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締切り済みの質問

共産主義と、理想的高度資本主義とのどちらが現実的か?

自由ということを、あらゆる趣味趣向の選択自由性ととらえて、そこに小さな心での争いの自由とかを含むのでなければ、

自由、平等、博愛の、豊かな経済世界を求めるのに、共産主義のほうが、もし教育があらゆる面で発展したならば、 単純明快に簡単だと思えますが、

ネックの一つは「教育があらゆる面で発展したならば」ということとなると思うのです。

一方、高度資本主義にても、競争による負け組みへの配慮が教育面にいたるまで充実していていれば、ボランティアであっても力ある組織はお金で実現できるのですから(お金だけでは実現できないですが)いろいろと最大限の「自由、平等、博愛」の実現自体は可能だと思います。

競争なしには技術改革にしても意欲の面で劣るというのは、よほどの教育の充実でみんなが松下幸之助のような精神にまでならなければ とかいったこともあるかと思います。(ここは手短に表現しすぎてますが)

でも、不可能ではないです。

一方、個人的にお金持ちになりたい意識ならば、教育が進めばそれはふつうの高度資本主義社会でもお客さんは信用しなくなってゆくでしょうからやがては成り立たなくなっていくでしょうし、

たとえば、緑や風の美しさへの感性の教育がほんとに充実して可能となれば、落ち着ける庭は、この地球全体ともなる というふうにも表現できてしまうと思います。 (庭に価値が無くなるとかいうのではないです。)

個人的なお金儲けのためというのではなくて、そのぶん、消費者のみんなが楽しめ豊かに暮らせるための商品群を 総合的に考えて生み出してゆく総合的に動く会社が増えてゆくでしょうし、 その頂点に立つ会社は、それこそ社会のさまざまな問題を解決する力こそあれ、自分たちだけの繁栄とかの世界を超えていくと思うのです。 

でも、両方に必要な教育が 肝心の感性の教育の進化と関わっている事を考えると、他の化学や学科の教育と較べて、いまだに何かがはっきりしません。 進化が遅れているとわたしにさへ推理できてしまうことが多いです。

アメリカンドリームは遅れた考え方だという考えがここにはすでに前提のようにして質問しています。 しかし、そのアメリカの経済の失速の因はぜんぜん別にあったりします。 この経済の現実を捉えるのは実際には難しいことですね。

共産主義の過去の失敗は、教育の未進化にありというのもこれも前提となってますが、世界的にも遅れてる感性の面での教育が特に問題点となっています。(近代演劇の発祥はロシアだったりしますが、近代演劇はまだ感性の本質の教育を可能にしてはいません。)

資本主義内に理想を求めるのは 複雑な過程を必要としそうです。

共産主義のほうが明快ではあるのです。  難しいです。

私は表現とか感性の世界を考えて生きてきた人間です。 いざその考えを人に伝えようとして経済的にいきずまった状態に陥ってしまったことから、経済についても考えるようになりました。 

今のところ 資本主義の複雑な在り方をなかなか肯定できないでいます。

政治的にはかなり資本主義路線はもはや固まっていると思えますが、哲学がそこをクリアーすれば 見通しの世界も変わってくるでしょうから、こんどこそしっかりした共産主義というあり方も まだ不可能とは言えません。  

哲学が「自由、平等、博愛」の精神を諦めない限り、正しい道はさぐられてゆくべきかと思います。

この観点から共産主義と、理想的高度資本主義のどちらが実現可能性において現実的だと思われますか? 

投稿日時 - 2008-09-14 17:50:10

QNo.4328403

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回答(7)

ANo.7

「自由、平等、博愛の、豊かな経済世界を求めるのに、共産主義のほうが、もし教育があらゆる面で発展したならば、 単純明快に簡単だと思えますが、」
矛盾がありますね。 自由は差別を生み、平等は自由を阻害します。従って自由平等の世界は存在しないんですね。確かに自由な世界は発展もするが差別も生まれます。不器用な人間は生きること自体大変でしょう。平等な共産社会は差別はすくないでしょう、しかし歴史的にはいつも停滞に陥ります。自由を愛する人間は社会不適合者なので粛清するしかなくなりますね。歴史的にはこの理由で億に近い人命が消されましたね。フランスの思想家は頭が悪かったので、少し考えればわかるような相反する言葉を並列に並べてしまったんですね。「自由、平等、博愛」ですね。あれから200年も経ちましたから少しは賢くならないとね。
「自由、差別 差別を埋めるものとして博愛がある」というのがこれからの世界観でしょうね。

投稿日時 - 2008-09-17 19:33:21

お礼

ありがとうございます。

今私は、混乱しています。  >億に近い人命が<


想像を絶します。


ゴキブリは、神経がほとんど無いそうです。 人間はその逆です。
幸せも あまりにも奥深いですが


どんな悲しみや



すみません、  あの 博愛の教育は私は感性の教育で可能と思っていて、 それで、 ANO5の補足文に、でもともかくあわてすぎて、過去の共産主義のこととは別だということを掲げないでこの質問をしてしまった理由を書いていますが、  すみません。 ともかく その理由で 理屈を忘れて思わずあせってしまった質問です。

下のbragelone様からは、私の迷い自体には大きなヒントをいただいていますので、   また、 そこでの論議は 別な場にも移せますので、ご挨拶の文を入れることで 中途半端をお詫びし、 一まず閉めさせていただきます。

私は、子供の頃、南京の大虐殺の当事者の方から直接詳しいお話をうかがったことがあります。 虫も殺せないような素朴な青年が多かったそうです。最初はです。 当時の日本にては 想像できそうなことです。

でもやがて、人を撃つようにもなり、自らも骨が折れてるのに何日もつかないで千キロ以上あるってから気がついたとかいう極限心理の中、 それでもその南京の現場では おそらく30万というのはほんとのことでしょうが、自分たちよりはるかに大勢の捕虜たちへの恐怖がやがて爆発してあのようになってしまったとのこと。  その過程を、子供なのに私には克明の話してくださったのです。

