛翔です。空中に浮遊する蚊を食べるのと
 水中の生きた魚を空中から獲る行動の差が
 運動能力を分けたと考えられます。
 
 ツバメの雛には 無数のダニが付着していました。
 美しいだけではなく かわいいだけではない
 自然の営みの凄みを感じたものです・・・。

投稿日時 - 2003-05-08 08:21:27

ANo.22

人類が次に獲得する、人間らしさはなんだろう?
それは、今の人類にも、あるような気がする。
チンパンに、少しの優しさがあるように。
 
倫理的話になるが、
恐怖を克服する勇気、
全てを包み込む愛、
それなりの知恵、
遊び心
 
こういったものは、現代、全人類が特に目立って発現しているわけじゃない。
その本質は誰もにあるような気がするし、場合によっては、他の動物にも、あるかもしれない。
勇気とは、けたたましさではない。
どれも、優しさがあって始めて発現する能力ではあるが、。
次に獲得する人間性は何か?
ある種の宇宙性ともいえる何かが、人間に現れるんだと、俺は思う。

投稿日時 - 2003-05-02 21:40:12

補足

●進化したやさしさとは
 「なまけもの」のやさしさではありません。
 なまけものが どれほどの知性を含んで
 あのようなゆっくりとした行動になるのかは
 わかりませんが そのような外見的なやさしさ
 よりも 森羅万象を把握した上で起きてくる
 「やさしさ」を進化したやさしさとイメージしておりますので
 そのようにご解釈ください。
 森羅万象をリアルタイムで把握するために
 顕在意識に多くのキャパシティが必要なわけです。
 それは 現実がよりはっきり観えることを
 意味しているのです・・・。

投稿日時 - 2003-05-03 08:24:33

お礼

●人間性とは 言い換えれば
 人間に生まれつき備わっている(精神と肉体)在り方や能力を指します。
 つまり わたしたちが 現代において普通に
 行っている行動・活動・在り方を仔細に分析・考察してみると
 人間性に行き着かないものが多くあることに気付きます。
 それは ミームにより成されているからです。
 新しい人間性を獲得するということは
 進歩ではなく進化に匹敵します。
 
 最近の研究で人間は深海をも汚染してしまって
 いることが報告されました。それにより 深海までの
 おおくの多様な生物たちが人間が作り出した物質により
 絶滅したりバランスを崩したりしていることが
 危惧されております。
 ミームの成した功罪を検証してミームにより
 未来をキラキラにしようとする方向はますます
 加速するでしょう。その逆に利己的な方向に進む
 流れも加速するでしょう。結局 自然を破壊しつつ
 その結果として自分の首をしめて バランスが
 保たれるという現在の延長線に未来があるような気がいたします。

 さて 人間の進化を考察することはとても
 難しいことなのですけれども 敢えて言うならば・・・。
 人間の顕在意識は 一説には100ビットしかないと
 いわれております。これは 瞬間に記憶把握できる
 言葉の数に匹敵します。つまりイメージのように
 おおきなデータは 全て潜在意識下で処理される
 ということを意味します。自我とは視点である
 可能性があり キャパシティを持たない可能性が
 あります。顕在意識のキャパシティが1Kビット
 くらいで自我が100ビットくらいになったら
 反射的な思索や行動は失われるでしょうけど
 人間より勇気や愛や知恵や遊びに満ちた存在が出現する
 可能性があるのではないでしょうか?
 いずれにせよ その存在は 人間よりもっと
 「やさしい」感じを漂わせると思います。

投稿日時 - 2003-05-03 08:14:37

ANo.21

今晩は。
話の途中に割り込むのに躊躇をおぼえながらも書き込みます。

チンパンジーのアリ食い行動は有名で
私もたいしたもんだなぁと思って見入ってしまいます。

ところで、沈む夕日を眺めるチンパンジーの報告を聞いたことがあります。
日没になると一人もとい一匹出て行って丘の上にたち、
涙しながら・・・というのは嘘ですけど、じっと夕日を見つめるのだそうです。

夕日を見つめるサル・・・ちょっとかっこいいと思いませんか?

(一生懸命参考サイトを探したのですが、どこだったか見つかりませんでした。孫引きではありましたが、真面目なサイトだったと思います。)

H-hokoさん的には、こんなサル、どう思いますか?

話の途中、お邪魔しました。
また楽しい話題を期待してます。

投稿日時 - 2003-05-01 03:45:51

補足

●実はイヴが類人猿と離別した要因として挙げた
 「やさしさ」とは わたしの認知科学的な
 考察の現時点でのひとつの結論なのです。
 
 ご紹介いただいたサルの夕日を眺める行動が
 どのような事実なのか 深く観察してみる
 必要はありますけれども。
 人間のそうした 対象にこころを添わせる行動は
 顕在意識のなかにある二重構造に由来していると
 おもいます。感情や快不快といったような
 ホルモンでコントロールされていて言語を使い
 論理的に考えることのできる部分と
 いわゆる自我とよばれるそれを俯瞰できる
 もうひとつのフィールドの二つです。

 わたしが「やさしさ」と申し上げておりますものは
 この自我が 対象に寄り添う感覚なのです。
 サルの夕日行動が人間的な根拠に基づくものならば
 サルにも自我が存在するかもしれないひとつの
 兆候としてとらえることもできます。
 いずれ 現代にいきるわたしたちもそうですけれども
 自我を機能させて あらゆること 自分さえも
 客観的にとらえる姿勢こそが 言語を爆発的に
 進歩させたのではないか?という仮説に変化は
 ありません。サルも夕日にこころを添わせる
 自我が存在すると仮定するならば その自我が
 さまざまな日常の出会いに機能するように進化
 していきさえすれば 将来的に人間のような
 存在になり得る可能性はあると思います。

 この問題に興味がおありでしたら 認知科学で
 検索してみてください。参考になると思います。
 

投稿日時 - 2003-05-01 08:29:37

お礼

●夕日を見つめるサル それはもう人間とサルの
 境界ギリギリに存在するサルの在り様だとおもいます。
 SONYのCMで
 サルがウォークマンのヘッドフォンをつけて
 じっと佇む シーンがありました。
 わたしはCMの最高傑作と感じる表現のひとつです。
 あのCMで表現された世界は
 人間が人間であることの証
 人間が人間であるための初めの一歩だと感じるのです。
 
 夕日を見つめるサル
 抱きしめてあげたくなってしまいます・・・。

 ご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2003-05-01 04:13:01

ANo.20

>叙情とはきわめて個人的なものです。
事実としてはそうなんだけど(笑。
個人というものの考え方の余地は、まだある。
それには、世界が関わってるからな。
脳科学が一、二冊進んでも、俺のいう世界を具体的にみれるかは分からない。たぶん見れない。脳科学が、脳科学を俯瞰したなら、そのときはきっと、見れるかも。そんな未来も、遠くない。
>人間の叙情の捉え方もしくは
 無関心にかかわりなく 対象は存在していて
 その存在は あらゆる叙情をも含んでいると
 考えるのが最も懐が深い考え方でしょう・・・。
 
妥当だな。今というのは、ことの大小に関わらず、最古にして最新、かつ永遠の窓口なわけで、そこを生きる数多の生物は、人を含め、その存在自体が宇宙的であるのはもちろんだ。
人の、捉えるというところには、その行為に対して、宇宙の圧倒的な微動にしない深淵を意識してしまうこともあるが、一人間や、一生物を一機構として平たく見れば、それは宇宙なわけだ。あたりまえだけど。
 
叙情と捉えるところには、人がいるわけだから、対象の内在的な叙情源が、共鳴をきっかけに、その人の内的叙情として、個的に現れるので。
しかし、個人的とはいえ、その当の個人にすれば、非常に、溢れる、生まれる感というか、すぅっと満たされるというか、こう、「あぁぁ」のような、君の言うところの「癒されるような感覚(こっちのほうがいい表現だな。)」は、あるしゅワールドを感じているような時もあって、パーソナリティに現れているにせよ、また別の膜の、パーソナリティによって感覚するもののような気がする。
個とは、上下の無い階梯であり、水面に広がる幾層もの波紋状のようなものと仮に見てみると。
その境界は、常に、電磁的な、波動的な、だけれども、喧騒などではない、行き来があるような気がする。その素晴らしき行き来が、「あぁぁ」の意味の一面なのかもしれんなぁと思う。
 
>●アートについては 以前もここで回答させていただいております。
 
だからこそ、話がしたいねん(笑。 
>アートとは 人間が善し悪しを判断する能力を高めることのできるモノです。その効率の高いモノが芸術性が高いと言えるわけです。
 
真善美か。
願い、いのり、人のそれらはアートだろうか?
それとも、アートが、願いやいのりの一端か?
 