最大の戦争の悲劇と言われているその30万人すら想像を絶します。

共産主義が そこまでの失敗だったとは。

権力者たちがそこまでの神経になったとは、そこまで凍り付いてしまったとは。

言葉を失って当然とおもいます。

ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-09-17 21:19:49

ANo.6

 No.2&5です。 
 わたくしも 最近において
 [α] 《QNo.4271345 :マルクス主義は キリスト教の自力・難行道だったか= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4271345.html
 [β] 《QNo.4239785 :民主主義は 日本人のお家芸か= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4239785.html
 [γ] 《QNo.4268347 :物象化論の現在は いかに? =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4268347.html
を問うています。(回答の中には 例によって 読まなくてもよいものがありますので その点はご自由に)。
 その中から 資料として この質問の下に 掲げさせていたたきたいと存じます。

 ☆ 人間の社会的な存在のあり方についての簡単な基礎理論です。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   結局のところ 市民社会の成員としての人間(* つまり スサノヲ市民)が 本来の人間とみなされ 公民 citoyen (* アマテラス公民)とは区別された人間 homme とみなされる。

  * ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     したがって わたし( bragelone )は 

    《スサノヲ人間語》 と 《アマテラス普遍概念語》

   とを 区別しました。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

なぜなら 政治的人間(* アマテラス族)が ただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し 

 * ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   つまり アマテラス普遍概念にもとづこうとして 出来るわけの
  ない客観的で模範的な公的人間たろうとした。そのアマテラス人で
  あるのに対して
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

市民社会の成員としての人間(* スサノヲ市民)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。
 現実の人間は 利己的な個人の姿(* Susanowo )においてはじめて認められ 真の人間は 抽象的な公民の姿(* Amaetrasu )においてはじめて認められるのである。
 (K.マルクス:《ユダヤ人問題によせて》 城塚登訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 最後の一文の中の《真の〔人間〕》という言葉の意味については 議論の余地があるはづです。([α]‐No.14補足欄)

 [β]では 民主主義を取り上げ おっしゃるところの《自由・平等・博愛》のうち 《平等》を問うています。
 遊牧民族の系譜においては 社会生活が 能力主義に基づく平等思想に傾きがちである。農耕民族では 存在の無差別な(理屈抜きの)平等思想を持ち得ると論じようとしています。(道半ばです)。

 [γ]では やはりマルクスから コミュニズム社会における次の命題を掲げています。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ○ 《各人は能力に応じて働き 労働に応じて受け取る》という原則
 ○ さらに 《能力に応じて働き 欲望に応じて消費する》といった原則
([γ]‐No.5お礼欄)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 なお 日本社会が コミュニズムに どれだけ 馴染むか その問題については
 [δ] 《QNo.4225294 :日本は 世界のリーダーか =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4225294.html
も 参照しうると考えました。思想というものを あたかも着せ替え人形のごとく着せ替えつつ 採用してきたのではないかという見方です。
 長い目で 捉えてまいりましょう。

投稿日時 - 2008-09-16 15:37:06

お礼

bragelone様、 また 緊急に この質問は閉じます。

それが正しいかどうかとかは、今はよく解りません。  しかし
ANO7様のご回答を見て、 私自身が 共産主義への恐怖を感じてしまったのです。

無知でした。 一億人近い命が奪われた「粛清」。 言葉を失います。

この質問をこの場で、直に問うことは、誤解しか成果はないでしょう。

「自由、平等、博愛」が目的です。 そちらと似た歩みがともかく必須です。  共産主義にも自由は不可能ではないという もしかしたら前代未聞の説明?とかも、   実際には何かがその道にて進む因とはならないでしょう。  いそぐなら論理からはずす、 こうなってしまいます。   

何か自分の頭がパニックに近いかもしれないのですが、  ともかく今の今これをこのまま続けても 意味ないと思いました。

感性教育のほうへと質問を移行しながら、 また そちらのご回答をお待ちします。  私のほうからの質問は感性に関しても そこに知性が主体となるような質問が多いと思います。   

この質疑や論議がきっと「自由、平等、博愛」を矛盾することなく 資本主義内にて切り開く道となると 信じています。

それが信じられるならば、 海の民族の寛容さとかとかも 参考に、としてともかく、 先へと進ませてください。

中途半端に、またなってしまいました。 すみません。

ご了解ください。

ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-09-17 21:46:08

ANo.5

 No.2です。コメントありがとうございます。

 所有についてと コミュニズムの語にまつわるあれこれとの二点です。
 インタムライスムの《村》は フランス語で 《コンミューヌ commune 》です。つまり コンミューヌ・イスムになります。
 《常識・共通感覚・共同主観 common sense 》の《コモン》も 同じ仲間ですね。《共通の感覚あるいは情感》(或る意味で 身分制に関わらない場合の 義理人情)を基礎として共存する社会は 《ゲマインシャフト Gemeinschaft 》です。《ゲマイン Gemein 》は 《コモン common 》とまったく同じ語(言わば方言としての違い)だそうです。《共有 あるいは 公務( mun = mon = mein )の共有( co = Ge )》を意味するそうです。
 あとは コミュニティや コミュニケーションがありますね。

 《QNo.4248807 :所有とは 何ぞや? =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4248807.html》をすでに 問うたことがあります。
 そこでは 《個体的所有》というわけの分からない用語を出していました。《公共的な所有》とは 《個人的所有かつ関係的所有》であるというような何だか分からない概念でした。
 《社会的所有》の場合にも 個人による《占有》はあるので 《わたしという個人》という要素が なくなるとは いまのところ 思えないではいます。
 そこから わたしの文章ですが 引きます。

   *

 そもそも 資本主義は――理性を尊重し その知性の力を重視するという方向性を見出してからは―― 機械の発明・改良によって 発展します。大量規格化生産・商品の廉価の実現・大量消費を通じて 市民社会の内容が――そこかしこに 傷を与えつつも―― 豊かなものになります。身分制度の桎梏からも かなりの程度 解放されて 人びと一般に 自由な自己表現の道が拓かれます。
 勤勉によって 産業が発達したという単純な見方ですが ここで 勤勉志向と勤勉志向主義とは ちがうと思われる。後者は 前者の自己目的化であると考えられる。言いかえると ガリ勉志向であると。ガリ勉志向が 資本主義を 先頭に立って 引っ張ってきたという一面があるとしても それを支えたのは 基礎としての勤勉志向である。
 ここから 資本主義には 単純に 勤勉資本主義とガリ勉資本主義とがあると捉えられないか。

 この荒い仮構で進めるとすれば ガリ勉キャピタリスムが 猛威を振るっているからと言って 社会から落ちこぼれのないようにと 単なる相互扶助を打ち出しても その心は貴いが その成果は 全体としてあまり芳しくない。
 ひとつには 土壌としての・基礎としての勤勉経済を 強固なものにして 上っ面のガリ勉経済からの影響を最小限に食い止めることが 重要である。ガリ勉主義者には むしろ好きなようにさせておいて ただし これには振り回されないように制度を作りなおし しかもその上 基礎の勤勉志向のおもむくところに 合わせさせるかたちと方向へと 導く。
  *
そもそも 経済活動は 人間がおこなう。モノやサービスの生産・供与が 社会的に分業=したがって協業するかたちで 営まれるようになってからは モノやサービスの安全や品質にかんしての保証は 人間と人間との信頼にもとづくのが 基本である。安全性が信頼関係にもとづくということは その安全の確保や証明から 当の商品それぞれの生産関係者以外の人には 互いに 疎外されているということである。

 人間どうしの《信頼》関係が より一層経済行為に傾斜しモノに即したかたちの《信用》となれば たしかに資本主義の世の中になる。逆に言いかえると この資本というのは 単純に 資本関係のことであり 信用関係に基づいており そのまた基礎は 信頼関係である。友情関係であれ あるいは けんか仲間であれ 人間どうしの関係である。
 つまり 人間どうしの社会関係が 資本そのものである。
 この資本を どう見るか / どう取り扱うか / その所有行為ということは いったい どういう内実として 成り立っているのか。

 所有権という場合 それは そして その主体である個人も 大きく 資本という社会的な関係の中にある。さすれば 個人の独立主観〔としての自己表現の自由〕も 関係性としての社会的存在性を みづからの内に宿している。その限りで 所有は 個人的所有であると同時に 関係的所有でもある。まとめて 大きく 個体的所有である。(もう少し ふさわしい命名はないものか)。

  *

 今回 arayata333さんは このさらに先の行方を問題にしておられます。
 いまのところ わたしは その時になって考えるという立ち場です。意味は そのような発展段階になっていれば 人間の社会的なあり方が 変わってきていると考えられるからです。
 無理なく 社会的所有に移行し得るかも知れませんし あるいはひょっとすると もう私的所有という制度はそのままにしておいても 公共的な所有ないし モノの享受および共生の実態が現われて来ているかも知れません。

投稿日時 - 2008-09-15 16:48:49

補足

この質問は いままでの共産主義の巨大な失敗に関しても触れずに いきなり私の中での新しい可能性はあるはずだという考えのもとにある「共産主義」を 問題にした質問となってしまっています。

ワーキングプアーでも悲惨でない人達もいます。 ワーキングプアーでも幸せな人も日本には大勢いると思います。 深い幸せというのならば、富裕層も極貧層も関係ないでしょう。  しかし、弱く能力もなく泥沼にはまった人達の事を考えると、  ともかく 私一人ではどうしようもないわけなのですが …、…。

でも これはあせりすぎ、 あせっては、対話の論理を踏み外しますね。

ありがとうございます。 すでに、大きなヒントが今回のご回答の中にあり受け取らせていただいております。


1、インタムライスムについてですが、考えるヒントになる言葉をたくさん教えていただきありがとうございます。

昔から 方言の生まれる世界が大好きで、“家族と家族の自然な深い交流の世界としての村”という歴史に心惹かれていました。
そういう“村”と“グローバリズム”の間に 大きな隙間が出来てしまってることも気になっていました。 この大地に生きる上で必須なその二つの要素の止揚がそこにありそうですね。

ゲマインシャフト→~の 義理人情、というあたりも心惹かれるものがあります。 今回は略しますが。


2、次の論点の、所有の問題ですが、私の方からは、感性の問題としてのみ取り上げていたわけです。 ですが、ご紹介いただいたURL、 私も同じようなことで悩んだことがあることを思い出しました。  やはり「個」の問題でありますので、おそらくこのへんの論議ともかみ合う接点が出てくるかと思います。 逆に私の答えの甘さが解るという結果となるかもしれませんが、ここでも重要そうな課題となりますので、書いてみます。  (いっぺんには、書ききれませんので、ここにては、もし、この場にまた機会を与えられ場合にて、ということにさせていただきます。) 

3、
経済史的な~が必要であるかもしれない。~~~→ということは、人間の問題であると この想定の限り考えられるという 見事な独り言の部分ですよね。

この最初の*から*までの間の文こそ、もしかしたら 私が迷っていた部分なのかもしれません。 もしおさしつかえない ということであれば、がり勉キャピタリスムについてだけ、すこしでいいですので解説していただけませんでしょうか。 アメリカのビジネス指導者達のことでしょうか?またそのあたりからの経営学のことでしょうか? また、その裏の宗教、神秘主義とかとかのことなのでしょうか?   そうだとするとかなりちょうどわたしへのアドバイスとなっている文なのですが。…。

(ズレはあったとしても すでに大きなヒントを得ているところです。ありがとうございました。)

4、これは2で書きましたコメントをそのままこちらにも適用させていただくところとなります。  深い名文の最後をしめくくる文、「大きく
個体的所有である。(もう少し ふさわしい命名はないものか。)」にも対応してゆくことになるかと思われます。

5、先の事かどうか まだ解らないので、この質問のタイトルになっているという感じなのですが…。

(イ)哲学によって>無理なく 社会的所有に移行しえるかも<しれませんし、
(ロ)哲学によって>私的所有という制度はそのままにしておいても<力のない人も泥沼(生き地獄)に落ちないですむ という意味での「自由、平等、博愛」の社会がくるかもしれませんし、  

どちらにしても「教育」の大きな進化が必要でしょうが、どちらが現実的でしょうか?という質問であったわけです。

いつも、ほんとに助かります。 ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-09-17 20:11:35