何かが気になる、ある人が気になる。
ナメクジの目玉が引っ込んだりのびたりする、あの半透明な体をかじりたくなる。
 
そういう衝動というか、行為の起源。
それらが何らかの形に形象されたとき、いのりや願いは人の心像として「おこる」のではないかなぁとおもう。
あれに見る純粋さというのは、自然に見る純粋さに、遠くない。
だけれども、非常に人間的な、清い、澄んだものを感じる。
 
いのりと願いにはいくらかの差異があり、願いはその他生物にもあるだろうと思う。
子が巣立つとき、子が生まれたとき、子が危機に立つとき、ある程度の知的なキャパをもった動物なら、願わずにはいられないだろうと思う。
 
しかし、いのりは、人間にしか見られないように思う。これとアート、優しさ、人間について考える。
 
猿人はいのらないだろうか?イヴはいのったであろうか?
学者的に見ると、埋葬、葬送がある頃には、祈りの原型、もしくはある種のいのりがみてとれる。
象の墓場。
これはちょっとよく分からない。仲間の死を悲しむ象の心の様態は、いのりに近いものがある。嘆きか?
嘆きは猿にもある気がする。
嘆きは、少なからずの動物にはあるだろう。
 
しかしこう見れる。
嘆きは個的だ。
なぜか?大切な何かを失ったり、わからなくなったりした、苦悩する個が発端だからだ。
ヴェクトルが個に向いており、エネルギー源は個を発端とする、そのエネルギーが個に向かい、個に対する反射として、強烈な、辛辣な、だけれども悲しい波動が広がる。収束し、拡散する波紋のようだ。
その波紋の行く末を、本来なら自然に拡散し、解け行くはずのそのエネルギーを、ご丁重にもミームで制御し、戦争を起こすものがいるわけだが、。
 

しかしいのりはこう見れる。
いのりは、他者主的だ。というよりも、自他が薄い。
その力は、そのいのっている個から出るのだが、その発端は他者存在だ。それは反射ではなく、ごく純粋な、相関によって、まるで雨が降るように、未来から手紙が届くように、日が差すように、エネルギー移動が起こる。それは、いのりの対象に合わされる。
風に運ばれるように、だけれども確かに。
 
はっきり言ってしまえば、いのりが届くか届かないか、それは、分かるものではない。答えがあったり、疑問があったり、そういうものではないからだ。
いのったという、そういう行いがあったという事実が、あるのみだ。
嘆きに関しても同じだが。
 
しかし、人間の場合、自然というあり方から離れてしまった存在の場合、(ミームの黒幕のせいかもしれないが、)嘆きは他者におおきなな影響を与える。
 
だからというわけではない。嘆きが通るのならいのりも通ると思っているわけではない。が、
 
俺は思っている。
 
いのりは、届かない願いだ。
いのりは、いのりとしてあるだけであり、願いではない。

いのりはつよくやさしいが、嘆きははげしくもろい。
 
嘆きが、幾らかを経て、いのりになるのではないか?
そのエネルギーの本質は同じではある。
反射があるかないかだけだ。
つまり、意識のあり方、向きの違いだ。

アートや人間性まで話がのびないな。
休憩するわ(笑。
 
いのりはやさしさや、その他あるであろう人間性を高めるか?それとも、ある種のやさしさ、もしくはその他あるであろうある人間性の現れか?前者ならアート。
後者なら生き様の一シーンだ。モノになりうるが、それは自体は、モノではない。アートもだけど(笑。

投稿日時 - 2003-04-30 16:01:52

お礼

●願い 嘆き 祈り について・・・。
 願いとは 儚いものです。
 祈りとは 一途なものです。
 言い換えれば
 願いとは 言葉では表現できない世界。
 祈りとは 言葉や形式で表現された世界。
 
 儚い願いすら届かないと感じたとき嘆きがあります。

 願いは あらゆる生物・物質に存在していると思います。
 それほど儚い・・・。
 それは 幸せ・健やかさ・正しく在ること。
 ありとあらゆるものが 真の意味で嘘・偽りなく
 この世に「在る」こと・・・。

 願いは祈りになります。
 願いはアートになります。
 祈りは願いに比べて 一途なものですが
 アートは 一途なものもあり 儚いものもあり
 その現れ方は 人間の精神の表れ方の全てです。
 やさしさとは 願いと祈りの中間にある
 こころの確かさと言うことも出来るかもしれません。

投稿日時 - 2003-05-01 04:04:37

ANo.19

>●もし話が噛み合っていないと感じられても
 お気になさらないでください。
 
前からこんな感じやったやん(笑。 
>わたしの経験ではかみ合わない話題が それぞれに延々と続くのがいちばんナチュラルな会話の形態だと感じております。
 
気持ちがいいね。理解よりも、誤解がないというのがいい。
確かに、少し気にしてたかな(笑。
ありがとう。
>血は決して流しません。これは約束します。
 一滴の血も流しません。
 
最高の約束だな。
>UCMの理念 それを「やさしさ」として提唱しようと 考えているところです・・・。
 
社会脳は、優しさの結果なのか、それとも、社会脳がやさしいのか。
社会脳に優しさは由来しないだろうな。
それは、一人一人という世界に由来するから。
 
共鳴について。
優しさがある種の共鳴であるならば、人と人の間には、異種どうしよりも、更に深い共鳴がありえるのではないか?
癒される「ような」感覚。
それを手がかりにすれば、優しさが発端のものか、利己的なものが発端のものかが分かる。
それはいい。すごくいいね。具体的な、善い生き方を、ある面、そして現代に至ってはすごく大切な面において、示唆する。
 
もう一つ。共鳴であるからには、人が癒されているとき、その人を癒している対象も、癒されているのではないか?
空のある風景を見て、優しくれる。
その時、空のある風景は優しいか?

 
きっと、優しい、こともあるかも。
なぜなら、その時その人は、共鳴によって、風景に同化しているといえるから。優しくなった人が風景に同化していて、風景も優しくなる。
同質のものがその風景にあるなら、その風景も、その人を、その人を通して感じている。とも、考えられうる。 
 
てんとう虫を、みてて、優しくなる?優しいというより、?とともに、うはうは嬉しくなった。叙情といえるだろうか?
優しさによって、てんとう虫と、その周辺を捉え、結果、嬉しい的な叙情が起こる。
その時、てんとう虫を主体とした、それを取り巻く更なる主的世界。てんとう虫の背景。
それらは、てんとう虫、てんとう虫の周辺(草、空気など)と、てんとう虫を見る人ととの、共鳴を実現するフィールドになっているわけだが、
その人の背景フィールドと、てんとう虫の背景フィールド、その世界そのもの同士の関係と実態が、叙情を、てんとう虫、それを見る人との間に、起因しているとも見れる。
その引き金が、優しさという共鳴。 
 
おのおの見える主体(てんとう虫なり、人なり、風景なり、そのシーンの主体)は、それぞれに世界を引き連れており、それら世界同士が絶妙に、ここで言うてんとう虫と、それを見る人の叙情という、主格的な現象を、ともに起こしている。
 
見られているてんとう虫は、ともすれば恐怖を感じているのかもしれないし、人が、見えてないのかもしれない。
人の嬉しさはてんとう虫に伝わることがあるなら、その世界という背景どうしの関係によって伝わる?とするなら、人の内的叙情とまでしかいえない叙情は、世界関係により、形、エネルギー変換され、てんとう虫の世界に投射される。
すると、それがまた、その人の背景とてんとう虫の背景の関係に影響を及ぼし、叙情は更なる様態に変化する。
 
人と人の間なら、それは顕著に分かる。
叙情と叙情の相互作用。

叙情とは、明らかに、乗数的な、だけれども生きた動きのあるものではあるが、背景という遠い時間を行くものがかかわることによって、安直に説明するのは不可能な現象になっている。時間が、統化されるかのような雰囲気がある。そこには確かに、「今」的なものが、ある。過去の遺構に叙情を感じるにも、足行く先に、叙情を感じるにも、。「今」的なもの、それは、真には、今といって片付けるには、惜しい言葉だ。
 
叙情。
深い意味のある言葉だ。
宇宙を感じる。人間の感応、表現であるにせよ。
人間がいることで叙情はあるのだが、叙情を感じれるものが、あってこその、叙情だ。  

叙情もまた、あり方によって現れる、遥かなる世界に融け込む瞬間なのかな。
これにも自然というあり方が、俄然存在する。

きっかけとなる、同質と思われる共鳴とはなんであるか?
じっとしていても、得れるもの、か、。
 
次は、人間性を高めるアーツ周辺の観点から、人の由来を思ってみたいな。
アーツ(Arts)と、優しさと、人間性。
 
俺なりに、今までの話の筋をたどったうえで考えると、Artsの原点に優しさがある、関わっているのは容易に分かる。
哲学がArtsであるというのも分かる。
人間性を高めるからな。
 
Artsよりも大きいカテゴリ、を想定すると、、、
ああ、休憩するわ(笑。

投稿日時 - 2003-04-29 16:01:15

お礼

●アートについては 以前もここで回答させていただいております。
 アートとは 人間が善し悪しを判断する能力を
 高めることのできるモノです。その効率の高いモノが
 芸術性が高いと言えるわけです。
 ですから ナメクジの這いずった軌跡も
 アートになり得ます。
 そこで培われた善し悪しを判断する能力を用いて
 哲学はなされているわけです。
 叙情とはきわめて個人的なものです。
 例えば芭蕉の「古池や 蛙飛び込む 水の音」
 この表現で伝えられる叙情を
 静けさをしみじみ感じる叙情と捉える方もあれば
 宇宙の広がりに震える叙情と捉える方もあります。
 いずれにしても 人間の叙情の捉え方もしくは
 無関心にかかわりなく 対象は存在していて
 その存在は あらゆる叙情をも含んでいると
 考えるのが最も懐が深い考え方でしょう・・・。
 つまり宇宙とは 人間が考える以上に
 無限の内容に満ちた実在だと言えると思います。
 わたしたちは やさしさにより
 その実在の端々に触れ そこに叙情を観るのです。
 
 「やさしさ」の反対は「はげしさ」です。
 はげしさは 時に冷たさも含みます。
 生きるとは 他の生物もそうであるように
 「はげしさ」を伴うものです。
 ですから わたしははげしさを否定するつもりは
 まったくありません。ただミームにより
 そのはげしさが不自然に増幅されている
 現状を克服するために やさしさに着目している
 わけなのです。やさしさが共鳴によるものだと
 しても 共鳴することで感応したとしても
 基本的にその発信源には影響は与えません。
 ただ発信源が人間や人間の「やさしさ」を
 とらえることのできる生物の場合は
 お互いに共鳴が起こる場合があります。
 それは たとえばもらい泣きとか
 ペットと気持ちが通じたような感じを覚える瞬間です。
>癒される「ような」感覚。 それを手がかりにすれば・・・
 これは 貴重な発見でした。 

投稿日時 - 2003-04-29 19:28:27

ANo.18

優しさだけで十分?
気持ちはわかる。
それで、ほんとうに十分かもしれない。
だけれど、限定というものは無い。
すばらしさとは無限なのであり、
優しさのすばらしさも、無限に。
自然をあり方としてみた場合、そのあり方とは、それを常に越えるそれであることだ。
自然は何を超えるか?自然を、超え続けるというのが、自然というあり方だと、俺は考える。
超えたところが自然だ。
人が自然を超える?
そんなことは無い。
というか、意味がよく分からない。
だれだ、そんなことを言った奴は?(笑。
越えるということを超える、そんなことは、できない、ことも無い(笑。
なんでもありだからな。
人を取り戻した後には、続きがある。
それが、宇宙の、世界のドラマだ。
幕を引くにはまだ早いぜ?
お楽しみはまだまだだ。
>対象にこころが寄り添い その対象の存在により
 こころが癒されているような感覚を覚えることなのです。
 
雨宿りの猫だって、放心してるわけではないと思うぞ。どのことを放心状態といっているのかよく分からないが。優しさとは、対象を、大切なものと感じるということか?
失いたくないもの。
  
優しさというのは、明らかに、自己を一歩、踏み越えている。と、思う。
なぜなら、他の対象に、こころを重ねるというのは、自己をはみ出していると思うから。
ということは、自己というものの見方が、断定的な、「もの」分離しているような、孤立したようなものではないという見方になる。現に、人は、優しさによって、自己をはみ出してるんだから。
これが、自然というあり方とどう一致するかだが、
自然も、常に自然を越えているのであり、人間も、やさしさにより、自己を越えている。
そういう意味で、十分だ。
>いいえ 一歩進んで やさしさだけを残すために
 それ以外の余分なものを排除することができないだろうか?
 
問題はある。優しさと同じに発展し、しかし相反する能力が人にあるのなら、それを排除するのは無理だろう。
悪童のミームは排除できる。
だが、悪童たちの親玉はむしろこいつではないのか?
もしな、もし、この存在がたしかなら、人は、優しさと、これを、さらに越えた能力を獲得しなければならないと思うわけだ。進化は、リアルタイムに起こるのでもありえ、今、まさに進化の最中という風に考えると、希望的観測も持てる。
危機は、一つじゃないから。
> ●「やさしさ」とは放心状態ではなく 明らかに
 対象にこころが寄り添い その対象の存在により
 こころが癒されているような感覚を覚えることなのです。
 
叙情と、やさしさの関係はどうなの?
 
>世の中を変えようとしてはいけません。
そんなつもりは無い(笑。
ただ、黙ってられない。忍耐が足りないな(笑。
>もうひとつの国をはじめてしまえばいいのです。
 そうして輝くものが現実に存在するとき 人々は
 その光に初めて気付き 歩み寄ってくるのです。
 
国?たとえばだろ?UCMで二重構造の国をつくるのか?
ダブりはそのうち解消され、輝く国だけが残ると。
俺の国土は、俺の足の裏だからな。
他の人が歩み寄ってきても、同じ国には住めない。
だが、あゆみとあゆみがこうさする。
それが快感。それが奇跡。
俺は、歩くだけ。
今はな。
躊躇なんて、あっても無くてもいいね(笑。
>気付いた人間は 生きるべき新しい道を
 躊躇なく歩んでしまう方が早いのです。
 
ああ、純粋なるその一歩。

投稿日時 - 2003-04-27 22:32:14

お礼

●もし話が噛み合っていないと感じられても
 お気になさらないでください。深い哲学があればこそ
 その形態は ちぐはぐであり それぞれに思う深みを
 吐露するのが普通であり わたしの経験では
 かみ合わない話題が それぞれに延々と続くのが
 いちばんナチュラルな会話の形態だと感じております。

 叙情とは 例えば楽しい・悲しい・嬉しいといったような人間の
 機微を深く考察し あらゆる具現を含み「そこ」に見出される
 人間の自然な反応と表現です。
 やさしさとは 人間が人間であることを示す
 こころの動きです。
 やさしさが対象を捉え その対象の存在に
 生きることが含むさまざまな機微が重なる時
 その系が 叙情となります。

 UCMが稼動するということは
 同時に国の管理から離脱することを意味します。
 UCMは個人でも法人でも国家でもひとつ銀行の口座が
 増えたような感覚ではじまります。UCMという口座です。
 次第にUCMの口座の稼動率が上がり 最終的には
 UCMの口座だけで 全てが充足してしまうようになります。
 UCMで傭兵を組織して 国家を攻撃することも
 可能ですが 既存の国家もUCMを使用せざるおえない
 状況になるでしょうから 世界はゆるやかに理念の
 示す方向に動いて行く事になります。
 血は決して流しません。これは約束します。
 一滴の血も流しません。
 
 UCMの理念 それを「やさしさ」として提唱しようと 考えているところです・・・。

投稿日時 - 2003-04-28 01:26:59

ANo.17

>はじめて「静なるもの」にこころを向けた瞬間なのです。
 
はぁ。なるほどだな。
客体的なものを意識するようになったということかな?
その能力が優しさで、そのうち客観視などに分化していくと。
 
静なるものに意識がいったのは、心優しきイヴには必然であったのか、たまたまそれに意識が向いたことをきっかけに、心優しきイヴになったのか。
 
静なるもののニーズが、イヴの構造によって生まれていたのか、静なるものに気付くことで、新たな地平を見ることになり、その新たな地平を求める意思が、イヴの構造を、優しさが特化するように進化させたのか。

雨の日、階段の下でたたずむ猫を見てると、きっと叙情を感じてると、思ったりする。
 
人が宇宙に出るようになったのも、優しいからか。
他人のことを思えるのも、優しい(客体に心をかさねる)から。
 
織り成し構造は、主体、客体という関係で、織れているわけではない。その関係を含んだ、さらなる構造か。
 
優しさが、客体的なもの(予定されたニーズ(食料など)、限定的な目的、目標じゃないもの)をもってはじめて成り立つとするなら、それは関係性、機構、のことであり、それ(やさしさ)が人類にあるというより、人類を含んで進化?分化?している地球や、宇宙といったようなものに内在する機構と、人類の機構にある種の一致があることや、もしくは、人の心が、宇宙を構成するいち機構として宇宙にあることで、客体がその人の機構に流入するような構造になってるかも、というふうな世界像を、俺は想像したな。
 