お礼

補足文の2(4も含む)、についてですが、 だいたいこのようなこととなります。

絶対個という言葉を聴いたことがあります。 であってその上で関係がある。というふうにです。   言葉を通して必ず通じ合える共通項のような部分は大きいです。わざわざ集合無意識を考えるまでもなく、私たちは通じ合っています。 集合無意識ということになると、これは絶対個が否定された考えとなります。  しかし、意識が絶対個であるということではないはずなので、じゅあ、ユングの言うそれがまったくないとも言えなのですが、 それはここでは別の論議として、 では絶対個とは何かというと、   記憶意識体の主体です。     

「そこの赤い鉛筆取ってね。」「あいよ」と言って白いハンカチを渡す人は、 たぶんアルツハイマーになりかかった人ぐらいでしょう。 しかし、経験によって、 たとえば、赤い鉛筆でもいいですが、それを絵に描くともう個々別な絵になっています。   一秒がその差を生み出し続けていきます。 いやナノ秒という微妙差かもしれないし、それが絶対個というのならゼロ秒ということなのかもしれません。 そこまでは解らないし考える必要ないでしょうが、    すみません、この論議は、ここではともかく、   記憶意識主体とは「私」の感覚の主体のことですし、主体とは私そのもの、あるいは真の意味での魂のことです。  未来永劫、各幾百億年さがしても他にいない主体のことです。   ほんとうは「愛」があって始めて見えてくる世界のことです。

そのへんをキャッチする能力のことを私は いろいろ考えてきているということなのです。  自己の魂と所有という思索、詳しく書くと長くなります。

なお
3で教わったヒントについては 後々の形となります。

ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-09-17 20:47:01

ANo.4

こんにちは。
「理想的な資本主義(自由主義)経済」といいますのは、これは構造的に存在するものではないと思います。
「自由主義経済」とは「結果経済」であり、ここでは意図的な成果を得ることができません。これに対しまして、「社会主義経済」といいますのは人類が理想を追求するための「計画経済」です。ですから、このように確実な結果を出せないというのは「自由主義経済の本質的な欠陥」であり、「社会主義革命」といいますのは全てこの矛盾に対して行われたものです。
何もせずに放って置くならばそれは必然的に「自由主義」であり、果たして、それが社会にとって理想的な結果でなくとも甘んじて受け入れなくてはなりません。ですが、これに対して人為的に手を加えようとするならは、それはみな「社会主義革命」ということになります。従いまして「理想的な資本主義経済」というのは、これは構造的に成立するものではないです。
自由主義経済といいますのは人間の営みを土台に蓋然的に存在するものです。このため、社会主義といいますのは常に改革・革命という立場を執ります。

「自由主義」「社会主義」だからといって「教育の質」に差はないと思います。異なるとするならば、それは質ではなく「教育の目的」です。
競争原理の働く自由主義では、教育の目的とは子供を一人前に育てることであり、その結果、お金持ちになるのか芸術家になるのかは社会が責任を持つことではありません。
これに対しまして、社会主義が「社会全体の利益」を優先するならば、教育の目的はしだいに画一的なものとなり、それが「思想統制」として行われた事実といいますのは歴史の中に幾つも記録されています。そして、「精神教育」ということでありますならば、これはかつて「中国共産党(計画経済時代)」と「チベット仏教」の間で明らかな対立を生み、現在でも続いています。
計画経済ならば「効率的な資源の平等分配」が可能であり、理想的な経済が実現するというのが社会主義の主張です。ですが、これが結果的には経済の原動力を削いでしまいました。それは、経済というものが「人の営み」であり、それを統制するならば必然的に人間を統制することになるからです。
ですが、このようにして世界各地に社会主義革命の実験が次々と失敗に終わったからといいましても、それがそのまま資本主義が正しかったということにはなりません。逆に、かくしてこのような改革・革命の手が緩められたということは、果たしてこの先我々は資本主義経済に内在する全ての問題を自分たち自身の手で解決してゆかなければならないということです。

それぞれが「自分の理想」に従って活動するのが自由主義経済です。では、質問者さんの仰いますように「真の理想とは何か」を追求するのが哲学・宗教です。そして、経済とは「人の営み」でありますから、それはここに発生する問題には必ずや係わることです。ですが、人々がみな精神的な理想を持つならば、それは思想統制と同様に必ずや経済の衰退を生むことになります。かつて毛沢東は宗教に対してこれを批判したんですね。
このように、哲学や宗教がそれを追求する限り、人類が理想を見失うことはないと思います。ですが、残念ながらその理想とは経済の理想とは異なります。このため、哲学の力を以ってしてもやはり理想的な資本主義経済の実現というのは極めて困難、ということになると思います。
社会主義といいますのは「経済の理想」を目的とするものであり、哲学・宗教といいますのは「人間の理想」を追求するものです。では、自由主義経済といいますのは結果を予測することができないわけですから、これは理想を実現するためのものではないです。ですが、これが「人間の営み」であるというのは間違いのないことなのですから、ここで「未来を予測した理性的な結果」を出すのは、必然的にそれは「人間の心」ということになります。
仏様になれとは言いませんが、バブル経済や所得格差、食品不祥事など、企業や経営者がもっと理性的に望むならば未然に防げる問題は山ほどあると思います。では、この理性を司るのが哲学・宗教・教育であるならば、まだ世の中捨てたものではありません。そして近年では、それを原動力の衰退とは呼ばず、果たして人間や環境のために経済のスローダウンも敢えて受け入れるべきではないかという論議が盛んに行われるようになりました。
とは言いましても、経済界の反発を受けるならば未だ環境問題の対策は一向に進展しませんし、また、ビンラディン氏の「反グローバル主張」は、それは途轍もなく過激な手段を以って実行されてしまいました。

投稿日時 - 2008-09-15 13:15:54

補足

幅のある捕らえ方で、全体をまとめていただいている文だと思います。

その幅の部分に 細部にわたる答えをさぐらないとその全体の答えにはならないよ、という意味合いも含まれていると受け取らせていただきました。

これに対する私の側の切り口を新たに書き出すのは難しいのですが、

中ほどの段落から先に 私の質問の論点を再度明確にしてゆきたいと思います。

>「教育の質」に差はないと思います。<

の「教育の質」とは、基礎教育のあたりの質のことでしょうか? まず、そのあたりでしたら、差は過去にてもあまり考えられませんよね。

次に理科は分化してゆきますが、天文、気象、電気、熱、音、光、力→その化学とのかかわり、物理とのかかわり、←生物、医学、地質学、と 大きく今分けてみましたが、そのへんも基本的に変わらないでしょう。

医学が特殊に分かれているのも たぶん資本主義でのそれと同じく、今までの共産主義でも伝統を引ついだままだろうと推測しています。

機械、土木、材料力学、工学、コンピューター、航空力学、流体力学とか専門的に分化するあたりになると、そのへん 目的をもった形でそろそろ、過去の共産主義でも教育内容の変化があったのではないかという想像も起こります。  

でも理工系が 、基本的に変わるとは確かに思えません。

しかし理工系についても 気になるのはその次の段にて、国をあげてたとえば医学や生物学の研究に取り組んでいくことで いままでそのへんの成果を彼らは上げたのでしょうか?

かって、リニアモーターが日本の一技術者によって研究開発された時(HSST方式)、ブルガリアでは、その研究のために彼を招きましたが、成果はそれを充分学べていないか 経済的に無理で研究も開発もとぎれてしまったのではという感じがします。  ブルガリアはバラの国として有名ですがバラの香を音も無く静かに運ぶ鉄道を想像してしまった者です(^^)。

体育やスポーツに関しては、おそらくその発展は世界的に複雑で歴史から何かの価値を読むということすら困難なところ、この文面にては思索からはずします。  次の社会にとってとても重要な世界がこの分野にはたくさん眠っているという考えは持っているのですが、 ここでは置いておきます。

算数→数学も、上に似てると思います。  ただ「0」「1」のあたりの実用コンピューターの研究開発は、過去においてどんな具合だったのでしょうか?  通信のあたりは気になります。国家をあげて(計画的)に彼らはそのへん何をしえたのだろうか?

国語と社会、これはここでは一くくりにしますが、 ここには差があったとおもいます。  質の差にも大きく影響しているかと思います。 

そこに「教育の目的」は 差異ありとする、そちらの幅ある指摘があるわけですが、  一人前というのもそれ自体かなり曖昧な概念が資本主義内教育の中に内在してたのですね。 また 国語、社会の教育のあたりでは、なるほど、 それが全体の利益という名でのたぶんですが権力固持のための思想統制に使われていったことは容易に想像されそうです。

ですが、「国語、社会」の奥にこそ、人間が言葉を獲得した生物としての人間どうしの関わりの本質を究める哲学があったと思うのですが、  この「差異」は、まだ それがこの分裂を止めることが出来る地点まで極まってはいなかったのではないかと いう悲しい推理が私の中にはあるところなのです。

さて、次の「精神教育」というこれも幅のある言葉についてなのですが、まずかんたんに そちらの掲げてくださった例示に対して質問させていただきますが、(告白しますが、わたしは肉体労働者で、あまり本も読めないできました。) 「中国」のほうの「精神」は、たとえば「ひとりはみんなのために」という教育、「チベット」の方は、「みんなのためにという仏の教えをまず信じよ」 といった対立だったのでしょうか?

私の質問の前提には、教育が進化したなら共産主義のほうはそのわくわくする学習→改革の循環に意欲が萎えることなく、資本主義の方はお客さんのニーズではなくその裏の幸せに対するごまかしのない責任の自覚のもとやはり意欲は全開する(欠陥は 過程は複雑でも必ず是正される)という考えであることを掲げていますので、 議論は、 この教育の問題から始まり、この教育の問題がカギとなり、このアルファがオメガとなるようなものです。

まず、もしよろしければ、中国とチベットの教育のあたりでの対立の内容についてもご存知でしたら 教えてください。

今、真剣の求めていることがあります。

宜しくお願い致します。

投稿日時 - 2008-09-16 19:24:36

ANo.3

私はガチガチの資本主義(自由主義)者なので意見が偏ってしまうかもしれませんが参考までに。


質問者さんのたどり着いた結論、つまり市場と我々は契約関係により成り立っているという
真理は全くもって正しく、"悪しき"共産主義と戦ってきた我々自由主義者の根幹となる部分です。



質問者さんのご指摘のごとく我々はリンゴ1個のために一日中野山を駆け回る
わけにはいきません。電気にしろパソコンにしろ自分で全て作るのは不可能です。

よって我々はお金を出して買うことになります。
今私は扇風機を回していますが、扇風機が対価に見合うだけの機能を有していないと
考えるのならば、もっと安い団扇を買うことも、あるいは自作することもできます。
当然、団扇を買うだけなら費用が安く済むので、その分を他にまわしたり
あるいはその分のお金を稼がない、つまり働かないという選択もありえます。

我々はその対価に納得して購入するのです。
重要なのは、この行為が強制ではないということです。



一定の労働を強制させる共産主義と我々の違いの大きな違いはここにあります。
共産主義の発想は、近代ロシアにおける農奴制のそれです。
人間を労働力としてしか解しておらず、自由な意思と選択を認めていません。
この社会を完全に成立させるためには、人間の個を完全に奪い、一定の生産力を持つ機械や、
アリやハチのような群生生物として生きるのを目指すのと同義です。
あるいは"粛清"という名の間引きを定期的に行った歴代共産国指導者は
そういう社会をこそ目指していたのかもしれませんが。








前提の契約関係に戻ります。売買契約、あるいは労使の雇用契約について
共産主義者はこれを「搾取」であると表現します。
しかしながら、我々が行っているこの商取引という行為は、古来から生産や輸送に対する
「リスクとコスト」の存在を前提としているのです。


物の価値を正確な原価計算のもと測定し、販売が可能であったとしましょう。
このときに輸送のコストが異なるのですから、当然価格には差異が出ます。
だとするならば、同様の仕事に携わり、報酬として1個のリンゴを得た場合には
一方が輸送のコスト分高い報酬を得ることになります。
ここには格差が生じるため、共産主義が平等であるという理論は
この時点ですでに破綻しています。これがコストの発想です。