飛躍が少し埋まったかな?
優しさの力を掠め取り、利己的に利用するような性質も、当然人類にはあるわけか。けだもののこころだ。
それは、癒着だな。
けだものの心を栄養分とするような存在も、ありえる。それは、なんだろう?人に内在するものかな?
それはあとにして。 
なんで癒着するんだろうな?
優しさとともに発展してきた、相反する能力が、あるのかも知れない。
同じ客体意識でも、相反する性質。
卑屈で哀れな精神が、。

投稿日時 - 2003-04-26 23:54:53

お礼

●「やさしさ」とは放心状態ではなく 明らかに
 対象にこころが寄り添い その対象の存在により
 こころが癒されているような感覚を覚えることなのです。
 チンパンジーに簡単な言葉があるように
 イヴに進化する前の母体にも 簡単な言葉は存在していたはずです。
 しかし イヴはやさしさを備えたために 以前とは
 比較にならないほど 多くの言葉を獲得します。
 それがしだいにしっかりとした言語に発展していく
 ことになるのは容易に想像することができます。
 
 どんなテクノロジーを持とうが どんな論理を
 持とうが 人間は自然を超えることはできません。
 微小なエネルギーで 長時間飛び続ける小さな
 トンボすら創れません・・・。
 もし 人間を類人猿と分けたものがやさしさなら
 人間が人間として 大いなる自然の人間存在それ自体を
 具現するならば やさしさだけで十分なはずでは
 なかろうか? いいえ 一歩進んで やさしさだけを残すために
 それ以外の余分なものを排除することができないだろうか?
 
●世の中を変えようとしてはいけません。
 変えるのではなく 気付いた人間は 生きるべき新しい道を
 躊躇なく歩んでしまう方が早いのです。国を直そうとするから
 直らない。もうひとつの国をはじめてしまえばいいのです。
 そうして輝くものが現実に存在するとき 人々は
 その光に初めて気付き 歩み寄ってくるのです。
 複雑に間違ったものを修正するより 新規に始める方が
 簡単ですよということです・・・。

投稿日時 - 2003-04-27 01:45:29

ANo.16

見てる?
>最近つくづく感じているのですけれども
 「やさしさ」なのではなかろうか?・・・と。
 
ほかの御礼も見たが、ああ、そうなら、やさしさを、ヒューマニティといえるな、というのが、感想だ。
 
心を寄せるということか。
 
俺の人間像をイメージしたり、もしくは思い出したりするとな、こう、ある種の同化があるな。風景にしろ、喧嘩にしろ、自然にしろ。
同化といっても、ようは織り成してるってことだ。互いに。一対一とか、そういうシンプルなものでもない。
複雑でとりとめがないようなわけでもない。
言葉では表せないが、言えば、
すばらしいということだ。
ヒューマニティは、すばらしいんだ。
 
なんか文意がずれて、ヒューマニティとはすばらしさってことになってしまったな。
言い直そう。
人間は、同化、共鳴、閃光、あらゆる輝き、流れ、空気、物質、そういうものが、ヒューマンスケールで起こりえるつくりを、しているということだ。
ヒューマン構造。
答えになってないな。
織れてすばらしい、解けてすばらしいという、構造。
おそらく、こっからは俺語だが、
世界と、織れるのは、人の構造が、世界のようであるからだ。解けるのは無だから。
 
なぜ猿人にはその構造がないのか?
たぶん、あるんだろう。
猿人構造が。猿人構造が、よりすばらしくなって、ヒューマン構造になってるから、いま人間が生息してるんじゃないかと思うわけだ。
そのすばらしさを実現するのがヒューマンスケールで、そのスケールは、世界を織り成す、糸くず、点滅するつなぎ目の、緑赤藍、などの色々であり、こう、もう絶妙なわけだ。
何を言ってるのか分からんが、しかたない。
人間勝手な解釈だが、すばらしくなる以外に道は無い。
昔生きてた猿人は、人間の中で生きてるから、別に、人間が猿人より偉いとか、そんなんじゃない。
世界があって、よかったね。
ってことだ。
情けないな。おれも。いうことが変わらなくなってきた。
オリジナルの人類が消えることはない。
なぜなら、ミームといえど、それは自然から、おりじなるのヒューマンスケールから、逃れないからだ。
それを母体に、寄生するだけだ。
ミトコンドリアは無事に同化したな。
ミームはどうだろうな。
どうするよ?(笑。
新種の人類が人類のミームによって生まれても、ヒューマンスケールが変異しても、生命の輝きは止まらない。
世界は広い。
人の心配など、人だけのものだ。
本来的に(オリジナルの生命として)輝くこと、それが、何はともあれ大切なんだと思うな。
ミームすらも取り込んでな。
あり方で消化すりゃいいんだ。
人の、人に対する半径は、一人では決まらない。
だから、人をどうこうしようなどと思わない。
ただミームを飛ばすより、ミームを取り込みあり方やその他上位構造で消化した、生ける生き様というものが、結果的にはミームの悪童達を淘汰する存在になると思うわけだ。
分かる?
ミームを喰った人の自然が、自然ミームでミームを淘汰するってこと。
ニュウミームだ。
 
遺伝子操作とかやりだしたら、今後、人間は、ヴァンパイアと分化するかもしれんな。もう、半分なってるけど。
マジの話(笑。
化け物を退治し、喰ってきたのが、人だった。
今回もだ。底なしのブラックホールの種が、輪廻とともに、今のヒューマン構造にはあるのかもしれないな。
遺伝子が発見されて、ちょっとびびるわ(笑。
だが、何があっても生命はくじけない。まだまだだ。
ミーム?経済?おやつにもならんね(笑。
何でもあるから、生命なのかもしれないな。
不思議にすばらしい。
どないなってんねん!(笑。
ありがとう。
 
ちょっとノリをかましすぎたかな?ありだろ、一応(笑。
 
?????????????????????? 
最近、猫を見てたら、宇宙生物に見えてきて、人を見たら、宇宙人に見えるようになってきた、。誰にもありそうだし。たまにはありだろ。そんな心境も。子供時代に帰った新鮮な気分だ。
 
俺の雨が降ってる。
トトロが、雨音にエクスタシーを感じていたのが、分からないでもない。
いい。
 
俺の雨かはどうでもいいが、煙が立つほどの雨は、珍しい。季節が、熱帯性に変わってきてる気がする。
夏も、半月ほど早い。
なんで?(笑。
前の方が、美しかった気もする。
ミームを季節に引きずり込もうかな。
季節型ミームも、もういるはずなんだけど。
飛躍したな。どうも、君と話すと楽しくってだめだ。

投稿日時 - 2003-04-26 02:00:53

お礼

●まず この辺↓を踏まえてから・・・
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0622.html
 ラスコー洞窟の壁画はおよそ一万五千年前
 イヴは25万年前
 原人はいろいろな化石が出てきていて
 とりあえず一番古いのは 400万年前
http://www.ushikunuma.com/taim/tim1.htm
 
 さて チンパンジーのアリ食い行動というものを
 ご存知ですか?アリの穴に小枝を差し込んで
 アリが枝に登ってきたところをみはからって
 枝を引き抜いて 枝についているアリを
 食べる行動です。このミーム(文化)は
 チンパンジーの子供が受け継いで習得するまで
 三年かかるといわれております。
 400万年前 猿人と呼ばれる チンパンジーより
 人間に近い生物は もっと多様な文化を
 ミームとして持っていたことは 容易に想像できます。
 さて チンパンジーでもそうですけれども
 親がアリを食べる行動を 子供はただただ
 傍でじっと見ていることで学習するわけです。
 食べるとか 本能につながる動くものを
 追う習性は あらゆる動物に共通している
 行動です。人も類人猿もこの行動を持っているわけです。
 しかし 人間はさらに「やさしさ」を手に入れた。
 400万年前から イヴの登場する25万年もの
 長い間に 今の人間になれなかった決定的なもの
 それを 考えているわけです。
 「やさしさ」とは 動くものを追うのではなく
 はじめて「静なるもの」にこころを向けた瞬間なのです。
 とりあえず ここまで・・・

 ご回答ありがとうございました。
 

投稿日時 - 2003-04-26 15:21:10

ANo.15

>わたしは 動物や植物・微生物に至るまで
>あらゆる生物・物質にも「やさしさ」は存在すると
>いう考えを一面ではもちあわせております。

此処のところよく理解できませんが、区別する為には差異を認識する必要があるのではないですか?