また、労使雇用契約については労働者側が労働力を提供するだけの関係ではありません。
環境を整え、新しい商売のルートを開拓する。"儲かることが確実でないとしても"投資を行う。
つまり、雇用者側には資産を失うという非常に重い"リスク"が存在しているのです。
資産を失った場合、取り戻すためにはどれだけの労働力を提供しなければならないか、
それを考えれば、雇用者は労働者とは比べ物にならない損失と責任を負うことになります。
これがリスクの発想です。

つまり、どちらであっても、我々はそれぞれが社会的責任と役割を果たしている状態にあります。
前段のリンゴの購入契約のように、我々はそれぞれの責任と役割を認識し
納得した上で契約を結ぶのです。納得がいかなければ契約しない自由、つまり職業選択の自由も
現行法制下で明確に規定されています。


これが共産主義の名を借りた農奴制主義者と我々の大きな違いです。
近代哲学により個を得た我々が自我を捨てよ、考えるな、ただ働けと言われてもそれは無理な話ですよ。
考えない人間の集まりが過ちを犯しても、指摘する以前に気づけないのですから。

投稿日時 - 2008-09-15 12:29:59

補足

「かあちゃん、うちの壁紙も ほかんちの壁紙もみんな同じなのはどうして?」「それはね。国中で一番のデザイナーがデザインしてくれたものだからなのよ。 国旗もあしらってあるしね。」「?」 コントです(^^)

お気持ちよく解ります。

まず、そちらの文面のうちの「“悪しき”共産主義」について書かれた部分の要約をさせていただきます。 論議を進めたいからです。

******

(1) 消費選択の自由が「悪しき共産主義」にては奪われてしまうという点。  

(2)職業選択の自由が「悪しき共産主義」では奪われてしまうという点。

(3)教条主義、そのへんが悪しき宗教状態となってしまう。自ら考える力を失う。(権力意識とかを疑う力が集団催眠にでもかかったみたいに奪われてしまう。)  
     
(4)おそらく権力者の恐怖心理から その教条を保つための「粛清」という残忍な方法がとられつづけてきてしまった。

結果 (1)(2)にて奪われた自由は さらにがんじからめの檻に閉じ込められる体制となった。 イコール→奴隷と同じではないか。→農奴制主義者となんら変わりは無い。

******
上記のうち、

(4)は(3)の必然。 その(3)もこの質問での無視できない点ですけど、 (1)と(2)のあたりを、もう少し突っ込ませていただきたくなりました。

なお「搾取」という言葉については、やはり(3)の必然の範疇、“どうしようもないデマゴーグ”にすぎないとして、 ここでは論議しても時間の無駄ととらえさせていただきます。


その前に、私の質問のほうの立ち位置を、もう一度はっきりさせておきますが、 
その教育の中身は 後の議論として、新しい教育の可能性の進展があれば、それによって共産主義も「自由」が奪われることもなくなる。あるいはなくなってゆく。というものですので、

そちらの文が、“悪しき“共産主義 というふうに、共産主義自体を“悪しき”と呼ぶ形の文になっていますので、 私のいう可能性のある共産主義を区別するため、私のほうの文にては、ここでは【共産主義】というふうに【 】をつけて書かせていただきたいと思います。

“悪しき”共産主義は「悪しき共産主義」とします。

(1)、消費選択の不自由のほうからいきます。

その前に やはりここで告白せざるを得ないのですが、わたしは肉体労働者として生きてきました60歳の者で、本もほとんど読む暇なく生きてきてしまった者です。  もちろん徹底的に物事を考える人間ではあるつもりですけれども。

疑問なのですが、
ア 徹底した「悪しき共産主義」の国の住宅は、全部共同マンションのようなところなのでしょうか?  イメージでは、昔のブルガリアにしても、昔にしてはマンションぽい建物がおおそうな感じの写真とかも見ますが、やっぱりその頃からバラの国のイメージなのか、よく手入れされた庭と光のさしこむ風土にマッチし家を想像してしまったりもします。

いずれにしても、長い間には建物も統一化していきそうですね。 そのへんどうだったのでしょう。  解る範囲で教えてください。
(【共産主義】のほうの議論は待ってください。なにしろみんなが大工さんになれるようなネット教育(安全大工シュミレーションゲーム)とかのとんでもない考えとかが土台となったビジョンなんで^^)

イ、大勢のかたのお宅を工事したりしてますと、かなり貧しい人のお宅も含めて、その著度品の豊かさには、びっくりします。 セールスでちょこっとおじゃまするのとは違って、その家族の歴史まで見えてくるものです。 個性ですよね。  そうそう、この辺は、一番最初のコントと関わってきそうですけど、 そのへんいったいどんな支給のされ方をするのだろうかと気になってしまいます。 まさか 全国的に何もなかったりして(^^)。

すみません、このように書いてくと紙数がなくなります。

職人工芸は?、服飾デザインは? 料理は? とかとか知りたいことはたくさんありますし、 ここでは単なる好奇心で書いてるのではないのですが、
流通は 今までの市場を使っての集配という形だったのでしょうけど、その辺今のわれわれの流通革命を経ての宅配のようには、発展していっているのでしょうか?  そこは興味が惹かれます。


ごめんなさい、 一番肝心の(2)について書くゆとりがなくなりました。  ソルジュツニンでしたっけ、 そんな名前の大学教授がそのことで苦しんでいる人達の事を明るみにだしたことでも有名ですよね。
これこそ、 たいへんな不自由社会ですね。  

資本主義の知恵の深い良き面についても大変参考になります。ありがとうございました。  

よろしければまたご参加を。   気になる点その他なんでも、

ありがとうございました。

 

投稿日時 - 2008-09-16 14:10:54

ANo.2

 共産主義というのでしたら いくつかの定義内容を確認しておかなければなりません。
 1. もともと 資本主義の成れの果てとして それに行き着くという見方は 退けていいのですね?
 2. 言いかえると ロシアが 資本主義のきわめて初期の段階において 共産主義への道を歩み始めたわけですが そのように 発展段階を飛び越えて 共産主義へ到ることもありうるという前提に立つのでしょうか。
 3. それとも そのような唯物史観には関係なく 世界史の発展が どうであろうと 社会体制を共産主義に変えるということでしょうか?
 4.それにしても 所有の制度は どうしますか? 私有財産制は どうしますか? 国有あるいは社会的所有ということでしょうか? 計画経済は なかなか 成功しないもののようです。
 5. それとも もっと簡単に すべての人に 職がある状態を目指すことが 第一でしょうか。そして 教育。そして 医療保障。

 資本主義に関して 単純に こう思っています。
 6. 勤勉資本主義と 勤勉を自己目的としたガリ勉資本主義とが ある。
 7. 勤勉資本主義を 基礎とし基盤として ガリ勉資本主義の荒波の影響を最小限にとどめる制度がよい。猛烈に働く人にも 表現の自由を認めなければならない。
 8. それには 国家という社会形態は もう旧い。市民社会とそれの上に 第二階としての公民圏を載せたかたちの二階建て構造は もう旧い。基礎・基盤としての市民社会が 役人や政治家を導いていくのであって その逆では 立ちゆかない。もう十分甘い汁を吸わせてあげた。
 9.市民社会主義は ムラ(市町村)を基軸とする。それらの自由な連帯によって 第二階の公民圏を指導してゆく。これを インタムライスムと名づける。
 10. このインタムライスムを ムラがそれぞれ 世界中のムラと 互いに 連携して 共同自治をおこなっていく。これを インタナショナルなインタムライスムとよぶ。
 11. たとえば 或る市は 各国の市町村と 連携して その市町村議会に 議員を 互いに送り合う。選挙も 互いに選挙権を持って 行使しあう。企業とも連携しなければならない。
 というようなところです。

投稿日時 - 2008-09-14 22:57:49

補足

きちっと整理してくださったご回答、無学の私にはありがたいです。

この問題での親身なご回答は、私にとってとてもありがたいことです。

昔、共産主義の方にいろいとお聞きしたいことがあった時、 いきなり「えっこの本も読んでないの、 え。これも?あれも? 話にならん。 出てけ」みたいに言われたことがあり、トラウマになってました。

「あの、論議論点がずれないように、ある生活図を描いてきたのですが」とか言ったりする暇もありませんでした(^^)。

定義内容の確認の必要。 そのとおりですね。

1、高度資本主義の過程を経て、共産主義に行きつくのは弁証法的必然だというマルクスの考えとかのことですか? 私はその本自体は読んでないのですけど、 資本主義の中に暮らしてて考えるに、 たしかにもっと豊かにならないと、共産主義への移行はいろいろと難しいと思います。 まずは「いろいろと」といっておきますね。

また、当然、その移行は豊かなほうが楽だと思います。

じゃあ ゆたかになれば、そこにその弁証法的必然が働くかというと、弁証法の本を読んだことがないのでその意味合いが、その時「どんな存在」と止揚されて資本主義が共産主義になるのかがわからないのですが、たしかに もはやそんな必要が無くなる可能性のほうが大きいという意味では わたしの頭の中では>退けて<いますね。

私の質問文をよく読まれてくださってありがとうございます。

2、答えから書けばありえると思います。 たとえば、キリスト教のすぐ弟子のまだ本当に熱い火が力強く燃えていたパウロたちは共同生活をしていてそれは共産主義の体現のようだったという感じの記憶があります。どこかの本で読んだのでしょうがはっきりしません。 でもそういう力強い人間性がそこにあれば、そのぐらいのしっかりした精神教育哲学教育が可能になれば、 それは一気に可能になることも 頭の中から排除していません。  

レーニンはすごいです。 一人でマルクスに逆らって その何かやろうとしたのですからね。  でもその何かのためのレーニンにおける教育論はどの程度のものだったのでしょうね。  共産主義がその後そのへんでいろいろな国での失敗しているニュースとかを考えると(チトー大統領をさへ巻き込んだ学生改革で有名なユーゴスラビアは、結局経営者の経験を伝達するシステムの欠如で 唯一資本主義国を上回っていた経済成長の国をめちゃくちゃにしてしまいました。)そのへんがいろいろ類推されてしまいます。

肝心の精神性の教育ですが、(唯物論だからという偏見はここでは抜きにして考てください。)スターリン以前の 音楽 映画、そして何よりも演劇の分野での新しい理論には、質的に世界を震撼させるものがあったのですが、     でも、 くわしく学習(そのへんは専門なのでなんとか本とかも読んでいます。)してみると、  

いつかこの問題も哲学カテで取り上げてみたいのですが、 近代演劇の仮定(もし)の理論も、表象や形象の理論も、役を生き生きと演じるためにはすばらしい理論であっても、 他の人の感性を思いやることの出来るようになる能力の世界(精神性)とは 今一歩つながっていないのです。

今でも、それはそのままです。

キリストはすごいと思います。

3、はい、可能性ならあるはずです。すでに書いたところです。

4、これは、はっきりしてることだと思います。共産主義に移行すれば、国有あるいは社会的所有ということになると思います。

私有財産を必死で守ってるのは、ここに家族を守るという思いとががんじがらめとなっています。 ですから、このへんが多くの人にとって一番精神的に気にかかることと わたしも感じます。 

そのへんが、精神性の深みと関わりそうなところでもあるので説明します。

自宅の庭に出るとほっとしたりするでしょう。 世の中の喧騒をふと忘れることが出来たりする人もいるでしょう。  ふと見ると縁側のそばのアジサイにカタツムリがついています。 あれ、なんかかわいいな? おかしいな一番嫌いだった虫なのにな。 とちょこっとカタツムリをつついたりします。 ふとデンデンムシの歌の童謡を思わず口笛でふいていたりして はっと まわりを見回します。  うん、誰もみてないな(^^)

安心空間です。…。

夜のとばりもおりて、家の中でカチャと 夕餉の支度の音とかがして

(お礼につづく)

投稿日時 - 2008-09-15 12:54:27

お礼

(補足文から続きます)

これは 質問文自体にすでに書いたことの説明ともなってますね。

「たとえば、緑や風の美しさへの感性の教育がほんとに充実して可能となれば、落ち着ける庭は、この地球全体ともなる というふうにも表現できてしまうと思います。」

なじんだ景色や知識は私たちを安心させます。 また心を明るくさせます。これも私たちにとっては私有財産制の価値の感覚の内にあります。 
感覚的にも これが無くなった生活には、明るい笑いも安心も安らぎも想像できなかったりします。