>あらゆる生物・物質にも「やさしさ」は存在する

ここで言う「やさしさ」について暇があれば教えてください、まさか自然の平等性の事を考えているわけではないですよね、回答になっていませんから無視した方がいいですね。
めんどくさいのでHNもそのままです。

投稿日時 - 2003-04-19 19:22:33

補足

●区別するには 差異を見つけることは必要なことです。
 差異はあるなしだけではなく その「程度」に於いても
 区別の手がかりとなるはずです。
 やさしさが 人間と類人猿を分けたと考えるのは
 およそ次のような思考の末の感慨なのです。

 イヴが人類の共通のたった一人の母だという
 ことがミトコンドリアDNAの解析により
 分かったわけです。つまりジャワ原人やペキン原人の
 子孫は現代には存在していません。
 およそ25万年前 言葉も文化も文明もなかった
 時代にイヴは誕生したのです。イヴの誕生から
 15万年が経過したころの地層から
 洞窟で生活した痕跡が見つかりました。
 その地層には焚き火の跡があり
 かすかに赤い岩彩も見つかりました。
 イヴの誕生した当時をシュミレーションしてみるのです。
 野生のチンパンジーのような中で 人間として
 存在してみるのです。言葉がありませんから
 現代人のような思考はできません。
 それでも わたしたちは イヴの子孫ですから
 イヴに備わっているものを受け継いでいるのです。
 種が同じであれば 年月が経とうとも構造は同じ
 ものを受け継いでいるはずなのです。
 シュミレーションの中で ふとこころがいろいろな
 対象に寄り添うことがわかりました。
 日差しに 風に 草花に 雲に 星に月に・・・
 そのこころの動きを「やさしさ」と感じたわけです。

 こころが寄り添うということは どういう現象でしょうか?
 それは 共鳴ではないでしょうか。
 自分のなかにある何かと 対象にある何かが
 同質の何かを含んでいて響きあっている感覚です。
 ですから あらゆる生物・物質にもやさしさが
 あると言えるわけです。実際に感覚としてやさしさをも感じます。

 キューブリックは 類人猿との差異を「こん棒」
 で表現しました。こん棒は宇宙船と変わりない
 存在であることを含ませながら・・・。
 でも わたしのシュミレーションに於いては
 こん棒よりも まず 湖面に映った自分の姿に
 こころが寄り添います。そして いつもこころを
 奪われている「綺麗な花」を髪に挿すのです。
 そんな感じが 人類の人類たる存在の始まりでは
 ないでしょうか・・・。
 こん棒ならチンパンジーでも使いますから
 チンパンジーは 石でくるみを割ったりもしますよ。

 ご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2003-04-20 00:49:24

ANo.14

>あなたは なぜ「創造性が人類と類人猿を分けた」と
 考えられたのか その思考過程を教えてください

類人猿が住居を作ったり舟を作って魚を捕ったりしていたという話は聞いたことありません。人類と、類人猿及びその他の動物での決定的に違うものは創造性があるかないかです。そして「決定的に違うもの」が「分かれた原因」と考えられるからです。単純なことです。
少なくともやさしさが人類と類人猿を分けたとは思いません。

私の関心は「創造性」の「根源」であり、あなたの説明されようとしている「創造性」の「プロセスの一部」ではありません。


>創造性とは 知性・理性に含まれるもので知性・理性の高さが人間という種の要素であることになんの疑いもございません。
>創造性を発揮できる人間とは並の人間ではないということです。

高い知性・理性から創造性は発揮されると言われているようですが果たしてそうでしょうか。
私は創造性は知性・理性に含まれるものではなく、別物だと考えています。知性・理性は低くとも素晴らしい絵を描く人はいます。今までになかった新しい音楽を生み出す人もいます。
高い知性・理性を持つ人がそれに比例して新しいものを作り出す能力のある人とは決して言えません。

>あなたのように考えることは、なにも新しいものを創り出せない人間は類人猿か?ということにもなりかねません。

今、窓の外をツバメが忙しそうに飛んでいます。ツバメは生まれて数週間もすれば完全なツバメになりますが、人間は生まれて20年生きさえすれば人間になれるかというとそうはいきません。何も教育されなければ動物といっしょです。人間としての教育を受け、自分も努力して人間として自分を創造していくことが必要となります。
あなたは新しいものを創り出すことを発明、発見、技術革新のようなことだけを考えておられるのではないですか?

あなたにとっては「哲学すること」そのものが人生なのでしょうが私の人生は「行動すること」ですのでこの議論は私の人生とっては何の意味も無い事ですから不毛の議論は終わりにしたいと思います。
お付き合いくださいましてありがとうございました。

投稿日時 - 2003-04-19 13:50:33

補足

●不毛の議論とまで 言われてしまいましたので
 もう あなたの発言は無いでしょうから
 あなたのかわりに「創造性」をネズミの考察とは
 べつの角度から考察してみましょう。

 住居を作ったり舟を作って魚を捕ったりすることが
 創造性をともなった行為であるとなぜ言えるのか?
 まず そこを考察しなければなりません。
 ハチは人間が作るより正確な住居を造りますし
 カワセミは 空中から魚を獲ります。
 ハチやカワセミのそれは DNAの遺伝子に書かれた
 情報です。人間のそれは ミームに書かれた情報です。
 住居を造ると 一言で言っても 道具が要ります。
 造るための時間に食料を調達したりする分業のような
 人と人の関係が成立している必要もあります。
 柱を運ぶのは 共同作業が必要かもしれません。
 住居を組み立てるのにも順序が必要ですし
 その順序を理解させるためのメソッドも必要です。

 いったいこのような複雑な作業のどこに
 創造性を見出せばいいのでしょうか?
 それを特定するためには 住居を造るという
 文化の始まりと それを可能にした文明の
 成り立ちを考察する必要があるわけです。
 住居文化の始まりを考察すれば それは
 快適と感じる場所に こころが動くことから
 始まるでしょう。次に石器です。シャープな石に
 こころを奪われた人が たまたま遊んでいて
 手を切ったのかもしれません。もしくは 草を切ったの
 かもしれません。そんなところが始まりでしょう。
 その延長線上に見よう見まねで ミームが蓄積されて
 いった結果が 住居になるわけです。
 いったいどこに「創造性」があるのですか?
 ハチのDNAに書かれたことをミームでやっている
 だけだと思いませんか?
 ですから 申し上げたように 創造性が発揮されるのは
 ずっと後からなのです。そしてそれは 言語という
 概念を使って立ち現れる現象ですから
 まゆつばものですけれども・・・。
 
 ネズミの考察でも分かるとおり 創造性とは
 相対的な感覚的 形容ですから あらゆることを
 熟知した超越的存在から見れば
 人間がやっていることなど 創造どころか
 自然のまねごとにもなっていないことなのかもしれません。

投稿日時 - 2003-04-20 01:30:30

お礼

●住居を作ったり 船を作ったり それはずいぶん
 イヴから後で最近の話です。イヴの頃を勉強してください。
 たぶんイヴの頃には創造性は あまり発揮されて
 いなかったと推測します。
 単純なことですと思うから単純な思考しかできないのです。
 創造性があるから家や船がつくれる・・・
 現実はそんな簡単なものではありませんよ。
 
 芸術性の高さと創造性の高さを混同しては
 けません。商業芸術をクリエイティヴと呼びますが
 それは需要創造に関連しているのからです。
 哲学することと行動することは 基本的になんらかわりありません。

 いろいろ参考になりました。
 よろしかったら お暇なときにまたどうそ・・・。
 ご回答ありがとうございました。
 

投稿日時 - 2003-04-19 15:08:30

ANo.13

>●わたしは 類人猿と人間を分けたものは
> 言語でも 文化や文明でもないと考えます。
> なぜなら イヴがいきなり言語や文化文明を
> 獲得できていたとは 考えにくいからです。
補足です。そうですね、言語が類人猿と人類を分けたとすれば、イブの時代にはイブは類人猿と区別はなっかたということですね。イブの時代に類人猿と区別できたという根拠もないですし、イブはやさしく、他の類人猿はやさしくはなかったという根拠もないでしょうから、どの時点で、どのような原因で分かれたかは諸説あるでしょう。
 ただまあ、このような考えも簡単には否定できないよという程度の補足です。

投稿日時 - 2003-04-19 12:03:00

お礼

●言語がなくともコミュニケーションは存在しておりますし
 イヴの時代にもお化粧の痕跡が発見されて
 おります。つまり文化や文明が存在していた
 可能性もあるわけです。動物にやさしさが無いとは
 言い切れません。物事を考えるときには さまざまな
 考察を経た考えの方が 説得力があるというだけです。

 ご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2003-04-19 14:50:19

ANo.12

私は「創造性」について説明しております。
あなたのお好きな長い言葉で説明していないだけです。

膨大なデータベースと顕在意識とひらめきで「人格の形成」ができますか?