ですが、感性の教育がほんとうに充実していたら、まずは木々の緑の色合いがほとんど無限だと気がつくでしょう。 朝方の空の色合いとのなんともいえないマッチした緑、…、そこらじゅうが「そのような緑」として、しかも日々異なっても見えることに気がついてゆくでしょう。  それは緑だけじゃないです。 いままでは観光地の紅葉ぐらいしか秋の葉を感じなかったのが…、 、 、 、 こうして雲も空も水溜りも せせらぎの揺れも音も、川も海も森も、 まるで自分の庭となったのならば、 いやそれ以上に、「「神の贈り物としての大地」」の無限性への感動に浸れるようになったら。   これはガーデニングの商品とかの否定ではないのですが、紙数が無いので略します。  言いたいことはわかると思います。

これが人と人との間に愛を開きます。 これもさまざまな色合いでです。

もし、これが無ければ、計画経済は切実さを失います。  計画という言葉自体にも私は引っかかります。 

5、もし、理想的な共産主義が実現できるならば、そのへんが簡単明瞭になると思います。 時代による発展段階にてもです。

しかし、理想的な資本主義を目指すときには、そのへんは多くのバランスとともに考える必要が出てきます。 複雑な答えを導き出す必要があると思うのです。    綺麗な心の精神も強い人もおそらくは綺麗な行動だけ動けなくなると思います。 理想のためにはです。

でいいのでしょうかね?

以後はまた別に書きます。 インタナショナルなインタムライスム(^^)、おもしろそうです。考えて見ます。

また機会をください。


ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-09-15 13:52:55

人間の大部分が、自分で何か創造できる能力を持っていない限り、問題は解決できないと思います。人間の大部分は金によって支配されなければ生きていけない現状では簡単にどちらが良いかは決めにくいのではないでしょうか。

投稿日時 - 2008-09-14 20:35:05

補足

ありがとうございます。

今私は 実はある感性教育と私自身の今後の生き方について迷い悩んでいます。


>人間の大部分が、自分で何か創造できる能力を持っていない限り、問題は解決できないと思います。<

迷いゆえ、 簡単なおおざっぱなコメントとなります。

【哲学の全体を も しっかりまとめてくれる人がいれば私たちはもっと創造的になれるのではないか?】

世の中の生産構造の全体は、それほどには複雑なものではないはずです。

流通革命が起こり(市場で働いてた時もありましたから、この実態を肌で感じてます。)コンビニビジネスや宅配ビジネスが可能となり、もはや通販部門をなんらか考えてないビジネスがあるのかというところまで市場流通が急変してきている現在ですが、 この流れさへしっかり抑えておけば、生産構造の全体は私たちでも把握可能だと思う。 

**
昔私は 市場は絶対必要だと思っていました。 八百屋さんが直接農家に仕入れに出かけたら、 りんごは長野に、さくらんぼは山梨に、ゴーヤは沖縄に(--); とまではいかなくても、 もしかしたら100種類の野菜を仕入れるのに100件の農家を回らなければならなくなり、 それだけで一日が終わってしまい一つも売る時間が無くなってしまうわけです。

そこを市場(築地市場のヤッチャバにいたことがあります。)にいけば、 100種類全部いっぺんに買えるし、山梨の名前忘れましたが最高のさくらんぼも、毎日トラックでそこに届けられてるのですからね。 ま 八百屋さんのほうものんびりしたものです。  「えっ それまけてくれる。 あいいよいいよ」プカ~。(庶民の一服コーナーより)
**

ところで生産構造を簡単に、言葉で分けて分類してみます。(分類だけじゃ意味ないですけどね。)
「衣食住」のたった三つに、「健康とかかわる商品」と今では「交通」と、そしてこれがこれからに向かって魔法のように変化し続けてる「通信革命」、 あとは「金融商品」、たったこれだけ?


この「Q&A」のこの哲学カテで以前「言葉が先か、事象が先か」でしたか、ちょっとタイトル名とか忘れましたがソシュールという言語学者の父のような人の文をめぐって、そうとうな議論がつづいていたのですが、私も言葉をめぐっては「言葉と教育」ということに関して二つの疑問があったのでそのうちに一つをぶつけてみたことがあります。

それは「言葉と音声」の問題で、今私が迷っている感性教育のことと関係しますが、それはソシュールもまだなんら解決していないことのようでした。

さて、もう一つは、質問できませんでしたが、
一言で言えば 「わかりやすい言葉の使い方、ひとめで全体を思考できるような、だれでもそこからふかく物事をかんがえてゆけるような“哲学全体”をより解りやすく見渡せる記号とか図とかの開発は、言語学ではどこまで進んでいるのですか?」ということです。

このあたりが発展すれば、まず議論がスムーズになります。 話は価値的にさらに進化してゆきます。 私たちにもそんなに時間をかけずに理解できるので、私たちも私たちの経験でその論議に参加できます。

「衣食住」「健康」「交通」「通信」「金融」、たった5つの言葉群、実際にはその中身は複雑でも この一目で見れる形の中で、

現代言語学や記号学は、これをどのようにわかりやすくそれらの関係を一目で思索していける図にすることが出来るのか?

もしそれが、ほんとにすばらしいものならば、私たちの生産への創造能力にしても飛躍的に伸びてゆくはず、 (それだけでも)

こんなにおおぜいの人達の苦しみと関わることなのに、楽しい未来と関わることなのに?  なんで、? 哲学って「見とおし」を実際に語ってくれる知恵にまで昇華してゆく世界じゃないのか

これがわたしが言いたくなってしまったことです。

へんな書き方になってしまいましたが、 感性教育も大事と思いますがそのへんを悩んでるところなので、ここまでとします。 

そうです。まったくそちらのおっしゃるとおりだと思います。 ともかくこの「創造できる能力」を大部分の人が持たないと、特にこのいろいろとへんなことになってる資本主義を「自由・平等・博愛」に近づけていけないですよね。  まして、 

まして、もし現段階で共産主義が可能になるには、 …。

ありがとうございます。 悩みの渦中にて、あたたかいお手紙のようなご回答 ほっとしました。  

ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-09-15 10:29:33

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