このことに対してお答えしておられませんが。

>言葉以前の顕在意識にはイメージと感覚が
 潜在意識には イメージと感覚と本能に書き込まれた
 データーが存在していたと考えられます。

このことは迷路を出る事が出来たねずみにも言えることです 。ではねずみと人間を分けたものとはなんでしょうか。

投稿日時 - 2003-04-19 10:01:58

補足

●このほうが わかりやすいですね。↓

 あなたは なぜ「創造性が人類と類人猿を分けた」と
 考えられたのか その思考過程を教えてください。

投稿日時 - 2003-04-19 11:18:54

お礼

●創造性についてこれ以上説明できないということは
 「説明できないという[あなた]のレベル」を説明しているのでございまして
 創造性それ自体の説明ではないのです(要勉強)。
>膨大なデータベースと顕在意識とひらめきで「人格の形成」ができますか?
 わたしは そんなこを質問されるような事を申しておりません。
 人間という種の誕生と人格との因果関係は わたしが
 ここで問うていることとは 別の問題です。

 ねずみと人間は 分かれた母体がちがいます。
 また わたしは類人猿と人間を分けたのは
 創造性だとは 申しておりません。
 創造性の説明の一つを披露したまでなのです。
 

 では あなたが 創造性と思い込んでるそのものが
 人間をどのように類人猿とわけたのですか?
 考えてみてください あなたなりに・・・。
 「人類を人類たらしめているものは「創造性」です。」
 ↑このように どこにでもある言葉とは 刷りこまれて
 いる可能性があるものなのです。説明できないことが
 自分で考えていない証拠である可能性もございます。
 自分で考えること それが哲学というものです。

 創造性とは 知性・理性に含まれるもので
 知性・理性の高さが 人間という種の要素であることには
 なんの疑いもございません。
 創造性とは それまでに無かったものを創りだす
 能力を指すものであって 知性・理性の中に於いても
 高度な能力なのです。ネズミの例で分かるように
 その認識は相対的なものであり ある意味では
 あなたのように考えることは なにも新しいものを
 創り出せない人間は類人猿か?ということにも
 なりかねません。創造性を発揮できる人間とは
 並の人間ではないということです。
 
 ご回答ありがとうございました。 

投稿日時 - 2003-04-19 10:54:41

ANo.11

#5、#6のKeiko816です。

>膨大なデータベースをつかって要求を満たすようなさまざまな整合性が 無意識のうちに模索されているのです。
そのうち 確度のたかいものが顕在意識にあがってくるわけです。それが創造性です。

おっしゃっている事がまったくわかりません。むりに長い言葉で説明する必要はないと思いますが・・・。
本質的な事柄は短い言葉で表現できるものです。ムリに言葉を多くして説明するほど本質から離れて枝葉末節にむかっております。

膨大なデータベースと顕在意識とひらめきで「人格の形成」ができますか?
膨大なデータベースと顕在意識とひらめきで「言葉」ができたのでしょうか?「言葉」以前にデーターベースがあったのでしょうか?
おっしゃっている事にムリがあると思いませんか?

私はやはり短い言葉で回答したいと思います。
人類を人類たらしめているものは「創造性」です。

投稿日時 - 2003-04-18 21:14:21

補足

●「イメージ」とは ビジュアルデータ・脳内データを
 指して 発言しております・・・。

投稿日時 - 2003-04-19 08:50:18

お礼

●わたしの申し上げることがわからないようでしたら
 機能主義・構造主義を勉強なさってから
 哲学なさってください。

 短い言葉でも説明できるのなら それでいいですけれども
 あなたは これ以上は説明できないとおっしゃるわけですから
 それは そこで思考がとまっている証拠でしか
 ありませんよ・・・。

 言葉以前の顕在意識にはイメージと感覚が
 潜在意識には イメージと感覚と本能に書き込まれた
 データーが存在していたと考えられます。

 ですから あなたにとって創造性とはなんですか?
 それが説明できないようなら 哲学しているとは
 言えません。説明することから逃げるようなら
 それであなたは お終いです。
 お安い宗教を信じるやからと同じです。

 ご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2003-04-19 08:09:40

ANo.10

補足要求をした以上、ご回答しないと気になって読書にも集中できません。ルソーは「原注」の途中ですが。
>人類を他の類人猿と分けた「もの」とは何でしょうか?
このように問うことは、人間とは何かと問うことと同じだと考えます。
ルソーは人類と動物の区別する知性や理性の前に、自然人には、「自己保存」と同類・同種に対する「憐れみ」の情に関心を持っているようですが、これがH-hokoさんの言う「やさしさ」かもしれませんが、動物に「やさしさ」がないと結論づけることは問題があるような気がします。
問題は、イブを他の類人猿と分けた「もの」ではなく、その方向性のような気がします。
私は、今のところ、群れや共同体を作ることによって、食物連鎖の頂点に立つと共に、単独で生きるための能力をなくしているような気がしますが。
このような難問に、白黒つける愚かなことは避けるのが「社会人」の「愚かな知恵」でしょうか。

投稿日時 - 2003-04-18 20:23:09

お礼

●わたしは 動物や植物・微生物に至るまで
 あらゆる生物・物質にも「やさしさ」は存在すると
 いう考えを一面ではもちあわせております。
 けれども ここで申し上げておりますのは
 人間に進化させた要因となったものは
 「やさしさ」で それが特化した存在が
 人類ではなかろうか?と申し上げているわけなのです。
 誤解のなきよう お願いいたします。
 
 ルソーの「憐れみの情」は 確かに人間に存在する
 情のひとつだとおもいます。
 ただ その「憐れみの情」が 人類の営みに
 どのようにかかわってきたのかその具体的な
 考察をみてみないことには まだ?の域を出ません。

 ニュートンもアルキメデスも文明の礎を築いた
 先人の偉業に共通して存在するのは
 「やさしさ」なのです。
 星空の美しさに心を奪われる感覚にも似た感覚が
 真理に向かう クリエイター達のこころには
 確かに存在すると思いませんか?
 その感覚を勘違いした世界に作動させているのが宗教家。
 その感覚を利己的に またミームの内々に ごく狭い
 ワクで作動させているのが 経済や規範や社会に
 毒された人々だと感じております。
 
 方向性とは 方向ではありません。
 方向付ける能力もしくは方向付ける物のことを指します。
 それを「もの」と言うのです。
 物は総称(名詞)。 「もの」は指示語です。

 ご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2003-04-19 08:47:32

ANo.9

ミトコンドリアイブが存在していたと仮定し、
人類の祖としての彼女と、類人猿の違いはなにか。
ということならば、精神的な違いはほとんどなく、
身体的、もしくは体質的な違いがあっただけじゃないでしょうかね。

精神的な違いがないとする理由は、
・彼女は、類人猿から生まれている。
・彼女は、類人猿と群れで暮らしていた。
という二つの仮定と、H-hokoさんもおっしゃっていた、

>人間は狼に育てられれば 狼になるわけです。

という事柄から、
類人猿に育てられたであろう彼女も、やはり類人猿と同じ。
もしくはそれに近い精神構造をもっていた。
と考えるのが妥当だと思えるからです。

投稿日時 - 2003-04-18 14:23:13

お礼

●構造主義的には O_Denwaさんのおっしゃるように
 知性・理性の違いはほとんど無かったであろうと
 言われております。

 でも ではなぜいつまでも類人猿のままで
 居なかったのでしょうか?
 そこには なにか違いがあったはずなのです。
 もしそれが 身体的・体質的違いから由来すると
 すれば どんな過程を経て 人類になったと
 かんがえられますでしょうか?

 O_Denwaさんにはもうすこし深い考察を期待いたします。
 ぜひオリジナリティの高いご考察を お聞かせください。

 ご回答ありがとうございます。

投稿日時 - 2003-04-19 08:19:10

ANo.8

蛇足ですが・・・・。

物は考えようによって様々に意味付けられる。

例えば、極めて初期の武器である「こん棒」を考察するなら、家族や仲間を守りたいという「やさしさ」から発明されたという見方と、楽して食糧を獲得したいという「あさましさ」から発明されたという見方、他にも色んな見方はありますが取り合えずこの2つに絞られると仮定した時。どちらの視点に立ってその「もの」を見れば人類にとって精神的発展をもたらすかは、私個人は「あさましさ」により発明されたという視点に立って考察した方が、発明された「もの」の本来あるべき姿や存在価値を定義する上でより有益だと考える。
「やさしさ」から全てのものが出現しているとしても、あえてその「やさしさ」を否定することが、より大きな存在意義をもたらし、膨らみをもって発展していくのではないでしょうか?私個人は全ての発明や発見は人間の「わがまま」から出発していると思っていますが、この考察は人間本来の「やさしさ」を忘れつつある現代の人類により自然に近い感情を思い出させ取り戻させるという上で非常に重要だと思っております。(これ以上の科学の発展を捨てて地球そのものの回復に心血を注ぐべきという信念からそう思うのですが、この信念は私のわがままから出発している)
全てのものに「やさしさ」と「あさましさ」はバランスをもって共存している。どちらのウェイトが大きいかは何千年という時間と何十億人という人間の考察が必要だろうと思います。

>真実かどうかは
 わたしには あまり重要ではありません。

私にとっても、人類がどのように発生したのかという根本は全くどうでもいい。それを知ったところで未来に繋がるものは何もないですからね。研究する必要も無いと思っているのであのように書いたのです。

最後にもう一つ、人間の知性や理性ですが、それらがもし人類を破滅に導く要素の根本であるとしたら(あるとしたらですけど)やはり人間は高等ではないと感じます。だから、少なくともこのようなコミュニケーションがとれて自分たちは高等だと言い続けられるような生物であり続けられるよう努力していきたいですね。

投稿日時 - 2003-04-18 00:54:32

お礼

●物事は考えようによって様々に意味づけされると
 捉えてしまうと ひとそれぞれでしょうがないことになります。
 実は 物事は考える深さによって様々に意味づけされるものなのです。
 「こん棒」を考察してみましょう。
 わたしが「やさしさ」と言っている意味を
 噛み砕いて説明いたしますと 事象にこころを
 寄せる意識を指します。
 たとえば 草花に心を寄せる 星空に心を寄せる
 風景に心を寄せる 異性に心を寄せる・・・
 すべてこの心の動きをやさしさと捉えているわけです。
 さて こん棒を考察いたしますと
 こん棒を手にするには さまざまな動機が考えられます。
 敵が襲ってきて こわくてしがみついたものが
 こん棒だったのかもしれません。
 だれかが 振っているのを見て面白そうなので
 まねをしたのかもしれません。
 手でたたくと痛いから こん棒を使うようになるのかもしれません。
 つまり こん棒を使うひとそれぞれに理由はあるわけです。
 このこん棒を使う動機を限定してしまうことが
 無理のある考え方であることがわかります。
 こん棒を使うことは 類人猿でも カラスでも
 あることですから それは人類と類人猿を分けているものではないでしょう。
 むしろ こん棒で傷つけてしまった相手に
 心を寄せるやさしさ こん棒で割ったくだものの
 中身の美しさに心を寄せるやさしさが
 類人猿とは 違うところではないのかな?
 という考えなのです・・・。

 ご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2003-04-18 02:23:11

ANo.7

>●高度なコミュニケーション能力と文化・文明の
> 因果関係をご説明いただけますか?
複雑で多様な文化は、それを多くの人に伝えられる言語によって共有化ができ、可能になりました。
 また、他人の知識・経験を自分のものとできることにより、前の世代より必ず進歩できるようになり文明が発達しました。
 知識・経験の共有化と世代間の継続が言語により可能になったと考えます。
 あくまで、一つの見方ですから、他の見方もあります。

投稿日時 - 2003-04-17 21:39:46

お礼

●わたしは 類人猿と人間を分けたものは
 言語でも 文化や文明でもないと考えます。
 なぜなら イヴがいきなり言語や文化文明を
 獲得できていたとは 考えにくいからです。
 分けたものは はじめにイヴにあったもので
 なければ その説明にならないと考えるからです。
 言語も文化も文明をずっと後の産物だと思います。
 
 因果関係ですけれでも ご指摘のように
 知識・経験の共有化と世代間の伝承は
 確かにあると思われます。
 因果関係を説明する上で わたしが強調したいのは
 形而上の事柄が 形而下の事柄と渾然一体となって
 初めイヴに芽生えた「やさしさ」を
 かく乱している言語の弊害です。
 人間の本意を超えて 言葉の世界が暴走している
 状態を因果関係に組み入れて見ることができなければ
 現代の人間社会が抱えている諸問題を読み解くことはできません。
 つまり言葉は 知識・経験の共有化と世代間の継承
 という機能以上に 編集と命令機能を持つことに
 より望まない作用をする機能を有しているということです。
 例えば「ねずみ講」という仕組みは
 経済という概念系に強欲がかかわり 生み出した
 文明のひずみです。あきらかにひずみとわからない
 状態で文明に巣食うひずみを 見つける意味でも
 人間と類人猿を分けたものを探してみることが
 必要だと感じているわけです。
 極論いたしますと 言葉は一面では人間を非人間的なものに 
 変えてしまった張本人なのです。
 

投稿日時 - 2003-04-18 02:02:29

ANo.6

それまでなかったものを初めてつくり出す能力「創造性」とは何か、これをまた更に説明するのは私にはムリです。

神がモーセに「私は有りて有るものなり」と言ったようにそれ以上説明のしようがありません。
「創造性」は「神が人間に賦与した自分が持っているものと同じ能力」でしょう。
「優しさ」は「神が人間に賦与した自分が持っているものと同じ愛」だと思います。

「あらゆるものを作り出す能力」は言葉も含まれますが自分を創造する(自己実現という言葉もあるようですが私は人格形成という言葉のほうが好きです。)ということも含めて。

答えにはなっていないかも知れませんがこれが私の限界です。

投稿日時 - 2003-04-17 11:52:34

お礼

●ずいぶん簡単にギブアップなさるんですね。
 わたしなりに 創造性を考察してみますね・・・。

 創造性は 将来的には機能面から また構造面から 科学的な
 分析と解析が行われるでしょう。また コンピューターに
 創造性を持たせる意味で 研究も行われるでしょう。
 さて ねずみを迷路に入れると しばらくして
 ねずみは 迷路を通過して出口から出てきます。
 もし 同じ過ちを繰り返してしまうねずみロボが
 いたとしたら 迷路を通過できるねずみの成果に
 創造性を感じるだろうと思います。
 ねずみは 行き止まりの道をデータベース化して
 出口を探すという要求に整合性のある選択を
 具現していると考えることができます。
 わたしたちの顕在意識は 潜在意識からあがってくる
 ひらめきという具体的な内容により 要求の
 あたらしい展開をみることがしばしばあります。
 これを創造性と呼んでいるわけです。
 蓄積された記憶は 潜在意識下に於いて
 データベース化されます。眠っている間に
 物事の整理がつくことがよくあるのは
 潜在意識が眠っている間に データベース化を
 しているからにほかなりません。
 膨大なデータベースをつかって要求を満たすような
 さまざまな整合性が 無意識のうちに模索されているのです。
 そのうち 確度のたかいものが顕在意識にあがって
 くるわけです。それが創造性です。
 これは わたしの考えのひとつですけれども
 あらゆることを 噛み砕いて 納得できるレベルで
 考察してみることは さまざまに考えを進める上で
 たいへん有効であることを 実感いたしております。

 納得して 生きれる方が気持ちが安定するものです。
 ご回答ありがとうございました。
 

投稿日時 - 2003-04-18 01:27:12

ANo.5

人類を人類たらしめているものは「創造性」です。

投稿日時 - 2003-04-17 00:48:27

お礼

●人間は さまざまなものを作り出しますから
 その根拠を創造性という言葉でくくるのは
 簡単で楽ですよね。
 でも 創造性とは いったいなんでしょうか?
 それもふくめて やさしさがかかわっていますよ
 というのが わたしの考察なのですけれども・・・。

 創造性とは どんな能力ですか?
 質問を言い換えれば 
 それまでなかったものを初めてつくり出す能力とは
 どんなことですか?

 ご回答ありがとうございます。

投稿日時 - 2003-04-17 01:33:02

ANo.4

 高度な言語コミュニケーション能力と、それによって作られた様々な文化、文明。

投稿日時 - 2003-04-16 22:23:00

お礼

●高度なコミュニケーション能力と文化・文明の
 因果関係をご説明いただけますか?

 ご回答ありがとうございます。

投稿日時 - 2003-04-17 01:27:37

ANo.3

科学的にと言う言葉に私は大変懐疑的な人間なのです。
ミトコンドリアDNAをたどることによって、最初の人類はアフリカに誕生したであろうという説に対してですが、それは原人の頭脳が進化した状態なのか、それとも突然降って湧いて出てきたのか誰にも証明できない。アフリカの人々は世界に非常に多く存在しているし、その結果彼らとの混血も多数いる。ヒトゲノム遺伝子全ての解読に成功した現在でもその一つ一つの役割についてはまだまだこれからだし、ミトコンドリアのもつ単純なDNAについて全ての人種に共通する部分がアフリカに集約されると言ってもルーツがアフリカであると断言するにはまだまだ説得力不足であると私個人は感じます。
人類を類人猿と分けたものについてですが、その「もの」は学問という価値観に他ならない。人類=強者 類人猿=弱者 とする構図は食物連鎖を考える上での強弱に他ならない。人類は、独自の価値観に基づいて他の生物を差別しているだけであって、別に特別な存在でも何でもない。むしろ、生命力という点でいえば、ゴキブリやねずみに劣る面もあるしそれらが何らかの哲学的思考を持つか否かも人間には実証できない。見方を変えれば人間は他の生物に利用されている愚かな生物という側面もあるのではないでしょうか。
人間は高等な生き物であると誰が決めたのでしょう。パソコンが使えるから高等でしょうか?自分で生死を決定できるから高等でしょうか?
人間はまだ宇宙の何も解き明かしてはいない、他の動物の言語や科学を理解し始めたときに初めて本当の科学が始まるのではないかと私は思っています。
犬は人間の言葉を理解するのに人間は犬の言葉を理解できないでいる。しかも、犬は3食昼寝付きでご主人様は毎日外であくせく汗水たらして仕事する。何か変ですね。

H-hokoさんの主題からだいぶ外れてしまいました。
すみません。でも、その質問から以上のような考えが湧いてしまいました。 人類たらしめるもの=やさしさ ・・・それも素敵だと思います。ですが、やさしさは人間だけが持つものでは無いと感じます。むしろ、他の生物の優しさを無視するわがままさが人類たらしめている「もの」だと感じます。

投稿日時 - 2003-04-16 22:21:39

補足

●ご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2003-04-17 01:24:20

お礼

●他の生物の優しさを無視するわがままが
 人類と類人猿を分けた「もの」だということでしょうか?
 人類が築いてきた様々な文明や文化というものを
 考察いたしますと。やさしさから生まれているものと
 わがままから生まれているものが 確かにございます。
 やさしさから生まれているものは ひろく人々の幸せや
 自然の健やかさに響いています。わがままから
 生まれて いるものは利己的です。
 幸せに響く 発明や発見や芸術は 必ずやさしさが
 その動機にあるのです。わがままで利己的な
 それは 人類が築いたものの中では蛇足なのです。
 しかし 経済のなかに巣食う蛇足。規範の中に巣食う蛇足。
 イデオロギーのなかに巣食う蛇足のなんと多いことか。
 わたしたちが 日々見つめる対象がやさしさから
 うまれたものなのか それともわがままからうまれた
 蛇足なのか それすらわからないままに生きる方々の
 なんと多いことでしょうか・・・。
 
 人間がやさしさを獲得して進化したのに
 いま わがままが増幅されて けだものの欲望に
 つきうごかされてはいまいか?文明も文化も本来は
 やさしさが築き上げたものなのです。
 そのやさしさの持つ「ちから」をけだものの欲望が
 振りかざして傍若無人にふるまう様が 現代に生きる
 わたしたちの苦悩なのではないでしょうか?

 ミトコンドリアDNAを分析することで
 いま存在している全ての人間は 共通の一人の母から
 生まれたことが証明された。このことが真実かどうかは
 わたしには あまり重要ではありません。
 そうだとしたら どんな考察ができるのか?
 その考察の結果が 現実のわたしたちにつながるようで
 あるのなら そのように考えても差し支えないという
 スタンスで常に考察しております。

 高等生物というものを わたしなりに定義いたしますと
 知性・理性の高い生物ということになります。
 知性とは 脳の顕在意識の処理フィールドのキャパシティを言います。
 理性とは 知的処理能力の確度(確かさ)を言います。

 高等生物も下等生物も その存在意味に於いては
 同等であると考えております。

投稿日時 - 2003-04-17 01:19:47

ANo.2

今、偶々「人間不平等起源論」を読んでいる途中です。
人間と類人猿を分けた「もの」は偶然の自然環境らしいです、洪水や気候の変化に対応する「改善能力」との事です。「もの」とは言えませんが、「やさしさ」同様ですから許してください。
ところで、「イブ」は、単独行動をしていたのでしょうか、群れを作っていたのでしょうか?
ルソーはこの本のなかで、人類の最初を単独行動のように考えているようですが、この事を無視してこの質問に答える事はできない様な気がします。
H-hokoさんはどちらだとお考えなのでしょうか?

投稿日時 - 2003-04-15 20:32:24

お礼

●ゴリラやチンパンジーは 群れを作って生活をします。
 オランウータンは 単独で行動をします。
 どうして そのような種の行動パターンがあるのでしょうか?
 これは わたしの考えですけれども 生活空間が
 群れか単独かを選択させているのではないでしょうか?
 樹上であれば 敵は少ないですし 食料が十分であるならば
 群れて食べ物の取り合いなどのトラブルを 敢えて抱え込む
 必要もないわけです。地上での行動が多いのであれば
 群れで居るほうが 敵を威嚇する意味で 安全です。
 イヴは 地上を二足歩行していたはずですから
 家族や親族単位での群れで 行動していたと思われます。

●ルソーは 改善能力が人間が存在できた根拠だと
 考えたわけですね。
 実はそれは わたしも考えたんです。
 わたしは 知性と理性の高さが人間を猿から分けたと
 考えました。知性と理性の高さのなかに改善能力も
 含まれるのです。けれども 人間は狼に育てられれば
 狼になるわけです。知性と理性を人間らしい行動に
 発揮する動機が必要なわけです。
 わたしの「やさしさ」を話すと長くなりますし
 ご理解いただけるか わかりませんので
 今回は 概略だけの説明にいたします。
 例えば 星の美しさや 石ころや花々に こころを寄せる
 のは こころに「やさしさ」が存在している証拠です。
 人間はその「やさしさ」を 言葉でつなぐことで
 猿から人間に分かれたというのが わたしの考え方です。
 言葉でつながれた「やさしさ」は 知性・理性を発揮する
 動機として働きます。おかあさんの料理や 
 お父さんが 家族のために知恵をこらして
 難関を切り抜ける それぞれの動機は やさしさです。

 ご回答ありがとうございました。ルソーを読破しての
 再度のご考察を お待ちいたしております。

投稿日時 - 2003-04-16 02:35:47

ANo.1

私はH-hokoさんとは両極の考えですが、同族を滅ぼす事の出来る、"種に潜む冷酷なDNA"だと思っています。

類人猿の括りを超えて、哺乳類全般を見ても、我が繁栄の為だけに同族を殲滅出来る種族は稀有な存在です。

我が種、我が家族、自分の不利益にならない相手であれば、同情や憐憫もし、涙も流せるのに、自分に相容れない相手となると、血を流す事も厭わない。文明と言う繁栄の象徴である御印は、自分の星を破壊し、地球にとっては人間はSARSにも勝る侵略者でもある。

ミトコンドリアイヴは、内に潜む邪悪な細胞を感じ取り、やさしい動物達と、その種を分けたのだとは言えまいか。

西暦2000年を超え、邪悪な中にも、最後の一線は踏みとどまるであろう、"やさしさ"と、人間の保存本能に期待するばかりです。

投稿日時 - 2003-04-15 04:22:58

お礼

●さっそくの ご回答をいただきましてありがとうございます。
 人間の残虐性・凶暴性は 他の生物を超えて人間だけが
 特別に特化した部分でしょうか?
 どんな生物も自分にふりかかる火の粉を振り払う為や
 愛する対象を守るためには その残虐性・凶暴性を
 発揮するのではないでしょうか?
 人間が とくに目立って争いをするようになったのは
 狩猟採集生活から 農耕文化に移った頃だと
 考えております。つまり蓄えることのできる
 食料が 傭兵やそれまでになかった社会を創る
 原因となったと考えられます。
 アメリカ兵の賃金は 月収16万円あまり・・・
 そのくらいで自分の命をなげだす 状況と
 人間のひとのいいやさしさがなければ
 成立しないのでは ないでしょうか?
 戦争を繰り返す 原因は人間の本質よりも
 むしろそうならざるおえない 社会の構造にこそ
 問題があるのではないでしょうか?

 イヴが はじめてお化粧をしたとき
 どんな「やさしい」こころが彼女を
 包んでいたでしょうか?

 ご回答ありがとうございます。
 

投稿日時 - 2003-04-15 07:33:12

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